津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

memo 「覚」について

2008-11-30 18:39:20 | 徒然
 最近「覚」なるものをいくつかご紹介している。これが面白いのは、先祖附けにも記されていない事柄が沢山見受けられるからである。それを「新細川家侍帳」に転記するのだが、親子関係や兄弟、縁戚などが判明して大変面白い。跡目についても、藩主の依怙贔屓らしきものも見えて興味深い。小倉時代盛んに名前が出てくる人が突然居なくなったりする事例は沢山あるが、其の原因までは分からないまでも、新事実が発見されることも多い。「部分御舊記」(熊本縣史料)は、まさに情報の宝庫といった感じである。いささかマニアックではあるが、しばらく続けたいと思っている。
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十代当主斉茲について

2008-11-30 14:57:53 | 歴史
 史料を見ていると「浜町云々」の書き込みをよく見る。細川家の江戸下屋敷が浜町にあったことによる。   www.dentan.jp/ningyou/suiten3.html
隠居して、自らのことを「浜町様」と呼ぶようにと言った殿様が、十代当主の斉茲である。のちに「少将様」に替わった。
 わたしがかねがね、細川宗家の血は宇土細川家の血と広言して憚らないが、時々お叱りを受ける。宗家の血は宗家の血だと・・・・? ご尤もとも思うが略系図にしてみるとこれは歴然としている。当主としては斉茲が始まりであるが、前触れ如きものが以前からある。

      1、重賢の同母妹幾が宇土細川家五代興里に嫁いだこと
      1、その興里が結婚後すぐ亡くなり、弟興文が六代当主となったこと
      1、重賢息・治年に興文女埴が嫁いだこと
      1、治年が病となり後継者問題が起り、躊躇する興文息・立礼(斉茲)を、興里室(幾)が
        強力にこれを推したこと

 こういう経緯があって、宗家十代当主斉茲が誕生したのだが、治年にとっては斉茲は室埴の弟であることに気づかれるであろう。その後も以下のような濃密な関係が続き、宗家の血は宇土細川家の血に入れ替わっていくのである。

   宗家
            7     8     9    10    11    12
         +--宗孝===重賢---治年===斉茲---斉樹===斉護
         |             ∥
         +--重賢         ∥
         |             ∥
         +--●幾         ∥
   宇土細川家  ∥         ∥
         +--興里   +----●
         |        |
         +--興文----+--立礼(斉茲)---立之---+--立政(斉護)
                                    |
                                    +--行芬・・・・・・・→宇土細川家

 ところで立礼が宗家に入るのは28歳の時である。既に男子がありその立之が僅か4歳で宇土支藩を襲封する。生母は既にない。宗家に入った立礼(斉茲)は、男子・斉樹をもうける。長男・立之、二男・斉樹は異母兄弟ではあるのだが、二人は並べられて両家の系図に登場することはない。11代斉樹には男子がない。そこで宇土の兄・立之の子立政が養嗣子として宗家に入り、12代斉護となるのである。立政(斉護)の生母栄昌院は賢夫人の誉れ高い方だが、老中土井大炊頭利厚の三女である。家臣・佐方信規が書き残したとされる「栄昌大夫人遺事」を、今我々は宮村典太の雑撰録によって、栄昌院の偉大さを知るのである。興文公をはじめとする多くの宇土の血が入り、宗家の血となった。 

 
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寛永二十一年七月十四日 「覚」 

2008-11-30 11:24:46 | 歴史
                
一、堀長左衛門知行四百石并家屋敷共ニせかれ五郎左衛門ニ可遣也
一、佐野次太夫知行弐百石并家屋敷共ニせかれ次兵衛ニ可遣也
一、磯貝次郎左衛門知行三百石并家屋敷共ニせかれ七郎右衛門ニ可遣也
   七郎右衛門先知・家屋敷上ヶ可申也
一、横田勘左衛門知行弐百五十石之内百五十石家屋敷共ニせかれ吉左衛門
   ニ可遣 残百石吉左衛門弟助丞ニ可遣也
一、上林甚助知行三百石之内弐百石家屋敷共ニせかれ二郎左衛門ニ可遣候
   今迄甚助ニ預置候与も二郎左衛門ニ預置可申也 残百石二郎左衛門弟
   甚十郎ニ二郎左衛門今迄之家屋敷共ニ可遣也
一、金守清太夫せかれ清十郎ニ八人扶持方歳十五ニ成候迄可遣也
一、船頭河野惣右衛門知行八拾石せかれ六兵衛ニ可遣也
 以上
  寛永弐拾壱年七月十四日 御印
              奉行中 


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寛永十三年七月十日 「覚」

2008-11-29 15:43:49 | memo
                     ○印は忠利御印
一、金子喜左衛門子供も親同前之知行高ニ而候間其分ニ候事 ○
一、明石太郎右衛門知行むすこ角兵衛ニ不相替遣候事 ○
一、鯛瀬茂太夫知行子太郎作ニ不相替遣候事 ○
一、伊藤治兵衛知行左内知行高同前ニ候間其分ニ候左内本知者返し遣候事 ○
一、澤村弥左衛門知行六左衛門ニ遣六左衛門知行弥平次ニ遣候事 (○脱カ)
一、岩崎内蔵丞知行角丞ニ遣候事 ○
一、福山甚助事別ニ子無候ハゝ其分ニ而候事 ○
一、矢野甚五兵衛親ニ目をかけ召仕候間十八ニ成候むすめと女房おい井上四郎兵衛
  一ッニ仕跡を遣候事 ○
付札七月十五日
   此矢野甚五兵衛跡目之儀井上四郎兵衛御礼申上候趣最前其御理を申上候て
   御礼を申其以後御知行拝領之御禮可申上儀をそまつ成仕形ニ而候間御取返
   し被成則皆川治部ニ被為拝領候也右之段佐渡殿へ被仰出候
  何があったのか、あたら百五十石の跡目を棒に振るとは・・、親孝行の娘はどうなったのだろう
一、鈴木金左衛門女房ニ唯今迄扶持方遣置候定而わかき女ニ而在之候親之所二
   而も又ハ親類中へも戻シ可申候其埒明候迄扶持方其まゝ可遣候遠国ニ親類候
   而遣候者送届可申候金左衛門儀者我等宕愛(ママ愛宕)よりもらい候者ニ而候間
   格別之儀ニ候此由左近右衛門ニ可申候事 ○
一、鈴木太郎助如遺言上方迄送遣候但先々ニ而もやしない手無之候ハゝせかれよ
   り召仕候間いもとニおつとを申合名字を名乗らせ可遣候此段母又者親類・知音も
   候ハゝ相談も仕而候能様ニ可申付事 ○
一、木村甚五郎養子ハ兼而可遂案内旨申聞候所ニ及末期養子之遺言沙汰の限ニ
   候事 ○
一、真鍋事奉公仕様曾而心ニ不合候間実子有之共跡申付間敷候事 ○
一、狩野平左衛門事せかれ吉田之物奉行申付候段々不届次第ニ而候親存なから
   其分ニ仕候間親迄かゝり可申と存候へともせかれ一分扶持をはなし候平左衛門
   知行子孫へ可遣わけ無之候事 ○
一、井上新三郎養子喜三郎と申者ニ切米・扶持方親之ことく遣候事右より江戸にて
   承候事 ○
一、杉原少三郎事親ニ懇ニ仕たる者ニ候間十七ニ成候いもと何かたへ成共有付所
   候者有付可遣候無左候ハゝ此方江上ヶ可申候やしない候て可遣候 ○
  十七歳の妹を嫁先があれば嫁がせよと言っている。若しそうでなければお城へ上げれば「養い候て遣わす」
   と言う。忠利公のちょっと気に成るご発言。

                               以上
    寛永拾三年七月十日
                        奉行中
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秘密の儀式・斜籠・・・?

2008-11-28 11:55:22 | 書籍・読書

お腹召しませ (中公文庫)

 久しぶりに浅田次郎氏の本を読む。「お腹召しませ」という著書名に牽かれてのことである。これがなかなか面白い。この作品で06年第一回中央公論文芸賞、07年同書で第十回司馬遼太郎賞を受賞している。いかにも浅田氏らしい洒脱さがよい。短編六編の時代物をまとめたものだが、そのなかに「安藝守様御難儀」というものがある。これが何のことやらさっぱり分からず、最期に至るのだがそれでもはきとした解説をしてくれない。それが「斜籠(はすかご)」というものである。

 十四代広島藩主茂勲(長勲)はあるとき家臣に「斜籠の稽古」を言いつけられる。これがはたして何なのか分からないまま、文中に引きずり込まれてしまう。(殿様も分かっていない)御側役がぱしりたたく扇の音とともに座敷から駆け出すと、庭に駆け下り足音を忍ばせて全速力で走らされる。裃をつけたまま、両刀ははしりながら抜き取り束にして20間(40メートル弱)を走り、斜めに置かれ打ち上げ(扉)が開かれた御駕籠に飛び込むというのである。殿様は頭を打ち脛を打ちさんざんの態だが、家臣たちは「斜籠」について何も語ろうとしない。或る日突然老中の屋敷内でこれをご披露することになるのだが、殿様はここですっかり事の次第を納得するのである。
ところが読者たる私は一向納得できないのである。「斜籠」とはいったい何か。浅田氏の此のなぞめいた作品に思わず引き込まれてしまった。ご一読されては如何・・・

 広島藩といえば、細川家12代斎護の正室が浅野斎賢女である。
      8代・浅野斎賢(なりかた) 寛政11~文政13 約27年
      9代・浅野鼓粛(なりたか) 天保2~安政5 約27年
     10代・浅野慶熾(よしてる) 安政5~安政5 約1年
     11代・浅野長訓(ながみち) 安政5~明治2 約10年
     12代・浅野長勲(ながこと) 明治2~
 長勲公は名君であったと伝えられる。長生きをされ、昭和12年侯爵家当主のままで92歳で亡くなられた。


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寛永十四年・十五年(跡目)覚

2008-11-27 10:39:07 | memo
 以下は天草島原の乱に於いて負傷し、後に亡くなった方々の跡目に関する「覚」である。
わずか三歳の子供が相続を許されている一方、軍法に背いたとして跡目が許されない家が
あるなど悲喜こもごもが見て取れる。


                      青字は「御書入」
跡可遣也
■(日付けの書込み無)
一 百五十石            住江茂左衛門
             同人子歳六ッ   権十郎
  右者今度有馬城乗之刻二月廿七日二鉄炮手を負罷帰養生
  仕候へとも本復不仕四月廿五日ニ相果申候以上

 【その後の消息】
  住江権十郎  十二番牧平左衛門組 百五十石 (真源院様御代御侍名附)
            百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)
            百五十石 承応二年十一月御暇被遣候

跡可遣也
■寛永拾四年十一月三日ニ病死
一 百五十石            服部五郎兵衛 
             同人子歳十六
 御目見仕候              三平
                      後家
 【その後の消息】
  服部五郎兵衛 有吉内膳組 百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
  此の人が三平か、以下消息不明

跡可遣也
■同年十二月晦日ニ病死
一 弐百石             堀田甚右衛門
             同人子歳三十弐
 御目見仕候              九平太
                      後家

■寛永拾五年正月廿六日ニ病死
一 弐百石             北村昨雲
  昨雲跡ハ薬師之事ニ候間宗雲ニ被遣候長右衛門叓者格別ニ可被
   仰付候旨被 仰出候也

             同人子歳三十七
 御目見仕候              長右衛門
  跡ハこれニ遣     同人子     宗雲
                     後家

■同年二月廿五日ニ病死
一 三百石             小山八左衛門
             同人嫡子
  弐百石               六兵衛
 久敷煩不立御用ニ候上者成人之子共を持たる事ニ候間存
 命之内ニ御理をも申上事ニ候不届儀と被思召候間跡を
 立不被遣旨被 仰出候也
             同人二男歳三拾五
 御目見仕候             七郎右衛門
                      後家

■同年四月廿五日ニ病死
一 三百石              津田勘左衛門
 おとゝニ遣也
                     弟平丞ニ被遣也 
                     同人
                        母
                        後家
 右勘左衛門書置御座候条差上申候以上

 【その後の消息】
  平之允(弟)  
     (1)三百石(真源院様御代御侍免撫帳)
     (2)有吉頼母允組 三百石(寛文四年六月・御侍帳)


■同年四月廿五日ニ病死
一 七百石              魚住加助
        同人子歳三ッ       
                       久八
        同人弟歳拾九     
                       孫四郎
        同人歳廿
                       妹壱人
                       後家
 おとゝニ別ニ知行遣候ニ加介事不奉公者にて候つれとも
 おや・おうしニたいし遣候つる跡はたて申ましく候


  (綿考輯録・巻五 魚住加助【田辺城籠城】項)より
   加助は市正嫡男也、幽齋君御側ニ被召仕十七歳の時傍輩に意趣有之、伏見京橋ニ出合討果、
   直に若狭江立退候、当時丹波國に身を隠し居候処、田辺御籠城之段きヽ付、白昼に敵陳を凌き、
   御城に籠り走廻り働候段、篠山五左衛門申上、咎被成御免、御知行七百石、御使番ふれなかし
   の触元被仰付、并七本はれん御指物拝領、小倉にて病死、*其子孫四郎(後改加助)幼年ニ付、
   先御知行三百石被下、十五歳ニ成候節、七百石被下候、有馬御陳之節、弟孫四郎と一同ニ御
   供、御帰陳之上果候、御軍法を背候間、跡式不被仰付候、弟孫四郎江三百石被為拝領候処、
   様子御座候て、御暇被下候、 

■同年五月三日ニ病死
一 弐百石             山路太左衛門
             同人子歳六ッ
  弐(ママ)可遣候也           次郎七

 【その後の消息】
  太左衛門(初・太郎七)寛文十年五月六日・病気の為自害(息与茂之丞十四歳)


■同年五月三日ニ病死
一 弐百五十石           須佐美兵丞
             同人子歳拾壱
 跡可遣候也
                       團四郎
             同人
                       娘弐人 

■同年五月六日ニ病死
一 千石              佐藤安右衛門
 右之内 七百石            同人子  
       弐百石            安大夫
 右同                   同人子
  三百石                 孫平次
    八人扶持           同人歳十
                        むすめ弐人
                        後家

■同年五月十六日ニ病死
一 弐百石             町 与左衛門
               同人子歳廿四
 可跡遣候                 作丞
                       後家
  右与左衛門知行之儀ハ先代ニひらきを仕ニ付其刻より無役
  ニ知行仕候通被届聞召如前々之被為拝領候以上

■同年五月十六日ニ病死
一 三百石             佐野半左衛門
               同人子歳三十
 跡可遣候                 藤兵衛
 御目見仕候       同人子歳廿三
                      九左衛門
                      後家

■同年五月廿一日に病死
一 三百石             魚住藤三郎
               同人子歳廿壱
 跡可遣候也 
  御目見仕候             助九郎
               同人
                      むすめ弐人

わけ可承候
■同年六月九日ニ病死
一 弐百四拾石           魚住忠兵衛
               同人子供歳三ッ
                      むすこ壱人
               同人
                      むすめ四人
               同人歳三十 
                      おい壱人
                      後家

右ニらち明候
■當正月十六日ニ病死仕候   友田次郎兵衛
右次郎兵衛知行ハ煩申ニ付去々年差上申候其刻ノ源右衛門ニ被遣候以上

 【その後の消息】
 (大阪御陳)手ニ合候者---七月朔日御饗応、御褒美被下候
  知行百石 御帷子ニ(御紋付)御銀十枚 御側を不放居申候と也(綿考輯録・巻十九)
   (1)馬廻組一番組 二百五拾石 (於豊前小倉御侍帳)
   (2) 御馬廻衆 三百五十石 (肥後御入国宿割帳)
   (3) 七百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・源右衛門


やくそく可承候
■當四月五日ニ病死       三池左馬允
               同人子歳廿五
                   左兵衛
               同人二男歳廿壱
                   善大夫
               同人三男歳四ッ
                   亀松
                   母
                   後家
  右左馬允ハいまた御扶持方をも不被下候以上

 【その後の消息】
 ・左兵衛については資料がない
 ・善大夫親次  
    人持衆并組外衆 五十人扶持 (真源院様御代御侍名附)
    御知行御合力米御御扶持方被遣衆・五十人扶持 (寛文四年六月・御侍帳)
    細川綱利公御書出(貞享五年)三百石
    三池善大夫知行目録(貞享五年)
    三池善大夫知行所付目録(貞享五年)



  右者去年・當年相果申衆之分書付指上申候間御次而を以
  可有御披露候以上
     六月廿日         河喜多五郎右衛門 判
                    椋 梨 半 兵 衛 判
         差相御座候付判形不仕上候以上
                    堀 江 勘 兵 衛
      坂崎内膳殿
          参
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気がつきませんでした

2008-11-26 20:15:31 | 徒然
 熊本日々新聞の記事も、永青文庫のHPもまったく気がつかなかった。
永青文庫敷地内にある、先代当主細川護貞邸の改修工事が終わり、別館サロンとして11月15日より一般公開されることになったそうだ。
 永青文庫HPによると、入場料は600円で細川護煕様作の陶磁器でお茶やコーヒーが無料でいただけるそうですよ。
「永青文庫本館で美術品を鑑賞したあと、別館でゆっくりされてはいかがでしょうか」とのご案内だが、此の建物自体も建築家・今里隆の設計によるもので見る価値があるものだ。仕事を事実上引退した今、なかなか上京の機会がない。是非お邪魔したいと願っている。
          www.eiseibunko.com
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非売品「浦番所その実相」

2008-11-26 17:50:19 | 書籍・読書
 陽気に誘われてPM3:00より図書館に出かける。今日は返却が目的でコピーはなし。ゆっくりと図書館浴を楽しむ。いつもは立ち寄らない「九州の歴史コーナー」を覗いてみると、上記の本が目に入った。どうやら肥後領佐賀関番所に関する著作らしい。著者はと見ると、地元佐賀関の中学の校長を勤められた神崎信博氏である。内容のしっかりしたすばらしい著書である。母方の親戚である、H家の名前等も出て来たりして、ますます親しみが湧く。平成17年5月20日の発行で、熊本県立図書館にいつ入ったのか知れないが、まだ新品同様で、どうやら私が最初の借り出し人ではないのか。100部限定の非売品らしいが、連絡を入れて何とか手に入れようと考えている。今日はこれを読破しようと構えている。今日の図書館浴は成果有るものだった。

 9時前に電話でご連絡快く応対していただき、まだ残部がある由承り一部お送りいただくことをお願いした。
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一件落着・・・?

2008-11-25 18:57:14 | 徒然
 半年ほど前にお預かりした某家の文書をようやく解読終了、若干伏字に成ったところもあるが、私の力ではこんなところだろうと納得している。読むということもさることながら、その内容を知ることが有り難いのである。全文タイピングも終了し、プリントする。用紙を和紙風の物を使ったりしたら、ちょっと嬉しい出来栄えと成った。早速明日は発送し様と準備に入ったところだが、先様には途中経過もご連絡していないことだから、ちょっと驚かれるかもしれない。

 実は他にもお預かりしたものがあるのだが、これにはほとほと弱り果てている。今更おことわりする訳にもいかず、いささか頭が痛い。こちらは途中経過として、「まだ着手していません」とお断りを入れてあるが、一件落着までは又数ヶ月を要することだろう。

 サイトにアップしなければならない史料も沢山あるし、来年は簡単に引き受けることは慎まなければいけない。・・・と思っている。
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寛永五年十一月五日「覚」

2008-11-24 14:18:02 | memo
                覚
一、藤田宗里せかれ与次歳拾七ニ罷成候 御六様へ進上仕度と申上候事
一、西村半兵衛せかれ傳七歳拾八ニ罷成候 御六様へ進上仕度と申上候事
江戸へ供御印
一、小林勘右衛門二男傳三郎今度江戸御供ニ被 召連被下候様ニと申上候事
 右三人ハ 御目見え仕迄ニ而いまた御ふちかたハ不被下候如何可有御座候哉事
江戸へ可遣候御印
一、沖津弥五右衛門孫才八歳拾五ニ罷成申候江戸へよせ候て 御六様へ進上仕度と申上候事
可召出候御印
一、山村弥一右衛門せかれ兄むすこ三丞与申者歩之御小姓二被召加被下候様ニと申上候事
 右之通被得 御諚可被下候以上
    寛五
     十一月五日                   浅山修理亮判
                                田中兵庫介同
        皆川治部丞殿

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・藤田宗理、与次なる名前は侍帳では見かけられない
 ・西村半兵衛は(1)切米人数 廿石八人 丹後 (於豊前小倉御侍帳) 
           (2)御留守居衆 八十石八人扶持 (肥後御入国宿割帳)
           (3)二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
           (4)御小姓組 二百石     とある。
    二代目角左衛門が傳七か不明
 ・小林勘右衛門については綿孝輯録に詳しい。
   「忠興君丹後御在国、妙庵主愛宕山御登山之時、丹波倅勘右衛門御児小姓
    被召出候、妙庵主田辺御籠城被成候ニ付、松山権兵衛・宮村出雲、一列ニ
    被召仕候由、此節幽斎君御前江被召出、御腰物拝領、其後忠興君心操の様
    子被聞召、御知行百五拾石被下候、寛永七年十一月病死
    嫡子半三郎ニ・百五拾石、二男伝三郎ニ・百五拾石被下候、今の勘太郎、勘
    右衛門か祖なり」   (綿考輯録・巻五)
    
    傳三郎については
           (1)二番谷内蔵允組 百五十石(真源院様御代御侍名附)
           (2)百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)  の
      記録が残る。以降不明。
 ・沖津弥五右衛門孫才八とは、森鴎外の小説「興津弥五右衛門の遺言」の主人公・興津弥五右衛門
     才八のことである。綿孝輯録は次の様に紹介している。
    「幼名才八、はじめ右兵衛・宇右衛門。元和六年忠興に召し出され二百石。
     忠興隠居のとき中津に従い、寛永元年三月頃横田清兵衛殺害により閉門。
     島原乱に細川立孝に従い出陣、この頃弥五右衛門に改める。十六年ころよ
     り正保四年頃まで江戸聞番。細川三斎公一周忌ににあたり殉死、五十四歳」
 ・山村弥一右衛門とは、これも森鴎外の小説「阿部一族」で有名な、主人公・阿部弥一右衛門の事
     である。詳細は省略する。兄むすことは嫡男のことと考えるが、嫡男権兵衛の幼名は権十
     郎と承知していたのだが、三丞とは誰か。ご承知の方はご示教賜りたい。

   「忠利公・光尚公御印物」による「追腹の衆妻子及びに兄弟付」には次のようにある。

     ●千百石 阿部弥市右衛門尉
              右之女房
       三百石   阿部権兵衛 (900石)
       弐百石   阿部市大夫
       弐百石   阿部弥五右衛門
       弐百石   阿部五大夫
       拾人扶持  阿部左平太 (200石)
   「弥市右衛門知行之内九百石、家屋敷共ニ遣也、弐百石ハ左平太ニ遣候
    権兵衛知行ハ此方へ可請取也 印」


 
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重賢室由婦姫様

2008-11-24 11:44:02 | 歴史
    細川光尚---綱利---+==紀宣---宗孝===重賢---治年
                  |             ∥    
                  +==●          ∥
                     ∥          ∥
                  久我惟通---通名---由婦姫

 細川重賢の結婚は、寛延二年(1749)二月廿七日江戸藩邸龍口邸で執り行われた。
延享四年(1747)八月廿六日兄宗孝が不慮の死を遂げてから二年後の事である。
重賢31歳、由婦姫21歳御父君は久我大納言通兄卿である。そして綱利の曾孫娘でもある。

 宝暦の中ごろ由婦姫は眼病に罹り、失明している。二人の間に公子いまだ誕生なく、由婦姫は側室を入れられる事を薦められたという。此井(嗣子治年生母)と嘉門(節子姫生母)の二人である。藤孝は二人の側室を「お部屋様」と呼ぶことを禁じ、それぞれの名を呼ばせたという。由婦姫をおもんばかっての誠意が感じられる。
 由婦姫は寛政六年(1794)十一月廿八日に亡くなった。65歳。
「容姿ありて、琴瑟和合、春風雍容の楽しみありし」方であったと伝えられている。

           
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不思議な出会い

2008-11-23 13:54:20 | 徒然
                      ja.wikipedia.org/wiki/丸目蔵人
 
 一週間ほど前、突然隣家のご主人の訪問を受けた。隣家といっても、土地が背中あわせになっていて、全く別隣保になっている。歩いてお尋ねするにはぐるりと一回りしなければならず、五六分の時間を有するという不思議な関係である。我が家はその隣家から1.5㍍ほど土地が高く、排水がつまって石垣の間から隣家にもれていたらしく、その善処方の申し入れであった。お名前を聞いて「もしや」と思った。天下に名だたる人吉の剣豪「M」氏のご子孫ではないのか・・・。
 今日その後の経過をご報告する為にお隣を訪問する。(自転車でである)
残念ながらご主人はご不在、奥様にご報告する。気になっていた、剣豪「M」氏のご子孫ではないかをおたずねすると、まさにそうであった。感激・・・

 私の歴史狂いも余り範囲を広げすぎると、「我が身が持たない」と思っているから人吉相良氏までに及ぶのは極力抑えているのだが、こうなると身体がムズムズしてくる。
ご主人から、何か取っておきのお話しがお聞きできないものかと、再訪の機会を伺っている。

 後でウィキペディアにリンクさせたのだが、M氏がばればれになってしまった。(汗、、、、)
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廣橋大納言様御息女

2008-11-22 13:33:58 | 歴史
 「部分御舊記二」(熊本縣史料・近世編第二p363)に次のようなものが紹介されている。

              覚
   一 御知行高参百石 廣橋大納言様御息女
       但四ッ成之御物成ニ而御座候由申渡候間御蔵米二
       而成とも御知行高ニ而成共可被仰付候
     右御賄之儀ハ人数有次第可被仰付旨御自身内衆迄之御
     切米之儀右三百石而相済申候事
             (中略)
     右之分相究申候間當年より之御切米無相違其許而御渡
     シ可被成候為其書付如此御座候以上
       寛永拾九年九月十一日        岩間六兵衛
                              佐藤少左衛門
                              珠寶院
          長岡監物殿

この廣橋大納言様御息女とは光尚妾清高院のことである。
清高院は此の時期妊娠しており、慌てての扶持の支給が検討されたのであろう。
中略部分には四人の下女の俸給が認められている。

 この日付でのこの史料にはいささか疑問を感じている。
綿孝輯録編者・小野武次郎も【史料・4】で此の事に疑問を感じているようだ。
又、廣橋大納言様御息女という表記も不思議に思われる。父清水道是は廣橋大納言血筋の人ではあるが、これはちょっといただけない。岩間六兵衛の上の書状と、【史料・1】末尾にある「すしやうもあまりあしき物ニては無御座候」では随分違うではないか。

【史料・1】清高院様之儀ニ付而、岩間六兵衛より監物ニ(寛永十九年)閏九月十五日・同廿三日
      之状、堀平左衛門より監物に同廿四日之状

    両度御状忝奉存候、先以其御地 殿様弥御機嫌能被成御座、珍重奉存候、於此地 御袋様・
    御藤様御息災ニ被成御座候条、御心安可被思召候、新十郎様一段と御息災ニ御座候、下々
    ニ至迄無事ニ御奉公被申候間、是又御気遣被成間敷候、私儀京都より五六日以前ニ罷下り
    申候、御物師之儀道中船中無事ニ着可被仕と存候、弥万事之儀御心付られ候て御引廻シ可
    被下候、広橋殿より侍弐人船中ニて色々とめおき候様ニ御理り申入候へ共、御同一無之候
    て御下被成候、御内証之儀ハ万事監物様被為頼入候よし大納言殿被仰候、今度御使者をも
    被遣、御状なと急度可被遣之由、大納言殿より被仰候へ共、後日ハいかゝ御座候とも、今度
    之儀ハ御隠蜜ニ而御下シ候儀ニ御座候条、先々御かまい無之様ニ被成候て可被下之由色
    々御理り申置候てとめ置申候、御扶持方御合力米之儀爰元ニ而右ニ申上候通、弥相定、書
    付酒井七郎右衛門ニ相渡下シ申候間、無滞様ニ被仰付候而可被下候、御物師急申候故、し
    かと手のきゝ申候儀ハ不存候へとも、寿ほういんとのニて一日物をぬわせ下シ申候以来ハ、
    御家の御ぬい物之かつても可存候間、これも有付申様ニ懸御目可被下候、日外之御状ニ爰
    元ニ罷在申内ニ、懐妊之者御満足ニ被思召候通被仰下候、是ハ前かとより被召置候おきち
    と申候、親ハたいこうのそうせふ様御内ニ而内海但馬と申候、此そうせふの儀ハ只今之広橋
    大納言殿御舎弟ニ而御座候、すしやうもあまりあしき物ニては無御座候間、正月御誕生可有
    と奉存候、尚期後喜候、恐惶謹言
         閏九月十五日                    岩間六兵衛
                                         正成判
             監物様
                人々御中

【史料・2】
    閏九月三日之御状忝致拝見候、先以 太守様御機嫌能被成御座候よし目出度奉存候、爰
    許御袋様・御藤様御機嫌能被成御座候間、御心安可被思召候、左候へハ今度京都より被
    罷下候 御奉公人衆、先月廿五日ニ船中道中無事ニ着被申候由、御直ニ御書ニ被成下候、
    殊ニ京都より賄其外之儀しゆほういん殿・佐藤少左衛門・私連判ニ而指上申候処ニ、則御前
    へ被為上候通 御書ニ具ニ被成下候、忝冥加至極も無之儀と奉存候、弥可然様ニ御引廻シ
    奉頼候、御前之儀御意ニ入申候哉、様子之儀乍恐重而具ニ被仰聞可被下候、恐惶謹言
         閏九月廿三日                    岩間六兵衛
                                         正成判
             監物様
                貴報
     (一部略)

【史料・3】
    野々村藤大夫爰元へ御替紙之切手持参、只今被罷上候間、一筆致啓上候
    (一部略)
    前かとより御入候女房衆懐妊之儀申上候処ニ、御大慶目出度被思召候旨、御尤千万ニ奉存
    候、如被仰下候此ゆへに御下候貴公様色々御才覚懸候処ニ、被為寄思召之儀通し候て、私
    式迄目出度大慶ニ奉存候、就其大せい入こみにては如何ニ奉存候由申上候処ニ、被得御内
    意、御諚之旨被仰下候御紙面之趣具得其意存候、御袋様ニ被召仕候妻子持居申候、出門
    より内之御長屋を見計こしらへ、田中殿を付置候へと 御直ニ被仰出候由被仰下、則六兵衛
    と相談仕、右之分ニこしらへ可申と奉存候処ニ、此様子御女房衆御聞候て、中々不被寄存候、
    をやにも子ニも六兵衛夫婦を頼、今迄さへ如此ニ御座候間、万事身のためニ候条、内証之生
    気遣ハいかようにも可仕よし被申、其上方かくもおもわしく無御座由ニ候間、六兵衛今迄かこ
    ひ置申候へや三ツ御座候を、ひかしの方のはしへ此御人一人かたつけ候て、不断此部やへ
    ハ別人出入不仕候様ニいたし、食物なともとりわけ念を入可申候様ニ仕より外無之由、まつ
    六兵衛ふうふと相談仕、右之分ニ仕筈ニ御座候、如此ニ仕置候へハ別ニ気遣なる儀無御座
    候間、御心安可被思召候、其上ニも何とそ存寄之儀御座候ハゝ、猶以六兵衛と相談仕、如被
    仰下候ニ可仕候、もし御尋も御座候ハゝ、可然様ニ被仰上可被下候
    (一部略)
          閏九月廿四日                          堀平左衛門
                                                   判
              監物様
                 尊報

【史料・4】
      此返事等、同十一月廿二日監物より遣候岩間六兵衛江之状之内

    其元ニ前かとより被居候御女房衆うつし置所之儀、先度堀平左衛門所へ具ニ申遣候ニ付而、
    出門より内之長屋をこしらへ被申筈ニ而候所ニ、方も悪敷女房衆被申分も有之候ニ付而、今
    迄貴殿かこい被置候部屋之内にて、勝手能所ニ御移候筈ニ平右衛門と御相談候而御究候
    由、尤ニ存候、いか様ニも平左と御談合候而可然様ニ御申付尤ニ存候、将又京都より御下
    候方之儀、不自由ニ無之様ニ我等心を添可申之旨御申越候、少も不自由成被仰付様ニ而
    無之候間、其段可御心安候
       考ニ此状一書ニ、寛永廿年十一月ニ出し有之、誤なるへし、双方書面文面をもつて考
       しるへし、又今年九月十一日書状之中に
          御知行高参百石は広橋大納言様御息女
          但四ッ成ニ而御座候由申渡候間、御蔵米ニ而成共、御知行高ニ而成共可被仰付
          候、右之御賄之儀ハ、人数有次第可被仰付旨、御自身内衆迄之御切米之儀は、
          右参百石ニ而相済申候事
       岩間六兵衛・佐藤少左衛門・珠宝院より監物当の書付なり、御旧記に在閏九月廿三日
       岩間六兵衛より監物江之状之内に、しゆほういん殿・佐藤少左衛門・私連判にて差上
       候処、則御前江被為候通御書ニ具ニ被成下候とあるは、此書付なとの事なるへし、其
       御書は伝り不申候、清高院様之事ニ付而もかゝり合かと見江申候、再考之ため記し置
       申候、珠宝院の事も可考、一説清高院様御懐妊のはしめ、何にか光尚公の御意に違
       ひ御暇可被下との事なるを、岩間六兵衛御前に罷出、右之女唯今懐妊之よし承及候、
       然に御暇被下候儀如何と申上候へは、流産仕せ候へと被仰候、岩間申上候ハ其儀も
       合点参不申候、所詮私に御あつけ被下候様にと申上、御免を蒙り、無程六丸君御出生
       被成候而、岩間か妻御乳母仕候、左候て折をもつて申上、御機嫌も直り、後ニ若狭守
       様も御出生有之と云々、いふかしき説なり、


【史料・5】(寛永二十年癸未)同月(正月)八日、
         若子様御誕生被成候、此日岩間六兵衛より監物江之状

          尚々、爰元委儀は堀平左衛門より可被申上候、以上
      堀平左衛門より考ニ御飛脚被差越ニ付而と云文字落候なるへし一筆啓上候、然は内々
      申上候御奉公人今月七日之夜九ツ半時分するゝゝとよろこひ被申候、殊ニうつくしき若子
      様ニ而被成御座候、珍重不過之、大慶ニ奉存候、後さん迄あらひ候而見候所ニ、桐九よ
      う御紋所ありゝゝと後座候而不審千万ニ目出度奉存候、年内中別而御肝煎之処ニ一入御
      満足ニ可被思召と奉存候、爰元ニ而は先御隠密ニ被仕候間、其御心得可被成候、私儀早
      々可罷下候へ共、右之様子無御心元存候ニ付而延引仕候、今月十一日ニ可罷立と内々存
      知候へ共、廿六日ニ一七夜之祝仕候而可罷立と奉存候、御次手も御座候ハゝ可然様ニ被
      仰上可被下候 若君様御かみおきの御祝儀十一日ニ相定り申候、御袋様よりも御祝儀上
      り申候間、か様成儀をも相調、可罷立と奉存候、頓而罷下目出度御衆儀可申上候、
                                                   恐惶謹言
              正月八日                        岩間六兵衛
                                                  判 
                 長岡監物様
                       人々御中


       
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肥後細川藩の軍制

2008-11-21 16:14:46 | memo

 いわゆる「番方」と呼ばれる軍事組織である。 
細川家の全家臣はこの軍事組織の中にそれぞれ位置つけられ、政治機構の方は軍事組織の一員としての身分のまま政治的役割についている。番方は三つの組織で編成されている。
備組(主戦闘部隊)6組、側組(親衛部隊)2組、留守居(留守部隊)2組の都合10組である。
      (新熊本市史・通史編-第三巻・近世Ⅰ 第二章一節一「番方と役方」より引用)
      (番方組織図は同上掲載の、鎌田浩氏著「熊本藩の法と政治」創文社刊より引用)
  ■御備組
      備頭(6)-----+--番頭(6)------組脇(24)---番方(300)
           |
           +--着座---------大組
           |
           +--鉄炮頭(30)---副頭(12)---小頭(60)---足軽(720)
           |
           +--物頭列
           |
           +--物奉行
  ■御側組
     側大頭(2)---+--御小姓頭(4)--組脇(8)--+--小姓組(60)
           |               |
           |               +--両役(16)---+--小頭--手廻之者
           |                       |            
           |                        +--小頭--駕之者
           |
           +--中小姓頭(2)--組脇(4)--中小姓組
           |
           +--御次組脇(2)--取次(5)--+--御小姓(12)--下横目
           |               |
           |               +--目付(12)
           |
           +--御目付(9)-----附横目(10)
           |
           +--御使番(17)
           |
           +--側物頭(8)----小頭(8)---------------足軽(100)
           |
           +--鉄炮頭(22)---副役(2)--小頭(26)-----足軽(300)
           |
           +--歩使番頭(2)--組脇(1)--歩使番(20)
           |
           +--歩頭(4)------組脇(4)--歩小姓(60)
           |
           +--御昇副頭(2)--小頭(2)--昇之者(30)
           |
           +--御持筒頭(1)--小頭(1)--筒持(15)
           |
           +--長柄頭(2)----小頭-----長柄(400) 
  ■御留守居組
     御城代(2)---+--大頭(2)--+--番頭(2)--組脇(4)----+--番方(50)
           |      |             |
           +--組外    +--着座--大組--物頭列     +--知行取--支配
           |                    |
           |                    +--櫓番(12)--鍵番(2)
           |
           +--鉄炮頭(1)--+--小頭(1)--留守居鉄炮(30)
           |       |
           |       +--小頭-----地筒(430)
           |       |
           |       +--小頭(1)--掃除人(30)
           |       |
           |       +--小頭-----頭支配--方支配
           |
           +--中小取触頭(2)---組脇(2)--+--中小姓組  
           |               |
           |               +--列--格--支配--席
           |
           +--切米取触頭(2)---組脇(2)--触組
           |
           +--郡代(11)--------惣庄屋---地士---札筒
           |
           +--町奉行(3)-------川口番---町廻
           |
           +--口屋番(9)-------下番(23)

  ■八代・佐敷・阿蘇・鶴崎はそれぞれ別途編成

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荒木家三系図を比較する

2008-11-21 09:38:40 | 歴史
 荒木左馬助(介) (綿孝輯録巻六十一)

    五月十日御老中より奉書
 一筆申入候、荒木左馬助事、母不届有之付、其方へ被成御預候間、
 其国可被指置候、扶持方等之儀委細留守居之者迄可相達候 恐々謹言
                         阿部対馬守
                         阿部豊後守
     五月十日              松平伊豆守
        細川肥後守殿

 荒木左馬助ハ攝津守村重の孫ニて、父ハ新五郎と申候、左馬助幼少にて親ニ離れ、浅野但馬守殿江罷在候へ共、御直参を願二而京都に居住、烏丸光広卿前簾(廉)村重と御入魂の訳を以江戸に被召連、光尚君へ被仰談候、則忠利君より被仰立、公儀江被召出候、其比御城女中あらきと申人子無ゆへ左馬助を養子可仕旨上意有之、親類ニ而も無之候へとも上意ゆへ親子のむすひいたし候、然処右之女中故有て今度流罪被仰付候間、左馬助も其儘被差置かたく御預二成、後熊本二て果候


寛永諸家系図伝・荒木家
 某---義村---+--村重---+--村次---+--村直---村満
          |       |       |
          |       |       +--村常(左馬)
          |       |          
          |       +--村基
          |       |
          |       +--女子
          |       |
          |       +--女子
          |       |
          |       +--女子
          |       |
          |       +--女子
          |       |
          |       +--女子=======村常(左馬)
          |          荒木局     
          +--村氏(吹田

(細川藩士)細田氏家系図・本姓荒木氏
                             十次郎・左馬介・栖隠・称細田氏
     村綱---+--村重---+--十次郎---+--村完---+==三郎・権右衛門 (谷内蔵之允為養子)
          |       |         |       |  
          |       |         |       +==梶之介・・・・・→(細川藩士・細田氏)
          |       |         +--弥介
          |       |        
          |       +--村勝-----+--克之---+--女子(栖隠妻)
          |                 |       |
          +--元清             |       +--村長---梶之介(栖隠歿後養子)
                            |       |
                            |       +--弥平
                            |       |
                            |       +--三郎(栖隠養育・為養子)
                            |
                            +--女子
                            |
                            +--玄春
                            |
                            +--忠次

(細川藩士)荒木善兵衛家系図

     村重---+--満元   +--村正
          |       |
          +--村重---+--新五郎---+--又兵衛---弥助 
          |       |         |
          |       |         +--左馬助
          |       |
          |       +--女子 隼人佐妻
          |       |
          |       +--女子
          |       |  
          |       +--善兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(細川藩士・荒木氏)
          |
          +--吹田 於京都誅死廿歳
          |
          +--女子 野村丹後守妻・誅死17歳

   荒木善兵衛 (綿孝輯録巻五)
荒木攝津守村重の子也、天正七年、村重有馬城没落之砌幼稚ニ有之候を密に忠興君に被預置候由、成長之上無役之御知行三百石被下、中嶋備中と両人高守城御城代被仰付置候処、備中は御光様御供ニ而当春江戸ニ被差越、善兵衛一人にて相勤居候を、今度幽齋君御下知を以高守を引払ひ、田辺二罷越候、豊前にては門司の城ニ被差置、於彼地病死(以下略)
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