津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「肥後の血達磨」異説

2006-04-30 22:23:46 | 歴史
 岡倉天心の「茶の本」に書かれている、所謂「肥後の血達磨」については、昨年11月28日紹介した。とても真実の話とは思えないが、氏家幹人著「武士道とエロス」の中に、この話の主人公は大谷友右衛門とし、細川家侍童印南数馬と衆道の関係にあったと紹介している。浪人であった友右衛門が、印南数馬を見かけ「心身恍惚、眷恋不止」恋しさの余り細川家中間となったというのである。関係を細川公に見つけられたがお咎めも無く、あまつさえ士分にも取り立てられた。そして岡倉天心が紹介する、細川屋敷の火事の際、達磨の掛け軸を吾が腹を裂いてそこに押し入れて守ったという話になる。
数馬には父の仇討ちという一大事があったが、友右衛門がこれを助けて本懐を遂げさせたという話に、「肥後の血達磨」が合体し、芝居や講談仕立てとなって江戸市民の喝采を浴びている。「講釈師見てきたようなうそを云い」の類で、真偽入り混じっての創作だろうが、岡倉天心先生は大まじめである。
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WANTED

2006-04-29 10:19:45 | 書籍・読書
 どこを捜しても見つからない。是非買いたいのだけど・・・
   1、「能に憑かれた権力者」 講談社選書メチェ
   1、「郷土物語 十六輯 四境戦争」 防長史料出版社
   1、「郷土物語 十七輯 四境戦争」 防長史料出版社
コメント (4)
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今日の熊本日日新聞

2006-04-28 08:42:54 | 新聞
1、恕斎日録を二十六年間にわたり書き残した、中村恕斎(庄右衛門)の遺髪を収めた祠と、息嘉一郎の墓が玉名の旧居近くで発見されたという。一度是非お訪ねしたいと思うし、同紙に連載された熊本大学教授吉村豊雄教授の「恕斎日録抄(158回完)」が出版されないかとせつに願っている。
1、中世宇土城の整備が進んでいるという。小西行長入国以前の時代のもので、宇土氏や名和氏の居城であった。行長の近世宇土城とは別物らしい。こちらも要必見。
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入江右近昌永

2006-04-26 13:07:10 | 歴史
 細川興秋は、元和元年六月六日山城国稲荷の東光院で切腹している。西軍に味方したが、その死は忠興の命によるとされている。介錯に当たったのが入江右近である。関が原の戦では、忠興の下で「首一つ」の手柄を挙げている。「初五郎作 後松井右近と改、但馬国主前野但馬守高麗陳之時取来られしもの也、御息出雲守禿童にして御つかひ候しが、秀次公叛逆御一味の由にて前野氏中村式部少輔ニ御預之時出雲守殿より異国者ニ而候可愛からせ給へと忠興君へ被仰進候者也」と綿考輯録は紹介している。その後行方知れずとか、病気でなくなったとかされるが、案外興秋と共に天草辺りへ逃げ延びたのかもしれない。

 興秋の胤という、天草の長岡氏のご子孫の消息など知りたいものだ。
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「どうか、ああたはようらくさげて」

2006-04-25 00:05:25 | 徒然
 熊本市近郊の建築現場に、設計前の調査に入った。いろいろ調べていると、近所の人が二三人物珍しげに集まってきた。「何のでくっとですか(何が出来るのですか)」などと話し掛けてくる。それなりの返事をすると、納得したかのように世間話に話題が変わったようだ。「どうか、ああたはようらくさげて」そんな会話が聞こえて、「あッ」と思って振り返ると、老女が隣の女性のスカートにまつわりついている、枯れた雑草のようなものを払いのけてやっている。初めて聞いた言葉だった。「なんですか、貴女は瓔珞下げて」とでも言う事になるだろう。
 作家木崎さとこ氏が、ある小文に書かれていた言葉で、気になってメモしていたものだ。「ああ、熊本でも使っている人がいるんだ」と、感動してしまった。
さて何処に書いてあったかを思い出すのに一苦労をする。四・五冊ひっくり返していたらベスト・エッセイ集(99年版)のなかに「瓔珞」という題の文章を発見した。氏の文章によると、「スカートの裾などがほつれて、糸などが垂れているような時」に使うと書かれている。一寸状況が違うが同様の事だろう。瓔珞とは古代人の冠に下がっている飾りのことだが、これがゆらゆら揺れる状態に比喩している。

「あーらありがと」老女たちの明るい笑い声が遠のいていった。
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母にて候人

2006-04-23 19:11:35 | 歴史
 忠興の生母光寿院は沼田光兼の女、俗名麝香である。夫・藤孝と苦楽を共に過してきたが、慶長十五年藤孝が逝去(77)する。翌十六年(1611)光寿院は証人として江戸へ登ることと成る。綿考輯録は、忠興の母を気遣う手紙(忠利宛)を紹介している。
 慶長十九年(1614)十月
   「母にて候人湯治之儀ゆめゝゝあるへからす候、たとひはや湯へ御入候
    とも、此ふミもたせ遣、急上り候やうニ被申へく候事」
    光寿院が風呂に入ることを止めるべく指示している。煩っていたのだろうか。
 元和四年(1618)閏三月
    眼病を煩った忠興は、その治療に四苦八苦しているが、
   「母にて候人へハ、はや目本復にて頓而下候由申入候間、可被得其意候事」
    と便りしている。
 そして、三ヵ月後「御煩被成候」て、七月廿六日卒去するのである。七十五歳。
最晩年の七年間を、証人として江戸で一人暮らしたことになる。
忠利への便りの中にさりげなく書かれているものだが、老いた母へのいたわりの気持ちが満ち溢れている。

 証人といえば、慶長五年(1600)、十五歳の忠利が初めて細川家証人として江戸へ下っている。慶長十年(1605)には忠興の命により、興秋が忠利に代り、証人として出発するが途中出奔、この後興秋は不幸な道へ歩みを進めることになる。長岡(三渕)平左衛門重政が代わった。そして慶長十六年(1611)光寿院が江戸へ下り、長岡重政は豊前へ帰ることと成る。ちなみに重政は、藤孝の甥(弟好重の嫡子)である。
 元和五年(1619)正月、忠利の弟天千代(元和三年正月生まれ)が証人として江戸へ下り、その後二十二年の長きにわたり江戸で暮らすことに成る。刑部少輔興孝、島原の乱への参陣の願いも入れられず、忠興とも不仲であったと伝えられる。
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竹島は日本固有の領土だ

2006-04-23 09:04:35 | 徒然
 竹島周辺への観測船派遣問題は、排他的経済水域の協議を再開するということで決着を見た。どちらが譲歩したのか(譲歩した方が負けだ、テクニックの問題もある)。人気が低迷しているノムヒョンの政治的演出だろうが、明らかに国際法に違反するような事で対抗し様というのだから、測量をやればよかったのだ。李承晩の一方的な領土支配宣言があり、実効支配を許し、外務省はなにをやってきたのか。韓国民は賛成であれ不賛成であれ、領土問題としての問題意識をもっている。日本国民はというと、竹島がどこにあるのかを全然知らない人が殆んどで、まことにもって嘆かわしい。「戦争にでもなると大変だから、上げてしまえば・・・」若い人の認識とはこんなものか、嗚呼。

 教科書においては、領土問題に関する記述が倍になったとか報道されている。結構ではないか。中国のような馬鹿げた「愛国運動」ではない。事実を事実として教育し、「上げてしまったら」などと、馬鹿な発言をする人を無くさなければならない。
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「初音」? 「白菊」?

2006-04-21 22:42:47 | 歴史
 森鷗外の「興津弥五右衛門の遺書」に登場する伽羅木、弥五右衛門は買い入れに反対する相役横田清兵衛を殺害してまで、この香木を手に入れている。さてこの香木、綿考輯録には、寛永三年の項に次のように紹介されている。
「去々年、交趾江渡海せしもの帰国、伽羅持参いたし候、三斎君白菊と御名付、其箱の蓋に御自筆御書付
 寛永元年交趾江
 渡船同三年ニ来
 伽羅白菊と名之
   たくひありと
         誰かは
         いはん
       すゑにほふ
   秋より後の
      しら菊の花
箱長八寸四歩、横七寸六歩、高八寸、板厚サ三歩半、桐之木地ふたハさんふたなり、伽羅木指渡五寸余、外ニ三四寸之木懸目三百目余有之、添居申候由なり」

森鷗外の「弥五右衛門」によると、三斎は「初音」と名づけている(古歌略す)寛永三年息忠利がこの香木を天皇に献上、その時上記の古歌により「白菊」の銘を下賜されたとしている。事実は違うようだ。
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チテンチトチンテンシャン・・

2006-04-21 00:21:50 | 徒然
 ある人の訃報を聞いた。九十近くではなかったろうか、遊び人で実家の家業を潰してしまったらしい。何度か酒の席をご一緒したが、中々の粋人で「都々逸」がお上手だった。「酒は座敷で飲むものだよ」と、バーのカウンターで薀蓄をたれながら、「チテンチトチンテンシャン」と口三味線で唄いだす。いい声だった。「毎夜小便しかけてみても、電信柱は太らない」などと、くだらないのを披露して、周りの笑いを誘っていた。「一つだけですよ」が口癖で、多くはやらない。「Sさん(私のこと)、お互いいい爺さんになって、いつまでも飲みましょう」そんな話をしていた彼が、脳梗塞で倒れたとのニュースを聞いたのが、もう十四五年前のことだ。二廻りほど年の差があったが、妙に気の合う人だった。「たばこ・・・お止めなさい。お酒だけになさい。贅沢っていうもんですよ・・」そういいながら、両切りのピースがお好みだった。「私のささやかな贅沢・・一日五本」

いい人だった。残念・・・・・・合掌
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黒鍬町

2006-04-20 00:14:50 | 熊本
 熊本の城下にも、黒鍬という町名があった。所謂黒鍬衆が住んだ所である。綿考輯録を読むと、天正十八年松井康之が、「荊棘が生い茂り、堀溝多く、石高くして難儀なりしに」、鍬を数多持ち込んで云々とある。そして、「此時より陳具に多くの鍬を持せられ候後ニ家康公も御感にて畝鍬之衆を御定被成候由」とある。
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ちょっとした騒ぎ

2006-04-19 17:56:42 | 徒然
 数日前新しい靴下をはいたら、足首廻りが痛くて仕方がない。帰って慌てて脱いだが、くっきりと締め付けられた跡が残った。一時間ほど経っても元に戻らない。妻に見せたら「おかしい」という。「むくんでる」という。足の甲あたりを強く押したが、元に戻らない。「肝臓が悪いんじゃない?」「血圧は?」と妻がきつい一言。

 そういえば、いつも耳の奥が痛いような感じがするし、眼球に圧迫感がある。血圧は正常なのだけれどと、思うのだが・・・もう随分血圧も測っていない。

 今日は妻と二人で所用で出かけたが、ホールに血圧測定器があった。計ってみると、上が167、下が102・・・・高血圧だ・・・・。妻も計って見たが、これもいつもの数字と違う。「これ器械が変よ」と妻が云う。「そうだよな・・」と返事をしたものの、些か気になる。肝休日はちゃんととっているから、肝臓が悪いとは思えないし、そういえば4・5年前心臓肥大の傾向があるとか言われたなー、などといろいろ頭の中を駆け巡っている。

 久し振り(数年ぶり)に医者に見せるか・・・64歳だもんなー。
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吾が名前

2006-04-14 08:55:42 | 徒然
 二年程前、私の姓の一文字「真」の文字を、戸籍法により「眞」に変更すると云ってきた。否応なしである。別段支障なく過してきたが、最近いろいろ問題が起きてきた。まず役所に提出する書類の殆んどを、新しい文字でやらされる(怒られてしまうのだ)。運転免許証の提示や、印鑑証明の提示を受けるとアウトなので色々手続きして変更した。預金通帳の変更を含め、年金に関する変更などは大変だった。幼い頃から使い続けた「真」の文字だが、いつどうしてこんなことになったのか、全然記憶が無い。

 名前の方の一文字「國」も「国」を書くと怒られてしまう。「國」の方はあまり好きでは無いので、意識して「国」を使っていたのだが・・・・実は今日の熊本日々新聞の「新生面」に、「愛国心」の解説をするために「國」の字について解説している。「口の中に或と書くが、都の城郭を矛で守る『或』を、更に外郭『口』で守る」というのが語源で、軍事的な意味合いを持つ字だそうな。そんな「國」の文字を持ち出して、「愛国心」の解説をするのも如何なものかと思うが・・・吾が名前は多分祖父が付けたのだろうと思う。「國」の字義を承知の上で・・。祖父の若い頃の行動を評して、「國士」とするものがある。そんなじい様がやりそうなことだと思うのである。

 吾が名前に翻弄されているこの頃である。
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久世光彦氏

2006-04-11 22:45:37 | 徒然
 久世光彦氏が急逝されて、もう一月ほどになるのだろうか。1970年代「時間ですよ」とか、「寺内貫太郎一家」とかで楽しませていただいた。原作者向田邦子さんも亡くなられて久しい。本棚に久世氏と山本夏彦氏の共著「昭和恋々」があるが、これを読むと昭和という時代を愛した久世氏の、前二作のプロデュースの意図がオーバーラップする。私たちが小さかった頃の、町々の佇まいや、慎ましやかな生活や、人情味あふれる触れ合いや、元気な人々の姿がある。私が大好きな井上陽水の「少年時代」のメロディーが流れてくるような錯覚が起こる。孫たちが大きくなった時の、子供時代の思い出とはどのようなものなのか、思いもよらない。

 久世光彦というお名前は、ペンネームだとばかり思っていたが、どうやら違ったらしい。なんだか公家さんみたいな名前だなと思っていたら、久世氏は中院氏の分流らしい。ググッてみると、関宿城に久世氏の名前を見ることが出来る。何か関係がおありなのだろうか。向田氏、久世氏、そして私が敬愛してやまなかった山本夏彦氏も亡くなられた。「昭和はすでに時代劇の世界」と云われた言葉に、妙に納得する。
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藩校サミット

2006-04-10 14:20:11 | 熊本
 熊本での「藩校サミット」開催の、招致運動が活発になってきた。熊本県議会などでも、議論が行われたらしく具体化しているようだ。2002年東京(湯島聖堂)で第1回が開催された。続いて会津(日新館)、多久、高梁、そして2006年は5月27日高遠で開催される。熊本には天下に名高い藩校時習館があった。細川家八代重賢によって宝暦五年正月に開校している。「治世の要は専ら教育にある」として、時の大奉行堀平太左衛門、儒者秋山玉山に命じて大業がなされた。これによって細川藩の「宝暦の改革」がなされ、多数の有能の士を輩出してきた。明治に至り廃止されたが、その業績は大いなる評価をもって称えられるべきである。
 熊本城築城400年を来年に迎えるに当たり、この様な催しが近世熊本を改めて見直す緒となればと思うのである。明治維新によって、江戸時代の有様は否定的に沈黙の闇に葬られている。すばらしい江戸時代があったことを知らなければ成らない。
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忠興義弟・木下延俊

2006-04-09 12:11:28 | 歴史
 木下延俊は豊臣秀吉正室高台院(ねね)の甥に当たる。長兄は歌人として有名な木下長嘯子(勝俊)、次兄は足守藩主利房、関ヶ原戦において東軍に寝返った小早川秀秋は弟である。延俊の正室は細川幽齋女・加賀、よって忠興と延俊は義兄弟ということになる。二人の親密ぶりは、二木謙一著「慶長大名物語」等に詳しい。延俊・加賀夫妻の間には二男三女があるが、男子は早世している。詳しい資料が無いからはっきりしないが、二人の結婚はまだ秀吉が健在の頃ではなかったろうか。
 慶長五年細川幽齋は、居城田辺城を石田三成の命をうけた一万五千の軍勢に取り囲まれて籠城する。その攻撃陣のなかに、「木下右エ門大夫延俊人數」が出陣している。「父肥後守家定ハ播州姫路城主二万五千石大坂ノ城留守居ナルユヘ姫路ハツ子ニ延俊留守居シテコゝニ人數ヲイタス」と田辺籠城之図に書き込みがなされている。延俊にとっては、岳父である幽齋を攻めるということは出来ない相談であり、板ばさみの決断であったのだろう。そんな状況の中で延俊は、家老中村神左衛門をして幽斎が籠城したことを、九州の杵築にあった細川家家老松井佐渡に、「固めが堅固」であることを報告している。延俊の心情が伺えて興味深い。翌年慶長六年延俊は日出藩三万石の藩主となる。室・加賀は慶長九年に日出で亡くなっている。継嗣の誕生は慶長十九年というから、約十年間はかわいい娘三人の養育に勤しんだのかもしれない。
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