みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神がいるなら、なぜ

2011年10月17日 | ヨブ記
ヨブ記24章


 三日間の修養会が終わり、ダルムシュタットという町に戻って来ました。今回の修養会には、フランクフルトだけでなく、シュツットガルトやスイスからも参加者があり、いっしょに「みことば漬け」の三日間を過ごしました。
 快晴の下で、夜には満天の星。ネット環境もない、情報とは切り離された場所で、ゆったりとした時間を過ごすことができました。務めを終えほっとしています。4

 ヨブの苦しみは続きます。
 24章では、「神がいるなら、なぜ?」とヨブが次々とこの世における不可解さを訴えています。これまで三人の友人がヨブを苦しめていたのは「因果応報の原理」に基づいてヨブの苦しみの原因を診断し処方したからでした。人はよいことをすればよい報いがある。しかし、悪いことをすれば悪い報いがあると言うのです。

 この章でヨブは、これまで彼を苦しめていた因果応報の原理にたいして戦いを挑んでいるように思いました。因果応報の原理は、「人は善いことをすればよい報いが、悪いことをすれば、悪い報いがあるとします。
 しかしヨブは、「そうではない!神がおられるのに、なぜこんなひどい目に遭わなければならないのか」と、次々にいろいろな例を挙げていきます。

 今回の修養会でお会いしたのは、T牧師ご夫妻を除けばすべてが初めてお会いした方々ばかり。はち切れるほどの笑顔がすてきな女性は、常に体をむしばむ痛みと戦っています。3歳でお子さんを天国に送られたご夫妻もおられました。「神がおられるのなら、なぜ?」という不可解な出来事に巻き込まれた人々です。
 それでも、神に信頼し神を賛美して歩んでおられます。

 それから、とても嬉しかったこと…。参加者の多くの方が「みことばの光」を愛用して聖書通読に励んでおられることでした。これからもよろしく!

 




立派なことばだけれども

2011年10月17日 | ヨブ記
ヨブ記22章21-30節


 金曜日、今度はT牧師宅から南に300キロほど離れた場所にある、キリスト教のリトリート施設に向かいました。この日から日曜日まで、ここで修養会をするのです。
ここは山の上。花で飾られた平屋の建物が広大な敷地内に散在しています。昨晩、分かち合いが終わり部屋に戻る時には、東の空に美しい月と、たくさんの星、そして冷たい空気を満喫しました。

 「みことばの光」にあるように、エリファズのことばは壁にでも貼っておきたいような箴言です。
たとえば、「神の御口からおしえを受け、みことばを心にとどめよ」ということばなどは、「みことばの光」編集者が願っていることを代わりに言ってくれているようで、「そうだそうだ!」とうなずいてしまいます。

 ところが、これらの美しいことばもヨブの心には届きません。すでに見てきたように、エリファズは自分が信じているこの世の価値観からヨブの苦しみのわけを理解しようとしているからです。

 エリファズは、「自分の天幕から不正を遠ざけ、宝をちりの上に置き、オフィルの金を川の小石の間に置け」とヨブに勧めます。しかしエリファズは、ヨブが不正を行う「悪者」であるとの前提に立ってしか、語ることができません。
 不正によって手に入れた財産を手放すように言っていますが、ヨブは「悪者」ではありません。ヨブは不正によって冨を手に入れたのでもありません。また、ヨブはこのとき、すでに自分のすべての財産を手放していたのです。

 美しく飾ったことばの刃で、誰かを自分好みに翻意させようとしているとしたら、恐ろしいことです。
 


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