津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

ツツミ様のコメント「平川門」

2010-02-28 23:00:11 | 歴史
 2月16日のブログ「已矣哉」を書いた処、わざわざ現地に出向かれ22日に当ブログにコメントをいただいた。ところが何の手違いかそのコメントと、御礼の当方コメントが消えてなくなってしまった。お詫びを申上げその内容を再掲する。
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この話が気になり、昨日、江戸城本丸へ行き再現実験をしてみました。大広間辺りかと思われる一角に、万治期城内図面のプレートをはめ込んだ石(恐らくかつての石垣の一部)があったので、現在地を確かめると、そこが、まさに旧大広間三之間、四之間の位置。そこから時間を定めて出発し、二の丸を抜けて、梅の花が見頃の梅林坂下まで一旦北上、平川門を出て内堀沿いを大手門辺まで南下し、永代通りを、旧龍口邸のあった丸の内オアゾ前に辿り着くまで、ちょうど30分かかりました。実際には、当時は三の丸の方から大回りしなければならなかったのではないかと思われ、直線距離で10分程の所を3,4倍の時間をかけて帰ったようです。
「定め通り」とは、“亡骸は平川口より送り出す”という決まりごとかと思いますが、宗孝公はまだ存命である、という建て前ながら、江戸城内の規則は破るわけにはいかなかった家臣達のつらい胸中がなおさら思いやられました。
世はあたかも、赤穂浪士礼賛の風潮が高まっていた時期(ほぼ1年後、8月13日に「仮名手本忠臣蔵」初演)。幕府としては、吉良殿と縁戚関係にあった大御所吉宗が健在でもあり、同じような混乱を繰り返さないため、慎重に事を運んだことでしょう。伊達公の「細川公は未だご存命」の言葉は、その後の全ての対応に好影響を与えた大ファインプレーだったように思います。

P・S 尚、津々堂さんには直接の関わり無き事ながら、「熊本城公式ホームページ」、細川九曜についての説明にある、事件の発生日が、16日になっているようです。

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 本日再度次のようなご報告をいただいた。合わせてご紹介し御礼申上げる。

 平川門が死者・罪人を送り出す、不浄門の別名を持つ門であることは、講談社学術文庫「江戸城(村井益男著)」他、江戸城に関する書物で確認できる事で、間違いはありません。27日のコメントに付け加えるなら、通常この門を使用できたのは、大奥女中の他、御三卿、表の定められた役職の者、ということが分っており、そこからお帰りになった、ということは、やはり特別なことであった、と言う他無いものと思います。
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梅原丹七・福地平右衛門一件畧記 ・・ 1

2010-02-28 14:44:43 | 歴史
 今回は細川光尚逝去後、六丸(綱利)跡目に奔走した梅原丹七と、本藩と宇土細川家とで
 肥後国を両分するという話に付き、宇土藩主丹後守を諌め手討ちとなった福地平左衛門に
 ついての史料をご紹介する。 (上妻文庫所収)


   慶安二年十二月下旬
   光尚様於江戸御所労之處被為及御大切候/御容躰
   ニ付小笠原右近太夫殿始終御附添ニ附御心候/其外
   御一門様方御誥被成候/此節長岡勘解由左衛門相詰居
   申候/追々早打を以御國江申越候/同廿四日
   家光公上使酒井讃岐守殿御出被成候/御懇之被
   為蒙 御意候ニ付被成御對面御請被 仰上候
   上ニ而讃岐守殿江被為仰合候者不肖之私儀大國
   被為拝領置 御厚恩之程難有仕合奉存候/依

   之平生何卒相應之御奉公茂相勤申度念頼
   罷在候處ケ様之大病にて残念之至奉存候得共
   可仕様無御座候/倅両人居申候得共幼年ニ而未御奉公
   相勤可申体無御座候/私果候以後領國之儀者差上
   可申候/倅共儀者成長仕候上ニ而御奉公も可相勤無
   御座候へとも可仕様無御座候/此段御聞置可然様御座斗
   頼候段委細ハ為仰仰入御書付を以被遊御渡候ニ付
   讃岐守殿御感涙ニて被成御退去此旨達
   上聞候處殊之外無御心元被思召上候由ニて松平

   伊豆守殿其後阿部豊後守殿為 上使御出候/然共難
   難と遊 御對面同廿六日被御逝去候/右御國
   被差上候との儀ハ被為 仰入候ニ付讃岐守江被為 仰合候様
   御書付之写且御國之儀無異儀差上候様續助左衛門
   柘植勘平両人為上使を差下委細被仰下候  
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つづいて・・

2010-02-27 13:51:58 | 徒然
「生田又助覺書」をタイピング完了。上妻先生は奥書で、昭和十年五月この弐拾弐枚を三日で筆写されたと記されている。お家流の見事な筆つかいによってである。私は五日ほど費やしてしまったが、改めて上妻先生の凄さに驚いている。後のいろんな研究者はこの覺書を引用されている。生田又助が君側にあって一番つらい立場であったことから、この覺書の記述もその思いが満ち溢れているように感じられる。若干18歳の若者の仕事であるが、現代人はなしえるであろうか。

 時代が逆になってしまったが、次は光尚亡き後の遺領相続に関する秘書をご紹介しようと思う。これは後の大奉行堀平太左衛門が密かに書き残したものだとされる。特に後段の宇土支藩の重役謀殺事件は、当時藩内では秘匿されていたようで、光尚の跡式決定までの紆余曲折振りが伺えて興味深い。細川家の安泰は、このような犠牲者があってのことであった。

 古文書がもたらす真実は、研究者の論文や小説家の巧みな装飾でも窺い知れない、熱い血の流れを感じる。事件の深奥は古文書にのみ存在するように思える。
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生田又助覺書 ・・ 5 (了)

2010-02-26 14:30:24 | 歴史
一、八月廿三日板倉修理切腹之事仮付先立無刀麻上下
           留守居             岩崎彦右衛門
           白張屏風建廻場所致     奥山三平
           切腹相済候所より仕廻致  大武勘次
                             三崎太右衛門
                             中林又助
           諸立用人            山田太治馬
           給人               五十幡万右衛門
           大小姓             山路兵太夫
           切腹いたし候場所江罷出候節  鈴木又八
           付添出る無刀麻上下     鈴木清右衛門
                    股立取ル   岩崎小弥太
                             大沢宇内
           三方脇差持出ル中小姓   大内伴蔵
           介錯仕ル            吉田弥次右衛門
           刀を持脇差迄指麻上下中小姓 迦罷焼香■持出ル袴付
                             平崎文太
      監物様御中老江御越被仰渡
                            水野對馬守様
                            土屋
                            橋本阿波守様
                            八木十三郎様
                            御徒目附四人
                            御小(人・脱カ)目附二人
   右之通之事
      但板倉修理葬候寺者駒込乗物丁永正寺と
      申候禅寺之由尤板倉寺ニ而も無之水野監物様御
      寺ニ而勿論無之監物様御家来之存寄候寺之由
一、板倉修理屋敷御預             
                            花房近江守
                            堀田兵部
   右両人江御預ケ朝夕者食物之御両人之御方より焼出シ
   其外小屋ニ而者湯茶焼草の火も置不申に一切武器
   刃物取上ケ申候由水野監物様江板倉修理殿御預被成
   候と覚書之由御屋敷内江有之候写之置候事
一、八月十五日御禮相済候上御老中列座板倉修理御預
   被成候旨被仰出候也
一、右ニ付刀番之者被申付右之趣急度屋敷江申遣留守
   居之者御城江呼寄即刻留守居罷出請取之人
   数御城江差越左之通
         (人数立 略す)
   乗物常より丈夫成錠前有之青網持参刀箱壱錠前
   有之挟箱錠■ル
   右之通御城江請取ニ遣ス平川口より入組右之外ニ傍
   足軽餘斗ニ遣ス是ハ扣罷在候
一、修理殿事大目附御立合御渡候乗物ニ乗せむ候
   細(網カ)懸ヶ平川口より出し御徒目附四人御小人目附十四人
   付添被差越候乗物ニ錠おろし
一、此方より持参之刀箱御腰物を入右御徒目附被参御座
   處ニ而御腰物請取候段御拵等委細ニ書付
   受取書御徒目附ニ相渡候
一、手前屋敷裏門より入申し候事
一、途中前後御留守居用人者頭大目附給人徒士
   先江立中小姓左右固ム
一、御預人有之候段先達而屋敷より申越候ニ付差急キ小出
   院之内四方板張ニ大竹打入口者二重ニ一口手水所雪
   隠者囲之内
一、昼夜番人者頭一人・大目附一人・横目一人・給人二人・中小姓
   二人其外惣外■足軽番人不知■御預人有之住近承
   之早速呉服所江申付御差替御衣類夜具共ニ出来
   有寄置
一、公義御伺之上御食事等夜食一汁三菜此間ニ度
   々御菓子出箸は長サ三寸
一、右御食事度毎ニ如何様御菓子如何程致参候と之
   故扣置
一、御預人有之候内御登城其外御他行無之家中屋敷
   之者用事門外ニ而承置買人門内ニ不入
一、修理殿元取之結際より御切候と相見候御年二十二歳
一、御刀ハ無銘■せ物弐尺三寸脇差ハ一尺七寸丹波守吉
   道也
一、御鼻紙袋印籠有之
一、御懐中ニ三寸程之鏡奉書紙ニ包ミ有之候
一、十五日之暁監物様御逢被成候
一、切腹被仰付候哉と支度なども相成有之候由以上
       夘八月十五日
   右之通不慥候得共写之置候
一、御城御坊主御吟味之書付左之通
       夘九月十五日本多伯耆守様差圖御目附
       菅沼新二郎立合御坊主一件落着と
       仰渡書付之写表坊主
               星野休悦
   其方儀先月十五日大廣間御廊下前迄罷越候処
   細川越中守呼候而手拭を渡候ニ付用事相達候儀
   被■御■之掾ニ扣罷在候處小用所之内騒敷候間
   睍キ見候処誰ニと見分者無之候得共両人御切合候
   様子ニ見請候ハゝ御目附又者御徒目附成共早速
                             イカゝ本ノママ
   可申達候処無其儀動悸いたし其場を置跡へ落文刀
   参り罷在候段不行届仕方不埒に付扶持被召放
           
            表坊主 上田清喜
   其方儀先月十五日四早以上之揃点懸役相勤申候藤廉
   乃御板戸外ニ罷在候處蘇鉄之間騒敷候ニ付罷越
   承候得共誰と者相知不申候手負人有之由承り大
   廣間騒敷有之候故御三家方殿上之間へ御出可被成
   と心付候故注進仕其後ハ御目附差圖ニ而蘇鉄之
   間御襖立切仲間代/\附罷在始終騒動之場江罷越
   不申旨申候得共右之通点を懸役ニ而罷在候之処其
   場を明騒動之儀を可承と蘇鉄之間迄罷越候段不埒
   ニ付叱置  
            表坊主 吉田長佐
   其方儀先月十五日四早以上之揃点かけ役ニ而廉之御板
   戸内江入見申候得共誰共見定申儀者無之候得共手負
   候者を見懸候旨申候左候而早速御目附又者御徒目附
   江成共可申達候処無其儀不埒ニ有之候併四早以上点
   を懸候儀を専一と考罷在候儀ニ付叱り置 

            表坊主 早野久勢 内田玄徳 宇田川玄覚 長谷川鶴三 出田友巴 出田門賀 
                村山長古 松下閑士坊 江坂松房 石井永立 佐藤元知 梯沢宗ニ
                黒木閑斎 廣野貞佐 秋山甫仙 長坂清巴 横田宗仙 奥村喜三
            御数奇方御坊主 
                松井道悦 鈴木一斎 益池弓意 長野宗■ 岸本宗清 利倉善佐 
                岸本盛純
   其方儀先月十五日細川越中守手負候節場所江
   罷在不申候不埒之儀も無之候ニ付構無也
       夘九月

一、八月十五日之御刀者當朝之由是者     
   三齋様御差料之由御脇差ハ備前長義之由也

      生田又助隠居しテ長風と云

   右者元治二乙丑三月吉田庄太郎より
   借請写之置候也                
               (宮村典太氏雑撰録を上妻博之氏再写・上妻文庫所収)
  
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生田又助覺書 ・・ 4

2010-02-26 07:32:35 | 歴史
一、十六日昼八ツ時前より被及御大切旨御一家様方其外御心
   安き御方御知せ有之候尤御用番本多伯耆守様江も
   御達有之候事
一、十六日七ツ時迄ニ被成 御逝去候ニ付御用番本多
   伯耆守様江細川采女正様より以御達被成候事
     但為御見舞小笠原右近将監様江者十五日御父子様
     共ニ御出十五日も朝飯後御出松原阿波守様も御出後ニ
     被成御座八時前御帰被成候以後被為御大切候御知
     せ付又々阿波守様右近将監様御出十五日者両度御出
     被成候事
一、上野御預り之処御逝去ニ付松平太膳太夫様江被仰付候
   由十六日夜御沙汰有之候得共此方様へ者御沙汰無之太膳
   太夫様之方御手賦迄ハ主馬(重賢)様より御人数被差出候様ニと之
   御事ニ而翌十七日彼方様江御引渡相済候事
一、御大変之御使者御国許江御使番瀬戸角右衛門十五日
   暮候而被差立候御逝去之御使者村井伎兵衛十七日暁
   被差立候事
一、御家中之面々月額之儀別申間敷候御家人者十五日又
   者御出棺迄ニ御觸有之候事
一、十八日御入棺被成候妙解院に参候事
      但 御法號今日大川座元被差上候事
  隆徳院殿廓殃一義周大居士
一、廿日為 上使重森兵部少輔様御出御香奠銀五拾枚
   御拝領被成候事
 (細川重賢誕生)
一、主馬様御儀御定式之御服忌被成御請候様ニと被
   仰出候依之今日より 殿様と奉唱候様ニと廿日監物
   殿より御沙汰之事
一、御用番御老中本田(ママ・多)伯耆守様より御留守居呼ニ参候都甲
   太兵衛参り候処御一類様之御内御出被成候様ニと之御
   事ニ付山城守(織田信旧)様御出被成候處御出付ニ而被仰渡候
   左之通
      板倉修理儀切腹被 仰付此段細川主馬江可被
      相達候
   右之通之御書付山城守様御持参御出被 仰出候ニ付
   御家中之面々御中小姓以上大書院ニ而監物殿被仰渡候
   其已下江者織衛殿被申渡候事
      但武田叔安老より以去ル廿日御老中様より御内々ニ而被仰
      聞候者修理儀切腹此間ニも被仰付趣之処此節
      傳奏之公家衆御留之御内故被押■延引候右之段極御
      内々ニ而御申達候様ニと堀田相模守様被仰聞候由相
      模守様者去ル十五日之御用御聞懸ニ付右之通之由
一、板倉修理切腹之儀被 仰渡候由之書付御留守居中より見
   せ被申し候間写置候左之通
                     板倉修理
      去ル十五日於殿中細川越中守江手疵為負候乱心と者
      いへとも越中守依相果切腹被仰付者也

      右之趣可申渡旨本多伯耆守殿・水野壱岐守殿・水野
      對馬守殿・橋本阿波守・八木十三郎ニ被仰渡水野監物
      宅ニ相為て切腹之儀右両人立合右之書付對馬守
      申渡之
           但右両人を有の候ハ阿波守殿十三郎御両人之御事
           ニ手監物様御宅江者御三人御出之由
一、廿七日朝五ッ時御出棺ニ而妙解院江御葬送有之候九ッ
   半時分彼方江御着棺暮前ニ参事相済申候右之御供
   相勤候事
     落髪之面々
   竹原清太夫  松野岐五郎  伊藤忠右衛門
   村角太夫  佐田宇兵衛  元田万平
   御葬送前日病死
   鎌田早之允  右田牛之助  小林半右衛門
   右九人願御免之内早之允病死残八人致落髪候事
一、姫様御儀
   静證院様と御法号妙解院大川座元被差上候由
   監物殿より御沙汰廿四日有之候事
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秀吉英雄伝説の軌跡

2010-02-25 17:22:26 | 書籍・読書
                          秀吉英雄伝説の軌跡
                           著者:津田三郎
                           出版:六興出版

                       (古本・・日本の古本屋にて購入)
         細川家につながる吉田神道の梵舜や萩原兼従の事跡が詳しい。
            細川家菩提寺泰勝寺の裏山に有る、豊国廟の余りにも無残な現状が痛々しい。  
            加藤家没落の一因ともされる豊国廟を理解する上で、興味深い著である。


【内容】
  傷ついた英雄像の変転
  伏見城で歿した豊臣秀吉は、死後、生前の輝きとは余りにも対象的な
  影につつまれた。その生涯を嫌う者、恨みをもつ者、また賛美する者、
  哀惜する者、さまざまな人々が織り出す数奇な運命を浮き彫りにした
  渾身の歴史ドキュメント。

【目次】
 ■謎が解けた豊国神社破却の真相
 ■秀吉に殉じた別当・神龍院梵舜
 ■宮司・萩原兼従のその後の足跡
 ■白紙ぬされた豊国神社再興の沙汰
 ■盗掘されていた秀吉の廟墓
 ■庶民に愛された「太閤記」の秀吉
 ■難航を重ねた明治の再興
 ■豊国会による廟墓の発掘と修築
 ■空前の賑いをみせた豊太閤三百年祭
 ■大阪白天守閣の再建
 ■二度あった豊太閤三百五十念祭
 ■結び

 ・醍醐寺座主義演と豊国明神社
 ・丹波竹田に祀られていた萩原兼従
 ・豊国神社史誌
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生田又助覺書 ・・ 3

2010-02-25 09:34:43 | 歴史
一、五時ニ御登城四ツ半比御帰被成候右五半前より■候處
   隙取申候儀者御相手板倉修理脇差ハ御掾ノ下迄
   両度御吟味有之候得共不相知候ニ付灯燈ニ而床之下
   之隅迄御吟味之所ニ小用所之奥雪隠之内より■■
   を掛入居申候由右之所者 隆徳院様被成御座
   遍之掾ノ下よりハ折曲リ十五間程有之奥は暗ク有之吟味
   ニ隙取候由 小用所迄ハ四五間有之由三度目ニ尋出ス
一、板倉修理被召捕御吟味所ニ口書左之通ニ付口書
   ニ成り候由御城坊主持参御留守居中江見せ候由
        口書        板倉修理
   私小用所江参居候處何者候弥切付候ニ付抜合申候人ニ
   手疵を付候而者不通儀と懐中より鋏を出本取を切小
   用所之奥江隠居申候尤脇差を持居候事も如何ニ存
   其所に持置候其後之儀者覚不申候已上
       八月十五日
   右之通之由懐中ニ六寸程之鋏も有之候右之通故即時
   ニ乱心ニ相極り候由 但袖ニ大栗石壱有之候由
一、隆徳院様江御目附衆参り被見候へとも御惣身血ニ御染
   り被成誰共分り不申候殿方ニ而御座候哉と御尋候得者
   細川越中守と被仰候いか様之儀ニ而ケ様ニ御手疵被負候哉
   と御尋被成候得共小用所之後より切付申候見知不申候男
   上下着居申候由被仰候意趣之御覚者無御座候哉
   と尋申上候得とも少も意趣有方御覚無御座何卒
   組留メ可申存候内深手ニ而心外之儀ニ付各方江も不慮
   之御難題ニ相成申候由善兵衛参り御留守居中江咄申候
   事
       但殿中ニ而始終之被成方少も御臆シ不被成御落着被
       成候御事御すが御代ニ御武功之御家故と奉感
       候由町方迄も唱候由之事  
一、御城坊主宇田川玄覚御留守居中江自分之覚書
   持参左之通り
      御内々申上候覚
   去月十五日
   太守様御事大廣間於小用所数ヶ所御手疵被為受
   候処乱心と御見受被遊御家を御大切ニ思召御相手
   江薄手ニ而も御付不被遊其上御相手之脇差を御打
   落候夫より御相手ハ無腰ニ而小用所之奥江被退
   太守様江者代廣間奥掾之上迄御出御脇差を被為
   持御座着被成候右之御様子御目附衆馳付御見受
   被申御尋被申上候趣有之候処御相手ハ御知候人ニ無之
   候勿論何の御覚も無之由委御返答被遊候右之趣
   彼是無残所被遊方とて松平兵部太輔様殊之外御肝
   心被遊御同席様方江御吹聴有之候由傳中守
   之御沙汰ニ候
      兵部太輔様御肝心被遊候儀者此紙面斗之儀ニ而者
      無之此外ニ御大切之儀有之其趣ハ書面ニ者難申
      上候
   右之趣者私不罷出以前之儀故承及候儀ニ而御見上ケ
   不申候付不申上候乍然此段各様未御聞及も無之哉と
   存尚又助様迄申上候已上
      夘九月           玄覚
        太兵衛様
        傳左衛門様
        郡兵衛様

   右之覚書之内兵部太輔様御肝心之儀口達ニ申候と
   兼而兵部太輔様江者 隆徳院様別而御心安御座
   候処平日 公義を御大切ニ思召候儀不残事ニより
   此節之御落付被成候御被成方国家を御大切ニ思召
   候節御平生之御様子相揃細川家代々武功之御家柄
   故と一入被感入候由御同席様方へ呉々御噂御吹
   挙被成候由玄覚申候事
一、八月十五日御退出龍之口屋式江被為入候而無程織田山城守
                ja.wikipedia.org/wiki/織田信旧
   様御出被成候表御玄関より御通り被成候左候而長岡
   監物殿郡織衛様方江被仰聞候者今日於殿中御不
   慮之儀御老中様方為仰御下城被成前々御出被成候
   御老中様被仰候者御不慮之御儀扨々御笑止ニ思召候
   御相手も有之早速被仰置候間御家中之面々■不
   申様ニ相心得可申候御相手之儀者上より御仕置可被仰付候
   此段御家中も承申候而安堵可申候と委細被仰聞候様
   ニとの御事ニ候委細申上候様ニと両人江被仰聞候事
  御相手之名者不被仰聞候事
      但山城守様より者十五日夜半迄被御座翌日
      茂未明より日々被成御出板倉修理切腹被仰付候日
      迄毎日/\夜ニ入候迄被成御座候廿四日迄御詰其後者
      折々御出被成候尤御家来之内片岡助左衛門・山本八右衛門
      両人ニ而一人完三四夜御様子承り様と被仰付候由
      隆徳院様御葬日迄相詰候事
一、十五日九ッ時分御様躰 御尋為 上使御奏者御番永井
   伊賀守様御出被成此節為御名代織田山城守様御出逢
   被成諸事相済候事
一、同日八ツ時迄又々為 上使御老中様之内堀田相模守様
   御出被成候此節も前々通山城守様御取斗被成相模守様
   上意之趣御書付ニ而御持参被成候左之通

      上意         細川越中守
       手疵弥療治相届快方ニも候哉無 御心元被思召
       候様子聴而承り候様ニとの御事ニ候万一及大切候共
       跡式之儀者去年仮養子ニ被願候弟有之儀ニ
       候間此度願ニ不及候条致安堵養生いたし候様
       ニと被 仰出候

   右之通御口上ニも被仰聞御書付御渡被成り候尤御醫
   師武田叔安老江茂御呼出御様躰委曲御聞被成候事
    但右之趣晩京二■同役中江者監物殿被申聞く候事
   右之通ニ而弥御願ニ不及事ニ而御老中本多伯耆守様
   江御聞合候処弥御願ニ不被及由ニ付其旨候事
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生田又助覺書 ・・ 2

2010-02-24 17:59:53 | 歴史
一、御駕参り候ニ付両人ニ而奉抱候而御駕ニ召せ奉り候又助
   御駕之内より奉抱乍入候而得斗御後江御寄懸り被成候
   此手御顔ニ付居候血を御単物の御袖ニ而ぬくい申候事
   御脇差御柄鞘共ニ血のりニ染居申候間古拵之様ニ相見
   候間分り兼漸ク見分ケ申御鞘ニも返り角下ニ打はつし
   疵一ケ所有之御拪糸も刃之方目貫之邊筋糸切有之候
   御相手之脇差を御柄ニ而御請被成候やと存申候事左
   候而猖参湯を差上候得共一向御通り不被成候其上ニ而御
   脇差之儀相尋候得者御預置候由ニ而拭板之掾側より刀箱
   を御役人持参仕候忠右衛門又助御脇差御出シ是ニテ候哉
   と御渡候ニ付忠右衛門江も得度見せ候而請取申候而御
   駕ニ入申候左候而引取申度由を御目附様江相達勝手
   次第可仕旨被仰聞候ニ付御駕舁ハ御間者陸尺外ハ
   黒鍬大勢ニ而舁中ノ口より平川御門江御出被成彼方                                  homepage3.nifty.com/oohasi/hirakawamon.html
   橋際より御手人ニ請取舁せ申候山田嘉左衛門ハ御刀を
   持村山傳左衛門一所中ノ口蘇鉄之間江罷在其所より御
   供仕候様■御側之■者忠左衛門又助両人ニ而仕上候御途
   中者叔安老玄哲老外ニ御番醫四人御付添御徒目附
   三人御小人目附弐人此外ニ御薬鍋共ニ途中御役人持参
   仕候忠左衛門又助御側ニ不参以前御湯漬少シ被召上候
   由叔安老被仰聞候右之茶碗焼塩等傍江有之候事
一、御駕共両人御呼被成候跡ニ手御徒目附衆此方様之御城
   使を召連れ下乗橋より表御門通り中之口江通候由之事
一、御脇差入居申候箱之内ニ壱尺六七寸程之脇差入居申
   候御相手之脇差ニ而可有之と■を付候処棒樋有り反り高キ www.nihontou.net/kiso-meisyou2.html
   脇差ニ而身ハ不残血のり付候而鞘は相見不申抜身ニ而
   有之候事
一、両人脇差は銘々名を付札ニいたし中之口江御役人持参候事
   但刀も御城使持参居候事
一、御途中御付添被成候御醫師衆左之通
       御奥本道         武田叔安老
       同外科           西 玄哲老
       表御醫師本道      田代宗仙老
       外科            古田休保老
       同             菅谷伯安老
       同             増山養甫老
    右之通六人御付添被成候事
一、村山傳左衛門者為御注進刑部卿様御門前より御先江参候事
一、惣御供ハ西ノ御丸下馬江廻り居候ニ付平川江廻り候事
   難成漸刑部卿様御屋敷前ニ而馳付候事

    御迎ニ罷出候面々        松野亀右衛門
    酒井左衛門尉様御屋敷     中川郡兵衛
    松平兵部太輔様との御境迄   堀 平左衛門
    松平兵部太輔様          佐野左太夫
    御屋敷辻番之邊迄        郡 織衛
    公義御作事所之邊迄       竹原清大夫
                        小林半右衛門
   右之面々御屋敷外ニ罷出候を覚申候其外者御屋敷
   内追々罷出候事
一、河岸御門より御入裏御玄関より御居間迄御駕ニ而被為
   入候御駕ハ歩御使番歩御小姓等舁候而御間ハ参候事
         以上

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・まだつづきます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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生田又助覺書 ・・ 1

2010-02-24 13:16:07 | 歴史
 延享四年八月拾五日江戸城に於いて起った細川宗孝公御災難の一件記録である。沢山の記録が残されているが、
これは当時細川家の御供頭であった生田又助の記録で、遭難の記事から家督相続に至る迄詳細な公的記録である。
即ち宗孝公は御登城大広間御着座後、小用所に参られた所、誰かが背後から抜打に首筋に打かけた、依て城中大騒
動となり、大目附石川土佐守の指図で江戸城諸門は閉され、詰合の医師をして宗孝公の手当させ、犯人捜索の結果
板倉修理を見出したが、乱心の模様に付蘇鉄之間脇の小部屋に入れ置き、宗孝公は自宅に帰られ遂に逝去された。
板倉修理は水野監物に御預けとなり、次で切腹被仰付家は断絶となった事を書いてある。 (肥後文献解題から引用)


             隆徳院様御変之記録也
                  生田又助覺書

   延享四年丁夘年八月十五日五時早速 御登城御供左之通
           御小姓頭            生田又助
           御側御取次           伊藤忠左衛門
           右同               山田嘉左衛門
   右三人御城御玄関迄御供仕候
           御側御取次下馬江残候
                             平野庄太夫
                             篠原喜左衛門
                             高岡吉左衛門
           御駕奉行            平野太郎四郎
                             門岡弾之允

           御小姓組         御中小姓
             簗瀬八左衛門       村上又太郎
             宇田又右衛門       續 彦太夫
             田屋尉左衛門       坂口文次
             高瀬喜左衛門       多田段助
             安井左内          神戸尉右衛門
             神西長右衛門       魚住弥兵衛

           歩御使番         御供押御側足軽六人   
             鈴木伴助          佐藤吟右衛門
             三宅才右衛門       中津伊三
             永原新蔵          荒木五太夫
             矢田部次左衛門      中原新助
             浅見源右衛門       三和及平

           御注進外様足軽     合羽支配外様足軽
             前原伴七          江藤縛右衛門
             津森庄兵衛         黒瀬團平

           御中間小頭・藤井徳右衛門  御駕小頭・下川加右衛門
           御手廻小頭・■崎次右衛門
           御留守居御城御供御行列之外 村山傳右衛門

   右之通御供廻りニ而五時早速 御登城被成候御玄関
   ニ而毎之通御刀者山田嘉左衛門并村山傳右衛門共ニ四人惣■然
   ニ参り居候所五半時前御役人参り知せ候ハ殿中騒働
   候口論ニ而も有之候哉と申候ニ付脇方之御供中も一同ニ
   御玄関前江立寄居申候内所ゝ之口ニ切ニ相成只今下      (扌偏ニ メ)
   城之者は無之哉一人も通申間敷由御徒目附御玄関
   より御門迄通シ左候得共登城之分ハ通シ候ニと有之
   追々御出仕之御衆多有之候処無程御門二も申候
   而出入り堅仕せ申間敷候右之内書付を以テ此分ハ通シ入候様
   ニテ御門江御役人相渡御様子ニ相見候御三家様方ハ大御
   門より御入其外御老中様方若年寄衆重キ御役人
   方ハ小門より其已下之御役人方ハ御自身迄御入御家来ハ
   一人も通シ不申候右之程■候内御年若越中様御手疵
   被負候旨之事申候得共慥成事知レ不申候何も見知候者
   にハ尋候へども松平越中守様之よし又者此方様之
   御席ニ而者無之由慥と承候と松平兵部太輔様御留守居
   知せ申候ニ付此節ハ御同席方之御供中何連も少シ息を
   突流シ申候取々之沙汰ニ而不分明候井上周碩・宇田川元覚
   様も御門未タり不申内御玄関前江参り候得共口ニ
   り急ニ難入込暫ハ御玄関前江扣居候然處ニ水戸様
   御登城ニ付彼方様之御城使江村山傳左衛門承り候処慥ニ者
   不相知候いつれ軽キ御事之由気遣仕間敷由申聞候扨ハ
   弥此方様ニ而御座候と無是非何とそと存居候内内田
   玄徳・太田友巴・出田門嘉・吉田長佐番所口より罷出御手疵 
   餘程之御儀ニ候御召遣之御袷にても御小袖にても急ニ取
   寄候様ニと申候ニ付傳左衛門儀御役人方江申達御徒目
   附同道ニ而中雀御門外御挟箱可有之所江取ニ参り候    www.viva-edo.com/eh_tyuujaku.html
   御坊主四人江御相手之事御尋申候得とも相知不申由申聞
   候然處御目附中山五郎左衛門様右張番所口より御出
   細川越中守殿之家来と御呼候ニ付又助参候得者供
   頭ニ而候哉と御尋其通と答候得者御側之者も有之候ハゝ両人
   上り候様にと被仰聞候ニ付忠右衛門又助両人之刀ハ御城
   使江持せ五郎左衛門殿江付候而上り申候張番所ニ而被仰聞候  
   者脇差を相渡候様ニと御申候付いか様之御用筋ニ付脇差御
   受取候やと相尋候得共 越中守殿御介抱之為御通し被成
   候間左様ニ相心得候様御定式ニ候間刀渡候様まゝ時分
   御渡可申成名を申聞候様付札ニ致置候由御申ニ付左候て
   畏り候とて脇差相渡候銘々名を申達候扇子も渡し候様
   と仰聞其通被致候其上ニ而右之所より表玄関掛板之
   上十間程御出候而右之板之上ニ御座着申渡候
        大御目附       水野對馬守様
        御目附         中山五郎右衛門様
                     土屋長三郎様  
   右御三人之内五郎右衛門様被仰聞候者 越中守殿不慮に
   御手疵被負候得共随分御元気も能気遣成事者無之
   候上様より早速人参御拝領被成武田叔安其外御醫
   師共も御付御療養被成候間罷通御介抱仕候様ニと
   御老中被仰聞候間左様相心得御看病仕候先ツ
   可被仰聞候御相手も早速被召捕候間此所者心安可存候
   只々御介抱第一之儀候と被仰聞候ニ付又助申達候者
   御相手之儀者何某様に而御座候哉手疵負候旨趣者
   如何様之訳ニ而候哉と御尋申候得者御大法ニ而相手之名者
   不被仰聞候右之通被押候条各之心懸り者無之候
   越中守殿被成法候ニ付御上よりも御懇之御尋候間心
   安存御介抱致し候様ニと被仰聞候ニ付申達候者越中守
   儀如何躰之仕方ニ而殿中の御■被成申候哉と其所恐入居
   申候處右之通被仰知奉承知候此上者一刻も早御通シ
   被下候ハゝ介抱仕度由相達申し候得者御三人様ニ而直ニ被召連
   大広間之廊下筋江被召連候御徒目附其外御役人
   六七人程■ニ付添参り候右廊下江 隆徳院様被成
   御座候御様躰見上候處存外之重手ニ手御惣身血ニ
   御染被成御後之方より御身ニ當テ小キ箱腰掛ケ御身之
   邊を両手二而抱居申候御足者御延不被成様御役人中
   押居候而武田叔安西玄哲老其外御醫師衆御役人
   大勢集り二三十人も可有之と相見候忠右衛門儀者直ニ久下
   善兵衛ニ代り御後より奉抱候又助ハ御前右之方より両人名
   を申上候節御半眼ニ被成御座候而名を被聞召得斗被成
   御讒候得共御後之方忠右衛門を御覧被成候力ハ無御座候
   扨御相手之名ハ何と申候哉如何様之首尾ニ而御手疵
   被為負候哉右に付而被仰候御儀も無御座候ハゝ疾ニ被仰聞候
   様にと相伺候處何そ被仰候御事者無之と斗被仰候右
   御目附様も御家来江御用事之儀無御遠慮被仰候様
   ニと御申被成り候得共其後者いか様とも御意無御座候早速猖
   参湯之由叔安老御渡候ニ付差上候得共漸被召上候其
   已後差上候得者御通兼被成候■應御相手之儀相伺候得共
   右之通ニ而殊之外御様躰重ク御見被成候御筋も出御しや
   くりも御座候而最初御役人様被仰聞候通人参共被成
   御拝領武田叔安様とも御付被成其外御醫師衆御付添
   上様より御懇之御尋ニ而御座候由御役人方被仰聞難
   有可被思召と奉存候段申上候左候而叔安老より御相談仕候者
   殿中之御支無御座候て屋敷御引取養生加へ申度段
   申達候得者尤ト思召候由ニ而御目附様方江右御挨拶被成候
   ニ付き又助儀も右御三人様江元気も能相見候間御支無御座
   候て退出療養を加へ申度候且又重き手疵ニ手御座候間
   此所迄駕を上ケ申度候不案内ニ御座候条此砌之儀可然趣
   御沙汰奉願候段申達候得者何之御支も無御座候其通御
   沙汰被成候由右之内ニ御召替之御衣類参り候由ニ而御役人
   持参真白御袷を遣シ申候間外之色者無御座候哉と尋候へハ
   黒御単物有之候間御単物を召せ申御足ニも毛せんを懸
   有之候間取除可申存候得共其侭ニ而御駕ニ召せ候様ニと
   御役人衆叔安老も御申ニ付其通ニ而差置候
      ただし忠右衛門又助共御介抱仕候ニ付両手共御血ニ染申
      候間御召替之御衣類者御役人衆御ふくさより出渡申候   
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平川門

2010-02-23 12:03:02 | 歴史
 2月16日のブログで細川宗孝の事件を書いた。即死状態で有ったろうと思われるが、生田又助が駕籠脇から声を掛けながら、平川門から龍口邸まで駆けかえった。

 ありがたく嬉しい事に、ブログをご覧になったツツミ様が、わざわざ現場を歩かれてご報告をいただいた。(同ブログのコメントを御覧下さい)
龍口邸は大名小路にあるから大手門を出るとすぐである。歩いて10分ほどの距離らしい。
一方駕籠が出た平川門からは30分ほど掛かられたという。
             homepage3.nifty.com/oohasi/hirakawamon.html

 事件を聞きつけた龍口邸の藩士達が多く大手門に駆けつけたが、平川門からの下城と聞いてその動揺は如何ばかりであったろうかと察せられる。ゆっくり帰るべきか、寸秒を争って馳せるべきか又七達の思いも悩ましいものであったろう。若干18歳であったという又七の冷静な判断や行動は、後世に語り継がれているが、残されている文書を公開してその功績を称えなければなるまい。
「隆徳院様御変之記録也 生田又助覺書」の読下しを急いでいる。
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萩原兼従卿と宇土細川家

2010-02-22 15:18:25 | 歴史
正保二年十二月二日三齋は八代で亡くなるのだが、愛息・立允(正保二年閏五月十一日死去)の子・宮松の行末を案じて、光尚に対して次のように頼み込んでいる。

    尚々、宮松事、其元ニ置候而、存子細在之間、必々無用ニ候、
    念可被下候、以上
  為見廻、道家帯刀被差越、閏五月廿八日之書状披見候、温気之時分、我々気分
  如何と被申越候、今程息災候間、可心安候、帯刀爰元ニ被付置候事、不入事候間
  返申候、中務子宮松事、中務申置のことく、其方被肝煎可然様ニ可被仕立候、上
  様へ宮松御禮申上以後、爰元へ下候様ニ可被肝煎候、恐々謹言
                               三齋
       六月廿九日                   宗立(ローマ字印)
          肥後殿
             御返事

 正保三年卯月十七日付、幕府は光尚に対し次のような問い合わせをしてくる。
酒井讃岐守の書状である。
   一、中務殿子息ハいくつニて候哉、母儀ハかろき人ニて候哉、此子息ハ京都にいら
      れ候事三齋又貴様なとも前かと御存にて候哉、此度中書御はて以後御存候や、
      承度候事

 これに対し光尚は即返事をしている(卯月十七日 酒井讃岐守宛)
   一、中務せかれ当年十歳ニ罷成候、此母之儀ハかろきものニて御座候、はゝせかれ
      の儀まへかとハ拙者も不存候、今度中務病中ニ此せかれ儀承候、いまゝてハ京
      都ニ罷在つるよしニ御座候、三齋も最前はそんしたるやうニ承候、中務相果候以
      後存候由ニ御座候、此忰宮松儀中務相果候已後当御地へ罷下候、以上

 三齋は宮松の存在を、中務がなくなった後に知ったようだと光尚は述べている。京都に在ったと言うのは、萩原兼従の養子となっていたとされる。兼従とは三齋の妹・伊也(吉田兼治室)の次男である。このようなことを果たして三齋は知らなかっただろうか。

 宇土細川家の重臣・井門家の井門家文書「御三代記」には、立孝(宮松)について次のように記されている。
   一、寛永十四丁丑三月四日戌ノ刻肥後國八代三ノ丸御誕生、御氏神妙見宮也、御若名宮松、帯刀、
      其後丹後守、御名乗行孝、御母公慈廣院殿、元禄四辛未六月十日御年八十三御逝去、未ノ年也、
      御法名雲岸性浄
   一、御誕生之儀御妾腹故、三齋公御機嫌之程無御心許思召御隠便也、依之村上金左衛門被御預
      ケ成、御部屋迄参上仕候者、長岡河内・左方与右衛門此両人迄折々御容躰奉伺候也
   一、同十六已卯御歳之夏京都御登り、其節村上金右衛門母子共御醫師永井良安御供仕候、従立
      允公萩原兼連卿御縁在之付、御預ケ成候(中略)
   一、正保二乙酉閏五月京都御發駕同月二十五日江府御着座遊候、萩原殿ハ七ケ年程成御座
      候(以下略)
 これによると行孝は三齋が京に登って留守の八代で生まれている。そして妾腹なるが故に三齋をおもんばかって、柳原兼連(兼従)に預けられた事が判るが、先の光尚の書状によるとそれを知ったのが立允の死後のことだというのである。柳原兼達は三齋の妹・伊也(吉田兼治室)の二男である。七年間預かったというが、よくぞ隠し遂せたものだと感心する。
肥後金春流中村家所蔵の文書「御稽古名附」(妙解院(忠利)様江御頼ニ而、御稽古被遊候大名様御名附)は、「午王ニ御血判御神文」を提出して、中村家の指導を受けた大名衆の名簿であるが、此の中に吉田三位兼従卿の名前も見える。
     右兼従卿は、吉田二位兼治卿ノ御弟(ママ 実・二男)也、ニ万石(ママ)被進豊国大明神之御守
     りニ御付被成、萩原三位兼従卿ト申候、(以下略)
              ja.wikipedia.org/wiki/萩原兼従
いろいろぐぐっていたら、津田三郎著「秀吉英雄伝説の軌跡-知られざる裏面史」という著書を発見、「日本の古本屋」に注文した。豊国明神に関する萩原兼従のかかわりが書かれているらしい。
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細川家家臣・萱野氏

2010-02-22 09:00:27 | 歴史
 つい先ごろ、NHKが「歴史秘話ヒストリア」で古田織部を取り上げたのを受けて、ぴえーるさんがブログで系図をUPされた。あることに気づいてコメントを差上げた。それは古田織部の弟だと一部で紹介される、細川家家臣・茶道頭萱野甚斎の名前が登場しないことについてである。

 茶道肥後古流・古田家は江戸期を通じて萱野氏を称されたが、明治に至り本姓古田氏に戻された。家祖萱野甚斎は古田織部の弟だと一部で伝えられる。
■甚斎(隠斎) 肥後先哲偉蹟では次のように紹介している。(これが間違っていた)   
   萱野正的 古田織部正の弟、萱野伝左衛門姉婿なるをもって萱野姓とす。
        幼名左五郎、後剃髪して甚斎、隠斎と号す。古市宗庵に茶法稽古を受ける。
        寛永十九年御茶道、寛文元年茶道頭二百石。元禄二年隠居。宝永四年没。 
 細川護貞様の著「茶・花・史」の中の一文「熊本の古流・利休の秘伝を伝えた熊本の茶道」でも、上記の説明を引用されたらしい。

 これを読むとまさしく「正的=古田織部正の弟」なのだが、どうやら「正的=織部の弟の子(室・萱野伝左衛門姉婿)」が本当らしい。いろいろ調べてみると「織部の弟・重府の子」とある。ところがこの重府なるひとが判らない。
 又、西堀一三氏の論考「細川三齋と茶道」によると、「一世、名正的又名昌的、初称古田左五郎、又號甚齋、古田織部正重能弟左五右衛門某子、古市宗庵門人、肥後熊本藩茶道頭、宝永四年正月十五日没、年八十八、法名法了院持誠隠齋居士」とある。

  +---古田織部正重然(重能)
  |
  +------------重府(左五右衛門)---甚齋(古田左五郎正的)
                            ∥
                    +--------●
                    |
                    +---萱野伝左衛門

なぞの人物古田重府殿であるが、土岐家というサイトに古田家が紹介されており、ここに「重府重定子左五右衛門」とあった。織部正については、「重然重定子左介景安織部」とあるから、織部と重府は兄弟であることは間違いないようだ。さらに「萱野伝左衛門 正的伝左衛門嗣古田重府子左五郎萱野甚斎」とあり、正的殿も登場、どうやら素顔が見えてきた。

さて茶道肥後古流は、武田家(古市流)、小堀家、古田家の三家元で伝えられてきたが、古田家は活動を止められた。由緒正しい「利休正傳」の茶道は、残る二家の元に伝えられている。
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展覧会開催中

2010-02-21 15:21:37 | 熊本
■熊本県立美術館本館
   細川コレクションにみる近代文化 
   期日 平成22年1月6日(水)~3月28日(日)
   場所 熊本県立美術館 本館
   http://www.museum.pref.kumamoto.jp/event/kikaku/100106_hosokawa-collection/index.html

■八代市立博物館「未来の森ミュージアム」
   平成21年度冬季特別展覧会 松井家文書の世界 ―江戸時代の武士が大切にしたもの―
         2010.2.19~3.28
   http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum/event/2009/2009_win.html

■島田美術館
   武家好みの意匠-デザイン-  1月7日(木)~3月22(月)まで
   http://blog-imgs-38.fc2.com/s/h/i/shimabihonkan/20091206104825c5e.jpg

■熊本国際民芸館
   春 華やぎの民藝の美   平成22年1月3日(日)から5月9日(日)
   http://www11.ocn.ne.jp/~kumingei/display.html

■熊本県伝統工芸会館
   第2回県美工芸部門会員展-くまもと美術工芸の今・未来-
   平成22年2月9日(火)~3月7日(日) 午前9時~午後5時
               熊本県伝統工芸館 2階常設展示室
   http://cyber.pref.kumamoto.jp/kougei/dbpac/topics/asp/topics_frm.asp?T_INF=175&tpcs_mode=1



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第31回熊日出版文化賞

2010-02-21 13:06:42 | 新聞
 熊本日日新聞が主催する「熊日出版文化賞」についての記事が今日の新聞に掲載されている。

■「新宇土市史」「宇土の今昔・百物語」 宇土市史編纂委員会
       www.city.uto.kumamoto.jp/bunka/history/shishi/newshishi.html
   宇土藩成立の過程から支藩細川家の研究には欠かせない資料である。
   市史編纂の副産物でも有る「新宇土市史研究」も、素晴らしい出版物で大変お世話になって
   いるが、歴史有る町の文化遺産として受賞は喜ばしい。

■「肥後学講座」  熊本城400年と熊本ルネッサンス県民運動本部
       http://www.kumamoto-runesansu.jp/index.html
       http://www.kumanichi-jb.co.jp/books/ind/new44.html
   都合三巻が発刊されているが、郷土熊本を知る上で手軽に親しめる佳作である。
   錚々たる各著者の顔ぶれに依る処が大きいのではないか。

以下、「くまもとの野鳥・写真図鑑」、「徳永直文学選集」、「孤闘-正直に生きる」が受賞した。
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板倉修理細川越中守を刃傷の事

2010-02-20 18:53:56 | 歴史
          翁草巻十一 「板倉修理細川越中守を刃傷の事」

延享四卯年八月十五日、殿中大廣間四之間北縁に手負有の由■る、仍て詰合の御徒士目附
數輩、早速彼所へ馳行見之、惣身朱に染て誰とも見分難に付、姓名を問へば、細川越中守と被
答、相手尋るに不見知者成が、上下着し居る由を被申因茲方々捜し求るに、大廣間小便所
の廊下に抜身の脇差捨在候故、其の邊無限尋る處に、小便所の奥雪隠に、人影見えける儘、御
徒士目附御小人目附立かゝりて捉之、姓名を問へば、御旗元板倉修理 五千石 と答、其の意趣を
尋るに、先刻誰とは不知、小便所へ参候者、脇差を抜候様に見請候故、抜合せ切申候、其の後の
事は一切覚え不申候、乍去人を切り候へば遁れ難く存じ、懐中の鋏にて髪を切、脇差は捨候旨
申之、仍て先づ雪隠より引出し、蘇鉄の間の脇小部屋へ入れ置、御徒士目付附添罷在、大目附
石河土佐守、水野對馬守、御目付中山五郎左衛門、神尾市右衛門、土尾長三郎、横田十郎兵衛、橋
本阿波守、菅沼新三郎、八木十三郎、西の丸御目神尾伊兵衛、中島彦右衛門、安藤喜右衛門等
立會吟阥之處、右口上之通り、全く乱心と相見え候に付、即水野監物へ御預け、越中守は殿中
御間の内より、駕にて帰宅、早速御醫師武田叔安、外科西玄哲を御附、上使永井伊賀守を以て
御尋、猶又為上使堀田相模守被相越、御懇之上意にて、板倉修理義乱心にて如斯、仍て御預被
仰付候、追て御仕置之御沙汰可有之候、上より御差圖之趣有之候間、家中相騒間敷之旨な
り、同十六日越中守養生不叶卒去、跡式之義御存命之内、上使御書付を以て被仰渡候趣に随
ひ、不及願實弟細川主馬五十日十月十日之忌服届、御用番之老中本田伯耆守迄被差出、同二十三
日水野監物方へ、為検使大目附水野對馬守、御目附橋本阿波守、八木十三郎、御徒士目附御小
人目附差添罷越、板倉修理へ被仰渡、板倉修理義、去る十五日於殿中細川越中守へ手疵負
せ候始末、■乱心越中守右手疵にて相果候上は、切腹被仰付候者也、
 一説修理事相馬弾正に意趣有之、九曜の門を見損じ人違にて如此と不知実否
右ニ付續之面々差控、板倉式部攝津守、板倉佐渡守、板倉帯刀、酒井雅楽頭、建
部丹波守并御目通差控堀田加賀守、板倉周防守、花房近江守、堀田兵部、依之板倉修理義、於水
野監物邸切腹、領地を除せらる、此の時細川家に功士三人有り、江府御城使某、此の変を聞と
ひとしく御城へ馳せ、警備の士を様々謀て、中の口に至り、馳上んとするを、各士停之、于時佩
刀を解て無刀に成り、主人介抱の為計に候と、其の場を兎角してかい潜り、越中守臥居らる
る處に参着して實は越州事切られしを、疵大切之儀にもてなし、乗ものへ乗せ、守護之し
て屋敷へ引取始末、無残所働きと、又大坂留守居某、此の飛檄到来すると、直に彼地に於て、一
萬両の用金を借り、其の頃は彼家は大家ながら逼迫の沙汰、世に流布して、用金調達の事中
中容易ならざるを、而も変に臨でかゝる早業、凡士の及ぶ處に非ず、扨國元にては、長岡対等
其の日遊猟に出居たりが、変の告を聞と否哉吾城へも不帰、其の場より遊猟の人數其の
儘にて出府の旅立す、仍て城に残る士共追々後れ馳に道中へ馳着て、主人を供奉し、夜を日
に継で何の駅とかやまで馳行處に、江府より追ての飛札、彼駅にて出会帯刀江府の御沙汰を
聞に、舎弟重賢へ定式五十日の忌を請候様被仰つぬと聞て、扨は心易しとて、夫より直に國
へ引返し帰むとかや、是等の功何れ歟大ならざるべき、長岡は流石長臣の器に當る歟、大阪
の某、斯る折から急事の手當容易の業ならず、此の何某が日ごろを思量るべし、江戸の士最
も機変巧なるもの歟       (了)
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  芥川龍之助著「忠義」  www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/173_15216.html
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