津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御礼

2021-12-31 10:56:27 | 徒然

 令和三年の当ブログはたぶん皆勤であったと思いますが、友人から段々ネタに詰まっているのがよく判ると言われました。
それは、私自身が感じていることですが、来年は傘寿を迎える事でもあり、量をおさえて中身の濃いものにしていきたいと思います。
一年間お付き合いをいただきまして深く御礼を申上げます。良い新年をお迎えくださいませ。

                                  令和三年大晦日 津々堂 敬白

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(二十ニ)

2021-12-31 07:16:23 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(二十ニ)

               もろこしぶね
 われもまた浦傳ひしてこぎとめむ唐船の寄りし湊に

 九州道の記。五月七日條「同じき國長門浦小畑と云湊に、唐船の著て有よしを船人の
うちに語りければ、さらば見物せむとて、遙に舟をよせて、しばし留めて」。幽齋は、
人麿が悲戀の歌を詠んだ高角山を海上から瞥見し、やがて長門國に著いた。歌意は簡
明ながら、典據を持つ。伊勢物語、

 おもほえず袖に湊のさわぐかなもろこし船のよりしばかりに

小畑、長州阿武郡の海村、舊名は埴田といひ、延喜式に年料雑器、長門國茶碗廿口、
徑各五寸とあつて、非常に古い製陶地であつた。歌の中の「唐船」は對島海峡に出漁
する朝鮮の舟が漂着したのかも知れぬし、或は、明國の貿易船が來泊したのかも知れ
ない。いづれにせよ、幽齋が異国船に漕ぎ寄せたといふことが面白いのである。


 くれわたる鐘の御崎をゆく舟に我は忘れずふるさとの夢

 九州道の記。五月廿三日條「赤間關を出て行けるに、雨の名残にや波かぜの荒き故
に、小倉に泊りて、明る夜をこめて舟よそひして、筑州箱崎をさして行に、船人の、
これなむが御崎といふ、昔鐘を求め舟に載てきたり、汀近く成て取落して、今に有
と云。日和のよき時は龍頭などみゆるよしを語る。勅撰名寄には、と云字を書たり
と覺えけるが、鐘にて有べきなどと友達抔に語りける次に、萬葉に、我は忘れずしか
のすべ神と哉覽讀たる事など思ひ出て」。さて右一首をしるし、續いて「かやうに云
戯れ、こぎ行程に、夕浪荒くなりて、やう/\志賀の島に著て、金剛山の宮司の坊に
やどりて」云々。この記事興味多し。二條流の幽齋、なか/\勉強家で、又、強記で、
勅撰名寄の文字を正し、萬葉の歌まで想ひ出し、同舟の友達等(勿論、西征の諸將)
に講義してゐるのである。鐘御崎、筑前國宗像郡の岬角で、響灘に突出してゐる。續
                 博か
西遊記に見える梵鐘傳説を、吉田東吾傳士は「附會ならむ」と斷じ、金御崎が正し
く、昔金を採掘したる所といふやうに述べてゐる。萬葉の歌といふは、巻第七雑歌、

 千磐破金之御崎をすぎぬとも我は忘れじ志賀のすめ神

を指す。幽齋これを本歌に取つて、自分は志賀の神よりも故郷の方が忘れ難い、と
「戯れ」たのである。初句「暮れわたる」は單に時刻を現がすのみでなく、第二句
「鐘」にかかつて、入相の響きをも持たせてゐる。〇新村出博士著「南蠻記」昭和十八年五月刊
の中に「沈鐘の傳説」といふ一偏あり、幽齋の書いた鐘にも言及して、「後人の附會
     〇  〇
にもせよ鐘神と解して置いて、此海中の沈鐘をば宗像志賀の諸將の所爲とすることも
出來よう」云々と述べられたのに、私は賛成する。

 

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■年末雑感

2021-12-30 14:29:58 | 徒然

 令和三年も残すところあと一日となった。昨年同様コロナに明けコロナに終る一年だが、都合二年近くになるのに終息が見えない。
菅政権はコロナで振り回され政治力学によって辞任に追い込まれたが、世界の他国に比べれば、彼のコロナ抑え込みの政策は一応の成果を収めての退任ではなかったろうかと私は評価している。
現政権は、オミクロン株の抑え込みに力を注がないと、又厳しい国民の目にさらされるだろう。
散歩の途中良く思うことだが、全く人気がないところを歩いている人が、ちゃんとマスクをして歩かれていたり、車のドライバーがたった一人なのにマスクをされているのを見ると、日本人ってなんて勤勉なのだろうかと思う。
スタンダード・ファッションにそぐわないからとか、自由を叫んでこれらを嫌うお国柄の国々で、猛烈に蔓延しているのを眺めると、「責任」という思考が欠落している。
私は先に、三浦綾子の「われ弱ければー矢嶋楫子伝」をよんだが、その中に「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」という言葉が紹介されていた。
矢嶋楫子は校則などの規律を廃し、盛んにこの言葉を口にしたという。
宗教教育を受けていない無宗教者にも心に響く言葉である。
このオミクロン株の広がりは、キリスト教国である国々の人は、この矢嶋楫子の思いを強く受け止めていただきたいものだ。

 今年私は8年務めた熊本史談会の事務局の勤めを解放された。正式には四月からだが、昨年秋から有志の皆様にご相談をしてやめさせていただくことを決意した。そして現在は確かな組織が出来上がり、会は会長はじめ四人の運営委員によりすばらしい活動の歩みを進めている。もっと早くこの機会が来ていれば、少しは楽にできたのにと思うのは不遜であろうか。
来年四月で発足16年を迎えるが、今後は本当に一兵卒として皆勤しようと思っている。
現在の歩みを見ていると、この会がこの先も確かな足跡を刻むことは間違いないと確信している。

 私事としては、「新・肥後細川藩侍帳」をまとめ上げなければならない。これだけは万難を排してなんとしても仕上げなければならない。
いろいろ企てているが、二番目には「自分史」を書き上げて、子供や孫たちの為に我が家の歴史なりを書き残さなければならない。
私は、来年早々傘寿を迎える。恐ろしいことだがここまで何とか生きてきた。父の早死には兎も角も、母が生きた86歳まで生きればなんとかこの二つの命題をクリヤできると思っている。やり遂げなければいけないというのが本音だが・・。

70代最後の年というのはいささかしんみりさせられる。
健康第一で頑張らなければならないが、甘いもの好きで、お酒も飲むという厄介者だから、来年からこれをどれだけ自制できるかが最大の努力目標である。

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■鮭とか鶴とか・・

2021-12-30 08:47:22 | 徒然

 以前はお正月前に荒巻鮭を買ったりしたものだが、ここ一年ばかり「鮭」を奥方が週一で近くのスーパーから新鮮な片身を購入してくる。これをすぐさま焼いて身をほぐして、これをご飯にのせて食べたり、晩酌のあてにしたりしている。
「鮭」など、50年も前は正月くらいにしか食べられなかったようだ。もっともこれは我が家の経済事情にも依る。 
処で、古い記録を読むと元和・寛永と言った時期は随分寒かったのではないかと思われる。

実は中津あたりで「鮭」がとれたというのだ。
寛永七年十月七日の記録には「当国にてかようの新ハ初物にて候、則ちまず少し料理仕り・・・」とある。
護貞さまは、山国川ではなかろうかと推測しておられる。山国川は支流も多いし当たらずとも遠からずかと思われる。
当時、九州では鮭は到来物が殆どであり、遠く新潟あたりで採れたものが音物として届けられ、三齋が喜んでいる記事も見受けられる。

 その三齊公は盛んに飛来した鶴を鷹匠にとらせて食しているが、今日では考えられない事ではある。
菅豊氏の著書「鷹将軍と鶴の味噌汁」によると、鶴の料理は汁・船場・酒びて・ももげ、わた(臓物)の吸い物・骨のくろ塩(焼き)などであったとされる。汁とは味噌汁であったようだ。
お正月には欠かせないものであったかもしれない。鷹匠がとらえた鶴は殆どか塩漬けにして保存された。
将軍家や幕府の要人、付き合いのある大名や旗本などに音物に使われた。そのように多くの鶴が飛来していた。

 熊本の鶴屋デパートの命名の由来は、この場所が鶴屋敷とよばれた鶴の飛来する所からというから、これとて風景として頭に浮かばない。明治のころまで松の木がそこかしこにあったと祖母に聴いたことがある。
ここで鷹狩りをしたとは思えないから、お正月の頃優雅に熊本の空を鶴が舞っていたのかもしれない。

 又、現在の花園町五丁目あたりに「鶴の茶屋」という地名が残る。ちょうど上熊本駅の北口当たりの場所だが、かって沢村大学(?)の茶屋屋敷があったと言われる。いまではマンションの名前に使われてかっての存在を示している。
鶴由来の場所はまだいろいろあるのかもしれない。

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(二十一)

2021-12-29 11:59:17 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(二十一)

 ちはやぶる神のやしろや天地とわかちそめつる國の御柱

 九州道の記。天正十五年、五十四歳。秀吉の西征に參加せんとて幽齋は此年四月中
旬丹後田邊城を出發し、伯耆・石見・長門を經て九州に渡り、博多・大宰府まで行つ
たが、七月上旬歸路に就き、秀吉とは別行動を取つて山口・嚴島・蟲明・室・高砂・
飾磨・明石など内海の名勝を見物しつつ、同月廿三日大坂に著く。往復とも概ね海路
によつた。九州道の記は、その時の紀行文で、和歌や發句を數多まじへてゐる。〇右
一首は伯耆國、現在西伯郡佐陀村の古祠を拝した際の作で、四月廿七日條「船をば浪
間に待まはし侍べきよし申て、杵築宮見物のため、かちにてたどり行。道のほど三里
ばかりへて、木深く、山野たたずまゐただならぬ社有をみめぐりて、社人と覺えたる
に尋侍るしに、これなむ佐陀の大社なり、神躰いざなぎいざなみの尊と教へけるに、
しか/\物語し侍るに、日もたけ雨もいたくふれば、衣あぶらむほどのやどり求てと
どまりぬ」と記して、さて「ちはやぶる」云々の一首を載す。「天地とわかちそめつ
る」云々、古事記冒頭の天地初發之時を想ひ、二神産島の御事を言つたのであること
荒れはてたる山中の小祠ながら開闢の二神が鎮まり給ふ處、これ即ち盤石の如き國の
御柱なりと、稽首したのだ。何の虚飾を用ゐずして、直ちに太素杳冥の神代を歌つた
                                ひさし
ところが壯嚴だ。梅雨の前觸かとおもはれる雨を避けて、小祠の傾く簷の下に体んで
ゐる幽齋、濡れながら侍べつてゐる少數の將卒、それらの光景を眼に描いてこの歌を
誦すると、歴史は面白い。

 

 これやこの浮世をめぐる舟のみち石見の海のあらき浪風
                                    にま
 九州道の記。四月廿九日條「石見の大うらと云所にとまりて、明るあした、仁間と
いふ津まで行に、石見の海荒きといふ古事にも違わず、白波かかる磯山の、巌そばだ
ちたるあたりを漕行とて」。仁間、また仁摩は石州邇摩郡海濱の部落。石見の海荒き
といふ古事云々は、多分、人麿の從石見國妻上來時の長歌の中に「朝羽振風こそ
よらめ、夕羽振浪こそ來寄れ」とあるのを指すのであらう。「これやこの」これが、
その、世俗の謂ふ所の、の意」浮世をめぐる舟のみち」人生をば苦界を渡る舟に譬へ
たので、勿論、佛教の思想である。佛典では、われ等衆生は、しばしば舟や車にたと
へられる。一國一城の主なる幽齋といへども、その例に漏れない。況んや彼は、只
今、山陰風雨の海を難航して、生死のほどもわからぬ戰場に向ひつつあるのだ。

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■歳末読書

2021-12-29 06:58:00 | 書籍・読書

 一昨日缶コーヒー変じて文春文庫と成るを書いたが、やはり缶コーヒーを買うべきだったと後悔している。
その日の夕方、この本を開いて読み始めて「あらっ」と思った。「これ読んでるよ~」
本棚を探して見たら、同じ本があった。不覚・不覚、年の暮れに何たる失態と我ながら恥ずかしい為体である。

 一方Amazonで注文していた本が届いた。
1月8日に熊本城ホールで全国に先駆けて上映される映画「われ弱ければー矢嶋楫子伝」の原作、三浦綾子の同名の著書である。
映画を観る前に読んでおこうと思ったが故である。
読み進めていくうちに、熊本では「四賢夫人」の一人として良く知られるこの矢嶋楫子のことを、全く知らなかったことに気づかされた。
                     

 酒乱の癖がある三人の子持ちの林某に嫁ぎ、自らも三人の子をなし、酒を飲んでは刀を振り回す林の凄まじい10年間のDVに耐えてきた楫子が、子供を残して去っていく。
楫子にしろ、横井小楠に後妻として嫁いだつせ子にしろ、豪農の娘とはいえ武家の家に嫁ぐとまるで下女扱いだったようだ。
楫子は「四賢夫人」といわれるつせ子を含む三人の姉たちにも冷たくあしらわれている。その時代まだ女性からの離婚という法制は存在しなかった。
40歳に成り、東京にあった兄・直方が病気となったことで加勢の為に上京した楫子は、教育者になるべく勉学に励み教師となった。
一方では直方の許に書生としていた10歳年下の鈴木要介に心を寄せ、なさぬ仲と成り不義の子を産んだ。
娘は終生父親を知らされずに生きた。兄弟姉妹の批難は相当のものであったらしいが、一人兄・直方は理解を示したらしい。

甥の徳富蘆花は手紙を送り、はげしく楫子を詰問している。それは終生蘆花の心の内に消すことが出来ないものであったらしい。
そんな中で、熊本に置いてきた林との間にうまれた治定なる13歳の子が、花岡山にてキリスト教者としての誓いの集まり
(熊本バンド)に参加したという知らせが届いた。
さらに姉・つせ子の子横井時雄、また久子の子・徳富猪一郎も同様であるという。
この驚くべき知らせに楫子の胸中に「キリスト教」という言葉が、大きくその場所を広げたのであろう。
教師としてその優秀さを周りに知られていた楫子は、突然ミッションスクールの新栄女学校の校長に招聘される。現校長のミセス・ツルー女史の乞いであった。
熱心な要請を受けて楫子はこれを受ける。一方では熱心に教会に通い明治11年には洗礼を受けることになる。
ミセス・ツルーが他にも経営していた学校と合併し、「女子学院」となったが、ここでも楫子は乞われて初代学院長に就任した。
女子教育の巨頭となった楫子は、さらに娼妓をその世界から救うために「矯風会」を立ち上げる。
90余歳に死去するまで、止むことを知らぬ精力的な活動を行い、教育者・社会運動家として巨名を残した。
熊本の「四賢夫人」という言葉では表し得ない大人物である。

 映画では楫子役を常盤貴子さんが演じられる。
脇を固める男優・女優の方々の写真をパンフで見ながら、どなたが何方の役を演じられるのだろうかと思いながら1月8日を待つことになる。

興味深い本は、一気呵成に読了することが出来る。これで年末年始に読む本がなくなってしまった。
また、青空文庫で年末恒例の「おおつごもり」を読むことにしよう。

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■ご恵贈御礼ーくまもと文学・歴史館友の会 第29号「湧水」

2021-12-28 09:07:11 | 先祖附

                                                                  

    今年の熊本史談会で「蒙古襲来絵詞・白描図」の展観を行ったとき、ビジターとしてこの「湧水」に「蒙古襲来絵詞異聞」を書かれた寺山よしこ様が出席された。
その折、その掲載誌である28号を拝受したのだが、今般その後編が掲載された29号をご恵贈給わった。

誠にありがたくお礼申し上げる。
寺山さまは俳句の同人にも所属される俳人でもあり、今回の俳句の欄にも「目高」と題する10句が掲載されている。
また史談会の会員でもあるOS氏の句が掲載されていることを知ったことである。

前編はそのごプリントアウトして会員に配布したところだが、後編も1月例会に於いて配布することをお願いしたいと思っている。深く感謝申し上げる。

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(二十)

2021-12-28 06:51:33 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(二十)

 久方の空に積れる白雪や明けゆく不二の高根なるらむ

 雑部「禁中に富士の山繪にかきたる御屏風奉りし時」と詞書あり。何年の事とも審
でないが、禁中に物を獻上するといふのだから、功なり名遂げた晩年のことに相違な
い。繪は何人に描かせたかも不明だが、事が事とて、山樂とか興以とか等伯とか松友
とかいふ第一流の巨匠に依頼したことは疑ひない。富嶽を畫題に擇んだのは、幽齋自
身であらねばならぬ、又、右歌は、その屏風への畫賛ではない。一首は解説を要せぬ
ほど、單純に、さうして清々しく詠めてゐる。何等奇抜な見どころもなく、かやうの
歌は古來たくさん有りさうなものだが、探してみると案外にない。

 久方の空に積もるとみゆるかな木高き峯の松の白雪 (新千載集)
 ほのぼのと明けゆく山の高根より横雲かけてふれる白雲 (新拾遺集)

かやうの次第で、幽齋の一首は倍々光る。


 ねがはくば家に傳へむ梓弓もと立つばかり道を正して

 雑部「祝」。厳格なる武將の幽齋が、一首に顯現する。希くは、我が武門細川家に、
弓矢の道を正しく傳へ度しと、八幡大菩薩に祈願したのであらう。第四句「もと」
は、弓のもといひ、末といふので、第三句の「梓弓」を受け、同時に。道の根源の意に
用いたのである。黒田如水の歌にも、

 末までもためし引かばや梓弓とり傳へつるもとを正して

といふのがある。細川家は幽齋の子に名將忠興出で、その子孫永く熊本藩主として榮
え、明治に至つた。日露戰爭での名譽の戰死を遂げた陸軍中尉長岡護全子も、幽齋の後
裔である。右祈願の歌の如く、細川家の弓矢は正しき道に依つて傳へられたのであつ
た。

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■缶コーヒー変じて文春文庫と成る

2021-12-27 11:14:03 | 徒然

 昨晩は、明日は少々なりともの積雪があり白銀の世界だろうと思ってベッドに入ったことであった。
暖冬気味であった年末も今朝はずいぶんと冷え込んで、ベッドからでたら一面に広がる銀世界を想像してカーテンを開けたが、按に相違していた。
時間がたつにつれて太陽も上り、穏やかな師走の一日を迎えたという感じである。
土日と暦並みに散歩を休んでしまったので、早々に散歩に出る。缶コーヒー代をポケットにねじ込み4㌔コースをあるく。
こむら返りを起こした足が痛くスピードが上がらない。折り返しの場所で本屋さんの看板が見えた。ぎりぎりオープン時間を過ぎているようなので少々立ち寄ってみる。
カレンダーやダイアリーが正面に並べられて年末の装いである。
缶コーヒーは買えなくなるなと思いながら、1,000円からおつりがもらえる文春文庫を一冊購入。
Amazonに注文して今日到着する一冊と共に、年末の時間つぶしにする。
太陽の恩恵を背に受けながら、少々汗ばみ、手袋もはずしてのんびり一時間をあるいた。
30日を歩き納めにしようと思っている。

 

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■寛永六年十二月廿七日の書状

2021-12-27 08:34:15 | 歴史

 ~12月27日の過去の事件の忘備録から~

 寛永六年十一月八日の朝、京の公家衆は突然の伺候の知らせに驚き参内した。
そんな中奉行頭が罷り出て「譲位である」と告げ諸卿は大いに驚愕したという。
後水尾天皇と東福門院(徳川秀忠女・和子)の間に生まれた女一宮を内親王に敍することに対し、天皇は土御門泰重(細川幽齋・妹の子)に調査を命じ、その返事を得るとすぐさま内親王の宣下を行っている。(十月廿九日)
徳川家に対する後水尾院の強い反抗の意思が貫かれた、綿密にひそやかに計画されたものであった。幕府の驚きはいかばかりであったろうか。

 このような状況は京に在った三齊から忠利に送られた書状により知ることが出来る。
寛永六年十二月廿七日の書状においては
  ・禁中・公家衆の経済的不安 
  ・公家衆官位に幕府の干渉がある事
  ・幕府からの加増や寄進があるも天皇の自由にならない事
  ・このため貸金を行い利息をとるなど恥ずべき状態にある事
  ・勅許した紫衣をはく奪するなど、天皇の裁量権を否定した事
寛永五年二条城行幸からわずかしか経たぬこの時期に、これらの事に対する強い不満が天皇の御心を傷つけたというのである。
そして最後に
  又かくし題には、御局衆のはらに宮様達いかほども出来申候を、おしころし、又は流し申候事殊の外むごく、
  御無念に思し召さるゝ由候 いくたり出来申し候とも武家の御孫よりほかは、御位には付け申すまじくに、あ
  まりにあらけなき儀とふかく思し召さるゝ由候
これは徳川方が、東福門院以外の女御にできた御子を産まれたのち殺したり、流産させたりした「あらけなき」事実があったことが洛中に知られていたことが判る驚愕すべきことである。
又三斎は、先述の土御門泰重をはじめとする親しい公家衆から、確かな情報を得ていたのであろう。
このことは隆慶一郎の「花と火の邸」で、柳生衆のあまりにもむごい仕業として描き出されているが、それが度を越えているだけに恐ろしく、三斎の報告書に重なる。

 細川家に残ると三斎と忠利のあいだの種々の書簡は膨大な数に上るが、上記のような貴重な情報がもたらされ、今日の歴史研究の超一級資料として現存することは有難いことである。

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■お正月休みモード

2021-12-26 16:07:55 | 先祖附

 昨日大掃除をして、年賀状を出し終えて、今日はすっかり気持ちが楽になりのんびりしている。
もっとも今朝は右足のこむら返りでぎゃっという目にあったし、身体があちこちこわっている。
男女の高校駅伝を見ながらチャンネルを切り替えていたら、昨年末観おとした、BSプレミアムの「赤色立体地図の解析で関ヶ原の戦いの通説が変わる!? 」再放送をやっていた。
関ケ原・玉城」に現地調査に入った城郭考古学者・千田嘉博奈良大学教授の解説や興奮ぶりも共に楽しんだ。
静岡大の小和田教授もこの城の詳しいことはご存知にないということらしく、出席者の興奮度合いがヒートアップしていた。
赤色立体地図はブラタモリでもお馴染みだが、森や建造物などを消し去って地山を見せているが、どうやってこんなことが出来るのやら、爺様の頭では到底ついていけない。
その結果山頂部が人工的にカットされた玉城の詳細が知れたということらしい。

              

こんなことで時間をつぶしていると私はすっかりお正月休みモードである。
しかしながら、熊本もオミクロン株の感染者が出たし、雪が降って急に寒くなったと思ったら又鼻かぜになったり・・・
年末年始の病院の御休みの間に、具合が悪くならないように気を付けなければならない。

(ちなみに、男子は九州学院が6位、女子は千原台高校が10位、よく頑張りました)

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(十九)

2021-12-26 09:10:21 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(十九)

 杣人のすみかとやいはむみだれ碁の音してふくる燈火の影

春部「山館燈」。圍碁の競技は堯舜の時代に創案されたといひ、更に遡つて印度から
傳來したともいはれるので、杣人碁を樂しむといふことは、非常に古くから想像せら
れた。晋の王質といふ樵夫、爓柯山で杣人の圍碁を見てゐた中に斧の柄が朽ちてしま
つたといふ話は、有名なもので、昔から支那の詩にも日本の歌にもよまれてゐる。こ
の競技の本邦へ傳來は吉備備に始まると普通うはれ、殊に、戰國時代に入つては戰
略の研究と圍碁の勝負と共通する所ありしとて、武人の間に流行した、信玄・信長・
秀吉・家康なども相當の腕前であつたらしい。多藝無比の幽齋も、必ずや強い打手で
あつたに相違ない。彼が臂力絶倫なりしことの一例として、碁盤で燈火の煽ぎ消した
話が傳へられてゐるが、座右にこの道具が置いてあつたのだらう。〇「みだれ碁」黒
白の石を置きまじへる故に斯くいふが、或は、石をくづす有様からさういふか、いづ
れにしても、ここでは單に圍碁の意である。この家は杣人の棲家とでも言はうか、か
やうに、しめやかに碁の音がしつつ燈火の光が更けてゆく。按ふに、この歌、幽齋自
身の家に於ける或夜の光景を敍したもので、他人の家を覘いての作ではあるまい。圍
碁を和歌に詠じたのは、古くは見當らず、これは新しい歌といひ得るであらう。


 西に移り東の國にさすらふもひまゆく駒の足柄の山
 
 雑部「思往事」。南征北伐の生涯に對する述懐で、武將の吟として實にすぐれてゐ
る。この一首は、小田原陣の際のことを後日追懐して作つた歌にちがひない。それで
ないと、肝腎の第五句が、駒の足といふ洒落に終つて、宙に浮いてしまふ。征戰に從
ひ足柄山を越えた時の感懐を元として、始めて一首が燦然と生動する。「西に移り東
の國に」云々、天正十五年には九州征伐に随ひ、同十八年には小田原征伐に從つた。
加之、さらに以前まで遡つて思ひ出せば、中國征伐にも出馬し、丹後征伐には奮戰し
た。武人は席を温める暇がない。「さすらふも」戎旅に東西南北する意味で、ここで

は零落流轉のことでないのは、いふ迄もない。幽齋はおちぶれてさ迷い歩いた經験を
持たぬ。「ひまゆく駒」云々、壯子に白駒の隙を過ぐるが如しと形容された歳月の
迅速をいつたのが、机の上の感想とちがつて、實際あわただしい武人の生活をした
幽齋なるが故に、この句も活きいきとして感じられる。殊に。「駒」の一字も、平凡
に見逃してはならぬ。幽齋は馬上の人なのであつた。くり返していふ、これは絶唱で
ある。かやうの作を衆妙集に十首ばかり欲しかつた。〇飛鳥井雅章の衆妙集跋文の中
にも、幽齋の一生を簡敍して、傳聞法印生部門亂生帷幕爲宅、金草爲衽、西
伐東征不寧處云々。

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■年末の一大事

2021-12-25 13:33:44 | 徒然

 プリンターの不具合で年賀状のあて名書きが出来ず、爺様はあきらめてついに手書きを始めました。
WiFiでデータを飛ばしていますが、本当に飛んでいるのやらどうやら・・・
爺様の脳みそは最近がらがらと音を立てて壊れていますから、原因究明が大変です。
おまけに昨日は奥方が年末の掃除を始めたため、加勢のせぬわけにはいかず、三時間ほど頑張りました。
くたびれはてて按摩の機械でしばらく背中をもみもみしましたところ、久しぶりの事で、今朝は背中が痛くて右肩が上がりません。
そんな中でのあて名書きは大変です。文明の利器のありがたさを実感させられます。なんとか今日中には投函したいと思います。
年末寒波が到来してくるようです。オミクロンともどもご注意されて、良いお正月をお迎えくださいませ。

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■お世話になりました、「みやこ町史」

2021-12-25 08:50:19 | 史料

 いろいろな資料がWEBで見ることが出来るようになり、いろんな論考を読んできた。
そんな中でも大変重宝したのは福岡県京都郡みやこ町の町史である。みやこ町は2006年豊津町・犀川町・勝山町の三町が合併して誕生した町である。みやこ町の町名は京都郡に由来している。
そのみやこ町は町史を発刊されているが、その全文を見ることが出来る。
小倉細川藩時代のことが精しくまとめられていて、大いに勉強させていただいた。
ワンクリックでみやこの歴史に誘ってくれる。ただただ感謝である。

みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」


第三章 江戸時代

第一節 近世社会の形成

 一 細川藩の成立と展開

   細川氏の豊前豊後への入国

   細川検地

   知行割りと城割り

   小倉領と中津御領分の成立

   家臣団と支配機構

   手永制度

   朱印船貿易

 二 禁教令と宗門改め

   キリシタンの伝来と布教

   信長のキリシタン保護

   秀吉のキリシタン禁令

   キリシタンの黙認から弾圧へ

   細川氏のキリシタン取り締まり

   細川氏のキリシタン弾圧

 三 細川忠興の入国と差別の芽

   細川忠興の入国

   小倉城を築城して居城とする

   人畜改帳をつくる

   検地帳と人畜改帳

   多数の名子・荒仕子の存在

   人畜改帳の人びと

   かわた

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■「くまもとお大師廻り」順路-1

2021-12-25 06:21:39 | 熊本

 先に記した「くまもとお大師廻り」原文の末尾には、88ヶ所を廻ったと書かれている。
天保九年(1838)の事とされるが、弥生から卯月に掛る春の陽気に誘われ四方の景色を楽しみながら足の疲れも感じることはなかったことだろう。この時期というのは、弘法大師の御命日が旧暦三月二十一日といわれることから、全国各地で行われているようだ。ただ「くまもとお大師廻り」は、お大師様由来の「真言宗」のみならず、多様のお寺が含まれている。
テンポの良い七五調で愉快な語呂合わせが面白い。
この88ヶ所については番号が振ってないが、編者・福田晴男氏の読み下し文からまずは記載されている寺々を順次追って番号を付けてみた。4回に亘りご紹介する。


           大師廻り  ‐(1)        

  1-本山妙見社               現・本山神社
  2-宇須茶(薄茶)にまさる常国寺(上濃茶)  河川改修のために清水町高平に移転した。
  3-角に立たる大師堂
  4-たれかれとてもいとくあん(威徳庵)    妙見社の社僧庵 
  5-是ぞ御法の御りしょあん       不明
  6-無漏庵と聞けば白菊の        世安神社内に無漏寺跡の碑が残る
  7-
山王の前過行ば           山王大権現=日吉神社
  8-七苦八苦の十禅寺          十禅師という名のお寺の存在は不明
  9-地蔵千躰ましまして爰ぞ蓮臺寺(はちすのうてなでら)
10-誠そくさい延命寺          現存せず、廃寺跡
11-爰に末松天福寺           不明、花園柿原にある同名お寺は別寺
12-森の下こそ観世音          現存せず、田崎観音堂
13-爰はさんまい原(念仏三昧)如意庵  現存せず、万日山来迎院の末寺にて念仏道場
14-八重霞たる春日寺          妙解寺末寺(近年の建て替え)
15-こころもすめる清水寺
16-爰に北岡の高観音          現在春日1丁目に移設、
17-匂ヒぞ深キ聖光寺          (煙草製造の小沢町故に・・)
18-爰は南無妙法連寺          浄土宗のお寺・南無妙法蓮華経由来の寺名ではないということ
19-さけび・おらべど松音寺
20-うそにはあらで本覚寺        廃寺(横手の本覚寺は日蓮宗で別寺)
21-裏門出る阿弥陀寺
22-悪人なしの崇禅寺          旧・肥後羅漢寺、僧・宗禅の名により
23-水の流れは西流寺

 

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