津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

御礼

2008-12-31 14:28:17 | 徒然
 各位様 

  この一年、当サイトをお尋ねいただき有難う御座いました。厚く御礼を申上げます。
来年も更なる勉強に努め、いろいろ情報を発信して行きたいと思います。
熊本は穏やかな大晦日となりましたが、御地は如何でしょうか。
どうぞよいお年を御迎えくださいませ。

      平成二十年大晦日  肥後細川藩拾遺・主宰  津々堂敬白
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

反省・・ただただ反省

2008-12-30 13:10:53 | 徒然
 脈絡もなく思いつくままに、色々なことをこのブログに書き付けてきた。振り返って見ると冷や汗ものの書き込みがあって、後で気づいて密かに修正を加えたりした。BBSを撤去してから、このブログとメールは全国の皆様からの連絡手段となって、いろいろ楽しい出会いの窓口となった。今年も数件のご先祖探しのお手伝いが出来たし、貴重な資料を拝見できたり、望外の幸せである。その後親しくお付き合いさせていただくきっかけとなり、老域に深く足を踏み入れつつある私にとってなんと嬉しい事か・・・。
 一方、一向に前に進まないいろいろなお約束事が蓄積して、これが頭を悩ませている。今年も又、ただただ反省の一年となった。来年はブログを少々控えめにして、調べ事や文書の訓下に力を入れようかとも考える。BBSを復活させて、話題を特定させずにいろいろやり取りができるようにしたいとも思う。膨大な「上田久兵衛」の日記も活字化したいし、我が家の歴史についても書き残したいことがあるし・・・。
 年が改まると20日も経ず67爺と相成る。一病息災あまり仲良くしたくないが、持病の狭心症とうまく付き合いながら、あと七八年がんばれたら有難いと思っている。

 全国の皆様の暖かいお言葉に深く感謝申上げたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丹波山家藩・谷家の跡目騒動

2008-12-29 10:36:54 | 歴史
 丹波山家藩谷衛友と細川幽齋・三齋の親密さは、衛友亡き後の三齋の衛友遺言による、末子宇兵衛跡目相続についての努力にも伺える。忠利をも巻き込んでのことである。衛友死亡時、衛友の嫡男衛成・三男衛勝は既に亡い。二男吉長は家康に仕えている。四男衛長は細川家に託され家臣となっている。衛友は末子宇兵衛の相続を遺言したが、幕府の受け入れるところとは成らず、四男大学が跡目することになる。三齋・忠利らはせめてもの、屋敷や米の引渡しを申し入れるも大学の拒絶にあっている。綿孝輯録は三齋・忠利父子の無念振りを記述している。大学は長兄子衛之に2500石、三兄子衛清に2000石、そして弟宇兵衛に1500石を分知し、山家10000石当主となり谷家は連綿とこの地に在って明治に至った。
一方衛友の孫娘・典侍藤原国子は、後水尾天皇に仕えて霊元天皇を生んだ。

 肥後細川藩に仕えた谷氏は、細川藩の中枢に在って要職を務めた。 

                2500石内分
 谷衛友---+--衛成---衛之
        |
        +--吉長
        |       2000石内分
        +--衛勝---衛清
        | 16000石相続
        +--衛政(大学)・・・・→丹波山家藩主・10,000石
        |                 www.asahi-net.or.jp/~me4K-skri/han/kinki/yamaga.html
        |
        +--衛長・・・・・・・・・・→肥後細川藩・谷家
        |      1500石内分
        +--衛冬(宇兵衛)
        |       
        +--●    後水尾帝典侍
           ∥-------藤原国子(新広義門院)----霊元天皇
          園基音

   【其の他衛友には、娘(谷某室)、娘(沢瀬某室)、娘(藤江元園室)がある】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原の陣--決戦の日・・6

2008-12-28 14:36:43 | 歴史
 八代勢の動き
 立允主ハ二之丸 一ニ三の丸 の大手口を右ニ見、塀之外を岸に添て弐町余浜手の方ニ越、二の丸之塀を乗越御覧候ニ、二の丸は五六町四方はかりも有之へく見へ、先二乗入たる面々小屋より出る敵を鑓付、思ひ/\に切支丹共を討取様子也、しかれ共たゝかまはす本丸の方にすゝミ候へと御下知有之、蓮池に取付候手前にて浜手の方ニ参る道一筋、又右之方少シ高ミ有之候へハ、見方少キ方ニ参候へと被仰候、左浜手の方見方多ク参、蓮池を隔申候右之方味方少ク、蓮池を通り本丸追手の虎口前にて見晴シきら/\と有之候、其方に御すゝミ候、三ノ丸ニてハ大勢こミ合候が、二の丸中程より蓮池の上手本丸迄の間ハ噞敷所ニ而、人も少ク道筋帯のことく長く有之と也、中程ニ御出候時分よりハ、本丸よりの鉄炮はけしく打出候、其所に土居のことく少シの高ミ有之しに、たよりしはらく息をつき先を御見合せ候、大方腰をかゝめ行、のし候而参るものハまれ成よし、味方弥少ク成、蓮池の頭まてハ足にさはるものも無之御越候、此節山中清十郎御先ニ参、随分かせき候へとて被遣候得共、首尾に逢不申由、沖津右兵衛ハ下散弐枚打抜、もゝをうたれ、歩行不叶引取候

 立允主蓮池の頭に御出候而、大組頭ハ何方ニ見へ候哉と御尋ニ付、跡を見候へとも見へ不申、其辺ニハ八代の御人数より外味方壱人も無之、わつかの人数也、立孝主仰に、浜手の番人ハ捨人数なり、本陳より参る者を集め候へと被仰、過半蓮池の頭ニ而集り候、此所より本丸岸下迄五十間内外も有之由
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

妙解寺納豆

2008-12-28 13:46:49 | 熊本
 大徳寺納豆ならぬ、「妙解寺納豆」が発売されるらしい。今日の地元新聞が報じていて、いつもながらの後追いレポートである。
妙解寺とは細川忠利公の菩提寺である。(現在の北岡自然公園) 病がちな忠利公に、滋養をつけていただくべく作り出されたものが、この「妙解寺納豆」であるとされる。同様のものに「からし蓮根」があるが、これは連綿と作られてきて、私も大好きで時折口にしている。しかし「妙解寺納豆」は名前は承知していたが、今般の報道でその復活を知った。熊本城内の販店での販売とあるから、まずはお土産物といった感じだが、一箱(100㌘)2,100円とちょっとお高い。それでも気になる妙解寺殿である。

      丸美屋        www.marumiya-g.co.jp
      元祖 森からし蓮根 www.karashirenkon.co.jp
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「一口城主制度」再開

2008-12-27 15:01:22 | 熊本
 熊本城築城400年にあたり復元された「本丸御殿」は、日本三大名城の名を一段と高らしめ、昨年の登城者は200万人を越えたという。「一口城主制度」による募金も約12億円に達した。熊本市は更なる熊本城の整備に向け、第二次の「一口城主制度」を2009年の1月1日から再開する。更なる皆様のお力添えを給わりたい。城内「桜の馬場」の商業施設も着工の運びとなり、熊本城もより魅力的になることだろう。

 私は、細川家熊本入国400年を、又盛大にお祝いしたいと思っているが、2032年の事だから百歳迄生きねばならない。ちょっと無理だなー。その頃には皆様のお陰を以って、すばらしい熊本城になっていることだろう。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有吉家VS藪家 家来の喧嘩

2008-12-27 14:13:04 | 歴史
 忠利公の代の話である。
有吉家の家来と、藪家の家来が喧嘩を仕出かした。藪家の家来が有吉家の家来を「打放」とあるが、詳細は分からない。それを聞きつけた有吉家では、藪家に使者を送り、その家来を引き渡すように申し入れる。藪家は、「事のてん末はそのとおりだが、帰り着いた者を引き渡すことは出来ない」と返事している。

 有吉家(頼母佐英貴カ)側は大変立腹、弓矢を以って受け取るとすると、藪家側も弓矢を以って拒否すると息巻く。家中の侍も両家に分かれて味方するものも現れ、「大乱の端」の状態に陥る。

 中路周防なる人物が藪家を訪ねる。忠利の意で有ったのではないか。
「一度御屋敷へ帰候者御渡被成間敷由御尤千万ニ候、誠以潔も覚候、御家来も能御家来ニ而相手を首尾能仕留被申候由、主も主家来も家来、兎角可申様も無御座候」と話し、その家来に逢いたいと申し入れると、藪氏はその申し様に感激して受け入れる。
 中路周防はその家来に対し、「此度の仕方誠以勇能事共ニ存候、藪殿御一命ニかへ御おしみ候も御尤候、とくと知人ニ罷成候ハん」と側によると、全てを察した彼の家来は首を差し伸べる。中路周防はこれを一打ちにて首を切り落とした。周防は「某如比相計候ハん為罷越候」と述べ、この始末に異議があれば自分がお相手すると申し出る。藪氏曰く「御深志忝し、此上ハ可申様も無御座候」とて、一件落着している。

 両家に別条無く事は済まされたという。両家の意地のぶつかり合いの中で起きた不幸な事件だが、中路周防の見事な事の解決振りだ。三齋は忠利家督の際「其方ニ家督ニ相添ゆつり候者有之」とした人物こそこの中路周防である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原の陣--決戦の日・・5

2008-12-26 16:10:30 | 歴史
西郡要人か手に付たる浪人平田太郎左衛門一ニ太郎右衛門・阿部七郎兵衛・水田半左衛門三人三丸小屋の内に入候処、鍋に湯あるを幸と是をのむ、其小屋のすミに人有しを太郎左衛門一鑓突けるに、左様の敵に目なかけそとし七郎兵衛申候間、尤とて其儘小屋を出る、其時銀の天衝の対差物したる武者五六人前後より突懸らんといたし候を、扨々比興也、敵味方を不知かと云て一反はかり追かけ候へ共、皆逃散り候、三人は二の丸の城戸口ニ向候に、敵一面に並居て鉄炮を発し、味方も五六十人同所に在、其時七郎兵衛か様の時立居候へハ、不慮の手疵を被る者也と申候而、各下敷処光利君の御弓の者四五人来り、散々に射立候間、いつれも一同に二の丸に攻入候、光利君も二の木戸近く御乗付、御下知を加へられ候、惣而三丸三筋の道筋、立花家の人数少々相交てすゝむの外、皆当家の士卒争ひ走て二丸にせまる、上野左右馬助・田中又助・鈴木伝兵衛一所ニ働き、左右馬助ハ石垣下ニ而石手を負、嫡子上野悪助十六才は鑓をあはせ敵を突伏る、中野平兵衛伯耆組小屋より出る敵を足軽にうたせ、塀際にて鉄炮打合、二丸に乗入、小屋の前にて鑓を合せ敵を仕留候、谷助大夫早く二丸に着所に箭さまより突出す長刀を奪ひ取、強く鉄炮にて打すくめ、乗入て賊数多うたせ、自身も壱人突伏る、松崎伝助助右衛門子は築地の上より敵五六人石にて打候を、鉄炮にて打はらはせ乗入り、平野源太左衛門ハ須戸脇左の屏の隅より一番に乗入、続而平野作大夫并御鉄炮の者召連乗込、小頭少兵衛・源太左衛門家来も敵を鑓付討捨候、谷忠兵衛佐渡与は木戸の外にて敵四五人家来に伐殺させ乗込、小屋より出る賊をミつから突伏、家来に四人うたせ候、乃美新八有吉舎人与は屏越に鑓にてせり合、直に乗こミ、小屋に居たる敵弐人突殺し、又すゝんて壱人突とむる、佐分利加左衛門も塀きわにてよく鉄炮うたせ、芳賀五右衛門ハすゝんて討死いたし候、志水新之允者も二丸門口ニ而強く働き、手負討死も有之、西郡要人伯耆組も同敷乗込、組を下知し、藪図書も組共に早く乗込、敵を討捨小屋ニ火を懸、本丸の方にすゝミ候蓮池の上見付の石垣に着立允主の御側ニも来候、松野縫殿助・吉弘四郎大夫城戸際より乗入、縫殿助鑓を合て首を取、山内三大夫沢村宇右衛門与も須戸の左より屏を越、長岡右馬助内市野太郎右衛門と詞をかはし候内、腕に鉄炮中り候へ共乗入候、敵五六人同勢よりはり出し候を壱人鑓合、少ツゝ三ヶ所突候、荒木彦大夫舎人与も同く鑓を合せ敵を討取、高見少五郎嶋与同所にてかせき、其外我先と二の丸に攻入候
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊本県人の北海道入植(屯田兵)

2008-12-26 11:57:20 | 歴史
 以下は入植者の名簿である。印は【有禄士族基本帳】に、その名前が確認される方々である。
                           有禄士族基本帳は当サイト内で御覧いただけます。

■明治18年7月 江別兵村 ・七家族
   桜井広太郎  永谷喜熊  石尾嘉太郎  斉藤常彦  渡並友太郎
   緒方冬來   古荘寅熊

■明治18年7月 江別(篠津)兵村 ・四家族
   田尻武彦  広瀬富太郎  徳永新太郎  佐川貞記

■明治18年7月 野幌兵村 ・二十一家族
  石川 寿  島田蘇蔵  則本六郎  松本文太郎  土持藤五郎
  下田荒熊  高村喜一郎  中村新次郎  井上秋蔵  小塚弥八
   野村澄親  斎藤源三郎  佐藤乙八  光永清次  正代重次
  安藤文八  船津騏熊  立山虎熊  福原辰平  高橋光雄
   加藤宗太郎

■明治20年5月 新琴似村 ・四十一家族
   塩山一十郎  松尾猪喜次  橋本真輝  湯川豊次  日吉孫四郎
  田久保熊太  渡辺世志  菅 寿廣  中村保鷹  今村三郎
  樋口周平  竹下敬行  高木寛太  中尾慶藤  嶋田小太郎
   守川周平  帆足 清  坂本軍記  神埼兵三郎  岩崎乙熊
  田中弥吾七  出良嘉平  建原徳太郎  村上喜八郎  上田初熊
   坂田喜久馬  松永徳太郎  倉岡安太郎  光永久八  後藤喜平次
  本田末吉  矢津田林太郎  星子栄太郎  尾崎徳馬  田中徳三郎
   川崎二嘉久  椎木岩彦  中村徳太郎  坂本勝彦  丸野栄寿  
   森 蔵次

■明治22年7月 篠路兵村 ・四十六家族
   西 茂次  真勢正一  堤 益次郎  渡辺正剛  須子碁一郎
   柿山庄太郎  梶山 巌  鶴林芳馬  佐藤代平  城 虎五郎
   山田尋源  西島貞喜  小谷亀太郎  森永政廣  米良四郎次
   前田俊蔵  下川猪熊  篠原 繁  西村今太郎  那須長松
   中山清基  江藤虎喜  有働常雄  桜井富作  緒方文提
   上妻平蔵  久光正喜  金森長平  田尻市太郎  丸野万次郎
   山田常彦  佐藤郁次郎  小山良辰  田代惟義  金光豊吉
   塚本八十太郎  大加田宇一  安東岩蔵  吉野 律  佐伯久人
   稲野寅記  田代辰十郎  上野雄好  一宮盛種  宇野清太
   津江亭次郎

■明治23年7月 南滝川兵村 ・十五人
  中島直次  原田亥津童  吉田彦熊  鷲頭万吉  有働初太
   山本友次  鶴田重喜  緒方喜一  芳武新吾  衛藤九郎八
   松隈喜八  吉田恒太郎  宇野勝復  内海寿学  内野愛蔵

■明治23年7月 北滝川兵村 ・十二家族
   遠藤伊之太  立山逸作  太田熊雄  中原季熊  真草生次
   木原栄太  中路藤太郎  坂根旗十郎  西島吉太郎  本田憲之
   林田直彦  轟 照雄

■明治27年5月 南江部乙兵村 ・七家族
   西田松太郎  安田一男  岩橋浅次  森松丈太郎  中山仙太郎
   香山輝夫  平田杢太郎

■明治27年5月 北江部乙兵村 ・二家族
   福島米吉  佐藤熊太

■明治27年7月 美唄兵村 ・二家族
   大野喜久治  梅野利市

■明治27年7月 高志内兵村 ・二家族
   木村勝太郎  片山七郎

■明治27年7月 茶志内兵村 ・一家族
   寺田松彦

■明治30年6月・31年9月 南上湧別兵村 ・十九家族
   鳥井 始  南 緩蔵  中村平五郎  岡村小太郎  石坂岩彦
   松野和蔵  藤本大吉  関 仁七  川副卯七郎  坂田末廣
   大川徳蔵  古庄例喜  赤星五郎作  野口寿一郎  上野三蔵
   野口寅喜  川上大平  関 運喜  新野尾土一

■明治30年6月・31年9月 北上湧別兵村 ・二十四家族
   橋本真富  竹部伝蔵  村上安平  上村寛治  頓西国順喜
   牧野瀬太郎  芥川相記  坂本辰喜  杉森鶴松  上田卯吉
   田畑郡平  藤島倉蔵  上田金松  渡辺由太郎  沢口作一  
   村上与吉  山本多平  増田卯八  富田 直  月脚喜作
   古谷伝太郎  福島金太郎  橋本又喜  田上喜一郎

■明治31年6月 端野兵村 ・二家族
   松本長平  鬼塚増太郎

■明治31年9月 野付牛兵村 ・三家族
   大橋亥之八  北原庄次郎  北原庄太郎

■明治31年9月 相ノ内兵村 ・三家族
   布田龍彦  鬼塚子之八  本田健蔵

■明治32年7月 士別兵村 ・三家族
   中川定次  寺沢茂作  高田亀太郎

■明治32年7月 険渕南兵村 ・四家族
   石原初喜  沢田 充  斉藤市平  野田作太郎

■明治33年7月 険渕北兵村 ・四家族
   大村源太郎  酒井松彦  田崎 茂  西山辰喜 

                              以上
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原の陣--決戦の日・・4

2008-12-25 16:10:55 | 歴史
有吉頼母佐(英貴)の手
頼母佐手ニ而槙嶋掃部助後半之允は本道惣勢込相候を見て、浜手より横きりに一番に乗こまんといたし候処、差物城戸二支急ニ難乗に、家来高橋三郎兵衛と申者後ロより差物を抜取候間、早速乗込名乗候へとも、其砌ハ諸人も乗込候由御帰陣之砌、河尻ニ而御直ニ、嶋又左衛門跡之御番頭被仰付、頼母佐者共も松井家に不劣、家司有吉次大夫吉正・葛西惣右衛門一正・嫡子伊織一致等はやく二丸に着、鉄炮頭斎木半右衛門・添頭菅沼三左衛門安弘二丸に向、鉄炮打合乗込、岡部形右衛門も同く組足軽を引廻しつよく矢数を打せ、弓頭木部清太夫二の城戸に至り乗込むとするに、敵大勢にて防クを鉄炮にて壱人打倒候ニ、側より上帯のはつれをしたゝかに射て敵ハ忽逃入候、痛而なから堪居て下知をなす、組の足軽矢先を揃射立、敵須戸口を引取故二の丸に乗入、田代三右衛門同所にて働く、篠原角左衛門易政も二の木戸に着しに、組の足軽後れたるを待揃る内に鑓を合、壱人を突伏る、
米田与七郎か家人戸村角兵衛・岡沢兵左衛門等一所に在相働、中松伝助ハ鑓を合ける時左のひぢを鉄炮に打抜れなから敵を討取、本郷縫殿も馳着て鑓を合突伏る、戸田十之允・菅五大夫・原田三大夫・萩野兵助・石田権右衛門等早く二の丸に乗入、頼母助も乗入て下知し、馬験奉行井上左門は城戸の左より早く乗込、鑓を合、敵の脇腹を突に、鑓をたくりて刀を抜かけ候を左門鑓を打振候へハ倒れけるを、若党走り寄て首打落す、其時横合より弐人突かゝるを直に振返りて突伏る内に、側より壱人の敵を突伏る者有り、左門見かへり我等先に突たるそと言をかくる、是やまだ五郎左衛門一之也一ニ五左衛門、五郎左衛門ハ走着と直ニ右の通にて又外ニ首一ッ取候、
葛西惣右衛門父子ハ城戸の右脇より入て賊二三人突捨、菅五大夫・戸田十之允・渡部伝左衛門等敵を鑓付、首を取、武藤十左衛門ハ持鑓の奉行して側長柄を揃て突入、壱人討取、団六左衛門重祖は鑓を合、敵の肩を突けれ共、鑓を捨て逃入故打泄し、直に本丸の方にすゝミ候、大山三十郎・斎木喜太郎・持筒頭中山半左衛門組の鉄炮を卒、乗入、岡田作左衛門も同入て敵を突伏る、松野右京家人江藤治郎右衛門・水野一ニ水谷五郎兵衛等一所に働き候
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

屯田兵

2008-12-25 10:12:13 | 歴史
 屯田兵として熊本県人が北海道に入植したのは、明治18年江別兵村に11家族の方が入られたのが最初である。以降18回にわたり、都合219家族が順次入植された。最終は明治33年険渕北兵村の4家族である。明治22年篠路兵村に46家族が入られたのが一番多い。その中のM家、U家は奇しくもご家族が神風連の挙に参加され、又西南の役に参加されている。
残されたご家族にどういう思いがあったのか、不安と希望を胸に秘めての北海道への旅であったろう。我が史談会の某氏のご先祖様もそのお一人であったと聞いた。奇しき事と思いながら名簿を眺めながら、「有禄士族基本帳」と照合していると、かなりの数が確認できる。これは情報として発信しなければならないと考えて、現在準備中である。

 除籍謄本などをとっても、明治初年当時とは中々結びつかない。有禄士族基本帳がそのつなぎ役を果たすことがある。そのためにもなるだけ早くUPしたいとがんばっている。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

情報網

2008-12-24 14:19:56 | 歴史
 慶安元年十二月の末家臣下村五兵衛は、幕臣曽我丹波守の内意を得て国許の家老宛てに、急々に小早(舟)を仕立てて以下の書状を送っている。

        一筆致啓上候、今朝曽我丹波様江私を御呼被成、
        被仰候ハ、異国より巻物其外商物差越、此物売払
        申候代金二て兵粮日本ニ而買調申度由申候ニ付、
        為 上意被 仰出候ハ、何程ニ而も買調可申旨、
        上意二而御座候由、井上筑後様より丹波様江被仰
        進候、左候ハゝ九州之米之直段過分ニ上り可申と
        思召候、大阪之直段も同前ニ上り可申候間、 殿
        様御米むさと払申間敷之旨、被 仰付候間、則其
        趣仁保太兵衛・志賀少兵衛両人江も具ニ申渡候、
        両人被申候も右之様子各様へ御注進早々申上可然
        由被申候ニ付、態御小早下し申候、恐惶謹言
          十二月廿一日      下村五兵衛

 曽我丹波とは、丹波守又左衛門古祐(ひさすけ)で、寛永11年から万治元年まで大阪西町奉行を勤めている。細川家とは大変親しく、このような大事な情報がもたらされるのである。米の値段に影響するとされる異国船による米の買い付けとは、どのような量であったのだろうか。相場の動きに神経をそばだたせる有様は、いつの時代も共通したものであるようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晩酌は「越後のお酒」

2008-12-24 12:06:48 | 徒然
 ここ数日、越後のお酒を飲んでいる。「越後杜氏・細川忠清」の文字が目に入ってのことだ。(細川フアンも徹底するとこういうことになる)やはり冬之晩酌は「お酒」がいい。辛口派の私には少し甘いのが気に成るが、一方どれだけでもいけるという感じだ。もう二十年程前、友人から五個セットのガラスのぐい飲みを頂戴した。五個それぞれ形や作り、色合いが違っていて毎日日替わりで楽しんでいる。中で二日ほど肝休日を入れると、ちょうど一週間で一回りという具合だ。我が家の家系は酒が原因の病気でこの世にさよならした人が多いので、ちょっとセーブすることも覚えた。今日はクリスマスケーキがやってきそうな気配があり、越後のお酒は一休みと相成る。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原の陣--決戦の日・・3

2008-12-23 19:01:16 | 歴史
松井勢の活躍
興長家士橋本角右衛門も弐人を討、中山藤兵衛も浜の手にて弐人突留候、松井角兵衛本氏田中、松井志摩子組の足軽をつれ来り、賊弐人を鑓付る内壱人は長鑓を以投衝にしけるを、角兵衛是をはり除ヶ、手の下に突伏けれハ、組の小頭野田長右衛門走寄て首を打落す、右之外余の備よりすゝミ来り勢ひに乗て働候間、賊徒三丸に堪かめ、二丸につほミ強く防候、寄之ハ二の丸を乗取候へとて、田渡海手の方へ攻詰るを新太郎見て、二の丸の御先乗可仕と告て東の隅の屏を破らせ乗らんとする時、下津半助・松井三左衛門・志水加兵衛・田中市兵衛等も来り相働き候ニ、内より夥しく矢石を発し防候間、加兵衛ハ鉄炮に中り死し、三左衛門ハ深手負て引退く、下津か小頭河村清助と云者正元が甲を曳、唯今鉄炮を出したるハ慥に貴公を目当にいたし候と云て引動す所に、炮玉来て河村を打倒す、正元ははやく引起し候へ共、急所にて忽死す、田中市兵衛ハ矢創を被り候

其外松井一手大略深田を渉て二の丸の犬走ニ着、田原清兵衛ハ城戸越に賊を突倒すに、余賊助けて田原か鑓を切折候間、柄を杖にして屏を越んとする内に、草野善兵衛国乗と名乗て二郭に先登いたし、中川権内有重も不劣名乗て入る、続て松井右衛門盛勝・下津半助一明・入江三大夫・小寺杢左衛門・田中三郎左衛門・田原清兵衛定勝・同嫡子角十郎綱房十六歳等一同ニ乗入候、一揆共群りてひかえけるか、先なる草野にハ懸らす中川ニ懸り候、権内相突に突倒し、其身も股に疵を被りなから首を取らむとせし所に、余賊来て小腹をつくを刀にてうち払ふ、其内に味方大勢屏を越ける間、徒党共はるかに引取候、中川ハ首を討捨にして鑓を取候へとも、二ヶ所の深手甚いたミ小屋に帰る、草野も敵三人にわたり合、壱人を突留といへ共、壱人の鑓にさゝれ苦痛にたへす引取候、
興長手ニ而中川権内二の丸一番鑓也、松井新太郎もやかて乗入に、敵三十人はかりかたまり、妻子を先立而本城の方へ退くを鉄炮を放しかけ追打にすゝむ、生地武右衛門進て二の丸に着時、敵ハ頻に矢石を発し、味方にハ折節鉄炮無之間、やれ此方の鉄炮も打候へと度々声をかけすゝむ、海手の方に屏の少破れ口ある所より入は小屋に人声有、廿間計奥に敵廿人余さゝへ居候故、手前の家を心許なく思ひ、何れも見合する体なるを、武右衛門馳通り前ミけるに、大勢の中より敵弐人鑓参ふと云てかゝり来る、弐間はかりに成て、壱人の敵武右衛門を投突にするをはらひのけて、前に立たる敵とからち合突倒す、家来塩田次兵衛走り寄て首を取鼻をかく、松井右兵衛も一所ニ来てかせき候、山本七郎右衛門・松井角兵衛と共に足軽をすゝめ来り二丸に入るに、賊刀を振てかゝるを唯一鑓に突伏る、入江三大夫・下津半助も鑓を合敵を討、浅田左兵衛も敵弐人仕留たりとて角兵衛に見せ、荒木権七も賊弐人突捨候、但当手ニ而二の郭先登ハ興長に相究る也
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光尚の疱瘡・・そして弥栄

2008-12-23 12:24:10 | 歴史
 寛永十一年(1634)十二月十三日、六丸(光尚)は疱瘡に罹っている。悪くすれば死にいたる病である。元和五年(1619)の生まれであるから、16歳の時のことである。細川家の嫡子であり、将軍秀忠養女の子であるから、「早速台聴にも達し御医師衆御付被成、御懇之上意にて上使日々に御出也」となった。又細川家と親しい春日局からも「毎日御使色々御音信」があり、忠利は御年寄衆に使者を立てて御礼申上げたことを報告している。
 国許の忠利又八代の三齋にも急の使者が立てられる。しかし幸いにも大事には至らず、十二月廿六日「御酒湯灌せられ」ている。これらもそれぞれ使者を以って報告がなされている。江戸に於いての新年は嬉しいものであったろうし、国許では無事を祈っての正月であった。廿六日の「御酒湯」の報は正月五・六日には忠利の許へ報告が届き、又三齋へも報告された。お祝いのため熊本・八代に於いて「御能御興行」が成されている。

 祝福に満ちた寛永十二年の細川家のお正月である。
そしてこの年の七月二十三日元服、肥後守光利と名乗り、侍従に叙任する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする