津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

鷹の鶴・・そして、「ごいさぎ」

2005-10-30 11:30:15 | 徒然
 綿考輯録を読むと「鷹の鶴」という言葉が時折出てくる。お鷹場で獲れた鶴ということであろう。将軍家から下賜される「鶴」は、記録に止めるべき貴重なものであり、名誉なことであったのだろう。吉兆のシンボルを食するというのも、如何なものかとも思うが、「鶴は千年」にあやかろうとしたのだろうか・・・・。
八代に向かう途中、小さな川の浅瀬に小魚を狙う白鷺が佇んでいた。近くの木の小枝が揺れている。グレーの翼は「ごいさぎ」ではないのか(自信がない)
「鷹の鷺」とは聞かないなーとふと思った。そうか、ごいさぎは五位の位を頂戴しているから、捕獲が出来ないのかな等と考えたら可笑しくなってしまった。(綱吉代は間違いなかろう)

 又々思った。細川さんの数代のお殿様も従五位じゃないか。「五位鷺」と一緒じゃかわいそうだな。五位の位を与えたのは、若き頃の醍醐天皇だというが、ちょっと迷惑な話ではある。
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八代通い・第四週目

2005-10-30 08:40:08 | 熊本
  10月30日・第4回歴史講座
     「平和の時代の細川家-平和の世で大名に求められたものは何か」

 入り口でレジメを頂戴しざっと目を通すと、それぞれが大名(国主)になれたのは、
  ■藤孝:本人に能力があったから(家筋のおかげではない)
  ■忠興:関ヶ原合戦で手柄をたてたから
  ■忠利:忠利に一国を預かる器量があったから
  ■光尚:父忠利のおかげ (光尚個人の器量によるものではない)
  ■綱利:細川という「御家」のおかげ(綱利自身の器量によるものではない)
                                  とある。
 これはまた、単刀直入なおっしゃり様と思いながら、講演を拝聴した。
 平易な言葉でにこやかに解説される林先生は、まだお若い女性の学芸員の方。
 最後は「ご尤も」と納得する自分があった。今日もまた有意義な一日、感謝。

 帰り道、車の窓から松濱軒を覗いたら、門脇の建物の屋根に数十センチの「せい
 たかあわだち草」が元気に喰らいついていた。ごあいきょう・ごあいきょう。
 周辺の木々も次第にもみじして秋の気配が増している。
 片道1時間半の八代通いも、あと1回となった。 
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10月28日熊本日々新聞

2005-10-29 11:06:35 | 書籍・読書
 築城/熊本ルネッサンス「400年の旅」--「美は細川家にあり」という16面にわたる特集記事が組まれている。

  1、作家・赤瀬川原平氏の「黒帯を締めた熊本城」
  1、東京大学史料編纂所教授 山本博文氏の
              「近世細川家の基盤-信頼に基づく強い人脈」
  1、「武勇で雄藩の面目施す--天草・島原の乱」
  1、「綱利「義士」として処遇--赤穂浪士預り」
  1、島田美術館館長・作家 島田真祐氏の
              「このモダニズムを見よ・戦国武将忠興の遺産」
    写真家・島田有子氏の「美をまとったガラシャ」
  1、永青文庫史料専門委員・川口恭子氏の「信仰に殉じた一家」
  1、「豪華絢爛 よみがえる熊本城本丸御殿」
  1、「能で立身・中村家」
  1、「第十八代当主細川護煕の世界・不東庵」
  1、座談会「豊富な新鮮素材-食は熊本にあり」

  新聞販売店に頼み込んで数部取り寄せることにした。


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江戸証人・沼田与次郎

2005-10-27 13:59:01 | 歴史
 慶長五年正月、徳川家康から証人を要求された忠興は、三男忠利(十五歳)を江戸へ送る。松井康之は嫡男興長以外に男子がなかったため、妻の甥沼田与次郎光次に松井政之の名を与え証人とした。この人の其の後が気になっていたのだが、「於豊前小倉御侍帳并軽輩末々共ニ」にある「長岡主膳(本名松井)五百石」の記載に気付いた。その後の侍帳を見ると、「慶安元年真源院様御代御侍免撫帳」に「佐渡守証人領千石 長岡主膳」とある。間違いない。沼田与次郎光次は松井政之となり、豊前に帰り長岡主膳と名乗り、千石の大身になっていた。忠利と同年代の人と思われるが、慶安元年(1648)の侍帳に名前があるところをみると、当時は64・5歳だろうか。今のところ他の史料にその名前を見出すことが出来ないのだが、ご子孫は居られないのだろうか。
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じんべい鮫

2005-10-24 10:51:22 | 徒然
 昨23日、鹿児島の友人を訪ねる。高速を走って片道約2時間半鹿児島は遠い。山間部を走る高速道路は「中央フリーウェイ」の歌詞のようにはいかず、くねった道が眠気を誘うことを辛うじて止めてくれる。用事を終えて3時過ぎ鹿児島市立水族館に向かう。目的はただ一つ、じんべい鮫を見るためだ。正面玄関からエスカレターで導かれると、二階の巨大な水槽にじんべえ様が悠然と泳いでいる。
「でかい・・・・」妻と二人人ごみの中でしばし見とれ、時間を気にしながら慌しく残りの水槽を見て廻る。展望室から雄大な桜島をながめる。めずらしく煙を吐いていない穏やかな桜島は、好天にも恵まれて凄く近くに見えて美しい。久し振りに訪れた鹿児島は、新幹線開通に伴い随分表情を変えているように思えた。道路標識を気にしながら帰路についたが、高速の入り口が分りずらい。道路を横断させて入らせるというのは「まずいんじゃないかい」。500キロの車の運転にいささか疲れて10時前就寝。「じんべい鮫はどんな様子で眠るのだろう」と考えていたら、ことりと寝入ってしまった。
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八代通い・第三週目

2005-10-22 19:02:38 | 熊本
 今日の講座、福原透氏の「細川忠利と数寄-知られざるそのお庭焼き」には大感激をしてしまった。かって花岡興輝氏が熊本市史にわずか一行(その半分)、その存在を紹介された熊本城下にあったという牧崎窯について福原氏は着目され、あらゆる文献を調べられてその存在を確かなものとされている。その場所は加藤清正が眠る熊本・本妙寺のお膝元牧崎だという。「目利き」の三斎が激賞したというこの牧崎窯で作られた陶器は、将軍家にも献上されている。三斎もこれを求める為に忠利に書簡を贈り、そのやり取りは一日で熊本八代を往復している。氏の推論は、「細川家史料」や「日帳」などを読み解かれて素晴らしい成果となり、我々を納得させるに十分なお話だった。文書研究の醍醐味を見た思いがする。しかしながら「物」が残されていない。氏がおっしゃるように牧崎の地で、「陶器のかけら」が何時の日か発見されることを切に願うものだ。牧崎の地は、かつて私が約30年程住んだ地でも有り、驚きでもあるし嬉しい話でもある。
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ごえもん逃走

2005-10-19 12:23:37 | 徒然
 午前7時ころ愛犬「ごえもん」が逃走、約2時間半家族三人であちこち駆けずり廻り、朝飯抜きでややお腹もすいたころ、近くの交差点を青信号で悠々と渡っている「ごえもん」を妻が発見、捕捉・・・・当人(犬)はけろっとしているが、人間様は疲れてしまった。4・5年に一回、こういうことを仕出かして我々を驚かせる。もう17歳、耳は全然聞こえずやせ細ってきて心配している百歳犬だが、まだまだ健康。日課の昼寝と相成った。
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招かざる客

2005-10-16 20:49:02 | 徒然
 夕方のこと、わが家の庭先が騒がしい。凄い数の虫(?)が羽音を立てて飛び交っている。後で分ったことだが蜜蜂らしい。お隣の家の天井裏に巣を作っていたらしい。それを追い立てたところ、女王蜂が飛び出して大騒ぎになったようだ。その女王蜂がわが家の軒下に引っ越してきたらしく、蜜蜂の大群が直径40センチほどの大きな塊になっている。さしあたって害はないのだが、何とかしなければ成らない。こんなことは何処に頼べば良いのだろう。市役所?・・警察?・・保健所?
今晩はインターネットで蜜蜂の勉強と相成った。
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八代通い・第二週目

2005-10-15 20:39:04 | 熊本
 未来の森ミュージアムは、1階部分は人工的に造られたマウンドに埋められている。そのマウンドは芝が張られ緑が美しい。芝生の中の緩やかなアプローチを上り、二階にある正面玄関に立つと、松井家松濱軒を高い目線から見ることができる。今日は雨に打たれて周辺の佇まいが一段と美しい。アートポリスで建った熊本の名建築の中で、私が一番好きな建物で訪れるたびに感動する。建築家伊東豊雄に出会った八代市民を羨ましく思う。

 雨のせいであろうか、来場者が少ない。これ幸いとゆっくり時間を掛けて展観する。何度見ても素晴らしいの一語につきる。時間になると120~30の講演会席は満杯になった。今日の講演は、北九州市立いのちのたび博物館の永尾正剛氏による「豊前と細川家」。大変面白く参考になることが多く、こちらも大満足。「小倉城周辺の建物を取っ払うと、道筋は細川統治30年の小倉そのままですよ」とのこと。スライドの山口県文書館蔵の、慶長十七年の「小倉城図」が大変興味深かった。

 八代での展覧会は終了すると、11月18日からは北九州で再び開催されるという。あと3回見たら、北九州(小倉)に出かけるか。

【くまもとアートポリス】 
http://www.pref.kumamoto.jp/traffic/artpolis/index.html

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貴田玄蕃

2005-10-13 23:30:44 | 歴史
 知らなかった・・・・
加藤清正十六将の一人とされる貴田孫兵衛、その子権内は細川家家臣となって
いるが、「綿考輯録-巻21」は「権内は・・・貴田玄蕃弟なり」としている。

今日図書館で「大日本近世史料」を見ていたら、「貴田正勝--玄蕃、加藤清正
庶子、加藤家改易ののち攝津国尼崎にて青山幸成に召出さる、千五百石」とある。

ななななな・・・・んと、清正の庶子・・・・・。孫兵衛の養子になったというのか。
出典は「御家中由緒書」とある。読んでみたい・・・・。
ちなみに、加藤家侍帳には「玄蕃-九百九十七石六斗」とあった。
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「大名細川家-文と武の軌跡」展観

2005-10-09 08:58:29 | 熊本
 素晴らしい施設の、素晴らしい内容の展覧会を展観、すっかり満足した。
信長の自筆感状、光秀の援助を乞う書状、利休の手紙、田辺籠城図、唐物茶入「利休尻ふくら」、茶杓「ゆがみ」、その他諸々100点をこえる展示物の前で息を呑んだ。忠隆の自筆書状など、再び直接目にすることは出来ないだろう。
合わせて、山本博文教授の講演も有意義だった。あと4回の講演に合わせて八代通いをして、それぞれの展観品を目に焼き付けようと思う。満足・満足・・・・
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虫をもっと見る

2005-10-06 22:13:03 | 徒然
 九州国立博物館がそろそろオープン。ちょっとHPを覗いてみたが、まだ完全には出来上がっていない。収蔵品紹介があるので眺めてみると「針聞書」と言うものが紹介されている。「虫をもっと見る」をクリックすると・・・・笑っちゃいますねー。
すごいね、これ。永禄11年(1568)に書かれたとある。この時代にこんな絵を描くかい・・・すごいね、まいった。http://www.kyuhaku.com/pr/
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毎週土曜は八代へ

2005-10-06 09:36:57 | 熊本
 八代市立博物館「未来の森ミュージアム」では秋の企画「大名細川家・文と武の軌跡」展がはじまった。開館15周年記念の展覧会で大いに期待している。
同時に10月8日から毎週土曜日5回にわたって、「歴史講座」が開かれる。
初回講座の講師には、東大史料編纂所教授の山本博文氏の名前が挙がっている。これは是非聞きたいので、八代通いをしようと決心した。(仕事のついでに足を伸ばすのだけれど・・・)

 護貞様が亡くなられて、追悼展の感もあるが・・・必見。
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護貞さま

2005-10-04 20:55:34 | 徒然
 司馬遼太郎は、その著作「春燈雑記」の中で「護貞氏の話・肥後細川家のことども」という一文を著している。
  「護貞氏は軀幹まことに長大である。温容ではあるが、容貌の特徴は、刃で
   するどく切れを入れたような一皮の上瞼にあるといっていい」と書き
  「凄気があり、・・・どこか豊織期の人を思わせる」とも記している。

 第二次大戦末期「中大兄皇子」の故事になぞらえての、高松宮との「東條暗殺」の話などは、その「凄気」の故であろうか。それより少し前、昭和17年私は細川公爵家のお長屋(職員住宅?)で生を受けた。19年祖父母、父と相次いで亡くなり、一家を挙げて帰郷することになる。わが家に身の丈ニ寸五分の、小さな木彫の薬師如来像があるが、細川家から頂戴したものである。この時期だったのだろうか。護貞様が「師」と仰がれた狩野君山も、わが家の行く末を心配してくれた。昭和22年没、わが祖母の叔父である。わが心の細川家は、終戦をもって終わっている。





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某月某日

2005-10-02 21:36:27 | 徒然
 ある工事を前にして、関係業者が集まり親睦会(会費制)。
昔は当たり前のように飲んだものだが、最近は珍しい。コミュニケーションを良くするための潤滑油のようなもので悪くはない。すっかりいい気分になって、焼酎をロックで十四五杯飲んだ。(まだ捨てたもんじゃない)。明日は地鎮祭があるというので、アルコールを抜いておかなくてはと思い、しばし歩こうと考えた。三、四十分歩いて少々足も痛くなって車を拾おうと思うが、こんな時に限ってやって来ない。「ままよ、歩け」・・・・1時間45分歩いて帰宅。すっかりアルコールは、抜けてしまった。(まだまだ捨てたもんじゃない。)
もっとも、翌日の晩は、疲れがドッとでて九時就寝・・・・ご苦労さん・・・・
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