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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

キリスト・イエスにあって

2024年06月10日 | ガラテヤ人への手紙

ガラテヤ人への手紙 3章15−29節

 礼拝している教会の近くに日本でいえば消防団の詰め所のようなものがあるのですが、日曜日はそこで「消防署デイ」が開催されていました。集まった子どもたちが放水したり消防車に乗って地域を回ったりするのです。このような体験が将来の進路につながっていくのかもしれないですね。

 ガラテヤの諸教会は、つまり神の御子イエス・キリストがすべての人の罪を贖って十字架で死んで復活したということを信じるならば罪から救われ、神の子どもとされるという福音を信じて、聖霊と大きな喜びを経験しました。

 しかし、「異邦人は福音を信じるだけではなく、割礼を受け律法を守り行わなければ救われない」という教えに、彼らは揺さぶられていたのです。

 パウロはここで、神がアブラハムに与えられた約束は、その子孫(単数)にも告げられたという旧約聖書の記述に目を留めています。そして、その子孫とはキリストを指していると書きます。こう書くことによってパウロは、異邦人クリスチャンからなるガラテヤの教会がイエス・キリストを信じて神の義を得たという事実に確信を持つようにと書きます。

 26節の「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあった神の子です」ということばに目が留まります。さらに、28節でパウロは「あなたがたはみな、キリストにあって一つ」だとも言います。

 自分たちが特別であなたがたとは違うという意識は、しばしば人と人とを分断します。分断から私たちを守るのはこのお方なのだということを、誰よりも先立って私たちこそ受け入れる必要があるのではないでしょうか。


皆の面前で

2024年06月08日 | ガラテヤ人への手紙

ガラテヤ人への手紙 2章11−21節

 訪ねて来られた方から、完熟した苺をいただきました。このブログをアップロードしたら夕食なのですが、食後の楽しみが待っています。食べ物の話が続きます。

 ここには、異邦人宣教のためにパウロたちを派遣したシリアのアンティオキアの教会でのエピソードをパウロはこの手紙に加えました。ケファとは、あのイエスの弟子ペテロのこと。この頃はイエスの兄弟のヤコブとともに、エルサレム教会の指導者として務めていました。

 パウロは、アンティオキアに来てのケファの行動に、面と向かって抗議しました。初めのうちは異邦人とともに食卓に着いていたのに、エルサレムから「ある人たち」が来てからというものは、異邦人から離れてしまったのです。

 12節の「恐れて」、13節の「偽った行動」ということばは、他人事ではありません。人がどう見るかを恐れて、自分の確信を貫くことができずに曖昧な態度やことばでその場を繕うというようなことは、何度会ったでしょうか。それが誰かを躓(つまず)かせるのです。

 この部分でのパウロのことばは、本当のところ誰を恐れ、誰のために生きるのかというメッセージを読む一人一人に問いかけていると思います。彼は、この時キリストの福音が骨抜きになってしまうような危機の中に立っていました。自分がどのようにふるまうのかではなくて、キリストの十字架が無に帰してしまわないことが、パウロの大きな務めでした。

 15節の「異邦人のような罪人(つみびと)」だと括(くく)られていることばは、当時ユダヤ人が異邦人をそのように読んでいたからです。しかし、神の前にはユダヤ人も異邦人も等しく罪人なのです。だからこそ、彼はケファであろうと誰であろうと、「信仰によって義と認められる」という真理から外れる行動に、妥協はありえないのです。


分け隔てなく

2024年06月07日 | ガラテヤ人への手紙

ガラテヤ人への手紙 2章1−10節

 外を歩くと初夏の天候。夏至まではまだまだ日が伸びるので、10時すぎてもまだ暗くはなりません。サクランボや苺がたくさん売られています。

 1節は、使徒の働き15章に記されている「エルサレム会議」と重なります。会議は、ユダヤ人クリスチャンの中に、「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ…救われない」と異邦人クリスチャンに教える者たちがいることがきっかけで、開催されました。

 異邦人に福音を宣べ伝えていたパウロたちは、この会議で異邦人が福音のことばを信じて救われて聖霊を賜わったことを証しし、異邦人に割礼を強いないようにと訴えました。そして会議は、異邦人に重荷を負わせない、すなわち割礼を強いないと決議されました。

 2章の前半で、パウロはさまざまな人々の名前を挙げています。バルナバはパウロとともに異邦人に福音を伝え、異邦人が救われるのを目撃しました。テトスは異邦人(ギリシア人)で割礼を受けていません。主イエスの兄弟ヤコブはエルサレム教会の指導者、ケファとは使徒ペテロのこと、そして使徒ヨハネです。

 ペテロはユダヤ人への使徒、そしてパウロは異邦人への使徒として主が用いておられることを確認したということばに目が留まります。福音はあらゆる人々に届けられなければならないこと、なぜならば人はだれもがイエス・キリストの福音のみによって救われるからです。

 この事実は、今なお変わることがありません。


神をあがめていました

2024年06月06日 | ガラテヤ人への手紙

ガラテヤ人への手紙 1章11−24節

 薔薇とともに、私たちを楽しませているのは木苺(きいちご)の花。ちょうど今が満開です。よほど蜜がおいしいのでしょうか。蜂たちが盛んに飛んできます。あと数週間で実が食べられるようになることでしょう。

 ガラテヤ人への手紙の出だしは、パウロのほかの手紙とは違います。日本語の聖書では、「人々から出たのでなく」から始まります。

 きょうの箇所でも、パウロはまずガラテヤの諸教会に宣べ伝えた福音が人間によるものではないと言い切っています。そのあと彼は、自分がかつてはナザレ人イエスをメシアと信じる教会を迫害していたと隠さずに話します。

 13節に「神の教会」とあります。パウロはイエス・キリストの福音を信じて誕生し、自分が迫害してきた教会を「神の…」と言い切るのです。

 ユダヤ人として生まれ、ユダヤ教に人一倍熱心だった彼が、なぜそれまで激しく迫害してきた教会に加わったのか。それは誰かの説得によるものではなかったのです。パウロはここで、ただイエス・キリストの啓示によって受けたと書いています。

 イエスをキリストだと信じるということは、その人にとって奇跡のようなものだという人がいます。人は多くを学び知識を積み上げて、イエスがメシア、キリストだと納得するのではありません。信仰によるのです。

 パウロは、自分の身に神は奇跡を行われたと言っているのです。本章の終わりに、「私のことで神をあがめていました」とあります。自分に起こったことは、誰かが誇るためでなく、ただ神をあがめるためなのだということに、改めて気づくことばです。


驚いています

2024年06月05日 | ガラテヤ人への手紙

ガラテヤ人への手紙 1章1−10節

 日本で25年間宣教師として歩み、さらに25年間癌と向き合われた同労者が、神のみもとに召されたとの知らせが届きました。数年前の教会の修養会では、会場近くにあったブルームハルト牧師ゆかりの地、教会を案内してくださいました。ご遺族に神からの慰めを祈ります。

 きょうから「ガラテヤ人への手紙」を読みます。「ガラテヤ人」とは誰なのかについては、大きく二つの説がありますが、パウロが一度目の伝道の旅で福音を伝え、二度目の伝道の旅で再訪したピシディアのアンティオキア、イコニオン、リステラ、デルベの諸教会を指していると考えられます。イコニオンは、現在のトルコ中部にあるコンヤのことです。第一次伝道旅行の様子は使徒の働き13−14章で確認できます。

 挨拶に続いてパウロは、6節で「私は驚いています」と書いています。彼はガラテヤの諸教会の何について驚いているのでしょうか。それは、彼らが「ほかの福音」に移って行くことなのです。「福音」とは、良い知らせのことです。具体的には、イエス・キリストを信じることによって、すべての人は罪が赦され神の子どもとされるという真理を指しています。

 パウロはピシディアのアンティオキアで次のように語りました。

 「兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。 」使徒13章38−39節

 しかし、パウロがこの手紙を書く頃に、その福音を揺るがせるような、いや、福音に反する教えがガラテヤの諸教会を揺るがせていたのです。パウロはそのことを驚いているのです。

 この箇所は、教会が真に驚くべきは何かと問いかけています。


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