出エジプト記 36章1−19節
今週は青空の広がる気持ちの良い天候が続いています。月曜にはかなり空気が冷たかったのですが、少しずつ暖かくなってきました。春本番ということでしょうか。
幕屋を作り上げるための材料は、マナのように神が天から降らせてくださったものではなく、心動かされた民が神に献げるために持って来たものでした。ここには、「民は何度も持って来ます。…あり余るほど…」ということばが目を惹(ひ)きます。モーセが声を張り上げ、人々を動かしてやっとのことで材料が集まったとか、工事が始まったとかいう記述はありません。
物ばかりではありません。幕屋を作り上げるためも労力も、イスラエルの民は惜しむことがなかったと記されています。神への信仰に基づいて、神が自分に賜わったものを一つのことのために用いられたい、用いてほしいという願いがほとばしり出て幕屋が作られていくのです。現代の教会ならば、このようにして新しい礼拝のための建物を建築できたらどんなにかすばらしいかと、称賛されるようなことです。
幕屋の幕については、すでに26章に一度出てくるのですが、ここにあるのは繰り返しの記述です。それは、この幕屋建設がイスラエルの民のこれからにとってとても大切なものだったかを語っています。幕は四重に覆われていました。一番外側はじゅごんの皮、その内側に雄羊の皮、さらに内側に山羊の皮、そして一番内側には美しく織り出されている布でした。
きらびやかさが外からは見られないという幕屋の特徴は、やがて救い主としておいでになったイエス・キリストのお姿を予め表わしていると考えられます。