みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

罪と汚れをきよめる泉

2017年03月27日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 13章

 日曜日は、ケルンにある日本語教会を訪ねました。いつものように、iPhoneに入れた地図アプリをナビゲーションとして便利に用いましたが、詰めの所で道を間違え、ちょっと遠回り。ナビは間違っていなかったのですが、ナビを読み取る私がミスをしました。聖書を読み違える自分の姿が重なりました。

 1節の「罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」とのことばから思うのは、エゼキエル書47章に描かれている情景です。聖書をお持ちの方は、エゼキエル書47章を開いてみてください。エゼキエルは、神殿の敷居の下から東の方へ水が流れ出ているのを見ます。水かさは足首からひざ、そして腰の深さにまで増し、やがて渡ることのできないほどの川になり、やがてアラバに下り海に入ります。アラバというのは、ヨルダン川が流れる地を含むパレスチナを北から南に縦断する低地のことです。ですから、エゼキエル書47章8節の「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る」ということばの「海」とは死海を指しています。

 驚くことに、「海に注ぎ込むとそこの水は良くなり、…あらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる」とまで言われています。今の死海は、浮遊体験をするには大変良いのですが、高い塩分濃度ゆえに一匹の魚も生息しません。けれども、エゼキエル書47章にはさらに驚くようなことが書いてあります。「漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。」死海で網を引くという、信じ難いことが起こるのだと言われるのです。

 けれども、それにも増して信じ難いのは、人間の罪と汚れがきよめられるということではないだろうか、と思い巡らすのです。「みことばの光」が引用した聖句をここにも記します。

 「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」ヨハネの手紙第一 1章7節


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