エゼキエル書 44章
教会のクリスマスの準備が少しずつ始まっています。きのうは子どもたちの朗読劇の練習日。緊張気味のお友だちが、いっしょうけんめい台本を読んでいました。いわゆる「クリスマスストーリー」は何度聞いても感動します。
主の栄光が神殿の中に入った時に、東の門は閉ざされました。それは、主の栄光が二度とここを去らないということを表しています。
この章を読んで思うのは、主はなぜ祭司たちが神殿を汚したことを厳しく責めておられるのだろうかということです。エゼキエル書の中でこの部分には回復、そして新しい神殿の幻が記されています。なぜ再び、神殿奉仕者の罪を責めておられるのでしょうか。神殿に主の栄光が満ちたということとつながりがあるのです。
ここで主は、ご自分の栄光に満ちた神殿を二度と汚してはならないと、念を押しておられます。特にイスラエルの家が異国の民を連れて来て神殿を汚したことを取り上げて、聖所に仕える者を制限します。ここに書かれていることから、クリスチャンが主に仕えるということについて考えます。
私たちは、特定の場所を聖域とはしません。どこででも神を礼拝できると考えています。だからこそ、主の聖さを心に留め続ける必要を覚えるのです。きょうの「みことばの光」に、「主なる神の栄光と聖さについて考えよう。私たちが聖なる栄光の神に近づくことができるのは何によるのだろうか」との問いかけを、どのように聞くでしょうか。