津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■迷子の行方

2023-10-31 06:46:28 | 徒然

 熊本史談会で次回担当する講演の史料に添付する予定の「細川家系図」の行方が判らない。
これは線が複雑に入り込んでいるので、商売用の建築CADでこしらえた代物で、藩主代々が一直線に並ぶような構成ではなく、実親の下につづく形をとっている。
そうすると細川家は、嫡家相続は綱利で途絶え、藤孝~綱利が「嫡流」、宜紀~治年が「新田藩流」、齊茲からご当代までが「宇土支藩流」だという事が一目瞭然となる。
そんな些か邪道ともいえる系図だが、理解をしていただく上では中々よくできた系図だと自画自賛している。
その系図がどこかに隠れてしまった。PCのデータには残っていない。SDやUSBを片っ端から確認するが行方不明である。
迷子は何処に行った?と本気であせりだし、厭な汗をかく感じである。
真剣になって考えていたら、ブログに挙げたのではないかと思い至った。
早速ブログ内検索を掛けるが語句が適当でないのかなかなかヒットしない・・・しかしやっぱり迷子はここにいた。
そして今一つ代々藩主の奥方の家系につなげた系図も現れ、こんなものも作っていたかと呆れた次第である。
一件落着、管理の大事さを実感し、ともあれいそぎ、USBに落とし込み一安心。そのそれぞれの系図が下のようなものである。

               細川家略系図  細川家縁戚略系図

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■チャレンジするか「忘れられた天才 井上毅」

2023-10-30 09:53:13 | 書籍・読書

                 

 昨日シンポジウムに参加した帰りに本屋に立ち寄り郷土コーナーの棚を見てみると、「忘れられた天才 井上毅」が並んでいる。
この著書は出版されてからそろそろ3年になる。なにしろ大部の本だからちょっと読むのにも腰が引けてしまう。
図書館から借りて2週間の期間に読了できる自信がない。買おうかと一旦棚から取り出したが、重くもありまた棚に戻した。
熊本の人間として、明治維新後の新政府にあって、明治憲法の創案作成や教育勅語の作成などに力を盡した偉人として知っておくべき人物である。
私は、徳富蘇峰や元田永孚・佐々友房らよりも評価されるべき人物だと考えているが、横井小楠同様評価が低いように感じられる。
これはなにが作用しての事なのか、大いに議論あって郷土の偉人として顕彰されるべきだと思っている。

著者の井上俊輔氏は熊本市内で開業されておられる眼科医である。井上毅の御一族ではないかと思う。
「新平成国体論」等の既刊もあるが、この本も熊本人ならずとも明治維新史などに興味ある方にはぜひご一読をお勧めしたい。
「読んでから言え・・」とお叱りを受けそうだから、急ぎ読んでみようと思う。

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日曜の午後はお勉強

2023-10-30 07:53:49 | 講演会

                           

 昨日は、午後から九州文化財研究所創設30周年記念シンポジウムに参加してきた。
九州大学大学院の中野等教授、作家・歴史研究家の渡邊大門氏の基調講演があり、その後別府大学教授の白峰旬氏はリモート参加、そして福岡大学の准教授山田貴司氏を加えてのシンポジウムである。
「関ケ原合戦と九州の大名・どうする九州!?」と何やら、NHK大河ドラマに忖度?したような感じもある。
中野教授・渡邊大門氏の講演は、ユーモアを交えながらまさに立て板に水というようなお話で流石と感じ入った。
白峰教授は数冊の本も所蔵しているが、リモートながらお姿を拝見するのは始めて、難しい史料からの新しい視点での見解は興味深いものがあった。
山田準教授は、熊本県立美術館に長くお勤めであったから、熊本人にとってはお馴染みである。
コーディネーターの花岡興文氏のもとに、四氏のシンポジウムでの発言も研究者としての譲らぬ見識が戦わされて興味深い物であった。
約3時間半、久しぶりに勉強をした感がつよい。200人位の方が出席されていたと思うが、
歴史の真実を知ろうとする熱心な人たちがこんなに多いのかと驚かされた。

私もその中にあって、大いなる満足の時間を過ごした。

                                        

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■こども図書館建設の影で・・・

2023-10-29 08:00:15 | 熊本

                                               

 慶長11年2月の半ば、忠興は一色義有の遺児だとされる、大徳寺の僧・希首座(きしゅそ)を殺害している。
弟・興元が忠興の身辺を探るこの人物に注意するように言ったとされるが、興元は慶長6年小倉を出奔しているから京都での話だろうか。
細川藤孝は忠興の妹・伊也を一色義有に嫁がせたが、その結婚を祝うと見せかけ、細川の屋敷に義有を招き謀殺するという、いただけぬ黒歴史をつくった。
希首座という人物は一色義有の遺児だとされるが、伊也の子供ではない。前夫人の子でもあろうか?
その事件後、忠興は夜になるとうなされる様になり、この刀を嫡男の忠隆に託したという。

 現在の熊本県立図書館は明治の一時期、熊本市の体育館を含む広大な土地は内膳家の屋敷であった。
現在図書館本館の脇には、建築家・安藤忠雄氏が建設資金を寄付されて「こども図書館」が建設されている。
その予定地近くに写真の祠があるのだが、これが内膳家が預かった刀の霊の鎮魂のために造られたものだと伝えられている。
多分若干は逸れているのではないかと思うが、この祠がどうなったのか気に成っている。
元内膳家の屋敷跡であるが故だが、所在や由緒を御存知の方も少なく、周知につとめるとか、処を得た場所へ移すとか一考すべき時が来ているように思うが如何だろうか。

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■偶然の造形

2023-10-28 14:09:50 | 徒然

               

 ベランダに置いている観葉植物にお日様があたり、網戸に口ばしの長い鳥のような見事な陰模様を作り出した。
さしずめ「鵜」と言った感じである。偶然が作り出したものだが、つい携帯のシャッターを押しました。

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■珍しい慶長六年の宛行状

2023-10-28 05:58:37 | オークション

慶長十(六)年 キリシタン大名 細川忠興宛行状一幅 平野宛
      朝鮮の役関ケ原合戦書状消息和本古文書古筆短冊書簡大名戦国武将手紙大分県熊本藩史料

  

          豊 前 國 以 宇 佐 郡 之 内
          千 五 百 石 遣 之 目 録 有 別
          紙 永 可 知 行 者 也 仍 状
          如 件
           慶長六年 日 忠興(花押)                
                平野太郎左衛門殿

 平野太郎左衛門を家祖とするお宅は、太家・太郎四郎家・嘉門家・角蔵家・甚九郎家・宣太郎家の6家が確認されるが、その太郎左衛門(勝行)が1,500石を拝領していたことが判る貴重な史料である。
太家が嫡家であろうと思われるが、2019-08-29 やはりオークションでそのご子孫の宛行状が出品されたことがあった。
又、2019-09-28  2021-05-21 にも同家の宛行状が出品されて、今回に至り太家の相当の史料が平野家から流出した。

細川家の豊前入国は慶長五年の年の暮れも押し詰まっての事である。日付は入ってないが入国直後のものであることが判る。
細川家に於いて世禄制に移行したのは、細川忠利が肥後入国後の寛永10年のことであるから、1,500石の家禄はそれぞれに知行分けされたのであろう。一族6家が細川家に仕えるというケースも珍しい。          

 商品説明として「細川忠興知行宛行状幅 慶長六年十月 日付 平野太郎左衛門宛 忠興花押状 本紙縦32.5糎横49.5糎 楮紙 函なし  紙面薄シミ  豊前国入国直後の宛行状 日付未記載は忠興宛行状の特徴の一つ。その花押は詳細な年次比定が試みられていますが本書発給頃までは変化の乏しい初期花押を使用 こののちは年度による変化が顕著になります。」と詳しい説明がある。

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■変わりゆく風景

2023-10-27 11:35:15 | 熊本

 新町から横手の禅定寺脇を抜ける都市計画道路は、知事が現地を訪れるなど、貴重な歴史墓の存在が認められて特別に都市計画の変更が行われお墓は生き延びた。
高祖父上田久兵衛のお墓も掘り返されることなく済むようだ。
その道路工事が佳境に入っている。新町側も道路の拡幅が行われるから、なにやら動きが出始めたらしい。
この計画道路はかっての細川家筒口屋敷跡あたりを通り、横手四丁目を抜け谷尾崎の新道(西廻りバイパス)につながる。
      熊本市都市計画図(用途地域・都市計画道路)

 又すぐ近くの、安国寺の北側に広がる、吉田松花堂(吉田毒消丸)さんの広大な屋敷跡にアパートが立つらしく、敷地の周りの沢山の古木の伐採や、巨大な庭石の搬出などが始まって、随分様相が変わって来たらしい。
道路が整備されると、便利性が向上し格好の住宅環境であることは間違いない。

近くに住む友人がウルウル声で電話をしてきて、庭先の「心字池」も埋め立ての運命にあるらしく、建設機械が動き回る中に、シラサギがその池に降り立って、別れを惜しんでいるようで涙が出る景色だという。
二尺ばかりのスッポンも住みつき、三四匹のウシガエルもいたというその池が埋め立てられると、彼らはどこへ逃れて生きていくのだろうか。

 道路が整備されると、古刹が立ち並ぶ新町から横手方面の寺町は、今でも車で渋滞が凄いそうだが、騒音に悩まされることになるのだろう。
ご先祖様もおちおちお墓の下で静かにお眠りいただける状態がなくなる事だろう。

追伸:10月28日
   上田久兵衛のお墓がなくなっているという情報をいただきましたが、当方の手違いで削除してしまったようです。

   大変申し訳ございません。今一度ご連絡いただければ幸いです。

 

    

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■ヤク切れ

2023-10-27 09:50:30 | 徒然

 毎日服用の薬が一昨日に切れ、昨日は朝食を取った後に思い出し、ひょっとすると検査があるかもしれないと一日延ばし・・
昨日は朝夕食後の薬をスルーしてしまった。
そして30日分の処方の薬をいただいているのだが、33~4日で病院に出かけるというのはどうした事でしょうか・・・
今朝は診察時間前に病院に着こうと早めに家を出ると、患者さんが思いのほか少なく早めの診察を受け、検査は一月延ばしで薬の処方箋をいただき終了。
薬をもらい帰りはついでの朝の散歩。近所に工事中の巨大な24時間スーパーの進捗状況を覗いてみようと路地を入り込む。
まだ昔の生業が首を出し、興味が尽きない。
歩いていたら足元に小さなバッタがはねた。どなたかの句にキチキチバッタの句があったなと思うが思い出せない。
帰宅して調べたら富安風生先生の句だった。

        きちきちと いわねばとべぬ あわれない     風生

 

 

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■津々堂大慌ての巻

2023-10-26 14:20:15 | 熊本史談会

 11月の史談会例会は第二週の土曜日11日という事で、何時もの第三土曜日からすると一週間早いわけは当たり前だが、何時ものスケジュール感がしみ込んでいるから、早い展開に私は大いにあせっている。
新聞社に案内の掲載をお願いする関係で、その原稿も作らなければならない。

11月例会の講演は私の担当になっていて、もう二週間あまりに迫っている。
秋の夜長の読書などと悠長なことは云ってはおられないぞと、資料を読み込みながらレジュメの制作に取り掛かった。

「熊本藩三代、忠利・光尚・綱利の治世と時代相」という題目にして、系図や年表、レジュメ等を準備しようと思っている。
Excelで年表を作り始めたが、最近あまり使わないので思うように作図が出来ない。
会の事務局長に電話を入れ作成方をお願いする。快諾していただいたが、ご迷惑を掛けないように早く原稿を仕上げて送らなければならない。
二枚も三枚も下書きで失敗を重ね、何とかこれで行こうというものが出来上がった。
各人の生没年やいろんな事件事柄の年号の確認など資料を引っ張り出して足元は散らばり放題になっている。
系図は随分以前に造ったものに手を加えようと思っていたら、PCの中にデータがない。
USBに落したのだろうと唯今一つ一つ確認中である。これはCADで作った代物で我ながらよくできたと思う代物だがこれとてチェックが必要だから早く見つけ出さなければならない。
問題はレジュメだ。10月例会でも10分ほどある古文資料の解説をしたが、久しぶりの事で上がってしまってろくな解説に成らなかった。
果たしてレジュメ通りに上手く話が進められるか大いに不安なので、少々脱線可能なアバウトなものにしておこうか等と怪しからぬことを考えている。
映像も二三ご紹介したいものもあるし、最近大発見のニュースもお話ししたい。どれをカットして無事に責任を全うできるかと頭は痛い。
講演はそろそろ最後にして、今後は人様のお話を楽しむ立場で皆勤したいという想いである。

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■細川重賢公御逝去

2023-10-26 06:29:52 | 歴史

        細川重賢公天明五年十月廿六日龍口邸にて御逝去・享年66

            
            公の俳句が認めてある用人竹原玄路筆の公のお姿

 さて天明五年の秋の初めより、二豎に侵され給ひ、病勢漸く加はりて、甚だ疲労し給ひ、十月の中比は、はや頼み少く弱り給ひしに、ある日時雨の音凄まじきを聞召して、公病蓐の中にて、
        しぐるゝかあかり障子に音はかり
と口吟し給ひぬ、さて此の俳句、如何にも寂寞の情を帯び、人をして凄然たらしむものあれば、諸士農商に至るまで、神明佛陀に立願し、公の快復を祈れども、其の験なく、日に益々重らせ給ひぬ、是より先き世子治年公は、熊本にましましゝが、公の病の重き由、急報ありければ、即日駕を命じて熊本を發し、江戸に詣り 九月十日發駕 十月十一日着駕 嘗薬に奉し給ひぬ、さて十月二十日頃よりは、公遂に起つべからざるを覺悟し給ひ、枕邊なる世子治年公を始め、諸老臣等に對して、諄々後事を委嘱し給ひ、且つ朝廷若しも事あらば、藩力を盡して奉公の義を致すべしと、特に遺言給ひぬ、(中略)かくて人々憂慮の内、同二十六日、六十六歳を一期として龍口邸に長逝し給ふ(中略)世子治年公を始め、家臣等の悲痛は固よりにて、領内の民、これを聞きて愁嘆痛哭せざるなし、所謂百姓考妣を喪するが如き情状なりき、かくて菩提寺品川東海寺内妙解院に埋め奉る、され霊感院羽林次將中丈夫越州太守徹巖宗印大居士と諡す、
                     宇野東風著「細川靈感公」より引用す

 

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■割を食うのはいつの時代も下の者

2023-10-24 19:30:14 | 人物

 綱利の初入国は寛文元年(1661)四月廿八日だが、江戸を出立するときから、行列の見事さが江戸っ子の話題に挙がったという。
そのきらびやかさで肥後入国を果たしたが、財政が悪化の一途をたどる中で大いなる非難を浴びた。
その結果江戸御奉行・堀江勘兵衛(2,000石)が知行召し上げとなった。
正史では見受けられないように思うが、堀内傳右衛門の「旦夕覚書」は、沢村大学の養嗣子・沢村宇右衛門の指図であったと指摘している。

 一、初て御入國は拙者十七の時にて未致御目見候 皆とも立田に大勢罷出見物仕申覺申候 後に承候へは
   江戸にても道中にても珍敷結構成る御供行列と申たる由其時の江戸御奉行堀江勘兵衛は先御代より
   千石被下御奉行一人の埒明と申候 江戸御立の御用意に大分御銀入申候 澤村宇右衛門殿差圖の由に
   て熊本の御家老中事の外立腹にて堀江勘兵衛は知行千石被召上四十人扶持被下宇土邊に引籠致病死
   候 堀江は唯今の伊藤又右衛門ゟ母方の伯父かと覺申候 惣躰角力御數寄男すき被成候儀も皆宇右衛
   門殿召れたる様に後々迄十左衛門殿舎人殿なと御咄承候事

 この綱利初入国に際し、筆頭家老・松井興長は病をおして八代から出府している。
そして、綱利の将来を案じながら六月廿八日に死去することになる。前年興長は綱利に対し厳しい諫言を行ったばかりである。
そんな中でのこのような華美な行列への非難は当然であり、当事者への非難は集中したであろう。
しかし、沢村宇右衛門には何の処分もなかったとみられ、堀江勘兵衛が割を食った。
沢村宇右衛門は松井康之の姉の孫・松井二平次の息に当たり、沢村大学の養嗣子となった。
興長からすると従兄弟の子にあたる大事な一族でもあり、家老衆の忖度もあったであろう。
この処分は綱利の江戸への参勤前の事であるから、大事な側近の処分におおいに震え上がった事であったろう。
似たような話で新聞をにぎわす事件はいつの時代にもある。


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■秋の夜長は・・準備の三冊

2023-10-24 16:10:26 | 書籍・読書

秋の夜長の為に本棚から二作品三冊の文庫本を取り出した。

             

(1)勝田龍夫著「重臣たちの昭和史(上)(下)」
  こちらは1984年(昭和59年)7月の第一刷、こんな時期私は昭和史に興味を持っていたようだ。
  著者の妻・美智子は西園寺公望の秘書を務めたクォターの原田熊雄(勲三等・男爵)であり、私はその名前を、細川護貞著の
  「情報天皇に達せず」(細川日記)で知ったからこの本を購入したように記憶している。この本の解説に「この書物は今後な
  がく現代史を理解するための基本資料となるだろう」と書かれているが、昭和の人間としてはどうしても読んでおくべき著書
  だと思って居て、冥途の土産に最後の読書にしたいと思っている。

(2)大宅壮一編「日本のいちばん長い日 運命の八月十五日」
  初版は昭和48年、私が所持しているのは16版で昭和55年発行のものである。
  以前書いた記憶があるが、この本を持ったまま仕事の関係で夜の巷に出て倶楽部かどこかで飲んだときここに忘れて帰った。
  そこで改めて買い直したのが現在私が所蔵するこの本である。今ではこの本は著者は半藤一利氏だとして発刊されている。
  半藤氏が大宅氏の名を借りて「編」という形で発刊したものを、遺族に版権を返してもらい今では半藤氏の著書となっている。
  終戦の日の一日に焦点を当て約300頁にわたり、逐一詳しく書かれているが、編集の手法は半藤一利氏の著作だといわれると
  なるほどと思わせる。

 

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■堀内傳右衛門の話は嘘か本当かという疑問

2023-10-24 06:31:56 | 歴史

 熊本藩年表稿の頁をめくっていて、寛永17年7月19日「白川より川尻へ船通水道、開通工事予定あり」という「奉書」からの引用として紹介されている。
はたしてこの船通水道は開通したのだろうかという疑問が残っている。
実は堀内傳右衛門の「旦夕覚書」には、忠利の発案について米田監物が異議を唱え、忠利もその意見を取り入れ沙汰止みとなった旨の詳しい記述があるから、私もそう思ってきたがどうもそうでもないらしい。

      ■忠利公の土木事業「坪井川川底さらえと白川~加勢川(河尻)間水運計画」

 平成29年11月に行われた「第33回・熊本大学付属図書館貴重資料展」の「近世熊本城の被災と修復」の解説目録に「25・白川から河尻への運河完成と高瀬舟」という解説が為されている。
寛永17年12月14日の奉書として、白川から川尻までの運河が翌年二月末に出来るとの普請奉行からの報告を受けて、「忠利は、川舟を一艘二月二十日頃には完成するように命じ(中略)阿部弥一右衛門を通じて奉行衆に命じた」とある。
堀内傳右衛門の話は何処に行った・・・???熊本藩年表稿には開通した旨の記事が見当たらない。
尤、忠利は18年の1月18日、八代の父・三齊の元を訪ね、その帰途足のしびれや、言語不通となった。
一時回復したが、3月17日にはついに還らぬ人となった。そんな一大事が起り記録するなどの話ではなかったのかもしれない。しかし奉行所の記録に乗せないという事はあるまい。

 処が思いがけない史料が現れた。熊本大地震で南区の近見方面で地盤の液状化が起り、その対策のために技術検討委員会が設置され、その説明資料というものが作成されている。
川尻に在る大慈禅寺の文書の中に「大渡橋」を作るに当たっての建治二年(1276)の「義尹大渡橋勧縁疏」に、かっては白川と河尻を結ぶ河道があったことを示す記述が有り、その河道と思われる帯状の一帯が、近見地区の液状化と重なると解説している。
地盤調査の結果は、まさに河道であったことを示している。むかし白川と川尻の緑川がつながっていた可能性を示唆している。

更にこの報告書には「近世熊本城の被災と修復」の記事と同じものが引用されており、寛永17~18年の拡幅工事が完成した事は既成事実となっている。(但し完成したという確実な記事は無い)
その河道の跡とおもわれる井手が(巾一間、深さ一~二尺)であるから、高瀬舟が通る様に拡張したいというのが忠利の願いであった。
完成まじかと聞いて忠利はここを通るための高瀬舟の新造を指示している。
運河は完成したのだろう。いまでも河尻旧道にそって狭い水路が伺える。これがそうなのだろうか、とても幅を広げたとは思えないが・・・?

 堀内傳右衛門の話は説得力ある話ととらえていたが、こうなるとその真偽のほどが怪しくなる。
永青文庫から確定的な文書の公開が待たれる。

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■秋の夜長は「どうする家康」よりも・・

2023-10-23 10:24:02 | 書籍・読書

 今年の大河ドラマはほとんど見なかった。ジャーニーズ問題で揺れた一年だったが、「どうする家康」もNHKの忖度がおおいにあったのではないか。
見て居られるのはジャニーズ不安ばかりではない。先年の「麒麟が来る」は大いに楽しんだが、歴史ドラマの本来あるべき姿を取り戻してもらいたいものだ。

                                                   

 ということで、ニュースを見たら部屋にこもり「読書でもすべえ」とばかり、昨晩は内田百閒の「贋作吾輩は猫である」を開いた。文庫本282頁を少々斜め読みもしながら読了した。
頭から「贋作」と断わりながらの作品だが、百閒先生は漱石の弟子とは言いながらその間は五年ほどだというが、師匠愛に満ち溢れているように思われる。
1906年に水瓶に落ちて這い上がってきたら1943年だったというのだか、登場人物は相変わらず面白い登場人物が珍妙な世界を繰り広げている。
読み進めていると、これがまるで漱石先生の続編ではないかという錯覚さえ起こしてしまう。
百閒先生の作品はそう多くは読んでいないが、ブックオフでも覗いて文庫本を仕入れてみようかと思っている。
それでも来年の大河ドラマには少々期待している私である。

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■松本喜三郎と江島栄次郎

2023-10-23 06:49:20 | 花押

 ある人が電話をしてきた。「谷汲観音のモデルは江島さんの婆ちゃんがモデル」だと云われる。
そして谷汲観音は「江島栄次郎という人が作った」という、私の知識の埒外の話で当惑してしまった。
浄国寺にある「谷汲観音像」は、有名な生き人形師・松本喜三郎の作品として世界的にも有名である。

                    松本喜三郎

 関東圏で2019年4月30日に放映された「なんでも鑑定団」に松本喜三郎の生き人形が出品され、3500万円という途方もない値段がついている。
その時の内容や審査員の話を同番組のデータベースで見ることが出来る。

 ふと浄国寺の「谷汲観音像」や、来迎院の「聖観世音菩薩像」などは如何ほどの値段になるのかしらんと思ったことである。
明治31年、谷汲観音像を修復した弟子・江島栄次郎の事を紹介する、明治42年の九州日々新聞の「松本喜三郎の話」を見つけ出した。
これ等の作品は大阪その他外国での展覧会にも望んでいるが、松本喜三郎は世界的評価を得ているが、彼の作品だとされる「谷汲観音像」は、江島の大掛かりな修復により甦ったもので「松本喜三郎作/江島栄次郎補修「谷汲【たにぐみ】観音像」と紹介されるように、まさに江島の作品でもあろうという評価さえある。
江島家には、観音様の面影は江島の死んだ妻の顔を移したものと伝えられ、よく似ているという。
先の九州日日新聞の記事の最期にはそのことを思わせる江島の話が載っている。
江島栄次郎の評価が見直されるべきではないのかと思う。

          

 

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