出エジプト記 35章20−35節
先日の事故で破損した箇所を修理してもらうために、自動車を修理工場に預けました。金曜日に引き取りに行くまでの間は電車やバスでの移動です。日曜日にケルンに行った時、電車から街並みを見るゆとりがあってとても新鮮に映りました。
本章の後半には、幕屋とそこで用いる備品、そして祭司の装束を作るために、主がすでにモーセにお命じになったことをモーセが民に伝えたところ、民がどのようにしたのかが書いてあります。
「持って来た」のです。民はモーセの話を聞いて、一旦は自分たちのところに戻りました。それから再びモーセのところに集まって来たのです。神へのささげ物を手にして、いや、自分を神に献げようとして…。
なぜ彼らがそのようにしたのかの動機がここにはちりばめられています。「心を動かされた者」、「霊に促しを受けた者」、「進んで献げる心のある者」、「心動かされ、知恵を用いたいと思った女たち」、「心から進んで献げた」ということばが心に留まります。
次の章には、彼らがそのようにしてモーセのところに持って来たものは、幕屋を作るためには十分で、あり余るほどだったとあります。モーセに持って来たのではなく、神のところに持って来たのです。
考えてみますと、彼らが持ってきたものはそのどれをとっても、神が彼らに賜ったもの。自分で苦労して手に入れたものであったとしても、神からのものです。自分の身の回りのものにそのような位置づけができるならば、ここでの民のような姿勢や行動が、あちこちに見られるのではないでしょうか。