津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

有吉家文書「年中行事抜粋」(十三)召出日之式

2010-11-30 21:42:38 | 有吉家文書

                同席中
                大御奉行     
                御奉行一人
   十日          御目附同
                学校御目附同
                御郡御目附

                同席中
                大御奉行
                御奉行一人
                御目附同
   廿日          助教 同
                御穿鑿頭同

                同席中
                大御奉行
                御奉行一人
   晦日          御目附同
   小ノ月ハ廿九日   御勘定頭同
                御算用頭同
一、奉伺候ケ条前日見志らへ等之儀
   伺日々之通ニ候事
一、同席中五半時出仕之事
一、例之通一同奉伺御機嫌之事
一、御用人より案内有之歌仙之御間江
   一同座着猶御用人より案内有
   之
   御前江罷出候脱劒且罷出候諸事
   御着座後初召出之通、尤同御間へ
   御奉行以下茂相揃候事
      但伺もの持参伺日同断併
      召出日ニハ会議帳
      御下無之候、尤不時伺帳差上候
      節ハ不被為在御支度ハゝ今
      御印頂戴仕度旨前以御用人
      を以申上候事
一、御前下り候節御奉行以下江不及会尺
   儀伺日之通候事
一、詰間江参被仰付之趣且伺相済候諸
   書付御奉行佐弐役受々江申聞候事
一、御奉行之伺物者
   御前より下り被仰出之趣御用番江
   申達品々より書付茂出候ヘハ御用番
   披見之上差通候事

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熊本弁講座「ええくらい」

2010-11-29 21:23:41 | 熊本

 どうしてこんな言葉になったのか不思議で仕方ありません。
過日来熊された東京のお二人ともお話したのですが、熊本弁の成り立ちを何方か研究してくださらないかと真剣に思っています。

 「このええくらいが」などと使いますが、そろそろお判りですか・・?

 そうこの季節巷でよくみられるように成りました。
男ばかりじゃありませんよ。若い女の子がコンビニの前でひっくり返ったりしているのが見受けられますねー。

 そう「酔っ払い」のことです。
「こぎゃんええくろうて、のさん」と奥方から軽蔑の眼で見られないように、年末お酒を飲む機会が多い方はお気をつけ下さい。

 「のさん」が又難問です。一言で当てはまる言葉が見つかりませんが、「あきれ果てる」「困り果てる」などの意ですが、あるサイトには「Not good」とありました。

 「こぎゃん」は「こんなに・・」です。

 説明すっとに こぎゃんこつ(事)になって のさん・・・・・・・・・・・・・(失礼しました)

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有吉家文書「年中行事抜粋」(十ニ)御格帳并考蹟志らへ等之内心覚之大旨左之通

2010-11-29 06:14:14 | 有吉家文書

一、免職之節御賞席ハ十年以上
   持懸御役席ハ二十年已上右同御賞
   禄其儘被下置儀茂右同断之事
一、右同御役附之年数を以僉議ニ相成
   家督より之年数ハ取用ニ不相成候事
一、禄三千石以上者此着座ニ持席有之
   弐千石以上者御番方ニは不被落
   大組附ニ被召加候事
一、慶安二年迄ハ旧知ニて同三年よりハ
   新知と宝暦六年被定候事
一、新禄ハ高之大小ニ寄五拾石又者
   百石其上茂被減候、扨又新古受居候ハ
   新知より被減候御定之事
一、右同御奉公及五十年候者ハ是ハ御役之年数ニ不
   拘惣年数取用ニ相成其子御家督之節無相違
   相続被仰付、旧知之人ハ拝領物被
   仰付見合ニ候事
     但御番方等舊知之人御番無
     懈怠四十年ニ及候輩ハ以其訳
     御服被下置候見合有之候事
一、右同御役三十年以上ニ及候輩者
   跡式無相違相続被仰付繁劇
   之御役ハ右年数ニ不至共無相違
   相続被仰付候事
一、御擬作は家督之節父之勤
   五十年子之勤二十年ニ及候得者
    無相違相続被仰付候、又父之勤六十
  年ニ而者右同断
     但父四十五年子二十五年ニては
     難成候事
一、藝数ニより無相違被下置候儀左之
   通
     目録 四
     目録 二
     免許 一
     免許 弐
   右之通ニ候得共、稀ニハ一藝ニ而無
   相違被下置候儀茂有之候事
一、文学之方ハ目当無之候処、近年者
   寛政二年杉浦角助家督之節高本
   敬蔵より達之趣有之、槍術目録一ツニて無
   相違相続被仰付、其節申渡諸事
   心懸宜候付ケ様ニてと有之候、其已前右様
   之儀無之、角助節踏出カト相見候也
   家督前助教より何某学問ハ免許ニ
   当り又目録ニ当り候と達出候、尤政府より
   一々問合ハ無之候併時宜ニも可応事
一、御切米ハ御取立之面々江被下手取茂
   月刻ニて候事
     軽輩之内席禄ニ困而御奉行より
     奉伺候稜左之通
   歩御使番より歩御小姓列以上伺之
     但
     御在府之節急成儀ハ不及奉
     伺上而達
     尊聴
一、諸役人段御切米拾石三人扶持之内
   被減候者并御給扶持被差救候もの
   伺之
一、御切米拾石三人扶持被下置候者御咎
   に付而役儀被差除又者病気或者
   役儀立不申御免之節勤之年
   数ニ依而御切米之内被減候儀且又歩
   御使番以下段格御給扶持持懸ニ而
   役替退役被仰付又ハ拝領物或ハ
   閉門逼塞遠慮等被仰付候儀者
   達 尊聴ニ不及

参考:高本敬蔵
    慶順(養子 実・原田宗昆六男 慶蔵・敬蔵)  
             御備頭組御留守居大頭組 御儒者・助教 二百石
    高本紫溟 名は順字は子友、慶蔵と称し後敬蔵と改む。紫溟は其号。
    細川侯に仕へ食禄二百石。世々医を業とす。其先は
朝鮮王の庶族李姓
    
なり、幼にして才名あり、詩を善くす。夙に世を厭ふ心ありて、阿蘇山中に
    茅屋を結びて住し、萬松廬と云う。書を読む数年、学大に進む、明和年中
    藩公召して時習館訓導となす。是に於て決然心を翻し、出でて治教を稗
    補せんと思ひ、薮孤山を助けて教育に従事し、遂に教授職に進み、学政
    
を管する事数十年、子弟を育すること甚だ多し。博学多識既に伊洛の学
    に深く、兼て国歌国文を善くす。嘗て長瀬真幸の江戸に抵役するや国文
    一編を贈る。真幸京都に留る数旬、其文図らずも、上皇の叡覧に入る。
    玉音あり、「図らざりき田舎此珍あらんとは」と、紫溟感拝して自ら田舎珍
    夫と号し印章にせり。嘗て芳野に遊び転じて松坂の本居宣長を訪ぬ。(一部略)
    氏真幸を勧めて、宣長に従ひて国典を講究せしむ。業成りて時習館一局
    に
於て教授せしむ。是より始めて肥後に国典の学興り、歌道に深き人々
    出でたるは全く紫溟の功績なり。(一部略)
    文化十年十二月廿六日没す。享年七十八、本妙寺山中に葬る。
    大正五年十二月正五位を追贈せらる。

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有吉家文書「年中行事抜粋」(十一)窺日之式

2010-11-28 08:37:42 | 有吉家文書

四日    同席一人・御奉行一人・御郡代一人
十六日   同席一人・御奉行一人
廿五日   同席一人・御奉行一人・御郡代二人
   但大御奉行御目附之儀ハ御定例
   被召出ニてハ無之候事
附紙
   御着坐之上被召出日窺日等之書付ハ
   初而被遊御用御聞候前ニ御用番より
   書付御用人を以奉伺候得者追而被
   仰出候事
一、奉伺候ケ条申談諸書付共取揃前日
   伺文箱ニ入置候事
      但半切もの其外諸書付ハ伺文箱ニ
      入組、堅紙もの等ハ服紗ニ包持
      候、右之文箱服紗ハ御用箱ニ入居
      候事
一、伺之点前有之候間伺前之人五半時
   出仕、直ニ伺御機嫌今日伺前ハ私ニ而
   候段、以御用人申上、詰間江引取居候事
      但其餘同席ハ例刻出仕如例奉
      伺御機嫌候事
   御用人より案内有之歌仙之御間江
   座着、猶案内有之御前江罷出候
   脱剣且罷出様等諸事
   御着座後初召出之通候事
      但歌仙之御間江者奉行已下も
      相揃候事
一、会議帳ニ被遊
  御青印当御代、可ノ字を御用ニ相成候御下被遊候付
  御側江進ニ寄取揃箱なから
  御印を頂戴仕、蓋いたし紐結傍ニ置
  夫より伺物有之節ハ右之跡ニ而奉伺元之
  箱ニ入御前下候事
     御着座後初窺日ニ者会議帳
     御下ニ不相候、其子細者復議之式ニ
     記置候事、当時ハ此差別無之
     一同復議以下選挙方伺物ハ奉行江
     被遊御下候事
一、御前より下候ヘハ歌仙之御間江御奉行
   以下控居候へも不及会尺等罷通候事
一、詰間江参会議其外伺物御用番江
   差出被仰出之趣等致演舌候、左候而請
   持之帳面江伺之趣頭書いたし佐弐役江
   見せ置候事
一、夫より御用番伺書之箱を請取
   見志らへ箱なから御印頂戴仕候段
   申達候得者、席中一同平伏仕候事
一、御奉行江被遊御下候伺帳等御奉行
   御前より下り御用番江差出候得者
   是又見志らへ御用番迄
   御印頂戴、夫より同席より伺物之内
   自筆物之分ハ取除佐弐役へ相渡
   左候而其除者伺帳之箱なから御奉
   行より之伺物茂右一同ニ御奉行江渡
   候事
     但佐弐役身分之儀ニ付伺物有
     之節其者当人江伺書不相渡様心
     付見志らへ可申事  

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三澤純氏の「お姫様たちの西南戦争:史料の解題と紹介」

2010-11-27 10:13:23 | 歴史

 熊本大学の三澤純氏の論考だがこれが大変面白い。CiNiiで紹介されているのでぜひ御覧いただきたい。説明によるとその概要は以下の通りである。
【1877年に起こった西南戦争に際して、旧熊本藩知事細川護久の三人の娘たちが、細川家の家令や女中たちとともに熊本県内各地を転々とした、疎開生活中の記録である「御子様方所々御立退中日記」を解題を付して紹介したもの】
                http://hdl.handle.net/2298/3270

 幼い姫君お三方が戦火を逃れて、熊本のあちこちを逃げ惑われて居られる。
その出立は熊本城が炎上し、城下町が焼き払われる明治10年2月19日の朝である。三澤氏はこれらのことが細川御内家に事前に連絡されていたろうと推測される。お三方が熊本城下を縦断して、立田邸に到着されたのが10時過ぎだとされるが、直後その城下には火が放たれている。天守が炎上するのはこの直後である。官軍が自焼させたのであろう。

幼いお子達の恐怖の数ヶ月間の記録だが、まさに「事実は小説よりも奇なり」である。
この前年の神風連の乱の時は、お三方は兄の護全公とともに宇土細川家に避難されたと家記は記している。幼い皆様のご苦労の時代である。

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牧崎窯はどこ・・・

2010-11-27 09:36:14 | 熊本

 八代市立博物館・未来の森ミュージアムの福原透先生から、日本陶磁器協会発行の「陶説」及び、デ アルテ・第24号別刷の「鄙の夢--天草郡高浜村庄屋上田家と磁器焼成」をご恵贈たまわった。「陶説」には先生の論考「細川忠利のお庭焼、牧崎窯について」が掲載されている。
 じつはこの論考については随分以前にコピーを頂戴したことがあった。爺の余計ごとで、ここに登場する陶工・弥大夫の消息を「真源院様御代御侍帳」で発見、これをご連絡したことがある。これが先生の論考の中にどう影響したのか、前にいただいたコピーと見比べなければならないが、当方の名前までご紹介いただき穴にも入りたい心地である。

 私は十数年前まで、この牧崎窯があったとされる所の近所に住んでいた。牧崎地区がどの範囲なのか詳しくは承知しないのだが、さてどこだろうと首をひねらずにはいられない。昔の本妙寺の参道は現在とは随分状況が違う。絵図などを見ると、現在の参道にある大門下あたりは随分様変わりしているように思えて、ひょっとしたらこのあたりに登り窯が?、等と考えてしまう。いつかゆっくり牧崎地区を散策してみたいと思っている。

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有吉家文書「年中行事抜粋」(十)御出入之式

2010-11-26 12:48:04 | 有吉家文書

一、御出之節ハ御供廻申上ニ相成候段
   坊主より知候付、御弓之間南九尺之
   御入側ニ罷出、東頭ニ座着多門より御入側之出
   口左手之柱を丁口ニ〆坐着、此御入側と申ハ御玄関
   より一ト続之御入側之事ニて候事
一、御帰座之節ハ、慶宅坂又船場
   橋米屋町等之御注進を承右西
   頭ニ坐着左手之柱を末坐ニ〆坐着之事
      但御近習一手と御小姓組ニ者間
      合次第致会尺候事
一、御先立左之通
   大先立
   一御取次
   鷹之御間より
   一御小姓頭
   御前之御先
   一御用人
   右之通ニ而同席坐着之処無会尺
   被通候事
一、御出入共ニ御先立を見受手を付キ
   御間近く成平伏致居候得ハ、御一ト通
   御意被為在候、御帰座之節ハ
   御跡ニ少シ引下り直ニ中柱御間江
   罷出、例之通奉伺御機嫌候事
      但御用人御人少之節ハ不居合儀も
      有之候、其節ハ暫見合居候得者
      御用人出方有之候又ハ御用人
      詰間江参御次小姓を以申入候而も
      宜候事
一、五半時以上之御供揃之節ハ引揚
一、四半時已下之御供揃ニ而終日
   御留守之節ハ御出前罷出奉窺
   御機嫌候事
一、四時御供揃之節ハ
   御出前出仕御出ニ強而不懸合も不苦候事
一、四時已上之御供揃ニて終日
   御留守之節ハ郭茂直ニ政府へ
   出候事
一、御帰殿八時過候得ハ滞ニ不及候事
一、御庭口より御出入之節ハ御出迎等
   無之候事
一、出仕之節御供廻居之時分ハ表御門
   より詰間之様ニ難罷通候間、裏
   御玄関又者御次口より上り候茂不苦
   尤落間之所ハ刀遠慮いたし、其外ハ
   持通候事
   付札
     四時之御供ニ而終日之御出被為在
     候節ハ政府詰と嘉永三年
     御在國之節定候由之事

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有吉家文書「年中行事抜粋」(九)年頭御入之節講尺初被仰付候節

2010-11-26 10:34:26 | 有吉家文書

一、例之御役々并御使番茂罷出奉行所
   御入之御注進之所ニて聴衆繰付可申段
   一言有之例之通と申述候事
一、館江御入之上直ニ毎講尺出席
   之座より南ニ寄北より五畳目ニ坐着、御
   襖明候処ニて平伏、講尺之所ニて頭を上
   手まて膝脇ニ下ケ敬し罷在相済候所
   にて猶又平伏詰間江引取候事
一、夫より御式被召出諸事前条之通
   にて御立後文官不残講堂江繰
   付学監より案内有之鏡板折廻し
   カマチを右ニ取北壁付より九畳目ニ罷
   出不相替何方茂出方目出度と申述
   直ニ引取候事
     但名前ハ学校御目付より差出候
   右之外相替儀無之候事

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細川護煕「閑居に生きる」

2010-11-26 08:00:47 | 書籍・読書
細川護煕「閑居に生きる」 (和樂ムック)
細川 護煕
小学館

  

   細川護煕さまは扇面に「文武両道」と書かれています。
   政治の世界が即ち「武」であり、現在の陶芸や晴耕雨読の世界、そして永青文庫の理
   事長としての活動がまさしく「文」の世界なのでしょう。
   「有武事者必有武備」 まさに文武両道の人であり、幽齋・忠興以来の細川家の伝統を
   継承されているようです。                              津々堂

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常設展示室

2010-11-25 16:16:03 | 熊本

 熊本県立美術館の本館二階に、永青文庫常設展示室が設けられるそうだ。現在の永青文庫展示室は本館別棟で年四回の企画展示が行われるが、いささか手狭でどうにかならないものかと思っていたが、今回このような流れは新幹線開業に伴う観光客誘致へ、永青文庫の偉大なる遺産を活用したいという関係者の考えが一致したのであろう。経緯はともあれ大変結構なことだ。

 熊本大学の永青文庫研究センター、八代市立博物館-未来の森ミュージアムや、(財)島田美術館などと連携を深め、より良い企画で楽しませていただきたいと思っている。

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奥勤めの女性達

2010-11-25 13:26:44 | 歴史

■武田信玄の孫・岩間六兵衛の先祖附は、奥方・海津に関する記述が数ページに及んでいる。夫婦して忠利の室・保壽院付きとして細川家家臣となったが、海津は「大御老女」として忠利・光尚・綱利に仕え、五百石物成を頂戴し六兵衛(三百石)よりもセレブでその実力が伺える。元禄期の熊本城下の屋敷図をみていると、「かいつ」と記入された広大な屋敷があった。現在のホテルキャッスル前の駐車場のある場所である。
 六兵衛は細川家にとっては「大恩人」とも言える。光尚は、六丸(綱利)生母である側室・清高院を、屋敷から下がらせよう(離縁)とした事がある。六兵衛は清高院の懐妊を告げ諌めるのだが、何故か光尚は「流産させよ」と命じたりしている。六兵衛は海津とともに妊婦を預かり、誕生後三歳になるまで自らの屋敷内で六丸を育てている。その六年後光尚は生母・保寿院の後を追うようにして亡くなるのだが、肥後国の相続について一波乱があった。その後も清高院や綱利の派手な生活振りが、家老松井興長の諫言を受けるなど六兵衛夫妻の苦労もいかばかりであったか、想像に難くない。海津は延宝二年(1674)八月に亡くなっている。綱利は32歳であったが、頼れる老女であった。

■また「刑部卿」という女性が在ったことが、次の文書で伺える。細川家文書・御印之物」に寛永十九年三月五日付奉行宛て文書として、次のようなものが有る。
「刑部卿まご成瀬弥次右衛門尉・成瀬元馬此両人ニ銀子弐拾枚遣候間堀平左衛門尉ニ可相渡也」というもので、「fosacawarocu」という光尚のローマ字印が押されたものである。ここに登場する成瀬氏なる人については、よく分からないし又この文書の内容についても良くわからない。
 この女性については細川家史料--人物索引に、「刑部卿」又は「田中善左衛門室」として次のようにあった。
【山名豊国の姪にて、宮部継潤の養女となり、田中吉政の一族で継潤の家老田中善左衛門(八千石)に嫁ぐ。善左衛門は関ヶ原役で小早川秀秋の手に属し討死。のち豊前にて忠利に召出され、忠利室保寿院に仕う。光尚誕生により直に附属され、日夜御側に仕う。光尚の江戸へ発駕する時も供し、登城拝謁の時も附添う。】 田中善右衛門についても良くわからないでいる。

■ 「ゑもんこう」(右衛門督)という人が在り、これも奥勤めの人であるらしい。この人が弟・大喜多又兵衛(後に細川光尚に殉死した、山中又兵衛・氏連)の召出しを希望した文書がある。細川家史料に於いては、(-1141-)で紹介されていた。忠利が光尚の為に召し出したものである。
  (-1142-)寛永十五年閏七月廿九日追而書として次のように有る。
  「尚々、ゑもんのかう(右衛門督)をとゝ、其方へ奉公申度と申二付而、下候故、
  書状調渡候へ共、此状ハ急被脚ニ先へ下し申候、跡より右之奉公人下り可
  申候、追而と書状有之付而、如此候、以上」
そして九月十一日書状(-1145-)には次のように有る。
  「大北(大喜多)又兵衛其元へ著申候由、得其意候事」

ほぼ同時代を生きた、「海津」「刑部卿」「右衛門督」の三人の女性、それぞれの人の出自が面白くまた関係者の生き様も興味深い。



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黒うさぎ

2010-11-24 07:29:28 | 徒然

 我が家に高さ85㎜×巾70㎜×長さ115㎜ほどの、ブロンズ製の「黒うさぎ」の置物がある。妻が持ち込んだものだが、母方の祖父に当たる人が画家だったので、その人の手になるものではないかと思うのだが、妻は首をかしげている。実家に昔からあったというから、「相当古いもの」と妻が言う。TVで「来年の干支」のうさぎが話題となっているのを聞いて、取り出してもみた。飾りだなの中に入れたままで、手入れなどした覚えが無く、ほったらかしの状態だった。ほこりを払ってみるが、どうもすっきりしない。妻が「洗う」と言い出した。たわしででもごしごししそうな気配を注意して、洗剤をつけて手で洗ってみた。積年の埃はかんたんには落ちない。今一すっきりしないが、来年は一年間主役で頑張ってもらおうと、結婚以来始めての本格的お手入れである。

おき場所を工夫しないと、とにかく真っ黒で栄えないし、存在感は重さだけである。

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落札・小堀流踏水術第八代師範の書

2010-11-23 08:45:13 | 徒然

  オークションを眺めていたら、我が祖母の父・猿木宗那の末弟・小堀流第八代師範の「城義核」の書が出品されているのに気づいた。落とせるかどうかは別として、これは知らぬふりは出来まいと応札したのだが、幸いにも落札することが出来た。(金額は・・・内緒・・・)
この爺様には何度かお目にかかっている。いろいろエピソードがある人で、病中ながら戸板にのって運ばせ、宮様の御前で游泳をご披露しお褒めをいただいたとか、西南戦争参加の最後の生き残りだとか、話題には事欠かなかった。
熊本市の子飼商店街の裏手にあった自宅は、江戸時代以来のものだったようで、熊本市史の江戸末期の地図にも同じ所に描かれている。下に略系図を示すが、一家を挙げての淤永師範である。祖母の実家の御家流である。
今にして思うと、私も古淤法小堀流を稽古しておくべきだったと、悔やまれて仕方が無い。

どうやらこの書は、何方かに当てた免許状らしい。本来ならそちらに収まるべきであろうが、祖母の叔父の書ということもあり、私が大事にさせていただこうと思っている。

 
                     6                 10        
         猿木権七---+--宗那---+----眞壽夫----恭経
            |    |       |
         +--●    |       +----●(祖母)---●(母親)---津々堂
         |       |       |
         |       |       +----●
         |       |
         |       +--(西村)宗系---○==眞壽夫・二男
 5       |       |
小堀水翁---+--○----------●
                  |   |   7
                  +--(小堀)平七
                  |     8
                  +--(城)義核
 小堀流は
  1        2         3          4         5         6
 小堀長順---池辺弥八郎---山東彦右衛門---能勢熊之允---小堀水翁---猿木宗那

  7     8    9    10
 ---小堀平七---城義核---広木寅雄---猿木恭経と---(以下略)と継承され今日にいたっている。

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細川家のお国入り

2010-11-22 20:42:33 | 歴史
 細川家のお国替えは不思議と寒い時期である。
 忠興の豊前入りは慶長5年の12月26日(新暦1月12日)だとされる。12月8日に丹後を出立したとされるが、この年は随分寒かったらしく雪が深く馬が凍えて難儀したと、加藤政右衛門家(金山下坊子孫)の家記に記されている。「御人数及難儀申候ニ付、金山下坊宅へ一日一夜御逗留、拾八疋之御馬火をたきあたヽめ申候、其上御通行之道筋三里之間をかきのけ、無御支御旅行遊され候・・・」とある。主だった人達や女性達など十八人が馬に乗り、その他の人達は18日の間の数日を雪中行軍した事になる。

 一方忠利の熊本入りも寛永9年の11月9日、(新暦では12月20日)お寒い中ご苦労様といわなければならない。
10月4日肥後拝領の御沙汰を得た忠利は、次々に国許へ書を発する傍ら、御礼の為に多忙な日々を過ごしている。そして10月15日に江戸御発駕、27日大坂着、11月11日小倉に帰っている。その間にも忠利の早飛脚による指示がもたらされ、長岡佐渡守・有吉頼母佐・長岡監物らの適切な処置により、肥後入りの準備が万端調えられるとともに、「飛ぶ鳥跡を濁さず」の始末が成されていく。御供の者が決まり、警護の鉄炮者・御弓者なども決定、道筋の宿奉行や万奉行などが定められる。忠利の帰着とともにその事が肥後在番に届けられる。17日には沢村大学介が先遣として肥後へ向かう。20日には上使板倉内膳、仙石大和守が小倉入り、23日には肥後へ向けて出立して行く。27日、小笠原備前・志水伯耆・清田石見・三渕内匠・氏家志摩・道家帯刀・藪図書・藪市正・加々山主馬・国達道倫らが御郡奉行に任ぜられる。11月5日長岡監物小倉差立、7日に熊本入りし在番の石川主殿頭に被謁して「御要害之錠鍵」の引渡しを受け、大御番所をはじめ諸所の番所を警固した。6日いよいよ忠利一行は小倉を出立、行程四十里を四日かけ、途中の黒田・有馬・立花の領内を饗応・御音信をうけながら通過、9日朝「夜ふかく山鹿御立」熊本に入った。長岡監物宛の有吉頼母等の書状によると「当地御城唯今九日之辰ノ上刻ニ被成御渡、無事ニ請取申候」とある。10日忠利が息光利に宛てた書状の中に「事外ひろき国にて候、城も江戸之外これほとひろき見不申候・・以下略」と、その感慨を申し送っている。家臣たちも順次熊本入りするが、「御入国宿割帳」に詳しい。日付は11月28日とされているが、家族を含めると万に近い人々の移動であり、一挙に肥後入りしたものでない事は確かだろうし、この日付けは記録上のものであろう。慌しい一年の終わりを迎えようとしている。
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のぞいちゃ駄目

2010-11-22 17:44:10 | 徒然

 妙解寺の忠利公ご夫妻・光尚公の三霊廟は方形造りで、唐破風造りの向拝をもつ立派な建造物である。先のお掃除の際気が付いたのだが、忠利公・光尚公の廟所は建物の足元が6~7寸開いている。そこから墓石の状況が見て取れる。処が忠利公夫人・保寿院さまの廟所は足元の部分が完全に隠されていて、中を伺うことが出来ない。
さすが女性のお墓・・?と話したことだが、本当の意味はどうなのだろうか。
どなたかご承知であれば、ご教示いただきたいものである。

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