俳聖芭蕉がその行動を非難される有名な句がある。
猿を聞く人捨て子に秋の風いかに (猿の声に哀れを感じる人々よ、秋風の中に響くこの赤子の声を、どう感じますか。)
三歳くらいの捨て子と思われる幼子に出合い、芭蕉は僅かに懐の食べ物を与えて通り過ぎたという。その折の作句である。
「 ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ。」としてこれが見捨てて去ったと解されている。
生類憐れみの令が捨て子救済を促進した一面があるとされるが、それは「赤ん坊は授かりもの」として、捨て子等はその地域で養育させることが義務付けられている。
10歳になるまではその町や村で養育しその間里親を希望するものがあれば、これに託されたという。
芭蕉は丁度その時代の人だが、近くの村まで手を引いて誰かに後を託せばよかったろうにという議論も起こりそうだ。
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去十一月廿ニ日夜、川尻下町今村徳次郎戸口際ニ捨子有
之候処、同町千太郎と申者養育いたし度段書付被御達置
候、依之金子三両三歩被添下候条、往々心を付養育いた
し候様可有御達候、以上
明治二年巳也 町方
四月五日 参政中
飽田
御郡代衆中
これは随分時代が下っているが、熊本は河尻の話である。明治元年の十一月捨て子が見つかり手を盡して親を探したが見つからず、「近隣之乳持を相頼ミ養育仕居申候」と面倒を見るうち、二年三月に至り、岡町の千太郎なる人物が養育したい旨を申し出たという。五年前に妻帯したというが子供が出来ないからという奇特な申し出である。
川尻町奉行や郡代など慎重に身元調査などをしたうえ「千太郎儀勝手向も兎哉角押居候、夫婦共ニ慈愛厚、兼而心得方宜由」として、間違いなく養育してくれると判断を下したのであろう。
一ヶ月後町奉行の上記決済を以て、この不幸な赤子は千太郎夫妻に渡されることになった。
三両三分というかなりの多額な金額が手渡されるようだが、どの様な基準で決められたのかはきとしない。
残念なことにこの赤子は六月に至り死去している。この奇特な行為が花を咲かせることが出来なかったのは、残念の極みである。
こういった村や町で育てるという考え方は日本独特のもので、西洋では類型が見られないという。
熊本では「赤ちゃんポスト」の存在が頻繁に報道されているが、理由は兎角として命が失われないようにするという考えは崇高なものである。
江戸の捨て子たち―その肖像 (歴史文化ライブラリー)