みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

彼らは、見よ、…

2019年03月25日 | 出エジプト記

出エジプト記 39章22−43節

 昨日は、これまで10年近くお借りしてきた場所での最後の日本語礼拝。4月からの場所はまだ定まっていません。一度決ったかと喜んだのですが、「ノー」との答え。そのような中、役員の皆さんが希望をもって前に向かって進んでいる姿にとっても勇気づけられています。

 39章後半には、民がアロンの様々な装束を作り上げていったことと、自分たちが作った物を、民がモーセのところに持って来たことが書かれています。43節のことばに目が留まり、感動しました。モーセが実際にどのような顔をしていたかはわかりませんが、満ち足りた喜びの表情を思い浮かべてみました。彼は、民が持って来た一つひとつの物を、点検したのです。

 彼らが、モーセのことばどおりに、すなわち神がモーセに命じられたとおりに仕事をしたことについては、その前の42節にある「すべて主がモーセに命じられたとおりに、そのとおりに、すべての奉仕を行なった」ということばから明らかです。このことばは、「とおりに」ということばと「すべて」ということばがそれぞれ2回用いられている、文章としては少々ぎこちない表現だと思います。けれども、このぎこちなさが彼らの仕事の完璧さを伝えているように読むことができます。

 39章には、「主がモーセに命じられたとおりに」ということばが、1節、5節、、7節、21節、26節、29節、31節、そして42節と9回用いられています。主がモーセに命じられたことをモーセは民にそのまま伝え、民はモーセのことばどおりに、すなわち主のことばどおりに作り上げました。そして、それを見たモーセが、彼らを祝福したのです。

 信仰による従順の美しさ、力をこの箇所から覚えます。


犠牲の祭壇

2019年03月23日 | 出エジプト記

出エジプト記 38章

 修理も終えたので、自動車を洗車しました。と言っても、機械洗車。今回は思い切って最高グレードの洗車を頼みました。すると、レジのお兄さんが自動車の室内を磨くスプレーをプレゼント。以前もらったガラス用のスプレーも持参していたので、窓ガラスを自分たちできれいにすることにしました。ところがスプレーをかけて磨いても、きれいになるどころかかえって曇りが増してしまいます。なぜだ? と確かめると、ガラスに吹きかけていたのは室内磨きのスプレー。ワックスのようなものが取れるまで、ずいぶんと時間がかかってしまいました。

 幕屋と,そこで用いる用具類を作ったベツァルエルやオホリアブには、私たちのような間違いをすることはきっとなかっただろうと思いながら、38章を読みました。ここには、幕屋の内側の庭と呼ばれる所に置かれる全焼のささげ物の祭壇、そこで用いる道具類を、ユダ部族のベツァルエルとダン部族のオホリアブが作っていった様子が描かれています。

 聖所、至聖所に置かれる物がすべて純金で作られ、また純金でおおわれているのに対して、庭に置かれている道具類はすべて青銅で作られ、また青銅で覆われているという違いがあることに気づきます。青銅で覆われる祭壇の上では、罪ある者が神の御前に出るために自分の罪のために献げる動物の犠牲が焼かれました。年に一度至聖所に入ることができる大祭司でさえも、自分の罪のためにいけにえを献げなければなりませんでした。すべての人は罪を犯したということばが改めて心に迫ります。

 犠牲のための祭壇は、やがてカルバリの十字架の上ですべての人の犠牲となられたイエス・キリストへと通じています。

 新約聖書ヘブル人への手紙は、旧約聖書にある幕屋や後の神殿における礼拝を背景にして、キリストがただお一人の、まことの救い主だということを伝えています。7章27節のことばを思います。

「イエスは、他の大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でその事を成し遂げられたからです。」


世の光

2019年03月22日 | 出エジプト記

出エジプト記 37章

 日本では桜の開花が報じられていますが、当地も春の花々が至る所に咲き始めています。ウォーキングをしていますと身体がホカホカしますので、同伴者は上着を脱いだり着たりと忙しくしています。

 本章には、25章とほぼ同じことが記されています。きのうも書きましたが、25章では神がモーセに作るようにお命じになったことが、そしてここでは、ベツァルエルがそれらを次々に作り上げていったことが書いてあるのです。それにしても、ベツァルエルはすばらしい技量を神から授かった人物なのだと改めて思います。29節には、彼が調香の技法を凝らして、聖なるそそぎの油と純粋な香り高い香を作ったともありますので、手先の器用さばかりでなく、嗅覚などにおいても傑出していたことがわかります。どのような人なのか、一度会ってみたいものだと思いました。

 きょうの「みことばの光」は、ベツァルエルが作った契約の箱について詳しく述べていますので、ここでは純金を打って作った燭台のことを書くことにします。画像などで確認することができますが、燭台(ヘブル語で「メノラー」)は、独特の形をしていて枝は左右に三本ずつ六本出ており、真ん中の一本も含めてその上にはともしび皿が一つずつ全部で七つ置かれます。純金1タラントとありますので、およそ34Kgというかなりの重さです。

 この燭台は聖書に置かれました。聖所は四重の布や皮でおおわれていましたので、この燭台の灯のみによって照らされます。ヨハネの福音書は、イエス・キリストがご自分を表わす七つのことばを記していますが、その一つが8章12節にある「わたしは世の光です」ということばです。神から離れた人間は闇の中を歩む者となったのですが、イエスは「すべての人を照らす…まことの光」としておいでになりました。

 イエスさまを信じなかったなら私は…と、今でも考える時があります。まことの光に照らされながら毎日歩むことができるのは、感謝し尽くすことのできない喜びです。


意匠を凝らして

2019年03月21日 | 出エジプト記

出エジプト記 36章20−38節

 北西隣の町に、久しぶりに電車で向かいました。一日フリー乗車券を購入したので、目的地以外にも乗ることができます。そこで、かねてから行ってみたいと思っていたいくつかの路線に乗りました。ある終着駅はハイキングコースの出発点。そこから往復1時間のハイキングも楽しむことができました。

 36章に書かれているのは、26章の繰り返しのようです。26章では、幕屋の幕、板や柱、そして聖所と至聖所をどのように作るのかを,神がモーセにお命じになったことが書いてあるのですが、36章では、実際にイスラエルの民が神の指示どおりにそれらのものを作ったことが書かれるのです。

 神が名指して召したベツァルエルとオホリアブには,それらのものを作るために教える力が与えられたと35章34節にあります。すべてのことを完全にご存じのお方が何を材料にするのか、どのように組み合わせるのか、だれが指揮をするのかなどを指示し、その指示どおりに作っていく様子が確認できます。

 人は神をそのようなお方だと信じていながらも、時折そうではないような思いに駆られることがあります。深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕るように言われたイエスに「私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした」と答えるシモンのことばを思いました。

 聖所と至聖所を仕切る垂れ幕については、きょうの「みことばの光」が詳しく書いています。「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために,この新しい生ける道を開いてくださいました」というヘブル人への手紙10章20節のことばを、何度も思いめぐらしています。


何度も持って来る

2019年03月20日 | 出エジプト記

出エジプト記 36章1−19節

 今週は青空の広がる気持ちの良い天候が続いています。月曜にはかなり空気が冷たかったのですが、少しずつ暖かくなってきました。春本番ということでしょうか。

 幕屋を作り上げるための材料は、マナのように神が天から降らせてくださったものではなく、心動かされた民が神に献げるために持って来たものでした。ここには、「民は何度も持って来ます。…あり余るほど…」ということばが目を惹(ひ)きます。モーセが声を張り上げ、人々を動かしてやっとのことで材料が集まったとか、工事が始まったとかいう記述はありません。

 物ばかりではありません。幕屋を作り上げるためも労力も、イスラエルの民は惜しむことがなかったと記されています。神への信仰に基づいて、神が自分に賜わったものを一つのことのために用いられたい、用いてほしいという願いがほとばしり出て幕屋が作られていくのです。現代の教会ならば、このようにして新しい礼拝のための建物を建築できたらどんなにかすばらしいかと、称賛されるようなことです。

 幕屋の幕については、すでに26章に一度出てくるのですが、ここにあるのは繰り返しの記述です。それは、この幕屋建設がイスラエルの民のこれからにとってとても大切なものだったかを語っています。幕は四重に覆われていました。一番外側はじゅごんの皮、その内側に雄羊の皮、さらに内側に山羊の皮、そして一番内側には美しく織り出されている布でした。

 きらびやかさが外からは見られないという幕屋の特徴は、やがて救い主としておいでになったイエス・キリストのお姿を予め表わしていると考えられます。


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