津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和ニ年」を読む (1)

2023-04-30 06:55:43 | 史料

忠興文書-元和ニ年 (4月17日、徳川家康死去)

 109、正月三日書状
  ・駿河(家康)にても江戸(秀忠)にても仕合無残所候事
  ・家康伊豆三嶋付近泉頭ニ隠居所を営マントス 諸国ノ大名普請ヲ手伝ハントス
  ・成瀬正武、小山吉久成敗セラル
  ・永田重利・伊東政世ノ改易、青山重長ノ改易

 110、正月四日書状
  ・松平忠輝ノ処分未定
  ・家康三河吉良ニ鷹狩ス
  ・東北諸大名衆ハ在国越年ヲ許サル
  ・大坂穿鑿ノ風説
  ・福島正則近日帰国セン
  ・家康隠居所ノ普請
  ・中津城ノ存続許サル
  ・はふとん一給リ満足

 111、正月十一日
  ・伊達政宗謀叛ノ風説アリ、内々出陣ノ用意ヲスベシ

 112、正月十六日書状
  ・出陣ノ用意ハ隠密ガ肝要
  ・家康隠居所ヲ建ツル計画ヲ止ム
  ・東北諸大名衆ハ在国越年ヲ許サル
  ・松平忠輝上野藤岡ニ蟄居ス
  ・西国諸大名ノ帰国日限知レズ
  ・帰国ノ暇ニツキ普請多シ

 113、正月廿一日
  ・伊達政宗謀叛ノ風説実否不明
  ・西国大名衆近日御暇の事、しかと不知
  ・家康秀忠ノ鷹狩

 114、二月十二日書状
  ・伊達政宗ノ様子ハ不明、陣ノ用意ハナスベシ
  ・家康の病状(おこり)快シ
  ・忠興近日中ニ駿府出立セン

 115、二月十二日書状
  ・家康ノ病気見舞状ノ日付ニツキ打合セ

 116、二月廿ニ日書状
  ・京都吉田ニ参着ス
  ・家康ノ病験気アリ

 117、二月廿四日書状
  ・家康ノ病気見舞ノ用意ナスベシ
  ・土産物ノ配慮
  ・忠興小倉到着ノ日程、三月五六日可著、忠利中津ヨリ出船之様ニ可被申付

 118、三月十四日書状
  ・駿府ゟ来状アリ
  ・出府ノ乗舟ヲ急ギ手配ス
  ・家康等ヘノ進物ヲ船ニ積ム

 119、三月十四日書状
  ・家康并秀忠ヘノ進物
  ・本多正純并土井利勝ヘノ進物
  ・崇傳ヘノ進物
  ・徒者若黨飛脚ヲ多ク召連ルベシ

 120、三月廿七日書状
  ・土井利勝ゟノ報知次第忠興モ上ラン
  ・崇傳ニ家康ノ病状ヲ尋ヌベシ

 121、三月廿八日書状
  ・与安法印信州高嶋ニ流サル、忠興ニ子宗琢ノ身ヲ託ス
  ・忠興ノ憂慮

 122、四月六日書状
  ・忠利駿府ニテ秀忠ニ謁ス
  ・忠利、本多正純・金地院御取成ニテヤガテ家康ニモ対面
  ・忠利室懐妊ニツキ家康御見舞ナラズ
  ・与安法印之儀絶言語候
  ・驢安の事
  ・駿府ニ詰タル大名ヲ江戸或ハ國ニ返ス
  ・数寄道具・金銀等ノ贈与
  ・国替ノ雑説
  ・本多正信病ム、病状ヲ報ズベシ
  ・崇傳黒田長政ト入魂、忠利ハ藤堂高虎ト度々参会スベシ

   (4月17日、徳川家康死去)

 

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■レファレンス協同データベースを楽しむ

2023-04-30 06:35:24 | 先祖附

 今日は「図書館記念日」なのだそうだが、熊本県立図書館のサイトを見ると特段催し物があるようでもない。
処で・・・コロナが流行し図書館が休館していたころ、レファレンスしてみようと思いメールを入れたことがあるが、その当時はレファレンス自体を受け付けていなかった。
熊本県立図書館関係のレファレンスは「レファレンス協同データベース」にその Q&A が掲載されている。
その数593件に及ぶが、これを眺めてみるといろんな方々の疑問が多岐に亘り、その解答をみると回答の為に検索された資料が数十点に及ぶような事例が見受けられ、司書の方々のご努力のほどがうかがえる。
コロナで受け付けてもらえなかった件を、もう一度尋ねてみようかと思案している。
皆様も気楽に申し込みされてはいかがですか。他県の事例はその地区の図書館に申し込みすればよく、楽しいものですよ。

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和元年」を読む (3)

2023-04-29 09:41:01 | 先祖附

忠興文書-元和元年 (慶長廿年)7月13日元和改元

 (6月6日、忠興二男興秋、父ノ命にゟ自刃ス)

101、(慶長廿年)閏六月七日書状
 ・不干の茶入れのこと
 ・忠利家康ニ謁ス、珎重候事
 ・此状いや(吉田兼治室)へ可被届候

102、(慶長廿年)閏六月廿五日書状
 ・家康へノ進物、金地院へ示、上州披露被申候様ニ可被仕候
 ・秀忠ヘノ進物、土井大炊・佐渡殿へ申遣候間、その意披露被仕候様可被仕候
 ・河内飯森ニテ油断アリシ諸大名ノ糾明
 ・小笠原忠政(忠真)ノ容態ヲ問フ
 ・大和口合戦ニツキ伊達政宗辨疏スト風説
 ・筑紫広門秀忠ニ謁ス
 ・金森可重ノ遺蹟相続
 ・伊東長次ノ訊問

103、(慶長廿年)閏六月廿九日書状
 ・秀忠(7月19日伏見着)、家康(8月4日京都着)下向の期日
 ・諸国城割ノ觸状到来門司城(沼田延元預かり)ヲ破却ス    参考:近世初期における諸国城割と地域社会―藩政成立史序説―
 ・中津城ハ土井利勝ト談合次第タルベシ                      永青文庫研究 5 1-25, 2022 
 
・幕府城割ノ方針
 ・武家諸法度ノ發布
 ・大政大臣ニナルヨリモ(??)帰国ノ賜暇ヲ望ム
 ・筑紫広門ノ召抱ハ辞退スベシ

 7月13日元和改元)

104、七月廿六日書状
 ・小笠原秀政・忠脩父子ノ葬儀ノ日取ヲ聞キタシ
 ・日本国中普請十年御免ノ報

105、八月十六日書状
 ・槻木ノ一番鷹給候
 ・田中忠政帰路小倉ヲ過ル              大坂夏の陣に遅参、七年間の江戸滞留を命じられている。
 ・八月四日家康駿府帰還ノ為京都ヲ發ス

106、九月廿九日書状
 ・蜂須賀至鎮ヨリ鷂(はいたか)を贈ラル

107、十月二日書状
 ・平野長泰ノ状受取
 ・秀忠旗本諸士ノ大坂役ノ戦状ヲ糾明ス
 ・光壽院ノ為、人ヲ下ス
 ・東へ越年、知申間敷こと
 ・城昌茂改易

108、十二月三日書状
 ・十一月廿八日吉田(京)ニ著

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■昭和の日

2023-04-29 06:32:43 | 徒然

 昭和生まれの私からすると、今日4月29日はやはり「天皇誕生日」でなければならない。
昭和天皇の御逝去後、この日はどうなるのかと思っていたら「昭和の日」となったが、平成・令和と時代が変わっても違和感が感じる。
過日、江國滋著の「滋酔郎 俳句館」という文庫本を読んでいたら、昭和天皇に関する「拝謁記」という面白い一文にであった。
昭和56年(1981)12月17日のことだそうだが、いわゆる「東京やなぎ句会」の連中が忘年会を兼ねて伊豆下田に一泊の予定で足を延ばしたのだそうな。
熱海の先の「宇佐美駅」に近づき減速したとき、上りホームに警官が多数立っているという。
何事かと思っているうちにお召列車の通過であることが判り、江國氏らが乗る列車が両陛下の目の前で停車したそうな。
上下線の隣同士の線路の上で、両陛下のお召列車の目の前で止った。句会の連中の驚くまい事か、窓越しに鈴なりになり手を振り、あの小沢昭一にいたってはガラスにおでこをくっつけて「陛下、小沢でございます」と叫ぶと、両陛下はお気づきになり(?)御手を振られたという。
その感激の中の小沢に代わって六丁目(永六輔)の一句   あれは小沢かと皇后にご下問
残念ながら小沢の感想は、彼の一連の著作を眺めてみても出てきていないように思える。
昭和56年12月、両陛下はどちらへお出ましであったのか、WEBで探してみたがよく判らなかった。
やなぎ句会のその日の下田での句会は、さぞかしその話で賑わったことであろう。

 まさに昭和の人たちが名を連ねた「東京やなぎ句会」も、大方が亡くなられてしまった。
私はやなぎ句会の本を数冊持っていて、今でも時折ページをめくっているが、いい雰囲気だなあ、うらやましいなあと思いながら癒されている。
小沢昭一、昭和元年の生まれで「昭一」かと思ったら、昭和4年の生まれであった。小沢氏52歳の時の話である。




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■ご恵贈御礼ー「放送大学日本史学論叢」

2023-04-28 09:55:39 | 書籍・読書

                           

 「加藤清正妻子の研究」「続・同左」「加藤清正と忠廣ー肥後加藤家改易の研究」など一連の肥後加藤家研究の第一人者の福田正秀氏から頭書の「放送大学日本史学論叢」をご恵贈給わった。
深く感謝を申し上げる。この冊子の中に氏の論考「徳川家康養女清浄院の母方系譜ー清浄院書状を解析するー」が、30ページに亘り掲載されている。
今迄の業績に加え「妻子の研究」は更なる進展をしている。つまり清浄院の生母(目加田氏)の存在が明らかにされ、清浄院の実父・水野忠重(家康生母・於大=伝通院の兄)との関係が明らかになってきた。
氏は「清浄院の人間関係や人柄、功績に新たな知見を開く」論考と言って居られるが、まさしくこれまでの氏の研究の成果としてこのような貴重な資料がもたらされて、氏の許に蓄積された多くの資料と共に更なる校合研究がなされて新たな世界が開かれてきた。
氏とはずいぶん長いご厚誼をいただいているが、今般またこの論考掲載誌をご恵贈給わり、論考をいち早く拝見できたことに感謝を申し上げる。
また機会を得てご講演を拝聴できる機会が訪れるのではないかと期待している。

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■見なきゃよかった有禄士族基本帳

2023-04-28 08:25:25 | 徒然

 K家という著名なお宅の先祖附が、他家の資料袋の中から出てきた。それも本家・分家二家分が一つ綴じにしてある。
本家分については有禄士族基本帳迄取っている。改めて二家分を分けてクリップ止めにして新たに資料袋も整えた。
そんな作業をする中で有禄士族基本帳に普段では記載ない特別な記事が付けられていた。
何気に目が行ったが、見なければ良かった。
明治十年五月と十一年の一月の二度に亘り、官山に自ら又は雇人と共に入り込み立木を都合十四本盗伐したというのである。
その代償は大きかった。「料賊盗律常人盗ニ準シテ諭シ士族破廉恥ニ係ルヲ以テ・・・」除族の上懲役六十日・杖六十に処されている。
杖とは杖打ちのことであり、その数60ともなると大変苦痛を伴ったであろう。

盗伐の木は没収されるべきところ、「己之費用スルニ依・・追徴に不及」とある。

 実は以前、全く同様の事例に出くわしたことがある。こちらはご依頼を受けて先祖附を取得して読み下しを行い、同様の記述が見受けられたため、「不愉快に思われる記述がある」旨を事前にご連絡した上、ご了解を得てお送りした。
高祖父の兄に当たられる人物の行為が腹に据えかねたらしく、随分御機嫌を損ねられたことを思い出す。
その高祖父という人は歴史に残る著名人であった。

 この二つの事例は大変内容が類似している。その裁判が行われた裁判所も同じところだと思う。
明治十年~十一年という時代からすると、西南の役で被災された結果ではないかと推測している。
先祖附や有禄士族基本帳を読むと、このような記載に時々遭遇して、おろおろしてしまう。

 

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和元年」を読む (2)

2023-04-28 06:54:32 | 先祖附

忠興文書-元和元年(慶長廿年)

91、(慶長廿年)四月十七日書状
 ・苺初物ノ礼

 ・本多正純ヨリ出陣用意ヲシテ指図ヲ待ツベシトノ指令アリ

(4月21日秀忠二条城に到着し、翌22日家康・秀忠は本多正信父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議。この時の徳川方の戦力は約15万5千。
 家康はこの軍勢を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かわせる)

92、(慶長廿年)四月廿五日書状
 ・幕府ヨリ大坂参陣ノ指令来タル
 ・国中ノ舟ヲ小倉ニ集ム
 ・五十挺立ノ乗舟ヲ忠利ニ貸ス

93、(慶長廿年)四月廿五日書状
 ・水夫少キタメ惣勢陸路出立ヲ命ズ
 ・忠興ハ少人数ニテ海路上坂セン
 ・忠利ハ長府近辺ニ陣取ル予定ニテ出立スベシ

94、(慶長廿年)四月廿六日書状
 ・小笠原秀政・津田秀政ゟ書状届クモ、返事遣間敷候事
 ・忠利小倉へ被越、陸路罷上候様ニと指令
 ・忠興来廿九日・晦日之内ニ出船
 

(豊臣方、4月26日に(郡山城の戦い)、28日には徳川方の兵站基地である(堺焼き討ち) 29日には一揆勢と協力しての紀州攻め(樫井の戦い)。
 5月6日まで堺攻防戦を行った。)

95、(慶長廿年)五月五日書状
 ・忠興三日兵庫ニ著ス
 ・家康ハ牧方ニ秀忠ハ飯森下ニ陣ス、淀ニテ家康ニ謁見ス・家康ノ信頼忝儀ニ候事
 ・大坂方強勢或ハ味方謀叛ノ噂モ真実ナラン
 ・家康、忠興ヲ側近ニ居ラシム
 ・忠利ハ西宮尼崎附近ニ着陣シテ後命ヲ待ッベシ
 ・大坂方ヨリ茶臼山平野マデ兵ヲ出ス
 ・大坂方ノ兵一揆ト共ニ岸和田大和郡山邊ヲ焼ク
 ・京都放火ノ陰謀者捕ハル
 ・丹波摂津ノ一揆ノ鎮壓
(5月6日、道明寺・誉田合戦八尾・若江の戦い

96、(慶長廿年)五月七日書状 大坂城落城、豊臣秀頼・淀殿自殺
 ・昨六日、飯守下にて合戦、木村重成後藤基次薄田兼相等戦死
 ・七日ノ戦況、今日合戦度々之せり合中々推量之外、本多忠朝戦死、小笠原秀政手負(後死去)
 ・細川勢、鎗突き候者、一番七助・二番縫殿・佐藤傳右衛門・薮三左衛門・佐方與左衛門・吉住半四郎・續孫介
 ・其後大崩れ、松井右近一人取テ返シ、甲首一ッ
 ・七助(清田石見)鑓之鋒を突曲申候
 ・細川勢ノ挙ゲタル首級、貮ッ亀介・主水及び主水内之者、壹ッ賀賀山半兵衛・朽木與五郎
 ・大阪城天守焼亡シ秀頼等自殺ス 一時之内ニ天下泰平ニ成候事
 ・此状草臥さる飛脚ニ持せ豊前へ下し可被申候

(5月7日、天王寺・岡山の戦い  
 同7日申の刻(午後四時頃)に治長は家臣を使者として遣わし、千姫を脱出させた上で自身以下が切腹する替わりに秀
 頼・淀殿の助命嘆願を行う。

(5月8日、秀忠上記申し入れを却下、秀頼に切腹を命ず。秀頼らが籠もる山里丸にある蔵を包囲した井伊直孝勢が午の刻(午前十二時頃)に鉄砲を
 放つことでこれを伝えた。これにより秀頼ら三十二人は自害をし、後に蔵内から火が挙がった=ウイキペディア)

97、(慶長廿年)五月八日書状 
 ・大坂落城ニツキ軍勢ハ引返シ忠利ハ上洛スベシ

98、(慶長廿年)五月八日書状 
 ・花熊近辺ニ到着セバ急報スベシ

99、(慶長廿年)五月十日書状 
 ・忠興大坂ヨリ尼崎へ渡リ京都ニ上ル

100、(慶長廿年)五月十四日書状 
 ・(忠利岳父)小笠原秀政・忠脩父子戦死、伏見ノ内竹田邊之寺ニ御入候
 ・忠利ハ伏見ニテ秀忠ニ謁スヘシ

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■明日からゴールデンウイークだというのに

2023-04-27 13:36:43 | 徒然

 人様はコロナ禍の中で我慢を重ねられてきて、今度のゴールデンウイークは、ご家族連れや友達・恋人たちがあちこちに行楽を楽しまれることだろう。 
私はと言えば5月の中旬頃引っ越しせねばならなくなった。熊本大地震から現在の住まいに逃げ込んだのが5月中旬だったから奇しくも満7年目である。
通常のものは引っ越しの専門家に頼めばよいのだが、私には捨てることのできない財産がある。
本と資料だが、これだけは引っ越し先で又元通りに本棚に戻さなければならなから、その為に判るようにダンボールに詰めなければならない。
15日~20日くらいの余裕はあるのだが、少しずつ資料の箱や袋を取り出しては、中身を確認、いらないものは処分している。
中身を確認するうちに懐かしい史料に遭遇してしばし目を通していると、熊本史談会でのいろんな情景が浮かんだりする。
隠れていた古文書史料なども顔を出し、しばし手が休まって遅々として進まない。
又久しく開けていない開かずの押し入れを開けると、何が入っているのか覚えがないダンボールから、レコードやCD等、また旅行その他で求め地震に耐えた人形その他が姿を現し、しばし奥方と眺めて感慨にふけった。
ダンボールいっぱいのコピー類が顔を出すと、これは有禄士族帳その他のコピー等1,500枚以上はある(500枚で25㎜程)が、これは内容を確認して一気に処分した。
こんな作業を散歩もせずに一日中やっていると、腰が痛く成る事夥しい。
引っ越してまた本棚に戻す作業を考えると、あとひと月は世話がない。傘寿一歳爺様の最期の御奉公である。

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和元年」を読む (1)

2023-04-27 05:56:39 | 史料

元和の改元は、「後水尾天皇 の即位と、大阪の陣などの戦乱の災異の終息」にあたり行われたとされる。
慶長20年5月8日、大坂夏の陣において大坂城は落城、豊臣秀頼・淀殿ら自害し豊臣家は滅んだ。
その3ヶ月後(慶長20年は閏6月がある)の7月13日(新暦1615年9月5日)に「元和」と改元された。
ここではその改元前の時期については「元和元年(慶長廿年)」と表記することにした。
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忠興文書-元和元年(慶長廿年)・・大坂夏の陣勃発、豊臣家滅亡

80、(慶長廿年)正月三日書状
 ・大坂落着ノ觸状到来
 ・御奉行衆への返書遣候事
 ・嶋津・加肥後・田中筑前への書状
 ・忠利豊前ニ下國タルベシ

81、(元和元年ヵ)(慶長廿年)二月朔日書状
 ・忠興上關ニ著ス、一両日中ニ小倉ニ著スベシ

82、(元和元年ヵ)(慶長廿年)二月六日書状
 ・光(=光尚)ノ祝儀の礼
 ・関東木綿到来ノ礼

83、(元和元年ヵ)(慶長廿年)二月十五日書状
 ・羽班五十進之候

84、(元和元年ヵ)(慶長廿年)三月七日書状
 ・光ノ発熱ニツキ注意ヲ與フ
 ・干拓ノ為曽根ニ堤ヲ築ク

85、(元和元年ヵ)(慶長廿年)三月八日書状
 ・光ノ病状良シ
 ・尾そりヨク鳥ヲ捕フ、「日本」ゟヨク鶉ヲ捕フ

86、(元和元年ヵ)(慶長廿年)三月十一日書状
 ・光ノ病状良シ
 ・曽根ノ堤出来ニツキ中津ニ赴カン

87、(元和元年ヵ)(慶長廿年)三月十二日書状
 ・鹿皮・土筆給り喜悦候
 ・曽根ノ堤普請大方出来ス

88、(元和元年ヵ)(慶長廿年)三月十五日書状
 ・曽根堤完成ニツキ十九日廿日ノ間ニ中津ニ至ルベシ

(徳川家康4月6・7日に諸大名に鳥羽・伏見に集結を命じた)

89、(慶長廿年)四月十一日書状
 ・出陣ノ用意・・・(夏の陣)
 ・中津馬乗ハ昨年ノ如クタルベシ
 ・忠利ノ乗舟ヲ中津ニ下ス
 ・中津ノ普請ヲ中止セシムベシ

90、(慶長廿年)四月十三日書状
 ・出陣ノ用意ー陣用に米を貸す、忠興の触れを待つに不及、駿府から御触れなくとも用意すべし
 ・羽織、小姓共ニハ揃ノ指物ヲ申付ベシ
 ・奉行又ハ頭ノ他ニハ指物ヲ許サズ

 

 

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■鳩野宗巴の西南の役観察‐西郷らの戦没を聞く

2023-04-26 07:32:48 | 史料

             
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             西郷等の戦没を聞く

            蓋世の英雄盡きて頭を授く                    世を覆いつくす程の気概を持つ英雄西郷も果て頭を国に差し出した
            捷書電報は事の全てを収む          勝ち戦の電報に事の全てが収まっている
            西公も又西人の勇を負うている        西郷も又日本の西方の一途な勇ましさがある
            星落ちて城山に一片の秋           北辰の如き人は地に落ち、城山はただ秋の気配である

              楠公菊池氏を惜しみて言有り
                  曰く西人所謂野猪武者 余に楠公詩有り□
                  此事を用いて今後再び之を用いん

                                  盾洲

           

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長十九年」を読む (2)

2023-04-26 06:51:31 | 史料

忠興文書-慶長十九年   (12月大坂冬の陣勃発)
 70、六月二日書状
  ・曽我尚祐ノ病状を知らせよ
  ・隣の屋敷の事曽我尚祐に談合のこと
  ・久貝正俊改易について

 71、六月廿路九日書状
  ・仙石秀久没す、跡式兵太被仰付、いかようにも可被肝煎候、此由申遣候事
  ・江戸城石垣普請出来様
  ・藤堂高虎・福島正則家来同士の紛争・・藤堂高虎と仲良くすべし
  ・曽我尚祐本復のこと
  ・忠興癪を患う
  ・江戸・駿府にて頻に密議在り
  ・(五月四日)吉田浄慶没す

 72、七月十九日書状
  ・忠興の病状
  ・江戸城普請のことの報告については承知
  ・曽我尚祐本復のこと
  ・藤堂高虎・倉橋内匠・永田重利・山岡景長肝煎の事
  ・蜂須賀至鎮より四百両を借用す
  ・大風吹き家・櫓・田畑損ず、忠興作事のため中津へ赴く

 73、七月廿五日書状
  ・江戸へ銀子を下す
  ・藤堂高虎へ銀子借用の礼を述ぶ
  ・江戸町人と細川家水夫の争い
  ・仙石忠政へ状を遣わす、急ぎとどけよ
  ・福島正則のり物事、過酒か笑止
  ・土井利勝駿河へ使いす、様子は知れ申す間敷

 74、八月十八日書状
  ・家康の意向により江戸城普請切り上げ
  ・江戸屋敷作事の屋根の箔を送る
  ・忠利所持の鶉(うずら)を所望す
  ・麦粉到来の礼

 (8月豊臣家は梵鐘銘問題の弁明のため、片桐勝元を駿府へ派遣す)

 75、九月十九日書状
  ・江戸大風の被害(8月28日烈風により土民の家屋倒壊多し)につき御前前へ早打ちを以て見舞い状を送る
  ・細川家江戸屋敷も破損、被害状況判らず、損じた処を作事すべし
  ・忠利の状の到着が遅い

 76、十月三日書状
  ・幕府諸大名ノ誓紙ヲ徴ス
  ・上方ニ雑説
  ・(母)光壽院ノ湯治ヲ差止マス事
  ・忠利の書状が多い時は綴じて寄越すように

  ・急ぎの返事は「一書」に対し一々の返事不要

 (10月11日徳川家康出陣す・23日京都着、秀忠23日江戸出発)

 77、十月十五日書状
  ・大坂の儀に付、この状参着次第鉄炮ノ者ヲ残ラズ上坂セシムベシ
  ・此状、佐州・大炊殿、藤泉へ持可被届事
  ・国許別條ナシ

 78、十月十八日書状
  ・去六日忠利駿府ニテ家康ニス、珎重候事
  ・本佐州・金地院書状見申候、則返事遣候事
  ・藤堂高虎駿府ニ赴
  ・忠利上坂ハ本多正純・金地院ノ指図次第タルベシ
  ・普請ノ者共、早可上候
  ・忠興廿一日出船スベキ処家康ノ指図ニ従ヒ暫ク在国ス
  ・伊達政宗・上杉景勝・佐竹義宣大坂先手ヲ命ゼラル
  ・非常ノ時ハ(母)光壽院ヲ江戸城内ニ託スベシ、隠密肝要
  ・上坂相延候間、中津へ可越

 (11月19日木津川口の戦い。26日には鴫野今福の戦い、29日には博労淵の戦い野田・福島の戦い
 (12月3~4日 真田丸の戦い
 (5日、家康茶臼山ニ本陣を移す)

 79、十二月六日書状
  ・忠利、本田忠朝ㇳ森河内ニ陣取ル、
  ・景勝・佐竹勢ノ批評
  ・忠利、本雲洲(忠朝)ノ馳走ヲ受ク、忠興礼状ヲ遣ス
  ・忠興上坂ハ島津次第ノコト
  ・忠興上坂ノ上ハ忠利ト一手ト成ラン・人数九千
  ・御奉行衆ゟノ觸状届ク、上州ニ返事遣候
  ・上方ニテ薩摩ノ風評アル由ナレド別儀ナシ
  ・毛利高政・木下右衛門大夫ヘノ書状、忠利方ゟ可被届候事、
  ・毛利高政ゟ参候銀子、江戸へ送ル

 (12月16日ヨリ一斉砲撃)(20日京極家に於いて東西両軍の和議)(23日より和議の条件である堀の埋め立て始まる)

 (12月29日小倉出船、大船500余艘に馬乗組門司迄御出、大坂より御小早下り去ル23日東西御和睦、御帰国可被旨被諚出ノ由忠利君ゟ被仰越候間御帰陣す)

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■灯台下暗しの引っ越し物件

2023-04-25 15:33:30 | 徒然

 熊本大地震後、奥方が走り回り現在住んでいる住まいを見つけ出し、ここでの生活がそろそろ7年になる。
狭い部屋に本や資料にうずもれて生活しているが、住めば都でここが終の棲家でも良いと考えていた。
現在の住まいは買い物や銀行や病院等、大変便利がよく気に入っている。処が奥方はニ三か月前から、引越し先を見つけ始めた。
老後は今より少しゆったりした部屋で楽をしたいというから、反対だとは言えない。
奥方はタブレットを駆使して周辺地域のマンションを調べ始めた。そして自転車で走り回り確認をし始めた。
歩いて10分ほどの処にある物件が気に入ったらしく、同意を求めてきたのでOKしたが、一歩先を越されて駄目になった。
その数日後、今度は歩いて5分もしないところにあるマンションの5階に2軒が空きが出ることが判った。
まさに「灯台下暗し」であった。今日は退去されたばかりの部屋を見せていただいた。
奥方は大いに気に入ったようで、明日内見の予定が入っているという事で早速内金を入れて抑えた。
というのは今一つの南東角の部屋が月末退去予定だそうで、こちらに大いに気持ちを動かされているからだ。
どうなるかは判らないが、いずれにしろ5月内には引っ越しと相成った。
本や資料を眺めまわしながら、これを整理して持ち出し、引っ越し先で本棚に戻す作業を考えると、気持ちがどんよりとしてしまう。
「傘寿一歳」の老体に鞭打って、最後の御奉公を務めなければならない。




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■鳩野宗巴の西南の役観察‐薩摩兵熊本を去る

2023-04-25 08:30:26 | 史料

            

            薩兵熊本を捨て南に去る

            山村に乱を避け柴荊に臥す
            人事は怱忙夢也 砲声は地を動すに驚き
            息む時無し 燹火天に連なり幾処か明かなり
            薩旅は逡巡す鴻鵠の志 魯人は睥睨す
            鷸蛑の争い 王政初めて仁恵の渥きを知る
            掲示を仰ぎ看て涙縦横
                       盾洲
                                     乱を避けて柴の庵に寝起きする
                              人の世は忙しく夢の如くに過ぎる
                              大砲の音に驚き心休まる時とてない
                              兵火が空を染め あちこち明るく見える
                              鴻鵠の志を抱いて起ちあがった薩摩の者たちの
                              故郷への旅の心の内はどんなだったろうか
                              傍らの者は冷ややかに見ているだけ
                              掲示を仰ぎ見て天皇の仁恵を知り涙にくれる      

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■忠利の周旋

2023-04-25 06:24:56 | 史料

 東大史料編纂所の「大日本近世史料 細川家史料・26」において、荒木左馬助(のちの細田栖隠)の公儀召出しに尽力する、忠利・光尚の
様子が紹介されている。

荒木左馬助は望まれて荒木局(村重女)の養子になっている。
荒木村重と入魂であった烏丸大納言から光尚に対し左馬助の将軍家への奉公について頼まれ、忠利が代って老中・松平信綱に申し入れている。
忠利はその翌年十八年三月十七日、死去することになる。


  ■(寛永十七年) 四月廿五日松平信綱宛書状
         村常      烏丸光廣       細川光尚
 一書申入候、仍荒木左馬事、からす丸大納言殿同名肥後ニ頼被申候様子御座候、當月ハ間も無御座候間、
 重而之御月番ニ肥後可得御意候、御取成も御座候者、可忝候、恐惶謹言
      卯月廿五日
        信綱                   細川忠利
      松平伊豆守様
           人々御中
                         徳川家光
    尚々、荒木左馬事ハ、別之儀ニ而ハ無御座候、 上様へ御奉公之事ニ付得御意度と
    肥後申候、以上

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ■(寛永十七年) 五月十四日松平信綱宛書状
 昨日者御使者、忝存候、一昨日御馬拝領、忝存付而致伺公候通被聞召、為御禮被仰越候段、御事多内御慇懃
 之儀共候、次ニ、荒木左馬助殿之儀被聞召由、忝存候、尚期後音候、恐惶謹言
       五月十四日
       松平伊豆守様
             人々御中

 上記二つの書状から、この時期左馬助が徳川家光への奉公を望み、これが承認されたことを知ることが出来る。
しかし僅か四年後、左馬助にとっては思いがけない事件が起こる。城中にあった養母・荒木局の流罪事件である。
その原因はよく判らないが、左馬助は連座の罪で細川家へお預けの身となるのである。
その後は細田栖隠を名乗り、荒木村重の血筋は細田氏として細川家に仕え明治に至っている。

  ■(寛永廿一年)五月十日御老中より之奉書)

 一筆申入候、荒木左馬助事、母不届有之付、其方へ被成御預候間、其国可被指置候、
 扶持方等之儀委細留守居之者迄可相達候、恐々謹言
     五月十日               阿部対馬守
                        阿部豊後守
   細川肥後守殿               松平伊豆守
                                     (綿考輯録・巻六十一)

 綿考輯録は次のように記している。
  荒木左馬助ハ攝津守村重の孫ニて、父ハ新五郎と申候、左馬助幼少にて親ニ離れ、浅野但馬守殿江罷在候へ共、
  御直参を願ニ而京都に居住、烏丸光広卿前廉村重と御入魂の訳を以江戸に被召連、光尚君へ被仰談候、則忠利君
  より被仰立、公儀江被召出候、其比御城女中あらきと申人子無之ゆへ左馬助を養子可仕旨上意有之、親類ニ而も
  無之候へとも上意ゆへ親子のむすひいたし候、然処右之女中故有て今度流罪被仰付候間、左馬助も其儘被差置か
  たく御預ニ成、後熊本ニて果候

正保二年「御扶持方御切米御帳」には「金小判三十両 細田清印」という記載が有り、まだ知行が確定されていないことを伺わせる。

 

コメント (1)
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■洗馬川(坪井川)沿いを電車が走る・ルート図発見

2023-04-24 07:16:50 | 熊本

先にご紹介した■洗馬川(坪井川)沿いを電車が走る、インターネットで探しまくった結果、終にそのルート図を第一期線の工事開始から発見しました。
詳細に眺めてみると、川沿いを進んだ線路は、御幸橋前で左折直進現在の現在のルートに繋がっていました。
そこで私が所蔵する熊本市の地図にルートを落として見ました。

     

この地図は昭和四年のものですが、ー ー ー ー ー ー で示したルートが大正13年8 月1日の開業から、昭和3年3月3日に現在のルートに変更されるまでの4年6ヶ月ほどで
このルートを走る事はなくなりました。
大正12年12月15日には熊本市役所庁舎(写真・左)が竣工、昭和3年には熊本逓信局庁舎(写真・中央)がその隣に完成しています。
また、花畑公園には征清記念碑(写真・右 明治32年建立、太平洋戦争で供出)があり、この脇を電車が走っていたようです。
征清記念碑はさすがに知りませんが、市役所は出入りもしましたし逓信局庁舎のアーチ状の玄関ははっきり記憶の中にあります。

  

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