津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■19:46震度5弱の地震発生

2016-08-31 19:53:55 | 熊本地震

 19:46また大きな地震が発生しました。わが東区は震度4でしたが、押入れの本棚が崩れ落ちました。(又跡片づけがうんざりです)
時計も吹っ飛んで乾電池が抜け落ち、発生時の時刻で止まっています。まだまだ余震が続きそうです・・・・ 

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 21:36 震度2 続いて起きるとすごく心臓に悪いですねー・・・・・・

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■坪井川のこと

2016-08-31 07:19:31 | 歴史

 この写真は西南の役の熊本城籠城の解放後の写真だとされる、坪井川の有様である。
奥に厩橋が見えその右手の高い木立があるあたりに藩政時代の厩があった。明治期には厩跡は監獄となり後年熊本市役所が建った。

寛永十七年、忠利公は府中の白川と川尻をつなぐ川の掘削を幕府に願い出て許可を得たが、薩摩藩に対する防衛上の懸念を以て重臣の反対があり断念している。
その時同時に願い出たのが坪井川の浚渫である。

    熊本之城三之丸内を坪井川と申小川ながれ申候、町人其外用のため常ニ此川のすなを取、用をかなへさせ申度候、
    所ニより水のたまりハふかき所も御座候、其外はひざぶしたけも無之程のすな川にて御座候、城之内をながれ候川
    ニて御座候故申上事ニて御座候、何も肥後へ御下之衆御存知たるへき事

ここでは川の深さが膝丈くらいであると記されている。現在でもそう深さがある訳ではないが1メートルほどはあるだろう。
上の写真でもわかるように、いろいろな物資を高橋町から運び込んでいた。重要な水路であった。
下って孫の綱利公の時代には、この川を上下して遠く八景水谷まで舟出浮きを楽しんでいる。途中の橋を壊させたりしているが、川の浚渫もあったのかもしれない。                      綱利53歳
今は紅鯉が群れ泳ぐ静かな川だが、時折イベントで舟遊びも催されている。妙解寺あたりからこの厩橋のあたりまで観光の舟を浮かべるのも一興かもしれない。如何・・・・

                       

                             下流:下馬橋

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■購入しました

2016-08-30 11:59:29 | 熊本

 (一財)熊本城顕彰会が発行しているのが季刊誌「熊本城」、私も会員なのだが新参者である。だから古いものは持っていない。
それゆえ平成3年2月の復刻第1号から平成13年2月の41号までがまとめられているこの本が残部が少ないと聞いてあわてて購入した。
今回の地震による熊本城の被害は目を覆うばかりである。改めて熊本城の貴重な資料に触れたいという思いが募っている。
平成3年といえば四半世紀前のことであり、執筆者の先生方もすでに故人となられた方があり、懐かしい記事に触れて感慨新たなるものがある。
一冊3,500円(送料別) 

                    申し込み先 一般財団法人熊本城顕彰会
                          〒860-0004 熊本市中央区新町2丁目4-27
                                   (熊本市健康センター新町分室) 
                                  電話・FAX  096-352-2975

 

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■水戸徳川家と細川家

2016-08-30 07:11:13 | 歴史

我が家の先祖附には「同(貞享)二年丑六月廿八日水戸様御家来佐々助三郎、丸山雲平御国内被罷通候ニ付、御附被成薩摩境上之川迄罷越、七月十日罷帰候処、同十六日右両人日向より帰申候ニ付、又御附被成南郷岩神より筑後之内高瀬迄罷越八月十四日罷帰申候」とある。
「大日本史」編纂のため、主君・水戸光圀公の命を受けて熊本に入りいろいろ調査をしている。その折案内役を務めた。
他藩に於いては調査に協力的ではないところもあったというが、細川藩は大変協力的であった。

それは細川綱利夫人が水戸徳川家の出であることもあろう。実は光圀の実妹であるが、長兄の高松藩主松平頼重の養女となって細川家に入られた。

それ以降水戸徳川家と細川家の関係は深くなろうとしていた。
綱利の嫡男・与一郎に水戸徳川家の網條の養女萬姫(水戸家では益姫・綱條夫人の実妹)の婚約が調ったが、これは与一郎(十四歳)の死によって頓挫した。
これにより萬姫は綱利の二男・吉利との婚約がすすめられたが、不幸にも吉利も十八歳で死去した。
この益姫はその後光圀の弟・頼隆の孫・松平頼明に嫁いだ。そしてその五代の孫・頼説に細川治年の娘・寧姫が嫁いだ。

高松藩五代藩主頼恭は水戸光圀の弟・頼元の子、松平頼貞の五男である。その夫人は細川宣紀女・八代姫である。
又宇土支藩・細川興生夫人は、松平頼貞女であり、宣紀と興生は水戸松平氏を通じて義兄弟ということになる。

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■西南戦争「激闘田原坂秘録」・・ほか

2016-08-29 09:20:45 | オークション

                                                                

                           西南戦争「激闘田原坂秘録」

                                                 西南戦争「激闘田原坂秘録」800円 

 

 1即決/送込 西南戦争 戦袍日記写真集 青潮社 附録熊本城攻撃之図 

  1即決/送込 西南戦争 戦袍日記写真集 青潮社 附録熊本城攻撃之図    

 

                 日録 田原坂戦記/勇知之編著 1990年 西南戦争

                 日録 田原坂戦記/勇知之編著 1990年 西南戦争

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■ 9月8日(木曜日)NHK・ファミリーヒストリア 財津和夫氏

2016-08-28 08:05:17 | 徒然

NH98日(木曜日)NHK・ファミリーヒストリア 午後7時30分~午後8時15分
     「財津和夫~熊本藩士の誇り 新天地を切り開く~」
  

あのチューリップの財津和夫氏は紛れもない細川藩士・財津氏のご子孫です。
今年の三月頃、NHKのディレクターのM氏からご連絡をいただき、お目にかかって藩政時代の財津氏についていささかの情報の提供を致しました。
その後中国への取材などにも出かけられた旨のご連絡もいただきました。この番組が大変な調査や取材にもとづき、造られていくことを実感いたしました。
どのような番組が出来上がったのか、大変興味深く思っています。どうぞご覧下さい。

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■お安く読む・洋泉社新書「井伊直虎」 9・3発売

2016-08-27 09:25:00 | 書籍・読書
  井伊直虎
  小和田哲夫
  洋泉社

 

洋泉社は9・5、アマゾンは9・3の発売としているようですが、いずれにしても予約受付中の小和田先生の「井伊直虎」です。
来年の大河ドラマの予習としてぜひ読みたいところです。 

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■松寿庵先生・第200講

2016-08-27 08:32:27 | 史料

                        平成28年度夏季特別展覧会
                     行ってみよう!江戸時代 ~八代の町と村~

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■志水家文書 by 東大史料編纂所

2016-08-26 10:51:29 | 史料

〔志水文書〕
 永禄十年十月七日    薬師寺弼長書状
 (年未詳)六月十一日   大館晴忠書状
 (年未詳)六月十一日   大館晴忠書状
 (永禄五年)卯月廿四日  六角承禎書状
 (永禄五年)卯月廿六日  六角承禎書状
 (永禄五年)五月十七日  六角承禎書状
 (永禄五年)五月十八日  六角承禎書状
 (永禄五年)五月廿日   六角承禎書状
 (永禄五年)卯月廿一日  六角義弼書状
 (永禄五年)五月十八日  六角義弼書状
 (永禄五年)五月廿日   六角義弼書状
 (十二月十一日)     六角義弼書状
 (永禄五年)五月十八日  平井定武書状
 (永禄五年)五月十八日  建部忠利書状
 (天正元年)八月二日   長岡藤孝書状
 (年未詳)正月廿七日   細川藤孝書状
 (年月日未詳)       某(細川三斎カ)詠草
 慶長五年八月廿三日   織田秀信感状
 慶長七年八月十一日   細川忠興知行充行状
 (年未詳)二月廿日    伊藤定孝書状
 (年未詳)正月十八日   細川忠興書状
 慶長八年九月十日    細川忠興知行充行状
 慶長八年九月十日    細川忠興知行充行目録
 慶長八年九月十六日   細川忠興知行充行状
 元和七年七月廿一日   細川忠利知行充行状
 寛永七年正月廿日    細川忠利知行充行状
 寛永拾年九月朔日    細川忠利知行充行状
 (年未詳)七月四日    細川忠利書状
 (年月日未詳)      志水伯耆守知行目録
 寛永十四年十一月廿九日 細川氏家臣連署状
 (年未詳)二月廿四日   細川忠利定書案
 (年未詳)二月廿四日   細川忠利定書案
 (寛永十五年)三月廿日  長岡佐渡書状
 (年未詳)十月十八日   某内記忠□書状
 (年月未詳)廿五日    長岡佐渡書状
 寛永十五年卯月廿四日  志水元五書状
 (年月日未詳)      某起請文前書案
 (年未詳)三月十七日   志水克政申状
 寛永拾五年三月十四日  中野九兵衛申状
 寛永十五年卯月廿二日  今村勘右衛門尉申状
 寛永拾五年卯月廿日   藤井惣右衛門尉申状
 慶長四年五月三日    豊臣秀吉朱印状写
 (年月日未詳)      某(細川三斎カ)書状
 (年未詳)八月十四日   志水宗加書状
 (年未詳)九月十二日   久世重之書状
 寛永三年十一月日    志水宗加高名覚
 (年未詳)十二月九日   志水元堅高名覚
             志水家諸系図

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■志水家略系図 再修正

2016-08-26 10:49:07 | 史料

 今般志水悪兵衛系の家系を、「松井家文書給人先祖附」からまとめてみた。
加兵衛については同書に記述がないが、清久系の史料によると日下部与助(元五)の末弟・加兵衛が、叔父悪兵衛の養子になったとある。
その他志水家史料と齟齬するものがあり今後の精査が必要である。

 

                     +---九郎左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→京都・九郎左衛門家
     宗加       |
 --+--志水清久--+---九左衛門----次郎兵衛(九兵衛)==久馬・・・・・・・・・・・・・・・・・・→凍家(1,200石)
  |      |
  |      |日下部与助          新之丞克重
  |      +--元五---+==恵重---+---吉之允・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→新九郎家(1,000石)

  |      |    |     |     ‖
  |      |    |     |  圓光院(筑紫重門・細川幸隆女兼夫婦の女)
  |      |    |     |
  |      |    |     +---権之助・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→隼太家(300石)
  |      |    |     |
  |      |    |     +---四郎兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→源九郎家
  |      |    |
  |      |    +--久馬(九兵衛為養子)
  |      |    |
  |      |    +--菊 (庄林隼人・一心室)おうを
  |      |
  |      |  雅楽      牛之介       
  |      +--恵之---+--元茂----+--新九郎(不満・若年絶家)
  |      |    |     |
  |      |    |     +--●蝶(兄・新九郎跡目相続300石)
  |      |    |        ‖・・・・・・・・・・・・・・・・→長瀬三七
  |      |    |    長瀬助之允
  |      |    |
  |      |      +--恵重(元五為養子)
  |      |     
  |      +--要善院日富 志水家菩提寺・真浄寺創建
  |      |
  |      +--加兵衛 悪兵衛清秀養子(清久系系図による)
  |     
  | 清秀      賜姓松井            
  +---悪兵衛---+---掃部---+--三左衛門---三左衛門 (病死絶家)
          |      |
          |      +---加兵衛
          | 一安
          +---半右衛門 継・松井家家臣下津氏 
          | 清重
          +---又右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→八代松井家家臣・志水小八郎家
          | 清通
          +---九太夫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→豊後竹田中川家家臣・志水家
          |
          +===加兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 一太家(300石)
                                                → 三弥家(250石) 

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■宗孝公、享保十七年八月廿五日遺領相續

2016-08-25 17:11:16 | 歴史

享保十七年八月廿五日六丸君父宣紀公の遺領を相續相続された日である。御年十五歳の若い藩主の誕生である。
この年の六月廿六日父宣紀公は五十七歳で亡くなられた。第十子にして四男である。上三人の男子は各々早世された。
異腹の弟が重賢である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

細川越中守源宗孝ハ宣紀嫡子ナリ幼名ハ六丸 享保十七年壬子八月廿五日父宣紀遺領無相違相續十二月六日従四位下ニ叙シ侍従ニ任セラレ越中守宗孝ト改ム
十二月廿三日肥後豊後領分銀札通用ノ事幕府へ請フ 来丑ノ春ヨリ廿五ケ年ヲ限リ通用免許アリ

延享四年丁卯八月十五日宗孝依例登城小用ヲ便セン為メ其所二至リケルカ後ロヨリ切懸タル人アリ 振返リ見ル處ヲ猶疊ミ掛テ切付ル 宗孝ハ亂心者ト心得手疵數多負ナカラ其者ノ脇差ハ取揚シカ共相手ハ誰トモ知レス逃失タリ 大目附石川土佐守・水野對馬守目附土屋長三郎・中山五郎左衛門ナト駈付ル中ニモ土佐守・五郎左衛門早ク来リテ宗孝へ相手ヲ尋ヌレ共知ラスト答フ 意趣ハト問フ 何ノ覚ヘモ無シ乱心ト見受シユヘ捕ヘントシテ如此手ヲ負肥シト荒増ヲ答フ 其内溜ノ間脇ヲ圍テ種々介抱早速台聴ニ達シ人参湯漬等給ハル 右ノ騒動ヨリシテ諸間ハ悉ク建切門々ハ皆シメ切テ通路ヲ止ム 此時總供腰掛ニ同席ノ内手疵ヲ負タル人アリト聞ヘテ諸家ノ供人一同ニ騒立宗孝供ノ者モ玄関際ニ詰寄セ様子ヲ伺ヒ居ケルニ坊主来リテ宗孝着替ノ衣類ヲト云ニサテハト心得相手ヲ問へ共分ラス引續キ目附中山五郎左衛門ヨリ供頭ト側役一人宛ヲ蘇鉄間ニ呼出シ相手ハ上ヨリ吟味ノ上仕置アルヘシ 主家ヲ大切ニ思ハレナハ一家中少シモ騒キ申サル間敷トナリ 其後老中ヨリ相手ハ召捕ハレタリ安心スヘシ然レ共定法アツテ名前は告難シ 越中守措置宜シク将軍ヨリモ懇切ノ命アリ両人ノ名前ヲ再三問へ共言葉ナク重キ容體ナレハ屋敷へ引取ル 初メ屋敷ニハ一定シタル事聞ヘス上下騒キ立テ一所ニ集リ確報ヲ待ツ處ニ右ノ注進来リケレハ走リ出テ平川口マテ駈付ルモアリ途中へ追付モアリタリ 宗孝乗物ニハ殿中ヨリ醫師數軰差添ラレ徒目附二人小人目附三人役人薬ヲモ持参又武田叔安ヲ以テ人参ヲ給ハリ歸館ス 頓テ織田山城守来リ相手ハ捕へ置レケル間家中少シモ騒キ申サゝルヤウニ取計ラヒ申ヘキ旨老中ヨリ沙汰ノ趣ヲ家老用人ニ傳フ 程ナク台使堀田相模守入来アツテ手疵心元ナク思召ルノ處萬一大切ニ及フ共跡式ノ儀ハ去年假養子ニ願シ弟有レハ此度猶願出ニ不及安堵致シ養生スヘキ旨ナリ 家中ノ面々憤ヲ含ム中ニモ度々ノ台使ニテ懇ノ程著シク相手モ召捕へラレシト聞キ少シク静マリ唯容體ヲ気遣ヒケル處療治叶ハス翌十六日卒 年三十
相手ハ板倉修理 幕府麾下 ニテ雪隠ノ床下ニ隠レ居タルヲ石川土佐守見付テ捕ヘ糺問スルニ申口モ定カナラス全ク狂乱ト見ヘシカハ頓テ水野監物ニ預ケラレ八月廿三日死ヲ賜ハル

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■合志義塾史

2016-08-25 14:46:44 | オークション

                 YSな- 合志義塾史

                            YSな- 合志義塾史

 

                     合志義塾とは 合志義塾展 - 合志市

 

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■「虫気の観音」と重賢公

2016-08-24 15:32:20 | 熊本

                       
     画像ファイル:祖霊社( 虫気観音さん)


 お若い方は「虫気」と聞いても良くお分かりにならないだろう。寄生虫に起因する子供のひきつけ・腹痛などをいうのだが、昔はよく見られたものだ。
菊池神社の鳥居を二つ抜け参道を進み階段が左折するあたりの左手にこのお社虫気の観音がある。(菊池市役所にお聞きして確認)

明和七年重賢公は側近の須佐美九太夫・真下梶之助ほか一人を伴いお忍びで隈府(菊池)の古城を尋ねられた。
中腹に逆修の石碑があるのをみつけられ もののふのすみかはあれて轡(くつわ)むし とうたわれて記しつけられた。(熊本縣教育會編纂・細川霊感公より)
この石碑はいつしか里人崇敬の的となり、虫気の観音と呼ばれるようになったという。「轡虫」から転じて「虫気の癇に霊験があるようになった」と菊池市の資料は伝えている。

実は現在もこの句碑が存在するのか、また詳細な場所を知りたいと思い市役所にお電話をした。
丁寧な対応を頂いたが、句碑の存在は確認できなかった。上記写真は菊池市のサイトから引用させていただいたが、右手の案内板あたりをみれば判るのだろう。
轡虫がなく秋には、熊本史談会で菊池を訪ねようかとひそかに考えている。 

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■「熊本地震と熊本城」特別講演会

2016-08-23 11:08:33 | 講演会

   申し込み先 一般財団法人熊本城顕彰会
          〒860-0004 熊本市中央区新町2丁目4-27
                  (熊本市健康センター新町分室) 
                 電話・FAX  096-352-2975

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■先が見えない図書館の再開

2016-08-23 09:50:27 | 熊本

 熊本地震以来、熊本県立図書館は休館状態が続いていたが、「6月15日より、くまもと文学・歴史館の展示室1が閲覧可能」となった。
しかしごくごくわずかしか 機能しておらず、何とも歯がゆい状態が続いている。
14年7月から15年3月末まで改修工事のため休館したあとの、今回の地震被害である。
再開がいつになるのか、どのような被害状況なのかも知らされない。長いトンネルに入り込みまったく先が見えない。
こうなると調べものなど全くできず、このブログの維持さえ困難になりつつある。

今回の地震で転居を余儀なくされたが、少々図書館が近くなりこれだけは有り難いことと喜んだのだが、その恩恵が果たされるのは何時になることやら・・・・・

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