みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

覚えてくださればよいのに

2011年10月05日 | ヨブ記
ヨブ記14章


 10月号から「みことばの光」の版下を編集者側で作成することになりました。これまでは原稿を受領し、編集をし、印刷会社に版下制作を依頼し、戻って来た版下を複数でチェック、さらに印刷会社で修正し、編集者が印刷会社に出張して最終チェックをして、印刷製本納品、そして発送という手順でした。
 それが、今月号からは基本的には編集者側が最後のチェックまでして、「版下(データ)」を送って印刷製本納品という手順に変わったということです。紙面にもちょっとだけ変化があります。お気づきになりましたか。
 さびしいのは、印刷会社への出張(と言っても半日のことですが)がなくなったことです。ちょっとレトロな広い会議室の大きなテーブルで、数時間版下に目を凝らしているというのは、なかなか良い時間でした。

 それから、「メール版みことばの光」をご愛読の方には、今月から本の「みことばの光」と同じレイアウトの紙面をご利用いただけるようになりました。これも、版下をこちらで作成することで可能になったことです。お使いになっていかがでしょうか。

 前置きが長くなりましたが、ヨブ記14章。
 もろくはかない人間に、なぜ神は試練をお与えになるのかと、ヨブは訴えています。しかしそのような嘆きのなかでも、彼はあくまでも神に希望を置いているのです。
 「私を覚えてくださればよいのに」ということばは、はヨブが死んでよみに行っても、そこでも神は覚えてくださるということなのです。神との契約は、自分がよみに下ることがあったとしても切れることはないと、ヨブは信じているのです。
 ちょっとやそっとのことでは切れない、ヨブと神との契約の結びつきとはそのようなものです。だから、「なぜ」と訴えることができたのです。「神さまは人間をはるかに超えた大いなる方だから、何を言ってもダメ」ということなく、契約ゆえの強い絆に信頼して、「なぜ」と訴え続ける先に希望があるのだというのは、発見です。
 
 ずっと沈黙し続けられる神に、このように信仰を持ち続けるヨブだからこそ、「『なぜ』という窓から大いなる希望を見ていた」(「みことばの光」より)と言えるのですね。



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