津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■古書(昭和18年)後藤是山『肥後の勤王』大分幕末・人物史

2016-11-30 13:52:55 | オークション

               古書(昭和18年)後藤是山『肥後の勤王』大分幕末・人物史

                                                 Ω 古書(昭和18年)後藤是山『肥後の勤王』大分幕末・人物史

  後藤是山(本名・祐太郎) は大分県竹田市出身。熊本名誉市民(昭和54年10月1日)
  


                                   

 新聞人、俳人。九州日日新聞社入社後、国民新聞社に留学、徳富蘇峰の薫陶を受けた。帰熊後九州日日新聞社の主筆、編集長として熊本の文化振興に貢献。昭和2年、俳誌「かはがらし」(のち「東火」)を創刊主宰した。著書に「肥後の勤皇」、編書に「肥後国誌」がある。
明治19年6月8日生まれ、昭和61年6月4日死去、 99歳。

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■「有名内臣伝」について

2016-11-30 10:46:06 | 歴史

 ある方から「有名内臣伝」という史料についてご質問頂いた。残念ながら私は手元に持っていない。
お問い合わせの方は細川藩政二百余年を通じての事と思われているが、そうではなく重賢公時代の君側八名が取り上げられている。
著者は不明であり、原本がどこにあるのかも承知していない。
幸いにも宮村典太の膨大な筆写記録集「雑撰録」に残されている。二巻に分かれており、四名が「巻六」、残り四名が「巻二十一」に収められている。
又この「雑撰録」をベースに、上妻博之先生が「上妻文庫46」に所収されている。

尚「肥後文献解題」には次のように紹介されている。
  御用人、御近習根役、御小姓役等藩主の側近に奉仕した人々、島田嘉津次・上羽蔀・高瀬文平・伊藤又右衛門・財津茂兵衛・落合藤助・
  竹原勘十郎・前田善兵衛以上八人の列伝である。就中島田嘉津次の伝だけは詳細である。

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■久留米藩御家老から細川藩家老衆中へ

2016-11-29 16:46:41 | オークション

                 高級厚紙、二つ折り、肥後〇様…、〇内記・十月二九日

                      高級厚紙、二つ折り、肥後〇様…、〇内記・十月二九日

 

 どうやら天草島原の乱に際しての久留米藩家老・有馬内記外二名から、細川藩家老長岡佐渡(松井興長)、有吉■■、長岡監物(米田是季)宛ての書状らしい。
一行目に中務と有るのは久留米藩主・有馬中務大輔忠頼の事であろう。応札してみようかな~・・・・・

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■現熊本市役所の場所です・・・・

2016-11-28 15:15:06 | 熊本

 手前の道が現在路面電車が通っている通町筋、路面電車は90度左折して進みますがまっすぐ進むと「厩(うまや)橋」から御城の西側(かっての国道3号線)です。
角がかって厩があった場所、この絵では「監獄」となっていますが現熊本市役所が建っていることになります。。
左手が番頭などを務めた有吉分家の屋敷跡、あとでは精養軒という料亭になりました。
その左手に斜めに伸びる道が現在の「下通り」、下通から上へ伸る道は現在では存在しません。
石垣が見える場所は細川邸「御花畑」の北の端、広場に見える処は追廻田畑の跡、白川がかってこの場所を大蛇行して現在の坪井川(右手)に流れ込んでいました。

この絵がいつ書かれたのか承知して居りませんが、有吉邸の前に熊本中学(西南の役後、明治12年千葉城から移転再建)が見えることから明治中期頃か・・・・・
いずれにしても、近代熊本の草創期の姿を捉えています。 


 

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■1即決/送込 西南戦争 戦袍日記写真集 青潮社 附録熊本城攻撃之図

2016-11-27 09:38:14 | オークション

                     1即決/送込 西南戦争 戦袍日記写真集 青潮社 附録熊本城攻撃之図

               1即決/送込 西南戦争 戦袍日記写真集 青潮社 附録熊本城攻撃之図

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■一つの情報

2016-11-26 06:31:50 | 史料

 平野新兵衛が家老・長岡(米田)監物に宛てた一通の覚書がヤフオクに出ていた。

    
        奥田太郎兵衛

 右太郎兵衛儀轉切支丹
 加賀山太郎兵衛玄孫奥田
 蒹舟忰ニ而御座候以上             蒹(けん=あし)

  天明六年
   十二月十九日 平野新兵衛 花押

長岡監物殿

ここでの収穫は(1)太郎兵衛成る人物の特定が出来た事、(2)番頭を勤めていた平野新兵衛の花押が判明したこと、そして(3)この書状の制作年が確かな事である。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 加賀山克巳  (南東18-23)
    1、加賀山太郎兵衛 
         【転切支丹】 寛永十三年七月十三日 禅宗に罷成り・・(勤談跡覧-肥後藩之切支丹)
            細川忠利公御書出(寛永十年九月)二百石

    2、    主馬
            三男村井家に入り、四代村井十郎左衛門友則
    3、    金左衛門之勝  十二番牧平左衛門組 二百石 (真源院様御代御侍名附)
                     二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
            細川光貞公御書出(寛永十八年八月)二百石
    4、奥田太郎兵衛賢親
    5、   十兵衛之清  二百石 佐敷詰御小姓組五番
    6、   太郎兵衛    御鉄炮十挺頭 二百石
    7、   金吾(十兵衛)
    8、加賀山関之助    御番方組脇
    9、    隼次(太郎兵衛・一朶)
    10、   克巳      二百石

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■長岡佐渡(島原の陣で恩賞)の書寛永15年夘月23原城本丸一番...

2016-11-25 07:22:58 | オークション

                 長岡佐渡(島原の陣で恩賞)の書寛永15年夘月23原城本丸一番...

                     長岡佐渡(島原の陣で恩賞)の書寛永15年夘月23原城本丸一番...

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■江戸期 『 赤穂浪士切腹の絵図 』 右田才介/熊本藩 古文書

2016-11-25 07:03:26 | オークション

                     江戸期 『 赤穂浪士切腹の絵図 』 右田才介/熊本藩 古文書   

                     江戸期 『 赤穂浪士切腹の絵図 』 右田才介/熊本藩 古文書

 「此本書右田才助自画也」とある。この人物は赤穂浪士切腹の際はこの場に臨んでいる。下にご紹介する絵図によく似ているが・・・・
さすがに人気があって現在76人が応札、60,500円、あと四日ですがいくらになりますやら!!! 

 

 

     

 

      こちらは永青文庫に残る絵図。

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■松寿庵先生・第212講

2016-11-24 15:49:09 | 史料
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■アムロジピンOD錠5㎎

2016-11-23 11:06:56 | 徒然

 昨日病院に行き処方された薬を朝食後飲んだところ、立ちくらみがしてなんとも不愉快な感じ・・・・
「アムロジピンOD錠5㎎」の副作用の一つらしい。少々用心しておこうと思ってじっとしている。
この薬は血管拡張剤、二週間ほど服用して様子を見るという事になった。正真正銘の「高血圧症」である。
おまけに血糖値や中性脂肪値が高く、「生活習慣病」だと指摘され、食事療法や運動することを言い渡された。
地震の際の水運びや引っ越しで、膝のダメージがおもいのほかひどく、最近は74爺のスクワットもお休み状態で運動をほとんどしていない。
しかしそうも言っておられないから、早起きしてまた散歩を始めようと思っている。
寒い朝の寝起きが悪い私としては、本格的寒さの到来前に「くせ」をつける必要がある。

 

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■熊本御城下の商人

2016-11-23 09:53:11 | 書籍・読書

 県立図書館がほとんど使えない状態で、イライラが募っている。この時期読みたい本は自分で購入せねばならない有様である。
昭和27年発行の「熊本御城下の町人(古町むかし話)」を、少々高かったが熊本の古書籍店から購入した。
著者は大毎(大坂毎日新聞)の編集主幹を勤め、後に明治大学教授になった熊本市古町出身の岡崎鴻吉氏である。
295頁に及ぶが大方は豊富な史料が引用されている。出典が明らかにされていないのが残念だが、町方記録から来ているものであろう。
古町の出身だけあって古町界隈の事情にも詳しい。値段にたがわぬ内容に満足している。
 

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■12月12日出版「大坂の陣・豊臣方人物事典」

2016-11-22 08:09:27 | 書籍・読書

                                                    
              

                           大坂の陣 豊臣方人物事典 柏木輝久 (著), 北川 央 (監修)

 

内容紹介

●大坂城五人衆列伝(真田信繁、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親、明石掃部) 大坂冬の陣・夏の陣で豊臣方に加勢した家臣、
 新参の諸士、女房たち千名以上を収録した、豊臣方では初の人物事典。
 大阪城天守閣館長の監修の下、典拠を示して一人ひとりの人物を詳述する。
●豊臣方人物事典(織田有楽・頼長、大野治長・治房、木村重成、薄田兼相、速水守久、塙団右衛門など約1000名)
●豊臣方女房衆事典(大蔵卿局、饗庭局など約30名)
 付録も充実! 
 「秀頼御上洛之次第」に記載の秀頼の上洛に供奉した豊臣家臣のリスト/「慶長十六年禁裏普請帳」における大坂衆/大坂七組/大坂籠城諸士・女房らの相関図

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  昨晩著者の柏木輝久様からメールを頂戴し、この御著の上梓についてのご報告を頂いた。
まだ御目にかかった事はないのだが、度々豊臣方に組した方々について数々のご教示をいただいた。
そのたびにお許しをいただき、このブログでご紹介してきた。
これまでは敢て「埼玉のTK様」とご紹介してきたが、今回の出版に際してお名前を明らかにして過去のご教示の数々をご紹介しておく。(順不同)

改めて深く御礼申し上げるとともに、今般の御著の発刊を心からお喜び申し上げる。以下の記事の中からも御著に取り上げられたものが有るのだろうと思われる。

             大喜多又兵衛の事
             小須賀覚書の編者について
             田中意徳関係
             5月7日大坂落城の様子について(未定稿)
             齋藤采女のこと
             小河四郎右衛門という人
             時枝氏・宮成氏のこと
             竹田永翁のすべて
              郡宗保とその一族
              「細川家家臣・郡(勘右衛門)家」に寄せて
              「男を止め」について
              中瀬氏についてのご教示

           

 

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■一年前のブログから

2016-11-21 18:10:26 | 俳句
 
■インバネスとバーバリー

 東京やなぎ句会が出した句集「五・七・五句宴四十年」を読んでいて、8人のメンバーの内入船亭扇橋・小沢昭一・桂米朝・加藤武氏などが亡くなって、今後はどうされるのだろうと他所事ながら心......
 

 ちょうど一年前の記事である。改めてうまいなーと感心させられる句ではある。
「合羽」という言葉でググってみると・・・・

     さらさらと護謨(ゴム)の合羽に秋の雨    夏目漱石

     五月雨の 合羽つゝぱる 刀かな      正岡子規

漱石の句はあまりうまいとは思わないが、子規の句はばかばかしくて面白い。三度笠のやくざなおにいさんの姿が浮かんでくる。

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■干し柿づくり

2016-11-21 11:12:37 | 徒然

                        富士柿 (渋柿)《果樹苗》「☆」

 数日前大きな渋柿を40個ほど頂戴した。どうやら「大富士」という品種らしい。
奥方が干し柿にしようと皮むきに悪戦苦闘、熱湯で消毒し、吊るすためにひもをかけ、虫よけに網に入れるなど大仕事。
ベランダの物干しざおに並べた。その後二三日雨が降ったり天気が悪い。少々カビが出始めた。それに小さな虫が飛んできている。
カビは焼酎をブラシにつけてこすればよいらしい。
奥方は朝から、虫よけに網を二重にしようと頑張っている。実は奥方は無類の柿好き、それも熟柿がお好みでこの秋小生も御相伴している。
手伝おうとしたら「楽しんでやっているから」と断られてしまった。
干し柿は「細川家記」にも度々登場する。戦場では欠かせないものであったらしく、家来の戦場での働きに対して干し柿が与えられた逸話がある。
また寛永五年の「日帳」を読むと、9月12日の項に「御所柿献上ヲ申触」とある。御所柿を持っている者は、二つでも三つでもいいから上げる(献上)様にとの触れである。御家老三人にも申し入れたら早速式部(松井興帳)殿から30個が上げられた。その後、米田是季・55個、志水伯耆・35個、小笠原備前(長元)・8個、黒田吉兵衛・8個、三渕内匠・3個、松岡久左衛門・30個、桑原主殿・2個、上野左右馬・35個、平野九郎右衛門・15個、酒匂藤右衛門・13個、住江甚兵衛・7個、雑賀源左衛門・30個、小崎與次兵衛・3個と続々集まっている。翌日以降には記録がない処を見ると、その日限りの事であったようだ。忠利は、こほ(古保・忠興二女・松井興長室)、伊与(長沢顕長室・沼田清延女)、かね(筑紫重門室・細川幸隆女)などへ、やさしい心配りをしているが、干し柿の贈物もその一つである。

なんとなく地味な果物だが、そんな歴史を思い出しながらベランダに整列した柿を眺めている。
 

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■越後騒動の犠牲者「仙台小栗氏考」後日談

2016-11-20 14:25:55 | 書籍・読書

 先にヤフオクの■越後騒動の犠牲者「仙台小栗氏考」をご紹介した。
自ら応札しようと思っていたが、日本の古本屋をのぞいたら、こちらの方が安かったのでヤフオクはやめて日本の古本屋から購入してしまった。

越後騒動の小栗美作の弟・兵庫の七人の男子の内、上三人は仙台の伊達候にあずけられ、下の三人が細川家に預けられた。
これらの兄弟が解放されるについては、四十年という時間を要した。上記著書によると伊達候の元で二人、細川家に於いて二人が亡くなっている。
上記の本は仙台藩に仕えた、兵庫の三男・伊八郎家の現代に至るまでの事が記されている。
そんな中に、桓武天皇以来の小栗家の系図が記されていた。よくよく見るとこれは肥後・小栗家のものであった。
仙台・小栗家については別途系図が記されている。そして連綿として今日に至っているようである。

熊本藩に於ける小栗氏は四男・岡之助成純、六男・九十郎成常が四十年間の星霜を経て解放された。
共に細川家家臣となったが、成純の家系は途絶えており、成常の家系は明治に至った。
兄成純は藩主の命により京にのぼり実の姉に面会している。この人は仙台小栗氏の伊八郎のすぐ上の姉で京都浪人・井口五郎左衛門の妻であることが家系図から確認できた。
伊八郎は遠い仙台に在り果たしてその後とも、面会の機会があったのかどうかは不明である。

昭和40年に仙台で発刊されたこの著作に遭遇し手に入れることが出来て、またわが肥後細川藩侍帳を補強することが出来て、感慨一入といった処である。

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