津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■少々ばて気味ですけど

2017-05-31 18:59:46 | 徒然

 昨日はチャリンコで約20キロ程を走破、今年一番の暑さとかで帰り着くとすっかり草臥れてしまった。
それでも今日は午後から図書館まで出かけて約一時間、いろいろな史料をコピーしたり二冊の本を借りて退館。
これからが難行である。昨日の疲れか足がパンパンでこむら返りを度々起こして散々である。
過日のパンク並みに自転車を押して約30分、少々ばててしまった。

自転車は私の「膝」にとってはリハビリみたいなものなのだが、こむら返りは何とも避けようがない。
以前ご厚誼をいただいている山梨のA先生からお電話をいただいた際、「芍薬甘草湯」がよいと教えていただいた。
まだ購入していないが、常備しておかなくてはいけないなと思っている。というよりも常備携帯が必要のようだ。
帰宅してから30分ほど、椅子にもたれてうたた寝・・・明日もチャリンコでお出かけの予定ですけど? 

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■肥後の里山ギャラリー・催し物

2017-05-31 18:54:31 | 展覧会

                                  熊本の水と緑の風景展Ⅲ

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■丸に笹紋

2017-05-30 08:21:48 | 家紋

 この家紋は「藩譜採要(一)」に細川家第一の家紋として記されている「丸に笹紋」である。
「五三の桐紋」や「引両紋」は足利一門として使われていたものであり、「義季初而細川を御名乗候得者 此御時分より笹の御紋・松笠菱(細川向かい松)等御付被成(後略)」とある。この家紋の存在は綿考輯録にも記されてはいるが、画は紹介されていない。
下の家紋は世襲家老御三卿筆頭・松井家の家紋である。
これらの事から察するに、松井家家紋は細川家から下賜されたと言うことだろうか。
しかしながら図柄は少々アレンジされ丸の部分を竹に見立てて節が描かれている。どなたかご存じであればご教示いただきたい。

  

 

 参考:■細川家の家紋 

     ■細川家の家紋・付け足し






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■建築文学傑作選 (講談社文芸文庫)

2017-05-29 19:57:20 | 建築
  建築文学傑作選 (講談社文芸文庫)
 
       講談社


ほとんど現役引退の建築士ですが、図書館に出かけると「新建築」などを手に取って眺めていますよ。
こんな本の存在を知ると、大いに食指が動きます。非常に興味があり読書後数冊の本を購入するということになりそうな気がしています。


内容説明

建築学科の必読書は谷崎「陰翳礼讃」であるという。文学と建築。まったく異なるジャンルでありながら、そのたたずまいやなりたちに文学を思わせる建築、そして構造、手法に建築を思わせる文学がある。構成、位相、運動、幾何学、連続/不連続―日本を代表する建築家が選び抜いた、既存の読みを覆す傑作“建築文学”十篇。

著者紹介

青木淳[アオキジュン] 
1956・10・22~。建築家。1982年、東京大学工学部建築学科修士課程修了。磯崎新アトリエに勤務後、91年に青木淳建築計画事務所設立。個人住宅を始め、青森県立美術館に代表される公共建築、いくつものルイ・ヴィトンの商業施設など作品は多岐にわたり、世界的な評価を得ている。99年に日本建築学会作品賞、2004年度に芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。15年には読売新聞読書委員を務めた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

出版社内容情報

ルイ・ヴィトンビルの設計などで世界的に知られた建築家・青木淳氏が厳選する、、建築文学の傑作10篇。建築学科の必読書は谷崎「陰翳礼讃」であるという。
文学と建築。まったく異なるジャンルでありながら、そのたたずまいやなりたちに文学を思わせる建築、そして構造、手法に建築を思わせる文学がある。
構成、位相、運動、幾何学、連続/不連続――日本を代表する建築家が選び抜いた、既存の読みを覆す傑作“建築文学”十篇。

収録作品
須賀敦子「ヴェネチアの悲しみ」
開高健「流亡記」
筒井康隆「中隊長」
川崎長太郎「蝋燭」
青木淳悟「ふるさと以外のことは知らない」
澁澤龍彦「鳥と少女」
芥川龍之介「蜃気楼」
幸田文「台所のおと」
平出隆「日は階段なり」
立原道造「長崎紀行」


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■熊本市政便りから

2017-05-28 14:47:37 | 熊本地震

 明治三年に熊本において成立した実学党政権は、経費削減を謳い熊本城の破却を検索した。竹崎茶堂や徳富一敬の策だといわれる。
一方藩知事となった細川護久は、政府からにらまれていることに対し上記献策を受け入れ、政治的判断として「熊本城廃隳」の願いを政府に提出した。

                臣護久謹按スルニ、兵制一変、火器長ヲ専ニセシヨリ、昔時之金城湯地今巳ニ無用之贅物
                ニ属セリ。如之今日各地ノ城郭アリハ、応仁以来強属割拠、織田氏安土ノ築キアルニ始リ、
                諸豪相倣イ務テ塁壁ヲ高スルニ由ル。即戦国ノ余物也。今也王化洪流三治一治ノ際、乱世ノ
                遺址猶方隅ニ棊峙スルハ四海一家ノ宏謨ニ障礙アルニ近シ。熊本城ハ加藤清正ノ築ク所、宏
                壮西陲ノ雄ト称ス。臣カ家祖以来倚テ以テ藩屏アリ。豈甘棠ノ念無ラン哉。然リト云トモ維
                新ノ秋ニ膺リ、建国ノ形跡ヲ存シ却テ管内固陋ノ民俗ヲ養ヒ、以テ辺土ノ旧習ヲ一洗ス可ラ
                ス。願クハ天下ノ大体ニ依テ熊本城ヲ廃隳シ、以テ臣民一心ノ微ヲ致シ且以テ無用ヲ省キ実
                備ヲ尽サン。伏乞速ニ明断ヲ垂レヨ。護久誠惶頓首敬白。
                   明治三年
                     庚午九月五日             熊本藩知事
                        辨官
                         御中
                 御付札
                  聞届候事
                     

しかしながら熊本城は破却を免れている。ある識者はこの願出はある種のパフォーマンスであるとされる。
先にご紹介した ■高麗門護札ノ事 で触れた、高麗門をはじめとする各門の破却を以て、その誠意を見せたのであろう。
熊本における実学党新政権はまことにあっけなく短命に終わった。この政権が長く続いていれば、熊本城の運命も違った形になったかもしれない。

                      

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■藩譜採要を読む

2017-05-27 16:55:19 | 書籍・読書

 先にヤフオクで落札した「藩譜採要(全六冊)」は、大事に/\に収納している。
宇土市史に一部翻刻されたものが紹介されているが、ほんの一部分である。読み下しにチャレンジしてみたい気はあるのだが、膨大な量で腰が引けてしまう。大事/\では宝の持ち腐れだから、風通しもかねて今日は目を通してみようと取り出してみた。
細川家の歴史については「綿考輯録」を金科玉条のように読んでいるが、時折間違いもある。
この「藩譜採要」においても具体的に例を挙げて指摘している。
今日は奥方も外出したので二三時間読んでみたが、読めない字があるたびに「くずし字解読辞典」や「用例辞典」のお世話になりながら(それでもわからない字はメモに取り読み飛ばし)、凡例2頁、本文8頁ほどがようやくであった。(但しタイピングはなし)
未だ「應永年」がようやく終わった処である。

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■松寿庵先生・第238講

2017-05-27 08:23:45 | 史料

                   

 

 

 

               

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■二の丸御屋形の御出入

2017-05-26 09:52:30 | 史料

            二丸御一門衆御家老衆
            表御玄関ゟ御出之節者
            御廣敷御門潜より御出入
            尤御廣敷御門内者下駄
            木履御憚之事
              但御客間江御通御裏
              御附役御呼出御機嫌
              御伺且御祝儀等被仰上
              御億江御出之節御附役中
              御鑑口ゟ御案内御奥ゟ
              御下り之節元之通中御鑑口
              外まて御案内尤表
              御玄関又者御内玄関ゟ
              御出之節御先供よ里
              相答候得者御内玄関番
              縁取江御出迎御廣敷
              御番拭板迄罷出御間江
              御通之上御附役江相答
              御附役罷出御應對申上候
              事

           一御花畑御裏江御出之節茂
            右之振合ニ被准候事
              以上
             二月
            メ
             右之後猶左之通

            御裏并二丸御屋形江
            御出之節之儀先達而書付
            差廻置候通ニ候処少々狂候付
            猶別紙差廻申候以上
             四月三日   坂本彦兵衛
                    小山多左衛門
             御惣様
               御物書衆

                  胃助様     (松井盈之)
                  監物様     (米田是豪)
                  将監様     (有吉立愛)
            右者御裏并二丸御屋形江
            御玄関より御出之節御廣敷
            御番毎之出張之ケ所江罷出
            御時宜仕御内玄関番御玄関
            端段下迄御送迎申上候

                  御家老衆
                  御中老衆
            右同断御内玄関番御玄関
            御敷居際迄御送迎申上候

            乄
            

                                  

         

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■定彦氏のこと

2017-05-25 16:35:42 | 史料

 この人物に関してはこのブログで何度かご紹介した。朽木家8代の内匠昭久が定彦を順養子にしたいと考えたが、本人が頑として拒んでいる。私は定彦を内匠の養父・7代昭桓の実子だと考えたのだが、ブログをご覧になったHN式部様から、定彦は8代昭久の義兄(相聟)・興章の実子だとご教示いただいた。興章は宇土細川家7代立礼(後宗家10代齊茲)の末弟である。朽木家に養子として入ったが病身となり離縁して実方に帰った。定彦は宇土細川家の系図では宇土家の男子として紹介されているが、朽木家に残ったとされる。
なぜ定彦は朽木家の順養子となることを拒んだのであろうか。結果として細川刑部家の分家初代・興度の養嗣子となっている。
文政八年十月名跡相続 七百俵 中着座同列 番頭 用人 大目附 中老職など藩の中枢で働いている。自身は宗家十代当主・齊茲の甥であり、又刑部家における祖父・興彭は細川重賢の弟である。どういう想いがあったのか窺い知ることはできない。文久二年六月、64歳で死去した。

             定彦をめぐる人間相関図

        +ーーー重賢ーーーーー治年===齊茲   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川宗家
          |                                ↑
          |              興文ーーー+---立禮(本家相続)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宇土細川家
        |             |
        |             +---興章
          |                                ↑
          |                                ↓
        |   昭直==昭桓ーーー+==興章ーーー定彦   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・朽木家
          |                        |                 |             
          |                       +==昭久       |
        |                           |
          |                                          |
          +ーーー 興彭----+---興貞             |  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・細川刑部家(嫡流)
               |                       ↓
                            +ーーー興度=====定彦   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  同上 (分家)
        
    

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■人別銭のこと

2017-05-25 08:21:03 | 歴史

 先に貴重な史料として■人別銭をご紹介した。
私は人別銭についてはまったく知識がない。いつどのような経過で制度化されたのか、この資料からはうかがい知れない。

寺本見聞雑記・閑餘漫録その他の文献に
  「宝暦五年比世上流布の歌新敷名高キ物」として次のような歌が紹介されている。

       学寮や清正祭り柳堀■富講に人別の銭

宝暦五年といえば、後に賢臣として名高い堀平太左衛門が大奉行となって三年目、まさに宝暦の改革の途にある最中である。
この矛盾をどう解すればよいのか・・・

 

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■お安く読む・中公新書「俳句と暮らす」

2017-05-24 21:49:14 | 書籍・読書

  

俳句と暮らす (中公新書)

 
   中央公論新社

 

内容説明

花鳥風月を詠む優雅な趣味の世界―。これが俳句のイメージだろう。だが、日々の小さな発見を折に触れ書き留められるところにこそ、俳句本来の魅力がある。本書では、俳人にして単身赴任中のサラリーマンでもある著者が、「飯を作る」「会社で働く」「妻に会う」「病気で死ぬ」などさまざまな場面を切り取りつつ、俳句とともに暮らす生活を提案。平凡な日常をかけがえのない記憶として残すための俳句入門。

目次

1 飯を作る
2 会社で働く
3 妻に会う
4 散歩をする
5 酒を飲む
6 病気で死ぬ
7 芭蕉も暮らす

著者紹介

小川軽舟[オガワケイシュウ] 
1961年(昭和36年)、千葉市に生まれる。東京大学法学部卒業。俳句雑誌「鷹」にて藤田湘子に師事。1999年「鷹」編集長、2005年湘子逝去にともない「鷹」主宰を引き継ぐ。毎日新聞俳壇選者、毎日俳句大賞選者、田中裕明賞選考委員。句集に『近所』(第25回俳人協会新人賞)、著者に『魅了する詩型 現代俳句私論』(第19回俳人協会評論新人賞)などがある

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■クイズです。さてこの絵図の場所はどこでしょうか?

2017-05-24 07:32:14 | 史料

 

 №1

                  №2

 なんの説明もない不思議な絵図であるが城地の図であろう。城割りされた肥後国内の城だろうと思うのだが、如何だろうか。
№1は一瞬「竹迫城」かと思ったが、違うなー・・・ご存知の方は是非ともご教示給わりたい。

                 

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■y10和本 天草軍記21巻揃 島原の乱 切支丹 古書古文書

2017-05-23 17:42:22 | オークション

                    y10和本 天草軍記21巻揃 島原の乱 切支丹 古書古文書  

                  y10和本 天草軍記21巻揃 島原の乱 切支丹 古書古文書

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■パンク

2017-05-23 13:40:36 | 徒然

 昨日の午後図書館に出かける。その後所用で1キロほど先まで出かけたのだが、自転車の後ろのタイヤがペッタンコ。
かんかん照りの中を我が家まで4キロ強を押して帰る。ふくらはぎがパンパンになって、時折こむら返り状況になりながら1時間半ほどの難行であった。すっかり疲れて昨晩は9:30就寝、今朝は6:20起床、9時間ほど寝たが疲れが抜けていない。
今日はインターネットで近所の自転車屋さんを検索、1キロほどの処に発見、またまた押して行く。
パンクを修繕というよりも、タイヤ・チューブを交換してまずは落着。前輪もと思ったがこれはまた後程・・・
帰りは風を切って帰宅。少々昼寝などして体力回復と参りましょう。

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■メモ・熊本の飢饉に関する記録・5 ー(3)

2017-05-23 09:56:48 | 史料

3、1755年のききん       (細川越中守重賢公傳から)

       御願書左之通
 私領分、当六月・八月両度の損亡、且又破損所等の趣、別紙覚書に申上候通御座候。農民飢渇の上、農具迄取
失候仕合、何れより取立助成可申付様無御座候。此分にては、縦塩塘・川塘可也に修復仕候ても、右損所田畑、
中々急々に耕作等難相成、年々今年の通の損亡に成行候ては、甚難渋仕候。夫迄も飢民助成の致方、年末の不勝
手行届不申候。右に就ては拝借等も、被仰付被下候様、御嘆申上度心底には願奉存候得共、今年は国々の損毛、
私一人に不限儀に御座候間、甚恐入申上兼候得共、前程申上候通、年末の不如意之上、莫大の破損所、類も無之
儀に御座候間、可相成儀御座候はば、何卒拝借被仰付被下候様、御歎申上度奉得御内慮候。以上。
                                      細川越中守 
  別紙
       御覚書左之通
 私国許、当六月強雨洪水にて、損亡高二十三万五百六十石餘、並破損所等夥敷有之候趣、先達而御届申上候通
御座候。尤先年も此節より、損亡高相増候儀も度々御座候得共、此程度に及大破損、亡所永荒等の儀者無御座候。
其上百姓家数千軒及流失、其外の民家も大方家財・農具等悉流失仕、第一及飢候に付、夫食下行等申付候而巳に
て、中々急に農業抔可仕手段も無御座候。所々夥敷崩候て及大破損候儀、先祖以来終に無之亡所にて御座候。其
儘差置候ては、海辺・川辺彌亡所罷成候に付、早速より往還道橋は勿論之儀、潮塘・川塘、其外如元修復の手賦
仕儀に御座候。然処兼々至極不勝手に付、右在中之人民夫々に相救、且修復等之手賦及力不申、甚当惑仕罷在候。
尤右申上候通、如元修復仕候ても、亡所永荒之場所、中々五七年の内田畑には相成兼候に付、当年計の損毛にて
無御座、田畑に相成候迄の内は、年々右亡所永荒之分、所務不足仕儀にて、旁々難儀至極仕候処、又々当八月廿
四日の夜大風雨にて、高十四万七千五百石餘及損亡、其外破損所等有之候段、国許より注進仕候趣、其砌書付を
以御届申上候通御座候。当六月水損、並八月風損、両度の損毛高都合三十七万八千六十石餘にて御座候。先達而  
の水損に付、何れへ手賦可仕手段も無御座候。彌以行当罷在候。依之極々難渋の次第有増覚書を以申上げ候。
    (宝暦)五年十二月廿七日                      細川越中守(重賢)

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