出エジプト記 31章
「みことばの光」6月号の版下制作をしていて、あと5ページ空いていると思っていて確認してみますと、8ページも…。何かを飛ばしているはずとしてチェックしてみたら、3日分の原稿も預かっていないことに気づきました。慌てて執筆してくださる方にメールでお願いしました。この号は「綱渡り」的な編集作業が続いています。
本章前半には、これまで神が指示してこられた幕屋の製作に実際に携わる人の名前が出ています。まず、ベツァルエル。彼は細工の職人として秀でていました。振り返ってみますと、神が指示された一つひとつは実に緻密なものでした。けれども、細やかな指示どおりのものができあがったらどんなにすばらしいかと想像するだけなく、作り上げる者が必要です。
ベツァルエルはどのようにして制作に携わるようになったのでしょうか。自分から志願したのではなく、モーセが選んだのでもありません。2節に、「見よ。わたしは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し」ということばに目が留まります。神が彼を名指して召されたのです。
幕屋の製作についての記事を読み進める中で何度も立ち止っては考えたのは、創造者であられる神はこの世界にあるあらゆるものを知り抜いておられるということでした。「神だから当たり前」との反論がありそうですが、意外とそのことへの感動がない自分だということに気づかされるのです。
そして、ベツァルエルが名指して召されたというのことからわかるのは、神は彼のすべてをご存じだということ。それは、私たちに対してもそうであるということです。