津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

女持不申候者--後日談

2008-01-31 11:33:22 | 歴史
 寛永九年三月十日付書状の内「女持不申候者」のリストから、松野右京をはずす旨の書状が、翌十年七月二十一日付(書状案)で発せられている。独身である事は間違い無さそうだが合点が行かぬ話しである。
 同書状の後書きに「尚々、右京殿儀、事之外不辨ニ御座候付而、知行五百石増候へ共、中/\當年なと女房よはれ候儀は調兼可申と、推量仕候(以下略)」とある。肥後入国宿割帳には千石とあり、後の数種の侍帳には千五百石とあるから、五百石の加増がこの時期行われた事が推測される。そんな大身の身である右京が、それでも「女房よばれ候儀は調兼可・・」とは、どう解釈すればいいのだろうか。
 下って八月十三日書状(案)は「松野右京(正照)殿縁邊之儀、先書にも如申上候、右書付上申候内にて御座候、阿蘇之神主(阿蘇惟善=右京とは縁戚関係がある)へハ未不申出候、就其、先度御意之旨、右京殿へ内証ニ而申聞候、被仰出可有御座候間、内々被其意候へと迄申聞候つる・・」とある。「如何致しましょうか、御諚次第にしたいと思います」と三齋に送った忠利の書状であるが、・・・(よく分からん・・?)処で右京さんの奥方は何方なのだろうか、ご存知の方はご示教いただければ幸いである。

 そして、その他の者達(先のリストにあった人達)にも、忠利から「縁邊可申付候」と、結婚を促するような記述が有る。(何故・・どうして・・よく分からん・・?)
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疱瘡という病

2008-01-31 11:25:45 | 歴史
 昭和42年WHO(世界保健機構)は日本人・蟻田功氏(現・国際保健医療交流センター・理事長)をトップとして天然痘の撲滅運動を開始、昭和54年「天然痘は世界から根絶された」ことが宣言された。蟻田功氏は我が誇るべき熊本県人である。現在では天然痘と呼ばれる病気だが、江戸期においては「疱瘡」とよばれ大変恐れられた病気だ。緒方洪庵の研究による切痘によって予防が成される事になった。その天然痘予防の活動を幕府が公認するのは、安政五年(1858)のことである。

 「一度疱瘡に罹患した人は二度とは罹らない」ということを、人々は知っていたらしい。貴人の乳母を勤める人は、疱瘡の罹患経験者が多かったという話もある。

 寛永八年十二月忠利室が疱瘡に罹ったが無事本復した。「六(光尚)事少も煩不申候」と喜んでいたら、寛永十一年十二月その光尚が罹患している。周囲の心配は極に達するが大事に至らず無事本復したわけだが、その喜びの報告書状には別途「疱瘡仕候衆」として、嶋津光久や木下俊治が本復したこと、立花忠茂室は亡くなったことなどが記されている。流行していたのだろうか。
 面白いのは医師半井成信が、「疱瘡ニ貝蚫大毒にて候、熨斗迄もあたり候由、二親兄弟おち伯母迄もくゐ候へハたヽり申由・・・」と言っていると記されているが、ばかばかしい話しだが、それ故にこの時代の疱瘡の恐ろしさを象徴している話しではある。
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配流人から銀子五十貫拝借

2008-01-30 18:02:58 | 歴史
 昨年11/1のブログで「春日局三男・稲葉正利の肥後配流」を書いた。徳川忠長の側近であったが故の配流という処分で、春日局の子供であっても容赦なかったことは、将軍家光の、実弟忠長に対する強い意志が見て取れる。一つの温情は、肥後熊本へ送られた事である。寛永十一年三月五日書状案には次のようにある。

 稲葉丹後(正勝)殿舎弟(稲葉正利)、此中迄甲斐大納言(徳川忠長)殿之御衆ニ而御座候、上様(徳川家光)御ちおとヽニ而、春日殿(春日局)猶子ニ而御座候、我等國ニ置候へとのかすか殿・丹後殿頼にて、したちハ上様ご存知ニ而御座候由ニ候(以下略)

 さて本題、三月廿一日書状によると、忠利は三齋から銀子五十貫ほどの在府費用を依頼されたが、残銀がないとして困り果てている。そこに降って沸いたように結構な話が舞い込んだ。

 一昨日稲葉丹後殿弟内記殿(正利)へ丹州(丹後守正勝)より渡し候銀子五十貫目、肥後へ下候様ニと申来候間、幸にて御座候・・

 「ちょっと借用、後で返します」という訳だ。さて五十貫といえば・・・

(追記 1/31AM0:38) 
  この部分に五十貫は幾らなのかを計算して書き込んだのですが、熊本市のF様から
  間違いのご指摘がありましたので、恥ずかしながらの削除です。以下メールの内容
  をそのまま転記します。感謝。こんな大金だと確かにお殿様でも右から左とは行か
  ないでしょうね

『「銀子五十貫」とは銀ですから、銀は秤量貨幣で1貫=1000匁です。
銀50貫=5万匁 金1両=銀60匁 (時代変動ありますが)そうすると5万÷60=833両・・・これはかなり大金です。』
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豊前から肥後へ・寛永八~九年の史料から

2008-01-29 20:16:20 | memo
「大日本近世史料・細川家史料(十)」から、細川家の肥後入国までを探ってみる。

8*8/3書状案(解説)
 ■加藤忠広の酒狂誰ソノ諫言ニテ少シ直ル
9*4/27書状案(解説)
 ■肥後国人加藤家年寄切々談合セルヲ傳フ
 ■忠広狂気カ帰国後家臣ニ会ハズ
9*5/朔日書状案(解説)
 ■加藤忠広等ハ七月頃参府トノ噂
9*5/11書状案(解説)
 ■肥後国中加藤忠広ノ身上ヲ気遣フ
9*5/16書状案(解説)
 ■加藤光広家臣上書ハ諸方ヨリ通報アレド実正ハ知レズ
 ■加藤家中何トナク異常アリ・重臣等他国ノ親類ニ妻子ヲ頼ム
 ■上書ノ件家中ヘハ早ク傳ハルカ
 ■忠広ノ出府後家中ノ不安彌増ス

 ■忠広ニツキ嶋津家久ヨリノ書状ヲ受取ル
9*5/28書状案(解説)
 ■加藤家中静カナリ
9*6/朔日書状案(解説)
 ■五月廿八日頃ヨリ肥後領内一切宿ヲ貸サズ
 ■熊本ニ横目多シ
 ■八代城他国者ヲ入レズ
 ■白川ノ渡ニ番ヲツク
 ■領内人改厳シク探索人ヲ入レ得ズ
9*6/6書状案(解説)
 ■加藤忠広品川ニ逗留ス、屋敷ノ出入モ目付ノ切手ニヨル
 ■忠広ニ秀忠他界ノ節ノ法度違反多シ
 ■謀反ノ穿鑿以前ニ忠広ノ進物受納ナキハ他ニモ理由アラム
9*6/13書状案(解説)
 ■加藤家中ハ光広ノ謀書ヲ知ラズ
 ■忠広ノ不届ヲ種々承知セルゆえ身上果ツベシト見切ル

 ■幕府ノ忠広父子改易ノ仕方ニ感ズ
 ■忠利モシ城請取ニ當ラズバ見苦シカルベシと想フ
9*6/15書状案(解説)
 ■熊本城中上下加藤忠広ノ命アル迄葉籠城ト定ム
 ■変事アレバ国東ノ横目衆ニ相談セム
9*6/16書状案(解説)
 ■忠利等へ熊本有事ニハ出兵セヨトノ触来ル
 ■城受取ノ上使衆小倉へ立寄ル予定
 ■諸方ヨリ忠利ノ肥後国替ヲ通報サルヽモ信ゼズ
 ■加藤家中主ヲ江戸ニ置キ籠城ハナラズ、肥後出兵ハアルマジ
9*6/19書状案(解説)
 ■熊本出兵ノ為三齋ヨリ銀米ヲ借ル
 ■上使衆ハ人足共ニ一萬馬一千餘、小倉ノ宿兵糧馬飼糧旅籠マデ支障ナシ
 ■肥後出兵ノ人数一萬ニ三千馬数ハ一千餘
 ■肥後ノ注進ニ豊後路中国迄舟手ヲ一手ニ支配ス
 ■忠広ノ江戸召喚ニ家臣ノ走ルハ憎キ仕合
 ■熊本城内ノ動静
9*6/27書状案(解説)
 ■熊本城ハ上使到着次第明渡ス態勢、熊本ノ侍は千五百程
  千ハ先ズ在々へ退ク、五百ハ未ダ熊本ニ在リ
 ■加藤忠広子等本丸ニ在リ、籠城ノ様子ハナシ
 ■肥後行ノ準備了ル
 ■熊本ニ籠城ノ気配ナシ
 ■人持共荷物ヲ他国へ退ク、家臣等諸方へ居所ヲ才覚ス
 ■加藤忠広ノ自筆ノ書状下ル、男ヲ止ムトテ人持等剃髪ス
 ■忠利ノ肥後国替ハアルマジ、伊達政宗カ中国衆肥後へ転封セシメラレム 
9*7/5書状案(解説)
 ■松平忠昌兄弟肥後へ転封ノ噂
9*7/12書状案(解説)
 ■上使稲葉正勝等ノ船無事ニ小倉ニ著ス
9*7/18書状案(解説)
 ■忠利ノ肥後国替確定トノ取沙汰

 ■国替ノ沙汰実ナラザル故中津へモ沙汰ナキヲ命ズ
 ■十月中旬出府ヲ指示サレシ故ニ當年国替ハナカラシム
9*7/18書状案(解説)
 ■上使衆無事小倉ヲ発シ肥後へ向フ
 ■熊本城異議ナク明渡ト定ル
 ■上使衆ノ相談ニ加ハル
 ■肥後行ノ人数壱萬七千餘馬ハ壱千内外
 ■熊本留守居福島丹波ニ倣フモ相違シ嘲ハル
 ■加藤忠広子等城ヲ出ズ
9*7/23書状案(解説)
 ■熊本城七月廿二日明渡サル、八代モ同日請取ノ筈
9*8/6書状案(解説)
 ■上使衆八月十一日小倉著ノ予定
9*8/6追而書案(解説)
 ■忠利肥後国替ノ沙汰ニ信疑定マラズ
 ■上使衆九州ノ押ハ豊前周防長門ノ領主ト論評ス、忠利ノ身上ニテハ不自由
 ■稲葉正勝忠利ノ出立ヲ九月下旬ト指示ス
 ■肥後国ハ在番衆ニ割付代官ヲ命ゼラル、正勝加藤家中人持共ノ所在ヲ求ム
9*8/12書状案(解説)
 ■上使衆小倉ヲ出船ス
 ■国替上使ノ家中モ噂スレドモソノ躰ナシ
9*9/11書状案(解説)
 ■幕府中国九州諸大名へ内々ニ早メノ参府ヲ促ス、十三日ニ出立ノ予定
9*10/6書状案(解説)
 ■国替ノ法度書

忠利十月四日登城シ、肥後国五十四万石ヲ拝領ス、同月十五日江戸ヲ発シ、十一月十一日小倉ニ著ス
三齋ハ、十月十八日江戸ヲ発シ、十一月十四日中津ニ著ス

9*10/20書状案(解説)
 ■小笠原忠眞へノ小倉入城ノ祝儀・・云々
 ■熊本城請取ノ相手ハ石川忠總石河勝政
 ■八代在番ノ朝倉在重・・云々
 ■小倉ニハ惣奉行トシテ松井興長ヲ残サム
 ■八代請取人ハ有吉立道
9*11/15書状案(解説)
 ■八代城ノ請取人数
9*11/20書状案(解説)
 ■上使衆小倉ニ著ス、一両日中ニ肥後へ出立ノ予定
9*11/25書状案(解説)
 ■上使板倉重昌等十二月四日小倉ニ帰着セム
 ■十二月五日小倉発同九日熊本入城ノ予定
9*11/28書状案(解説)
 ■上使衆熊本八代同日請取ヲ指示ス、十二月九日請取を予定ス
9*12/5書状案(解説)
 ■上使衆今日小倉ニ帰着ス
9*12/9書状案(解説)
 ■熊本城ニ入城



 
 
 
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女持不申候者

2008-01-29 10:04:10 | 歴史
 寛永九年三月十日付の書状の末尾に「別帋ニ切紙進上仕候、此等之趣、可然様可有披露候(以下略)」とあり、別紙覚書が添えられている。三齋宛忠利の書状であるから、三齋からの依頼に対する返事であろうか。いわゆる独身者の名前を書き出したものである。

 「女持不申候者」
  一、松野右京(正照)
  一、半齋(松野親盛)子・松野長蔵(親治カ)歳廿一
  一、谷 主膳
  一、圖書(藪正成)子・藪右衛門(三右衛門政三カ)歳廿四
  一、左馬允(牧興相)子・牧善太郎(相頼)
  一、藪市正(正直)
  一、右馬助(三淵重政)子・長岡左膳(同之直)歳十九

 明らかに三齋が有力家臣の娘の婿探しをしている事を伺わせる、大変興味深い記録である。過ぎる寛永八年十月、側近の槙嶋云庵女を氏家元高に嫁す事を手配したりしている。
肥後入国直前の話しだが、隠居しても尚こういうことで存在感を示している。
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1/27の大阪から思う

2008-01-28 14:38:03 | 徒然
■大阪国際マラソンはスタートしてしばらくしてから、TVのスウィッチを入れたが、一人旅の福士の姿を見て驚いてしまった。二位以下は数百メートル後ろだという。30キロあたりまでTV観戦したのだが、「これは負けるな」と感じてTVから離れた。あとでニュースをみて結果を確認したのだが、その結果と競技に対する真摯な姿勢に驚いてしまった。あのファイトと屈託のない笑顔を見ていると、真から応援したくなるではないか。誰がオリンピック候補になって、日本女子マラソン界の頂点に立つのか知らないが、次の機会にその人を負かしてしまえばいい。爺様はすっかり「福士フアン」になってしまった。

■大阪知事選は橋下弁護士が勝利、大阪らしい結果となった。莫大な負債が表沙汰になり橋下氏の憤慨ぶりも理解できるが、その舵取りやいかに・・他所ごとながら興味が尽きない。熊本はといえば、五人の方が手を上げた。誰が勝つにしても、大坂や宮崎のような話題性はないが、人畜無害の今の女性知事よりはいいだろう。という「ささやかな期待」

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細川家家臣・志水氏

2008-01-28 10:54:55 | 歴史
 細川家根本家臣の一人に志水家がある。初代清久宗加は幽齋の歌道の弟子でもある。細川興元の旗下に在った時勘気を蒙り、子息達と後加藤清正に仕える。二男元五らは清正の元で功名し、そのことは忠興の耳にも届き慶長八年細川家に清久共々再び召出された。元五は、旧加藤家家臣の細川家仕官に尽力したと伝えられる。

 現在私は、江戸期の地図を眺める毎日を過ごしている。内坪井町に眞浄寺があるがこのお寺の開山は、清久の四男要善院日富である。当然のことながら志水家の菩提寺となっている。地図の上で眞浄寺を確認した日にまったく偶然だが、綿孝輯録の慶安二年の項に、「筑紫左近女(幸隆主御孫)、志水吉之丞ニ縁辺被仰付儀ニ付、志水新之允御家老中江正月十一之状」という記述に出会った。志水家は清久宗加を初代とするが、二代目は二男・元五が継いでいる。この書状を上げた元五の嫡子・三代目の新之允伯耆であるが文中では名乗りを克重としており、新発見であった。家老米田監物是長女を室としており、禄高六千石である。その嫡子・吉之丞に、筑紫左近重門息女(吉)との縁辺(結婚)の話しがまとまった事に対しての、御礼の書状である。後に新左衛門・元政と名乗る四代目の事と思われる。ここで志水家は細川家との血の繋がりを持つことに成る。同時に息女が西郡数馬に嫁ぐ事も決まり、又吉之丞の弟・権三が「御側可被召仕旨、被仰出」あって、喜び三重の書状である。
 ちなみに幸隆とは幽齋の三男で妙庵と号し、豊前に於いては竜王城を守衛した。能楽などに秀でて高名である。幸隆女が嫁いだ筑紫重門は、少弐氏の後胤、筑紫広門(筑紫上妻郡18,000石)の嫡男である。広門は関ヶ原戦に於いて西軍に属し、改易となり加藤清正の庇護を受け、忠興の尽力により家名を繋いだ。
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にらめっこ

2008-01-27 09:56:31 | 歴史
 数日前から「新熊本市史・地図編」を広げてにらめっこをしている。当主の名前が記された精密な住宅地図だが、「熊本市地図」や「ゼンリン住宅地図」と対比しながら、場所の特定をしようと考えている。道筋については、今も昔もほとんど替わっていないのだが、坪井川や井芹川の流れが改修されて、現在では随分様変わりしている。侍帳「肥陽諸士鑑」においては、「住い●●」といった様に記されているが、時代が食い違うのか中々確認できない。特定が出来たお宅については、「新肥後細川藩侍帳」に書き込みをしようと思っている。旧侍町の中に現在存在する学校は、そのほとんどが広大な屋敷を持つ有力家臣の邸宅跡である。碩台小学校は沼田家下屋敷、熊本市立必由館高等学校は家老米田家の屋敷跡、京陵中学には巨大な楠木が沢山残されているが小笠原民部等が住んだ屋敷跡である。そんな有力家臣の屋敷に比べると、なんともみすぼらしいわが家だが、三代にわたりその場所が確定できた。今はデパートがたつ一等地にその一つがあったが、その当時は下級武士の住まいが密集していた。他の二つの場所もよく承知している。暖かくなったらコピーを片手に自転車を走らせて、散策しようと思っている。
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寒さ嫌いの一月生まれ

2008-01-26 17:43:13 | 徒然
 つい先ごろ誕生日を迎え爺度が増しているが、寒いせいもあって行動力が鈍ってしまった。おまけに老犬が100%要介護犬に成ったので、妻が外出する時には私は留守番である。出かけねば成らぬ会合などにも、不義理をする事が多くなった。図書館通いもままならず、ストレスが溜まりつつある。おまけに今月いっぱいは図書整理の為に休館となっているので、二月が待ち遠しい。一月生まれのくせに寒いのが嫌いと来ているから、家から出ることもなく、只ひたすらに読書である。部屋を引っ越して、何を何所に置いたのかが分からなくなって、床に座り込んで確認作業をしているが、すぐ腰が痛くなってギブアップだ。この調子だと史料の整理がつくのには、相当の時間を要しそうだ。今日の熊本は、鉛色の厚い雲に覆われて、お天道様が一度も顔を出さない。窓の外の景色がうっとうしくてたまらない。
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財津一郎氏

2008-01-25 23:11:10 | 熊本
 NHKの九州地方番組「九州沖縄スペシャル・ただいま」は、武田鉄也を案内役にして、九州出身の有名人の故郷を訪ねる番組である。今週は、熊本出身の財津一郎氏、「キビシィ~」を連発したコメディアンから変身し、ミュージカル俳優、バイプレーヤーと活躍の場は広い。元々は阿蘇の地主の家の出だというが、推察するところ代々「阿蘇組支配」を仰せつかった財津氏であろう。「武家家伝」にも登場する名門である。「侍帳」に登場する財津家は14家ほどある。主だった家の代々の当主の名前に「永」の字が見えるが、一郎氏も本名は「永栄(ナガエ)氏」である。農地解放で沢山の農地を失い、残った四反五畝の田圃を守るべく母君と二人、阿蘇役犬原で稲作に励んだという。周辺にあるご先祖のお墓は、財津家の出自を伺わせる古いものだ。熊本のお屋敷は熊本城近くの京町にあった。そこから、名門済々黌に通い音楽の世界に没頭していった。其の後の活躍はご存知の通りである。故郷を思う一郎氏のその面差しは、「キビシィ~」世界で功なり名を遂げた人の穏やかさに満ち溢れていた。
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寛永八年の天変地異

2008-01-25 14:14:26 | 歴史
 寛永八年の天変地異や不思議な現象は、三月の浅間山の噴火をスタートとしている。此の年は豊臣秀頼の17回忌に当たると共に、「関ヶ原戦の時は大噴火」の時や「松平忠直の時は小噴火」があって、今回の噴火や、後のいろいろな不可思議な現象は忠長のご乱行のせいだとばかりに噂している。
  細川家史料から
4/24書状・・加藤義嘉領内で「鳥ニ三万集り、くい合、數もなく(無数)死申由」
4/28書状・・各地冷気、江戸旱天鐖饉たるべきか、有明の月・月蝕等
5/15書状・・遠江佐野郡に糖がふる
      4/8江戸雷雨、大霰、狐・狸・とひ・からす數もなく(無数)に死
           霰大きさ一尺五寸(45㎝)、怪我人も出る
      鎌倉沖で竜巻、舟十艘を巻き上げ
      鎌倉大霰、家を貫き死傷者でる
      木曽飛騨山火事・増上寺塔火事
5/24書状・・江戸にも砂糖様のもの降る
      信濃松本、山二つ分の大木のほとんどが捻じ切られる。雨が降ると百姓屋が
           青く燃える
      越後村上城下大火(300軒)、出羽山形城下大火(570~580)・出羽上山城
           下(4・500軒)、尾張名古屋城諸方より出火
      川中島あたりに大霰降る
6/8書状・・江戸寒冷
7/6書状・・中津にも甘き雨降る
10/2書状・・京都の大風、永荒廿七・八万石、死者一万ニ・三千人

 天変地異や息・忠長のご乱行が秀忠を苦しめた。翌寛永九年一月二四日死去。
忠長は新将軍・兄家光の沙汰により改易、高野に逼塞、翌十年自害した。
忠長は生母お江与の伯父・織田信長によく似ていたと伝えられ、それが故にお江与が溺愛したとも伝えられる。
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忠長卿のご乱行

2008-01-25 11:56:59 | 歴史
 一時期江戸で辻切りが横行したことが、度々三齋や忠利の文書に表れる。当然ご法度のことだから、見つけたら切り捨てても良い事になっていた。ところが「殺さずに捕らえよ」という達しが出たようだ。寛永八年三月の忠利書状(案)によると「此前辻伐御法度之時、悪黨當座ニきりころさす、とらへ候へとの事、御不審被成候つる、如御意今存當り申候、大納言殿切々辻伐も被成候由候事」とある。「そうか、度々の辻伐は大納言(忠長)の仕業だったのだ、それで合点がいった」という訳である。此の年将軍秀忠は、息・忠長の悪行に心を痛めて病がちである。2/12・2/18書状にも忠長の側近手討ちの情報が記されており、秀忠はといえば忠長乱心に備え二の丸の警護を120騎で固める事にしたという。3/11書状は、「禿ヲ唐犬ニ喰ワス」「女ヲ酒ニテ責殺ス」等を伝え、秀忠の病状は悪化し、3/21書状によると、遂には秀忠が「忠長の処分」を心決めしていく事になる。
此の年は豊臣秀頼の十七回忌に当たるが、各地で天変地異や異常現象が多く見られ、その故かと噂が飛び交ったという。
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續さん Congratulations!

2008-01-25 09:16:25 | 熊本
 祝・南極点到達

 女性で初めて南極点に到達した續素美代さん(40)は、熊本(玉東町)出身の方だが地元は大喜びのようだ。と言っても彼女の企てを事前に承知していた人は殆ど居なかったらしい。クラスメイトが、同窓会だかクラス会だかの案内で電話連絡をしたら、「其の頃は南極にいるわ」との返事に驚いたという。

 私は勝手に、彼女のご先祖様は、細川家家臣續氏であろうと思い込んでいる。續氏のご先祖亀助重政は、命を受け丹後に於いて某を攻めるが、その素早さは後に続くものがなかったといわれる。その故をもって姓を「續」としたと先祖附は記している。

 さて、女性で南極点を目指す人が出てくるだろうか。続く人はいない気がする。
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名誉の死・・?

2008-01-24 14:37:00 | 歴史
 嶋原一揆に於いて出陣した幕府の上使・板倉内膳正重昌は、総大将で有りながらも自身戦場に駆け入り戦死をする。正月元旦の事である。細川家は内膳正御付きとして、家臣の伊藤十之允と横山助之進を派遣していたが、これも同時に戦死した。川尻口で年越しをしていた光尚勢は、その報を聞き翌二日八千の大軍をして渡海することになる。二人の死を聞いた長岡監物は「目出度事かな、上使之討死御家来か死なで能物か、助之進・十之允でかした」と高声でその死を称えたという。横山・伊藤の死骸は「城中鉄炮稠敷打候故」「死骸を取兼候」状態を聞いた監物は、「あの様なる晴なる討死の死骸ハ取物にてハなし、其儘おくかよく候」と言ったという。堀内傳右衛門覚書には、伊藤何某が十之允の「死骸かた付参度旨」を願い出たが、監物は「願尤ニハ候へとも、如此之場所にて討死仕候死骸ハニ三日召置、諸人ニ見せ申ものにて候」と言ったと記されている。後々に伝えられる二人の、名誉の死の真実に呆然とさせられる。多くの犠牲者を出して乱の終息をみて、光尚が凱旋したのは三月の朔日である。
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ひげは「不行儀成体」

2008-01-24 13:34:59 | 徒然
 お正月の頃、「シェイバー」が行方不明になった。どんなに探しても見つからない。その結果ひげ面になってしまったのだが、これは単なる不精で言い訳にはならない。最近は若い男性が「ひげ」をファッションとして取り入れて、当たり前に成ったようだ。爺様もちょっと伸ばして楽しんでみようかと思ったりするが、女房殿から「きたない」と言われてしまう。まんざらでもない気がするのだが、四・五日後カミソリで剃り落としてしまった。
 江戸期に於いては「大ひげ」は御法度である。寛文十年と貞享三年の二度にわたり禁止令が出されたが、熊本における「下々髭つくり候儀ニ付触」は、これを遡る30年程前の寛永十九年十一月に出されている。
 「一筆申触候、下々下ひけをたて、上ひけをいろ/\つくり不行儀成体之者有之由候間、左様ニ無之様ニ各被召仕候下々堅可被申付候。先年も如申触、従公儀之御法度ニ候条、堅可被相守候(以下略)」と長岡式部ら三名の連署である。
 天草嶋原乱も終息し、平和な時代を希求するとき、武ばった「大ひげ」が御法度となり「不行儀成体」扱いになってしまった。明治に至り政治家や軍人さらには文人などの間でも「ひげ」が流行するわけだが、最近のこの有様はどう理解したら良いのだろうか。
(わがシェイバー行方不明事件は、我が部屋替えの時にPC周りの沢山のコードの中に鎮座しているのを発見、一件落着)
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