津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

雑誌「波」から

2008-05-31 18:55:36 | 書籍・読書
 6月号が送られてきた。パラパラめくっていると「水戸徳川家関係略系図」なるものが目に飛び込んできた。長山靖生著『天下の副将軍・水戸藩から見た江戸三百年』の紹介の一文の中のことである。「諸国漫遊もせず、参勤交代もせず」「兄頼重の子綱条を養子として水戸家を譲り、実子頼常は頼重の養子とした」 そんな「水戸黄門は、何を目指していたのか?」と問われると、これは読んで確認するほかない。

 俳優児玉清が痛快無比の忍者小説、和田竜著『忍びの国』を紹介している。「天正伊賀の乱」を背景にした、織田信雄とその家臣たちが、北畠具教を亡き者にした事件に絡む話らしいが、名うての読書家だと評判の児玉氏の推薦とあらば、見逃すわけにも参るまい。

 連載の宮城谷昌光の「古城の風景」、秋山駿の「忠臣蔵」は毎回待ちかねて愛読している。
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上着座之上席-8 沼田熊五郎

2008-05-31 11:33:50 | 歴史
 細川家根本家臣の沼田家は、幽齋室麝香の実家として知られる。遠祖は俵藤太秀郷、初代清延の曽祖父・光建、祖父・光延、父光兼は若狭熊川城主である。光兼嫡男・光長、妹婿・荒川治部少輔晴宣、同飯河山城守信堅らは足利義輝生害の時討死した。

 光兼---+--光長---+----女
      |       |   |
      |       |  竹田梅松軒
      |       |
      |       +----女
      |            |
      |           松井康之
      |
      +--女(荒川治部少輔晴宣室)---菅野輝宗
      |
      |      (註)晴宣妹婿・松井広之(康之父)、弟・南禅寺玄圃霊三
      |
      |                  篠山五右衛門    篠山与四郎
      +--女(飯河山城守信堅室)---飯河豊前宗祐---長岡肥後宗信
      |                     慶長11年7月父子共に誅伐さる
      |                     
      |       +--女(細川興元室
      |       |
      +---清延--+---延元---+--延之   +--延相---兼辰
      |                |       |   室・細川興孝女・岩       
      |                +--延将---+=====兼辰---元昭---将休(熊五郎)
      |
      |  細川藤孝(幽齋)---+--忠興---興孝(五男・刑部家祖)      
      |     |        |
      +-----麝香        +--興元  
      |
      +---女・北畠左衛門佐教正室---女・米田求政室
      |
      +---女・進士美作守国秀室-----進士作左衛門(田辺城籠城)
      |
      +---女・築山弥十郎貞俊室(義晴命により藤孝生母付き)

    (系図に掲載した人物は管理人の責任に於いて主たる人物に限定した)
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上着座之上席-7 氏家甚左衛門

2008-05-30 18:31:57 | 歴史
 家祖氏家直元(卜全)は美濃三人衆として高名、長島陣で討死。二男元政近江15,000石と代官所
50,000石を預かる。関ヶ原で西軍に付き高野山立退き、興秋舅の故か慶長六年召出。元高は父の死の際はわずか四歳にて跡目。嗣陰令がいう甚左衛門は五代頼久と思われる。沢村大九郎友朗の二男である。   
                                
細川忠興---+---忠隆               
        |                
        +-----興秋(与五郎) 
        |          |            末子  
        +--忠利--------------------------元知 
                    |     南条元信室    ↓         
                    |-----------鍋 ==元知   
                    |               |---米田元庸
氏家卜全---+--元政---+--女       米田是長---吟
        |       |        室・南条元信女
        |       |
        |       +--元高---元将==元広==頼久(甚左衛門)
        |       |
        |       +--女・松野右京室
        |
        +--行広

 元政女が細川興秋室、忘れ形見の鍋は南条元信室となり、細川忠利末子・元知を養嗣子とする。綱利による陽明学徒の追放にあたり諫言、不興を買い永蟄居。息元庸は綱利命により母方の米田家(家老)を家督、南条家は絶家となる。興秋の血は米田家に継承された。
      
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上着座之上席-6 下津久馬

2008-05-30 15:40:12 | 歴史
 細川家家臣下津氏は、下津棒庵の子・宗政を初代としている。棒庵は加藤清正の外交部門をにない、「時慶記」にもみえるように、京・大坂での活躍が伺える。父親は公卿・久我右大臣道堅であり、棒庵(宗秀)は三男、下津宗政の弟・通廉(棒庵・二男)は東久世家を興した。
  コガ
久我右大臣道堅---+---敦通---通世---通前---尭通---広道---通名---通誠--+
             |                                      | 
             |         +------------------------------------+
             |         |
             |         +---惟通-----通名---女・由婦
             |              |           |
             |        細川綱利養女       細川重賢
             +---●
             |              将監   縫殿   久馬      久馬
             +---下津棒庵---+---宗政---宗辰---通久---+--通章
                         |                  |      久馬
                         |                  +---某---通政
                         +---通廉(東久世家祖)

 ここでは下津棒庵と表記したが、同家先祖附によると棒庵には苗字を冠しないとされている。
久我家と細川家の係わりは濃密なものがある。通兄の孫・信通女は細川致政の室、信通の子・通明の室となったのは細川治年女と云った具合である。女優・久我美子(クガ)には細川家の血が流れている(?)かもしれない。

 話はすっかり横道にそれたが、嗣陰令がいう下津久馬は果たして何代目様だろうか。
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爪の端

2008-05-29 17:41:52 | 歴史
 「爪の端」という言葉があるが、国語辞典などをひも解いても出てこない。「細川は徳川将軍家の爪の端」というような使い方をするのだが、「徳川家の血筋の末端にある者」という意味であろう。忠利が将軍秀忠の養女(十一女)・千代姫を、正室に迎えているからそういわれている。正確を期すると、千代姫は小笠原秀政の息女である。生母は徳川家康の嫡男信康の女・登久姫である。家康の曾孫という事になる。信康は生母・築山殿(今川義元・姪)と共に、家康命により殺された。その原因となったのは信康正室(信長女・五徳)が、父・信長に今川氏情報をもたらした事による。登久姫は信長の孫、千代姫は曾孫である。

              小笠原秀政       蜂須賀至鎮・室
                  |----+--万姫(家康養女)
家康---+--信康---+--登久姫  |        
     |       |        +--忠脩---長次(中津藩主)
     |       +--熊姫    |
     |            |    |
     |        本多忠政   |
     |                 +--忠眞(小倉藩主・小笠原嫡家)
      |                 |
     +--秀忠---+--家光    +--千代姫     
             |         |
             |         +--忠知(初・杵築藩主、三河吉田--岩槻
             |         |      --遠州掛川--陸奥棚倉--肥前唐津藩)
             |         |
             |         +--松平重直---英親(杵築藩主)
             |         |
              |         +--その他兄弟略
             +==千代姫
                   |
       細川忠興------忠利-----光尚

 「爪の端」は数えたらきりがない。その広がりは相当な数になっている事だろう。徳川将軍家の女たちの婚姻による族党支配は、【家康の実娘五人・養女十人、秀忠の実娘五人・養女十一人、下って家斉の実娘・二十七人、家慶の実娘十三人・養女二人などによる。(鈴木理生著「お世継ぎのつくりかた」から引用)】

 細川家における「爪の端」という言葉が、何時頃登場したのかを調べているが、未だ正確な処に行き着かない。何れにしろ忠利、光尚代のことだろう。

 蛇足だが鈴木氏の同著の中の、「家康を中心とした縁組一覧」なる図は、大名諸家との縁組を表しているものだが、忠利室・千代姫が本多忠政の娘であったり、加藤清正正室清浄院(家康十五女)が加藤忠広室とされていたり散々である。(校正がなってませんよー)
 
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上着座之上席-5 楯岡源太左衛門

2008-05-29 10:46:19 | 歴史
 肥後細川藩士楯岡氏は旧最上氏の一族である。

 最上義守---+---義光(出羽山形57万石)---家親---義俊(改易)
         |
         +----女
         |   |---伊達政宗
         |   ●
         |
         |  細川家御預
         +---光直---+---女(村井内蔵助室)
                  |   細川家召出
                  +---定直-----寛直---定之---定昌 (小文吾家)
                  |   孫一郎             源太左衛門
                  |
                  +---時直-----時清---時春---定春 (三郎兵衛家)
                       蔵之助
 
■甲斐守光直(哲斉)は最上義俊一門家老・一万三千石・楯岡城主
   元和八年十一月二日、最上義俊の一門家老楯岡甲斐守光直、忠利君御預之事ニ付而
   御国江之御書
             
  民部(小笠原民部)者急差下候、最上浪人楯岡甲斐と申仁我等ニ被成御預
  候間、跡より可差下候、甲斐守下着次第、百人扶持相渡可申候、宿ハ何レ
  ニても寺を可申付候、下国之上家ハ可申付候、当分之兵粮塩噌以下見計可
  申付候、謹言。
  直々、甲斐守大阪よりも船中廿日分為賄百人扶持相渡候へと申付候、又甲
  斐守人数上下百弐三十人も有之由ニ候、可有其心得候、以上。
       十一月二日     内 忠利   (綿考輯録・巻二十九)
          
■寛永十九年八月五日付 「松平伊豆守・阿部豊後守宛--細川光尚書付」抜粋
  最上源五郎(義俊)家来楯岡甲斐守(義久)、元和九年亥之正月ニ越中守
  (忠利)ニ被成御預ケ候、寛永六年巳之五月ニ於豊後國小倉歳六十ニ而病
  死候、其子孫一郎歳廿二、弟蔵之助歳十五、孫一郎姉歳四拾四、家中村井
  内蔵助と申者ニ女房ニ遣シ、于今熊本ニ罷有候事     
               大日本近世史料・細川家史料十五 p162)
   
■孫市郎・定直
  肥後入国後御知行千石被下、座配御左之着座二被仰付、慶安の比よりハ
  松野・木下・津川・楯岡と次第いたし四番座ニ相成・・・・・
                        (綿考輯録・巻二十九)
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くちなしの花・・三輪

2008-05-28 13:03:03 | 徒然
 お昼を過ぎて本降りの雨模様になった。近くのお宅の手入れの行き届いた庭木が、見事な新緑で本当に美しい。我が家といえば、二年程前妻が持ち帰って挿し木をしたくちなしが、見事に根付いて三輪ほどの花をつけた。わずか三十センチほどの高さで、切るわけにも行かずただ眺めて楽しんでいる。気になるのは去年の「加藤清正シンポジウム」でいただいて植えた、大分鶴崎の法宣寺の銀杏の実だ。毎日眺めているが発芽が確認できない。大丈夫だろうかと一寸不安になる。紫陽花はたくさんの花を咲かせそうだ。種が飛んでベゴニアがあちこちに自生状態で広がって花を咲かせている。カーポートの床の割れ目には「根性者」が小さな花をつけた。この季節は本当に元気をもらえる。

 季節の移ろいは確実で、知らぬ間に齢を重ねる。まだくたばるわけには参らぬが、いろいろ気になる昨今である。
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サイトの再開

2008-05-28 12:16:45 | 徒然
 サイトを維持していく事の難しさを感じている。ご厚誼を頂いているS氏がサイトを閉じられてから二・三年経つが、再開された旨のメールを頂戴した。「本当によかった」と同業者(???)として胸をなでおろしている。
 私はまったく素人の「歴史道楽人」だが、S氏は著作数冊を著されるなど、れっきとした近世史家である。であるが故にそのサイトも内容は精緻を極めている。「一時休憩」については多くを語られないが、誹謗中傷が色々有ったのではないかと推測している。
私のサイト如きでも時折へんな輩が出没する。お陰でBBSの封鎖を余儀なくされたし、ブログのコメントやトラックバックは「管理」チェックを通している。

 真摯な態度で臨まれている歴史サイトが本当に少なくなった。こんなサイトにしたいとあこがれたサイトが幾つも消えた。そんな中でのS氏の復活は凄く嬉しい。

   こっそりお教えすると www.age.ne.jp/x/satomako/TOP.htm

   兄弟サイト「森家史料調査会」 www.spy.ne.jp/~satomako
   ブログ「おきらくごくらく」  ameblo.jp/satomako
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上着座之上席-4 三渕志津馬

2008-05-28 10:30:37 | 歴史
 云わずと知れた細川幽齋の実家である。

 細川元有--+--元常======藤孝---忠興---忠利---光尚
        |               ↑ 
        +--晴員           |
            ↓           |
 三渕尚員===晴員---+---藤英  |
                |       |
                +---細川藤孝(幽齋)
                |
                +---招(大徳寺高桐院一世・玉甫)
                |
                +---元中(南禅寺長老)
                |
                +---女 (宮川・武田宮内少輔信重室)
                |
                +---女 (佐々木越中守室)
                |
                +---好重--重政--之直--+--之政==重澄==澄直==澄定
                |                |        ↑          (志津馬)
                |                +---重澄・・・・・              
                |    
                +---女 (土御門久脩室) 

 好重は母方の姓を名乗り山名氏、室は藤孝女栗である。重政から長岡氏を名乗る。
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上着座之上席-3 津川平左衛門

2008-05-27 09:22:31 | 歴史
斯波義近---+---近利----近元---辰房
        |              ↓
        +---辰珍======辰房---+--辰之---辰貞==辰氏---辰陳(平左衛門)
        |                   |             ↑
        |                   +---辰則(辰氏)・・・・・・
        |
        +---親行(室・織田有楽女)
        |
        +---女
            |----津田三十郎
         織田信重

 斯波氏は管領家、義近の六代祖源義将が斯波治部大輔を名乗り従四位下侍従、将軍義詮に仕えて管領職についた。義近に至り織田信長と不和になり永禄二年官職停止、領地を没収され津川を称し豊臣秀吉のお伽衆と成る。二男辰珍が肥後津川家の初代、兄近利の孫辰房を養嗣子とした。一方甥津田三十郎の為に所領を内分するなどしている。嗣陰令がいう平左衛門は、六代辰陳と思われる。
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上着座之上席-2 木下平馬

2008-05-27 08:19:34 | 歴史
 豊臣秀吉正室高台院の実兄木下家定の一族である。

 +---木下家定---+---勝俊(長嘯子)
 |           |
 +---高台院    +---利房(備中足守藩主)
      |      |
    豊臣秀吉   +---延俊---+---俊治
             |       |
             |       +---延次(寄合交代衆)
             |       |  
             |       +---三郎左衛門----平馬---佐学---伊織---廣之助---平馬
             |
             +---小早川秀秋


 嫡子勝俊は、長嘯子を名乗る文人大名、幽齋の弟子でもある。
二男利房は、備中足守藩主代々相続して明治に至った。
三男延俊は、細川藤孝の女(加賀)の婿である。二人の間には五人の子供があるが、俊治・延次・三郎左衛門共に妾腹である。忠興・忠利との懇意ぶりはつとに有名である。延俊・俊治以降代々日出藩主。二男延次は五千石を内分され寄合交代衆となったが、豊臣秀頼の忘れ形見だとも言われる。たんなる噂であろう。
肥後細川家家臣木下家は延俊三男・三郎左衛門を初代とする。嗣陰令の平馬とは六代目と思われる。
四男小早川秀秋は、関ヶ原での行動が東軍の勝利をもたらした。
 
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上着座之上席-1 松野主馬

2008-05-26 14:23:08 | 歴史
 
                  +----義乗-----義家(無嗣断絶)==義孝(旗本大友家・高家)
                  |
 大友宗麟---+---義統---+----松野右京---+--主殿------主殿 (二千石・孫三郎家)
         |                     | 
         |                     +---義孝(旗本大友家・養嗣子となり再家) 
         |                     |
         |                     +---義冬(旗本松野家創家)
         |
         +---利根川道孝----松野織部---+==亀右衛門==亀右衛門
         |                     |           (千五百石・亀治家)
         |                     +----善右衛門----又右衛門
         |                                  (五百石・一葉家)
         +---半齋--------八郎右衛門 (千七百石・八郎家)

 「松野氏家系」による松野四家である。嫡家は松野右京進を初代として、六代目まで主殿を名乗っている。嗣陰令がいう「主馬」が何代目の人なのか、確認できないでいる。

  追記 : 2008・12・29 各家の家紋についてのご質問に関する件
         「肥陽諸士鑑」に依ると次の様に記されている。
            ■ 孫三郎家(義統流) 抱き杏葉 算木
            ■ 亀治家(道孝流)   陰蛇の目
            ■ 一葉家(道孝流)   陰蛇の目
            ■ 八郎家(半斎流)   算木
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元和十年四月

2008-05-26 13:43:34 | 歴史
 元和という年は、十年二月三十日改元され寛永となる。しかし小倉細川藩の「日帳」での最終記録が上記の如く残されている。先に存在しない日付での「お書出」をご紹介したが、藩庁の記録さえもこのようなことがある。(一部閏四月、五月などの記録が混入している)

 実は、元和十年三月十二日の「日帳」の記録には、「年号替申事由、式部殿(松井興長)より被仰下候、寛永、二月朔晦日」とある。朔晦日というのがよく分からないが、「朔」の字の脇にチェックが入れられているところを見ると間違いであろう。三十日=晦日が正解である。

 現代に於いては、改元ともなると大騒動になるところだが、何ともゆったりした話でこんな具合である。
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あと四週間

2008-05-25 21:55:27 | 熊本
 六月廿一日開催の「藩校サミット」まで、一月を割った。関係者のご苦労が伺える。今日は当日の実働隊の打ち合わせ会、50名ほどが顔を合わせた。1,500名の参加を目指し、又そのお客様をいかに疎漏無く暖かくお迎えするかの一点に尽きる。

 会場は熊本市民会館、熊本城は目の前である。楠若葉が美しく、復元された本丸御殿を見ようと、この一月で20万人をこえる入場者があったという。完成行事は一応終幕を迎えたが、それに続く全国的イベントとして「藩校サミット」開催は意義深いものがある。そしてこれを機会に、新たな熊本文化創造の蠢動がみられるものと期待している。多くの皆様のご来場を期待したい。
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座班と家格

2008-05-25 21:33:25 | 歴史
 嗣蔭令は、一門、一ニ三家老、家老、中老、備頭・側大頭・留守居大頭并同列、組外并同列に続く座班として「着座」を置く。夫々の家格の嫡男、次三男・末子、弟などについても、詳しく定められている。
 さてその着座だが、これは夫々「家」を特定して定めている。すなわち、松野主馬、木下平馬、津川平左衛門、三渕志津馬、楯岡源太左衛門、下津久馬、氏家甚左衛門、沼田熊五郎、小笠原備前家は「上席着座之上席」として「世々上席」と定めている。
「上・中・比着座」などこまやかな決まりが定められているが、上記九家のほかに個人名が挙げられているのは、三宅平太郎家の定席之次席、西山大衛、槙嶋半之允家は世々比着座同列末席と定められている。

 これらの家々が何故「家」を特定して座班を定めたのかを調べているが、これまた資料を探し得ないでいる。一ついえるのはその家柄だろうか。松野は「大友家」、木下は「豊臣家」、津川は「管領家・斯波家」、三渕は「藤孝の実家」、楯岡は「最上家」、下津は「下津棒庵に遡る」、氏家は「興秋の舅家」、沼田は「藤孝室実家」、小笠原備前は「ガラシャ夫人に殉死した少齋家」である。三宅は「明智氏」であり、西山は「足利将軍家」、槙嶋は「忠興の朋友・云庵」の家である。例え役職に恵まれずとも、「着座」の家格が担保されている。
 小笠原多宮家(忠利夫人実家)、清水家(綱利夫人実家)、沢村家などがはずされているのも興味深い。
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