ヤコブの手紙 5章13−20節
ひざの痛みについて書きましたが、朝起きたらちょっといい感じ。そこで久しぶりに長時間歩きました。だいじょうぶ…そうです。お祈りを感謝いたします。
部屋の窓の外の景色に見慣れたクロネコマークのトラック。近所にお住いの方が帰国するので、引越しなさるのでしょう。そんな頃になっています。
手紙の終わりの部分で、ヤコブは祈りなさい、祈ってもらいなさいと勧めています。ここに挙げられているのは、どれもが困難な局面です。「喜んでいる」というのも、ある意味で誘惑という困難さの中にあるとも言うことができます。ここを読んで、改めて信仰による祈りの力について考えました。それは、力強く祈るとか、大きな声で祈るなどということとは違うように思います。
口をきけなくする霊につかれた子どもを持つ父親と、主イエスとのやりとりを覚えました。「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」と言う父親に、イエスは「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」とお答えになります。するとすぐに父親は「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫ぶというやりとりです。⇒マルコの福音書 9章14−29節
人は自分でできることがあるうちは、自分で何とかします。祈るということでも、自分にはすばらしい信仰があるなどと思っているうちは、自分の力に信頼しているということではないでしょうか。「信仰による」というのは、自分の側には頼りにするものがないという告白です。ヤコブはエリヤについて「私たちと同じ人でしたが」と書きます。列王記第一17、18章を読むと、とてもそのようには思えない、「強い人」のように響いてきます。しかし、エリヤの「強さ」とは、彼が拠り頼む神の強さなのだ、ということではないでしょうか。