津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■寝た子を起こした

2024-04-30 14:20:02 | 歴史

 日本歴史学会編集(吉川弘文館発行)の「日本歴史」2009年3月号に、聖学院大学の非常勤講師の山田康弘氏が研究余禄として
「細川幽齋の養父について」という論考を発表されて15年ほどになる。

たまたま、デスク周辺資料を整理している中で、これらのコピーが顔を出しすっかり寝た子が目をさましてしまった。
その後も2020年2月には横浜歴史研究会の真野信治氏が「細川藤孝・謎の出自に迫る」という論考を発表されている。
この論考は、先の山田康弘氏の論考から一歩踏み出す新しい事実は見受けられず、2020年の大河ドラマに時を得て発表されている。

 発表当時の山田氏の論考は大変説得力のあるもので大変驚いたことを記憶しているが、綿考輯録で編者の小野武次郎説、いわゆる
細川藤孝は細川元常養子説を完全否定するものであった。

細川光尚代の寛永十八年(1641)、「寛永諸家系図伝」編纂に着手した幕府の担当者から、「幽齋の出自・養父」を尋ねられて、
この回答は光尚の祖父・忠興が努めた。

   一、幽齋ハ、三淵家ヨリ出タル者ニテ御座候
   一、幽齋ハ、細川伊豆トヤラン細川刑部少トヤランニ、ヤシナハレ、御供衆ニ御座候
この様に回答したが、忠興も記憶が定かではなく妹の吉田兼治室・浄勝院に尋ね、浄勝院はさらに「しゆゑい」という90を過ぎた
老尼に尋ねたうえで忠興に報告している。

「いつさま(細川伊豆)と申ハ、刑部少さまの御親、ゆふさいさまのおほちにて御座候(以下略)」とある。
これは忠興の回答と全く合致している。
    細川伊豆ーーー刑部少輔===細川幽齋ーーー忠興ーーー忠利ーーー光尚
そしてこの二人の人物は特定されている。

 処が、綿考輯録の編者・小野武次郎が「いふかしく候」と切って捨て、この刑部少輔を細川元常(初・右馬助、刑部少輔、右馬頭、播磨守、
追々御改なされ候)
と比定した。
そして当時の藩主・重賢がこれを容認した。
以来、細川家の家系は清和源氏、なかんずく足利氏の一族で和泉守護職とされてきたが、これが覆されることになる。

その根底をなすものが、細川家の根本家記「永源師壇紀年録」の記述であろう。「巻ノ四」の冒頭に次のようにある。
〇天文三年大樹義晴公ハ三好カ逆乱ヲ避テ営ヲ北白川ニ移ス、大樹或ル時三淵宗薫大和入道(晴員)ヲ召ス、時ニ大樹ノ側ニ妾侍座ス、
 此ノ妾ハ船橋大外記清原宣賢真人環翠軒宗尤ノ媛ナリ、大樹其ノ妾ヲ指シテ入道殿ニ謂テ曰ク、此女我カ胤ヲ妊メリ、誕生シテ若男
 ナラハ鞠テ汝カ継嗣トセヨ、入道殿敬テ諾ス、(以下略)
〇同四乙未年四月廿二日巳下刻三淵入道殿ノ養子誕生ス、然モ男ナル故へ約ニ応ス、万吉殿ト小字ス。
             (中略・ニ項)
〇同八年六月京都ノ乱ヲ避テ大樹及ヒ諸将八瀬ノ里ニ赴ク、屋形及ヒ朽木等供奉ス、大和入道殿モ命ニ應シテ扈従ス、入道殿此ノ時万
 吉殿ヲシテ大樹ニ謁セシメテ曰ク、我躬小身ナリイカニモシテ宜キ家ノ養子ニ為シ申度キ由シヲ説ク、然ラハ迚テ屋形播磨守(元常)
 殿ノ此ノ軍中ニ在ルヲ召シテ、汝カ継嗣ニセヨト口入ナサル、(中略)万
吉殿時年五歳也、大樹直ニ諸将義藤公(義輝)ハ胤ヲ分テ
 ル兄弟ナレハトテ、其諱ノ一字(藤)ヲ授サセ九郎藤孝ト名ル、義藤公ハ
此時八歳也、

扨いずれが真実なのか、清和天皇にさかのぼる細川家系図に親しんでいる私としては、何とも複雑怪奇の思いの中にある。
山田康弘氏にその後の論考など御見受けしないが、新しい進展がないのであろう。
いつの日かその真偽のほどは明らかになるのだろうか?。

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■GWのちょっとした買い物

2024-04-30 07:02:20 | ご挨拶

 昨晩、水野富美夫という画家の、デッサン画をヤフオクで落札した。
丘陵地にたつ村落が白描で描かれているが、ちょっと色を付けてみたいなと思ったことだ。
この画家のことを調べていたら、映像作家で画家の蜷川有紀さんが、父方の伯父にあたるのが、この水野富美夫氏であり、長くアフリカにあって絵を描かれてきた人である。
蛭川有紀氏は作家にして国会議員の・猪瀬直樹氏夫人であり、有名な演出家蜷川幸雄氏は母方の叔父にあたるという。

 現在私は、猪瀬直樹氏と磯田道史氏共著の「明治維新で変わらなった日本の核心」という本を読んでいるし、しばらく前までは猪瀬氏の「天皇の影法師」を読んでいたから、この偶然に少々驚いた。

 そういえば猪瀬氏の東京都知事の後任者・舛添要一氏もよくヤフオクで絵画を手に入れておられたことがニュースになったことがあるが、自分の趣味に合ったこのような品物を手にすることができるのも、ヤフオクの面白さともいえる。

    

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■白川蛇行説の痕跡現る

2024-04-29 13:48:37 | 熊本
 富田紘一先生が1995年に発表された白川蛇行説は驚きをもって迎えられたが、今では熊本人はこの説得力のある御説を当然のこととして受け止め
ている。
しかし、熊本市中心部の建築物の地質調査などが当たり前になっている中、その痕跡の確認が待たれていた。
今般思いがけず熊本城備前堀の中からその形が確認されたというニュースは、富田先生の御説が改めて補強された事であり、先生にお慶びを申し上
げたい。
昨日の熊本日々新聞電子版を引用してご紹介したい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
熊本日日新聞
 特別史跡・熊本城の備前堀(熊本市中央区)で、白川の旧流路の痕跡とみられる砂の層が見つかった。白川は江戸時代初期まで現在の中心市街地方面に大きく蛇行していたと推測されており、熊本市によると、城内で「白川蛇行説」を裏付ける旧流路の表面が見つかるのは初めて。

                   (写真:熊本日日新聞)
熊本城備前堀で見つかった白川旧流路の痕跡。黄色の点線の手前(南側)が旧流路とみられ、黒色の砂層が確認できる=2023年2月 
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■綱利の相聟・山野辺義堅

2024-04-29 06:44:25 | 人物

     

 現在ヤフオクにこのような文書が出品されている。名前を見てピンときた。
差出人の人物は水戸徳川家の家老職を勤めた人物だが、最上義光の四男でかっての山野辺19,300石の城主であった山野辺義忠の嫡男・義堅(方)の筆だと思われる。
いわゆる最上騒動で改易になった最上一族である。
最上騒動は12代・家親の跡目を嫡子で12歳の義俊を推す一派と、人望厚い義光四男・義忠を推す家臣一団の争うところとなったが、解決せず幕府の介入するところとなった。
幕府は義俊の後継を定めたが、それでも義光の弟・楯岡光直が甥の義忠の後継を目指し、ついに名家最上家57万石は改易となり近江大森1万石に移封となった。

その光直はこの事件により小倉細川藩にお預けとなった。
  ■預人の報告:寛永十九年八月五日付 「松平伊豆守・阿部豊後守宛--細川光尚書付」抜粋
     最上源五郎家来楯岡甲斐守、元和九年亥之正月ニ越中守ニ被成御預ケ候、
     寛永六年巳之五月ニ於豊後國小倉歳六十ニ而病死候、其子孫一郎歳廿二、
     弟蔵之助歳十五、孫一郎姉歳四拾四、家中村井内蔵助と申者ニ女房ニ遣
     シ、于今熊本ニ罷有候事        
                     (大日本近世史料・細川家史料十五 p162)
     その他多くの資料が残されている。

 書状の主・義堅は義忠の嫡男だが、一時期父・義忠と共に岡山藩池田氏に12年間にわたりお預けとなった。
そのご許されて、家光により水戸藩主・徳川頼房に預けられ家老職についた。
息の義堅は頼房の七女・利津姫を正室とするが子がなく、妹に小倉に配流となった、大叔父・楯岡光直の息・又市郎定直の子・義清を養子に迎えて跡目としている。
其後も山野辺家は代々家老職を勤めている。

 又、細川綱利室・久が徳川頼直九女であることから、山野辺義堅は水戸徳川家を通しての相聟ということになる。

         11代      12代・父義光により殺害
  最上義守---+--義光---+--義康
       |    | 13代   14代・断絶
       |    +--家親---義俊(12歳)
       |    |
       |    +--義親
       |    |(山野辺)
       |    +--義忠---義堅==義清
       |
       | 甲斐守    孫一郎・
       +--光直---+--定直---+-----義清
            |     |
            |     +--七左衛門----------------------→(楯岡小文吾家)
            |
            +--蔵之助--------------------------------------→(楯岡三郎兵衛家)

 

 

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■ひい爺様は最後の居寮生

2024-04-28 10:54:12 | ご挨拶

 資料の整理をする中で、1988年熊本大学・九州大学合同ゼミナール報告「熊本藩藩校時習館」33頁にわたるコピーが顔を出した。
そんな中に「時習館居寮生名簿」が掲載されているが、ひい爺様の名前があった。
慶応元年(1865)に鎌田平十郎(200石)・永田貞助(御番方)・田上慎三郎(150石)とひい爺様の四名が最後の時習館居寮生となっており、明治3年(1870)7月8日時習館はその歴史を閉じた。
宝暦4年(1754)の時習館創設と共に「居寮制度」も発足しているが、「時習館就学者の内で優秀な者が、藩から給与をもらいながら自分の希望する学問を学ぶ」という特待生制度がこの居寮生制度である。
しかし財政難も相まってその内容は幾度かの変遷を伴っている。
特に天保6年(1835)には時習館訓導・阿部仙吾が伊藤石之助・大塚半之助らに家を焼かれ焼殺されるという事件が起こった。
横井小楠が居寮生世話役となったのが翌年の天保7年(1836)であり、翌8年(1837)には大身の子弟の入寮を促進するための居寮制度改革が行われた。
これは、家格が上位の者は学問の有無にかかわらず、それに応じた役職に就けることがこの制度を形骸化している。
其後横井は時習館を去り、実学党の萌芽・成長の中で、天保14年(1844)実学党坪井派の米田監物が時習館の総指揮者となったが、弘化4年(1847)に至り、筆頭家老・松井佐渡や教授・近藤英助らの強い反対により辞職せられた。米田監物は家老職も辞している。
有用の士の育成が目的であったが、時習館にあった人々はただその家格の中で、その能力を発揮することができない閉塞感の中に無為に過ごした。
我がひい爺様25・6歳の青春時代のことである。




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■享保十四年四月廿八日「藪の内火事」

2024-04-28 09:31:44 | ご挨拶

 享保14年(1729・宣紀代)4月28日、屋敷1,380ヶ所、総家数2,584軒という大火事となった。(肥後国誌・上巻p102)
かって■享保の火事(1)でご紹介した。
「藪の内」という呼称の由来は、かってこの地区に広大な寺地をもつ天台宗の向蓮寺という巨刹があり、大藪があったことによるとされる。現在のホテルキャッスル・お隣のグランガーデンがある一画であったらしい。
2,584軒という大被害であったわけだが、我が家も被災し、又初代の姪が創建した宗厳寺(廃寺)や遠くは流長院・浄国寺あたりも類焼している。熊本は大風に見舞われる中での火災で手の施しようがなかったのだろう。
御寺さまの所在を線で結んでいくと、火事の範囲の広大さに驚かされる。そして、風の向きが御城や花畑邸などに被害をもたらさなかったことを物語っている。
宜紀は養父・綱利の35万両という幕府借入金を背負い、自らは多くの子女の結婚で多いに散在している。
そんな中での大火災の復旧は、元に復する迄何年を要したのだろうか。
その様な史料がまったく見受けられない。
永青文庫資料のなかに埋没しているのだろうが、そんな資料の登場を待ちたいと思う。


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■何方かご教示のほどを・・・

2024-04-27 16:38:37 | ご挨拶

 正徳4年5月22日以下の人々が召し放ちになっている。一部の人たちは扶持米取や陪臣となったりしているが、一大事件だと考えているが、その原因がようとして知れない。
正徳4年と言えば宜紀が家督してはいるが、この時期養父綱利はまだ健在である。
どちらの意向であったのかも計り知れない。10人で5,210石という知行である。また、1,000石取りが3人も含まれている。
誠に解せぬ事件だが、熊本藩年表稿などにも一切触れられていない。もし何かご存じの方がおられたら、ささやかなヒントでもご教示給わりたい。

       千石   竹内吉兵衛           千石     田邊平助
       三百石  西沢文右衛門       三百石  臼杵杢之助
       千石   国友源次左兵衛      百石    藤掛梶右衛門
       三百石  芦田友之允         八百五拾石  竹内七郎右衛門
       弐百石  江村左七郎         百六拾石余  脇坂伊左衛門

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■GWが始まりましたが・・?

2024-04-27 13:58:30 | ご挨拶

 GWが始まりました。長い方は今日から5月4日まで10休となりますが、どうお過ごしのご予定ですか?
一年365連休の年寄りにはあまり関係もないことですが、人並みにちょっと外へ出てみようかと考えていましたが、一両日前から右目のカスミがひどく、いよいよ眼医者さんで診察を受けて眼鏡も作り替えなければならない按配となりました。
そう思っているうちの連休ですから、大変困っています。白内障なのかもしれません???
奥方に話すと、PCばかりしているからだと言われそうなのもありますが、少々自分でも控えようかと考えています。
PCでなければ、読書か調べものですごす私ですから同じようなものですが・・・

右城暮石という方に  茶の新芽白内障の眼に黄なり という句がありますが、まだ新緑の美しさは感じることができています。
毎日遠方を眺めることに勤めています。
ご家族に皆様と楽しいGWをお過ごしくださいませ。


 

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■にたつよりもやあたつー異論

2024-04-26 11:46:40 | ご挨拶

 昨日書いた「にたつよりもやあたつ」に対して、悪友が異論を唱えてきた。
私は「にたつよりも、やあたつ」として解説したのだが、句読点の場所が違うのではないかというのである。
すなわち、「にたつより、もやあたつ」で「似た者よりも、燃やした者」ではないかという。
熊本弁では確かに「燃やした=もやあた」といったろう。
今回は御高説を静かに聞いたところだが、「にたつ」は「煮たもの」じゃなかろうなとの話だったが、これは話の前後からするとありえない話で、悪友も納得した。
「焼いた」も「燃やした」もあまり変わらないように思えるが、解説を加えた宇野廉太郎氏によると、薪を1.5m程離れた場所に取り囲むようにして火を放したという。
そうすると「焼いた」が正しいのかもしれない。
「火刑=火炙りの刑」は、火をつける前に命を絶つて実行することもあったようだが、これは苦しみを避けるためである。
この事件は藩の重職がそのような判断していないということは、この事件の凶悪性を大いに認識しての上でのことである。
しかしながら熊本弁はなかなか奥が深い。句読点の打ち方でこのような話になる。

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■藤原道兼の子孫・庄林隼人のこと

2024-04-26 06:37:24 | 人物

 熊本市横手の禅定寺に加藤清正の有力家臣・庄(莊)林隼人の大きなお墓がある。
飯田覚兵衛・森本儀太夫とともに加藤家三傑と呼ばれた人物である。
                  

 この庄林隼人が、まさに現在の大河ドラマを騒がせている道長の兄・道兼の三男のご子孫であるということを御存知の方はそう多
くはあるまい。
庄林家の名誉のために申し上げると、藤原道兼が紫式部の母を殺害したという事実はなく、ドラマの脚本家・大石静氏の創作である。

 庄林隼人のご子孫に関わる資料が二つあるが、一つは(1)「御擬作高百石・庄林曽太郎」家の先祖附である。
もう一つは、(2)「庄林氏由来」という庄林家四代にわたる詳細な記録で、明治32年当時醫科大学教授・近藤次繁氏が所蔵されていた
ものが写本となっている。東京大学図書館所蔵印が押されている。


初代隼人佐を除き、全く異なる資料が二つあるというのは、家系が二つ在ったことを示している。
(1)、「御擬作高百石・庄林曽太郎」は、旧熊本史談会の機関誌「石人」№243に掲載されている山田康弘氏の「莊林隼人佐について」
に詳しく説明されている。
まずは菊鹿町(現山鹿市)の原という部落に隼人佐の荼毘塚があることに触れ、曽太郎家の先祖附から庄林家の歴史を辿っておられる。
男子が早世し、隼人佐の娘聟が庄林家を継いだが火難に遭遇し没落するも、隼人から四代をへて細川家に仕官し家勢を取り戻し今日に至
っている。ご子孫で菊池市旭志にお住いの Y 様から種々資料を拝受した。


(2)「庄林家由来」は、初代隼人佐(一心)が養子を迎えている。こちらは曽太郎家とは違い、道兼のDNAはまったく入っていない。
二代目・隼人(一方)は山口(加藤)与右衛門の男子(太郎平)であり清正の娘を室としたとある。
加藤時代、名家・庄林家の名を絶やさないようにとの配慮があったことが伺える。
太郎平の姉が清正の養嗣子・百助(のちに離縁)の室となって、若上様と呼ばれていたことが記されている。

 「庄林曽太郎家・先祖附」「庄林家由来」ともに初代・隼人佐の没年は不明としているが、禅定寺の墓碑には寛永八年没とある。
細川家が肥後に移封されて入国した時に、御城の案内役を勤めた隼人は二代目ということになる。
そして、正保二年細川三斎が死去すると細川光尚の意により離国することになる。
嫡男・隼人一吉は志水伯耆守(日下部与助)女・菊を妻女とした。
姉娘は矢部城主・加藤越後室、妹娘は大友宗麟二男道孝孫・松野亀右衛門に嫁いだ。

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■にたつよりもやあたつ

2024-04-25 06:26:38 | 歴史

 保存資料を整理していたら下のコピーが出てきた。18×15㎝ほどの紙に書かれているがれっきとした公文書である。
御刑法方根取から御昇副頭に当てた、処刑に関する指示書である。

                                                   
 この文書の日にちが大変興味深い。嘉永四年四月十六日とあるが、この日に宝暦の改革以来80年ぶりとなる火炙りの刑が実行された。
宝暦の改革における肥後藩の「御刑法草書」は近代自由刑の発祥として知られるが、放火や残忍な殺人などは「火刑」が継続された。
先のコピーとは別に、一緒に出てきた宇野廉太郎の「肥後藩におけるー空前絶後の火炙りの惨刑」という文章にくわしい。

 地回り役者の松五郎という人物は、なかなかの男前で女たらしで、女と遊んではだましては金をせびったりして生活していたが、或時
金に困り、知り合いの女から金を奪い家に放火して焼き殺してしまった。
数件の類焼にも及んだらしい。
松五郎は逃亡したが、筑後の役者仲間の所に居ることが判って捕らえられた。そして下河原の処刑場で「火刑」となったのである。
その日は長六橋の上は見物人でごった返したという。火刑の模様も宇野氏は語っているが、これはやめておこう。
見物に来ていたある女が、竹矢来の外で泣き叫ぶのを見て、獄吏が「広い世間には松五郎に似た男もいるだろう」と慰めたところ、女は
にたつよりもやあたつ」と語り、のちには気が狂ったと宇野氏は書いている。

この言葉、熊本人でもよく理解ができないであろうが、「~たつ=達」であり「達=~したもの」の意であろう。
「似た者よりも焼いた者」ということになるが、女は「似た人ではなく、(火刑で)焼かれた人」松五郎以外にはないといっているの
である。

ところで上記古文書だが、次のように記してある。

    嘉永三年十一月於井出口為刑被 仰付候節
    ■人之中於途中致病為之由之処其侭斬
    罪被 仰付候ニ付■不安意之筋有之御昇
    副頭ゟ問合せニ相成居候処左之通
    為刑被 仰付者當日若於途中急症
    ニ而相果候節御取放之儀先達而御問合ニ
    相成居申候処右躰之者假令途中ニ而
    急病等差起相果候共無構場所江引出
    為刑被 仰付置候ニ御座候左様御承知
    可被下候以上
      嘉永四年     御刑法方
        四月十六日    根取中
       御昇副頭衆中

 罪人が途中で病気になったらどうするかとの、執行役の御昇衆の副頭からの問合に対し、たとえ病気でも死去していても火刑にするよう
にとの決定事項の通達である。(火刑の執行は御登衆が行う)

松五郎の処刑の日と同じ日付であることから、松五郎に対しての処断であることに間違いなかろう。
「御刑法草書」とはいえども、このような極悪な事件に対しては救いようがなかった。

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■保存資料の整理-2

2024-04-24 08:51:44 | 徒然

(5)1、中川吟之助家先祖附
    2、牧新五家先祖附 一族の記録冊子‐釣耕園にはぐくまれた思い出の「むら」 その他資料
    3、三卿家老・有吉家諸資料 ・有吉家文書 ・御家来付帳 ・御馬乗衆家系附 その他
                ・墓地配置図(峰雲院)(霊樹庵)
    4、志水家関係文書 志水凍家(1,200石)・志水新九郎家(1,000石)・志水一太家(500石)先祖附
            系図・その他資料
    5、城 安太家先祖附 城 朝龍氏著「獅子島戦犯獄中ノート 椰子の実に托す・血路歴程」
        同上親族・手嶋楯太郎家・松浦新吉郎家・續 三郎家 先祖附
(6)  加藤民七郎家先祖附 その他資料
(7)  大矢野次郎八家先祖附(天草五人衆・元蒙古襲来絵詞所有者) その他資料
(8)  寺井惣九郎家先祖附 その他資料

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■優雅な家紋「花散里」

2024-04-24 06:51:46 | 家紋

                  Amazon.co.jp: 家紋シール 佐竹義宣 源氏香・花散里 15cm x 15cm ...
 今年の大河は見逃さないようにと大いに気を付けている。それと共に「源氏物語」も第11帖「花散里(はなちるさと)」まで読
み進んだが、この条はいかにも短かくて呆気なかった。
さて、この「花散里」は当然ながら源氏香の「香の図」に54個が存在するが、これを家紋とするお宅がある。
このデザインは香道からきているが、五ッの香を聞き五ッの縦線に同じ香があれば頭を横線でつなぐ。
上の図からするとニ種類の香が二回と一種類の香が一回出されたこと、
つまり五回の内に三種の香がたかれた事を示している。
そしてこれが「花散里」である。

 家紋としてはなんでも「香の図」の内、八つしか使われていないと聞くが、代表的な家に、佐竹氏・佐々氏・堀田氏・竹本氏がある
そうだが、細川家家臣にニ家ある。過去に御侍帳・家紋から考えるでご紹介してきたが両家とも「花散里紋」である。

森崎喜左衛門は、(南東64-101 *)
 森崎杢大夫家並びに(南東24-12)森崎萬五家に同名の人物が有り特定できない。家紋は「三つ鱗紋」「源氏香(花散里)紋」か

■冨田小左衛門は「冨田新三郎家(南東10-4)」の何代目に当たるのかは、代々が小左衛門を名乗って居り特定しがたい。
 家祖は福嶋家牢人・冨田与兵衛・重冬、三卿家老・3代有吉立行の女婿で、この冨田家は四男の家系である。すぐ上の兄(重時)
 は5代有吉英貴の養子となり有吉別家を興した。
 富田家の家紋は「丸に源氏香・花散里」「隅立て角に源氏香・花散里」である。

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■保存資料の整理-閑話休題

2024-04-23 12:57:23 | ご挨拶

 昨日に続いてジュース缶が入っていた段ボールに収めた資料を整理する。
この度は(1)~(4)のようにはスムーズにはいかず、いろんな資料が雑多に入っているから、是をいちいち確認して詰め替えるというとんでもないことになってきた。
そして、行方不明になっていた資料が出てくるに及んで、懐かしく手に取って眺めていると作業は一切先に進まない。
ブログでご紹介したい史料も見つかって、これを引き出してそこいらに置いておくと、もうデスク回りは紙の山である。
箱を入れ替えたり、取り出して新たにファイルを作って本棚(資料棚)に入れなおしたり、思いがけない作業に発展してしまった。
今日は一日これで費やしそうだが、このままで終わらないかもしれない。
問題は15年間の「史談会資料」だ。捨てるわけにもいかないが、史料だなの多くを占領している。少々「嵩を小さく」する必要がある。
少々疲れる作業だが、宝箱をひっくり返した感がある。今晩は良く寝られることだろう。

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■生田又助覺書(8-了)

2024-04-23 08:37:38 | 史料

一、八月廿三日板倉修理切腹之事 仮付先立無刀麻上下
           留守居       岩崎彦右衛門     注:以下お預けの水野監物御家来衆
         白張屏風建廻場所致   奥山三平
         切腹相濟候所江仕廻致候 大武勘次
                     三崎太右衛門
                     中林又助
           諸立用人      山田太治馬
           給人        五十幡万右衛門
           大小姓       山路兵太夫
         切腹いたし場所江罷出節 鈴木又八
         付添出る無刀麻上下   鈴木清右衛門
               股立取る  岩崎小弥太
                     大沢宇内
         三方脇差持出ル中小姓  大内伴蔵
         介錯仕候        吉田弥次右衛門
       刀を持脇指を差麻上下中小姓 平崎文太
       迦罷焼香■持出ル袴着
  
   監物様御宅江御越被仰渡       水野對馬守様
                     土屋美濃守様
                     橋本阿波守様
                     八木十三郎様
                     御徒目附四人
                     御小目附二人
  右之通之事
   但板倉修理葬候寺は駒込乗物丁永西寺と申候 禅宗之由尤板倉寺ニ而も無之水野監物様御寺ニ而勿論無之監物様御家来之
   存寄候寺之由

一、板倉修理屋敷御預り          花房近江守
                     堀田兵部
  右両人江御預ヶ朝夕は食物之御両人之御方ゟ焼出シ其外小屋ニ而は湯茶煙草の火も置不申ニ一切武具刃物取上ヶ申候由水野
  監物様江板倉修理殿御預被成候と覚書之由御屋敷内ゟ有之候写之置候之事
一、右ニ付刀番之者被申付右之趣急度屋敷江申遣留守居之者 御城江呼寄即刻留守居罷出請取之人数 御城江差越左之通
             (中略)
  乗物ハ常ゟ丈夫成錠前有之青網持参刀箱壱錠前有之鋏箱錠係ル
  右通御城江請取ニ遣ス 平川口ゟ入組右之外ニ傍足軽餘斗ニ遣ス是ハ扣在候
一、修理殿事大目附御立合後御渡被成候乗物ニ乗せす候 細懸ヶ平川口ゟ出シ御徒目附四人御小人目附十四人付添ヒ差越候乗物ニ
  錠おろし
一、此方ゟ持参之刀箱ニ御■物を入右御徒目附被参御屋敷ニ而御■物請取尤請取候段御拵等委細ニ書付受取書御徒目附ニ相渡候
一、途中前後御留守居用人物頭大目附給人徒士先江立中小姓左右ニ囲ム
一、御預人有之候段先達而屋敷を申越候ニ付差急キ小書院之内四方板張ニ大竹打入口は二重ニ一口手水前雪隠ハ囲之脇
一、昼夜番人は頭一人大目附一人横目一人給人二人中小姓二人其外惣外■足軽番人不知致御預人有之住近承之早速呉脇前江申付
  御差遣御衣類夜具共ニ出来有寄置 
一、公儀御伺之上御食事等夜食一汁三菜此間ニ度ニ御菓子出箸は長サ三寸
一、右御食事度毎々如何様御菓子如何程致参候と也儀扣ニ置
一、御預人有之候内御登城其外御他行無之家中屋敷之者用事門外ニ而承置賣人門内ニ不入
一、修理殿元取之結髪ゟ御切候と相見候 御年二十二歳
一、御刀ハ無銘安き物弐尺三寸脇差ハ一尺七寸丹波守吉道也
一、御鼻紙袋印籠有之
一、御懐中ニ三寸程之鏡奉御紙ニ包ミ有之候
一、十五日之暁監物様御逢被成候
一、切腹被 仰付候哉と仕度等も出来有之候由以上
    夘八月十五日
  右之通不慥候得共写之置候 

              (以下御坊主衆の処分などについては略す)
                     (了) 

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