津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長十九年」を読む (1)

2023-04-24 06:59:28 | 史料

忠興文書-慶長十九年
 58、正月二日書状
  ・新春の挨拶、歳暮の祝儀の礼
  ・両御所様の御前残る所なし

 59、正月九日書状
  ・江戸での仕合残る所なし
  ・大御所(家康)は土気東金で鷹狩、廿日迄もご逗留その後還御か詳細知れ不申
  ・江戸城普請は予想外の大規模、諸大名の動静を推量す、筑前の黒田長政が上府せざれば忠利も在国すべし
  ・大久保忠隣、伴天連拂ひの為上洛
  ・本多佐州土州(秀忠代失脚)父子出頭、前に十倍す
  ・小笠原秀政(忠利岳父)父子、忠興を訪す、忠興も又訪す
  ・尚、御普請奉行永田重利・伊東政世山岡景長一段肝煎につき、便宜之時礼状やらるべく

 60、正月廿ニ日書状
  ・大御所様廿一日発足、駿府へ還御、途中熱海で湯治、詳細知れ不申
  ・大久保忠隣改易、子供たちは諸家にお預け、城請取安藤対馬(重信)
  ・此之儀何方へも被申間敷候事
  ・江戸城普請について、在国諸大名之出府は心次第、黒田長政ニ構わず(忠利)出府之用意すべし、世上の躰を見極めて江戸へ下るべし
  ・家康より鷹并鷹ノ鶴拝領
  ・普請の者到着次第(忠興)下國すべし

 61、二月二日書状
  ・大御所様、廿一日江戸発足、小田原廿四日御着・逗留、廿七日三嶋、廿九日駿府御着
  ・小田原城は破却
  ・大久保忠隣、「御勘当」必定の噂
  ・ 同上子息の沙汰実正知れず
  ・小田原城番、土井大炊・安藤対馬・青山伯耆・内藤若狭在城のこと
  ・秀忠小田原に赴き家康と参会す
  ・秀忠より御鷹の鴈拝領、昼時御城にて御廻花、忠興・有楽・金雲など御召
  ・忠興、暫く下国を見合す
  ・小笠原秀政一両日中信州へ下國、新地拝領の(慶の)遣能時分見合可遣候

 62、二月十四日書状
  ・本多正信と談合、忠利の出府を止む、
  ・蒲生秀行息女加藤肥後(忠廣)へ被遣候、祝言四月初之由、肥後下向あらば馳走すべし
  ・木下右衛門大夫へ此状もたせ可被越候

 63、二月十五日書状
  ・正月廿三日之書状到来、其方被越候儀無用
  ・上洛の折小笠原秀政入部之祝儀を申さん

 64、三月二日書状
  ・加藤肥後の祝言之儀、忠廣幼少・姫君御幼少に付御母(家康女・振姫)儀迷惑かりにて江戸にて祝言相定
  ・上記に付、忠利に出府ノ用意を命ず
  ・兄・冨田信高に連座の罪にて佐野修理の城破却仰出
  ・江戸城普請について、普請用ノ道ヲ造り土居ヲ修築ス
  
 65、三月五日書状
  ・早々に忠利の出府を望む、忠利出府次第暇を乞ふ(下國)予定

 66、三月廿二日書状
  ・江戸城普請ノ根石ヲ置クハ當月中旬ナルベシ

 67、四月廿四日書状
  ・廿一日駿府ニテ家康ニ謁見ス、加様之御機嫌見申たる事も無之由
  ・廿ニ日之晩、與安法印を以て、万病圓千粒その他拝領候
  ・廿三日駿府を発す
  ・其地(江戸)御普請之儀無油断肝要、長き御普請ニ付人のくつろき候やうにせらるへく候
  ・金子八十枚かり候て、金地院松首座に預く、割符を持たせる
  ・伊豆ヨリ取寄セシ土台用材のこと、今度ノ作事ハ請切
  ・定めにて上候御服に代りて銀子献上の事、伊丹康勝と諮る
  ・大車といふ珍しき草花、桑山左近大夫にもらう
  ・駿府にて加々爪忠澄肝煎す、忠利ゟ礼を可被申遣こと

 68、五月朔日書状
  ・忠興下國ノ途次京都吉田ニ著す、来四日出立候

 69、五月廿日書状
  ・江戸城普請ノ様子を報ズベシ
  ・京ニテ調ヘタル銀子小判ニ替へ江戸へ下ス
  ・伊達政宗ゟ贈ラレタル刀ノ鑑定ヲ本阿弥ニ以来ス
  ・将軍へノ進物、将軍ノ小袖ノ吉例
  ・忠興下國ノ途中ゟ病ム、存之外ニ相煩、以外草臥申候

 (5月20日、前田利家(細川忠隆・岳父)逝去)

 

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■街角の風景ーかあかあカラスの勘三郎

2023-04-23 07:39:48 | 先祖附

 最近健軍自衛隊の森の中にねぐらを持つと思われるカラスの勘三郎達が朝から大騒ぎしている。
我が家から西部方面総監部の敷地は、至近距離で400mほどの距離だから、一斉に飛び立つと我が家の周辺の空には数十羽の勘三郎が飛び交っている。
面白いのは皆が殆どと言っていいように一方方向を向いていることだ。
ワイドにしてみた写真には屋根の上やアンテナに10羽ほど、飛翔中が2羽ほどだが、こんなものではない。
そしてうるさい事半端ない。これが昼頃になるといなくなり、翌朝はまた騒ぎ立てるという繰り返しが三日ほど続いた。「何事ニ哉あらむ」である。

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■一日二食の歴史

2023-04-23 06:46:07 | 徒然

 知行を頂戴しないお侍は、いわゆる給料として御扶持米を頂戴する。一日五合×360日=1石8斗/年、俵に直して米5俵を支給することをいう。これは生活費である。
五人扶持だと9石4斗(俵25俵)という事になる。

江戸期は「朝御饌・夕御饌」という言葉が示すように、食事は朝夕二食であった。江戸で明暦の大火が有り、その復旧に大工その他の職人たちが大いに働き、二食では腹が持たぬようになり昼食が広まったとされる。
しかしながら、お侍の扶持米は一日五合は替りなしである。

 西洋でも三食になったのは、余り時期が変わらないというが日本とは違い朝食がなく昼と夜の二食だったという。
もっとも、日本に於いては三食が一勢に始まったわけではないらしく、どうしても労働が激しい大工だとか、侍でも役付きの或る程度裕福な階層から始まったらしい。

役付きではない御番方の侍や、その下層階級、また夜なべ仕事までこなす百姓なども三食になるのにはずいぶん時間を要した事だろう。

 御番方のお侍も、役付きになれば役職手当が付くから、御役次第では突然裕福になった気分となり、その御仁が役を罷免されると元の木阿弥で、又やりくりに四苦八苦することになる。
ある方から、そのお宅の実話としてお聞きしたことがあるが、役を罷免された後は、時折昼食を抜いたなどと云う話が言い伝えで残されていたそうだ。

 熊本に於いても長く、役人の務めは四時間勤務であったが、重賢公の宝暦の改革により、時の鐘の鳴らし方を変えて早起きを促し、終業の鐘をずらして八時間勤務にしたという話が残る。

時之鐘付候儀、殿様御工夫ニ而、七ッおつかせ被成候 朝之鐘を段々夜之内へくり 昼之四つを五つニつかせ被成候 八ッをのべ而七ッにおつかせ被成候 是ハ四ッゟ八ッ迄之勤方 二日之役を一日ニ相仕廻候様之御工夫と申候 夫故肥後国は諸奉公人百姓によらす 朝厳敷晩を詰申由」(熊本御城下の町人)

こうなると御役人は手弁当のお昼をもってお役所へ出勤という事になる。役方と言っても頭の役宅での執務であったのが奉行所が出来るに及んでは、厳しい勤務体制が順次完成していった。

 さて先の方のお話しによると、御番方は決められた日に御城へ出かけ「当分」の仕事を務めれば良く、時間を持て余すことになる。
しかし、役付きの人に比べると同じ家禄でも「役付き手当」がない分、やりくりは厳しく手内職をしたり、屋敷内に畑を作り畑仕事をすることになる。
また在に籠って開き地を開発したりすることになる。そんなご先祖様の苦労話をお聞きした。

「私も今は一日二食です。家内が食わしてくれません」と仰ったが、「実は糖尿病持ちで、肥満解消の為で・・・」という落ちが付いていた。



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■幕臣曽我家と細川家の縁

2023-04-22 13:23:49 | 人物

 細川家が懇意にしている徳川幕臣に曾我氏がある。なんでこんなにと思うくらいの近しいお付き合いがあった。
それを納得させられるような情報、
幽齋の奥方麝香(沼田氏)を通じて縁戚関係が在るという事を随分以前或る方からお教えいただいた。
忠興・忠利・光尚のそれぞれの時代に、尚祐・古祐・近祐からいろいろ指導を得ている。又、曾我兄弟の血族である。
以前にも取り上げたが、再度情報を整理してみた。

曾我尚祐
  ‖  又六郎、又左衛門。織田信雄・豊臣秀次に歴任。文禄四年細川幽齋の推挙により秀吉に謁し足利家の舊式を言上。
  ‖  400石。慶長五年徳川家康に召され1,000石。慶長六年秀忠に仕へ夜伽衆。寛永七年五月廿五日歿。
  ‖   尚忠興は尚祐女(丹波守・妹)を養女として松下民部少輔述久の嫡男・掃部助に嫁がせている。
曾我古祐
  ‖  曾我尚祐の子。喜太郎、又左衛門。慶長六年より秀忠に仕ふ。のち書院番、200。大坂役の後軍令違反により閉門、のち赦免。
  ‖  寛永三年相續(1,000石)。寛永八年二月十二日使番。九年四月八日目付。同年十一月廿七日布衣を許さる。
  ‖  十年十二月1,000加増。十一年七月廿九日大坂町奉行。閏七月朔日加増してすべて3,000石。十五年十二月従五位下丹波守。
  ‖  萬治元年三月十九日致仕、四月廿一日大坂に於て歿。年73
  ‖
曾我近祐
       又左衛門。権左衛門。古祐の子。寛永三年西丸小性組(200俵)。五年十一月六日(寛政重修譜には四年としているが誤)
       当番の夜、楢村孫九郎某と木造三郎左衛門某と争論して刃傷に及ぶ。近祐、倉橋忠尭と共に、暗中疵を負ふも楢村を組留む。
       この時、父古祐書院番にて他席にありしがその状を見て加勢す。依って、200加増せらる。八年520石。十年書院番(720石)。
       明暦元年先手弓の頭。万治元年大坂町奉行(2,020石余)同年六月相続(3,000石)寛文元年九月十三日歿。年57

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・         
            
      沼田光延---+---光兼----+---清延・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・➡沼田家
           |     |
           |     +---麝香
           |        ‖-----忠興-----忠利-----光尚・・・・・・・・・・・・・・➡細川家
           |    藤孝(幽齋)
           |
           +---光宗------●   
                  ‖-----尚祐-----古祐-----近祐・・・・・・・・・・・・・・・・・・➡旗本・曽我家
                曽我助乗  

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■さなきだに・・・

2023-04-22 09:52:16 | 徒然

 ある本を読んでいたら「さなきだに」という言葉が出てきた。前後の言葉から類推してもその意味がよく判らない。
つまるところWEBのお世話になり「然なきだに=そうでなくてさえ」という意味であることを知った。
恥ずかしながら初めて知る言葉である。古語辞典から引用して解説されているから、現代では使われない言葉なのだろうが、読んだ本は熊本で出版されておりその時期は昭和27年とあるから、このころまでは普通に使われていたのであろう。
ふと「然にあらず」という言葉がうかび、何故ここに繋がらなかったかと我が頭の回路がさびているなあと実感した事である。
それにしても、使うことはないなあと思いながら、赤ペンで日記に書き込んでおいた。   

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■街角の風景ー健軍川に鯉のぼりが泳ぐ

2023-04-21 12:41:23 | 徒然

      

 いつもの朝散歩、ここ数日違うルートを歩いて来たので、この風景に驚いてしまった。
健軍川は日ごろは水無川、処が数日前雨が降って御覧の通り小さな流れが出来ている。
そんな川面に鯉のぼりが写っていた。
今では全国で川に鯉のぼりを飾るようになったが、発生は阿蘇と大分の県境の杖立温泉が走りではなかろうか。
今では1000疋程が泳いでいるらしいが、こちらは8疋とかわいらしい。
実は左手に古物を扱うお店がある(右写真)。こちらの方がワイヤーロープを渡して鯉のぼりを吊るされたのだろう。
この川の両側の道は、小学校・中学校の生徒さんの通学路でもあるから、話題になっていることだろう。
ほっこりさせられる、我が町の街角風景である。

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■隆達節と共産党さん

2023-04-21 06:58:45 | 先祖附

 現在慶長期の出来事を年表風にまとめている中、ただ一度幽齋公が豊前を訪ねている事を書き忘れていることに気付いた。
その時薩摩の島津義久が訪れていて、義久が一重切りの名人だという事で隆達節を家臣にうたわせ披露させている。
「然らば所望にまかすべしといって、召しつれた家老・島津下野に、りゅうたつ節という小唄を謡わせ、一重切を吹かれた」と護貞さま著の「細川幽齋」に記されている。

そんなことを考える中、以前web上で見つけた「君が代」に関する一文をブックマークしていることを思い出して開いてみた。
「君が代」ルーツは堺の寺院に?顕本寺の僧創作の隆達節というものだが、何故か発信元は JCP OSAKA 日本共産党大阪委員会となっている。
何故、共産党が取り上げているかだが、ここにある通り君が代の歌詞はこの隆達節から来ているとされる。
これは御説の通りである。「隆達節歌謡全集・本文」というサイトがあるが、ここでは膨大な隆達節の歌詞が紹介されている中に「135」にその歌詞が登場する。
隆達節とは、文禄慶長期から元禄の頃まで大いに流行したようだが、大坂堺の顕本寺の僧・隆達が創始したものだとされる。
歌詞が大変洒脱で大いに流行していたことだろうと思われるが、幽齋が豊前を訪ねた慶長六年という時期と合致する。
これを義久が一重切を吹き、薩摩の家臣が隆達節を披露したというから、その程が伺える。誰かが併せて歌ったかもしれず席は大いににぎわったであろう。
顕本寺は薩摩藩との関係が深く「薩摩寺」とも呼ばれ、隆達節は薩摩武士によって花街などに流布広がったのであろう。
少々話がずれたが、君が代の歌詞を隆達が書いたと言われる屏風がボストン美術館にあることが判り、返却を求めたが断られ、現在は複製が顕本寺に存在するという。
君が代の歌詞は、薩摩藩の大山巌がこの隆達節の「135」を推薦したという事になる。
共産党さんの主張は、色街で酒の席で詠われていたものを、厳粛な国家として使うのは筋違いだというのだろう。
521にも及ぶ歌詞をみていると、これなら流行したはずだと思わずにはいられない。
但し、メロディー(?)は失われたと聞くがこれは誠に残念である。鶴崎の御舟歌も同様で残念の極みである。

  参考:「君が代」生誕の地を訪ねて

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■御恵贈御礼「大日本近世史料 細川家史料 二十八」

2023-04-20 11:36:09 | 書籍・読書

                                                         

 東京大学史料編纂所(財務・研究支援チーム)様から、頭書の書籍を御恵贈給わった。誠に有難く、伏して御礼を申し上げる。
地方の、それも一介の市井の歴史好きにすぎない老人にとっては、これに過ぎる名誉はない。
今回の内容は、細川光尚公の公儀御案文(6月15日~9月26日)の533件の書簡が掲載されている。楽しみに拝見させていただく。

すでに、ご恵贈給わった同資料は「24巻」以降これで5冊目となり望外の喜びで、只々感謝申し上げる次第である。

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長十六年~十八年」を読む

2023-04-20 07:01:12 | 先祖附

忠興文書-慶長十六年
 (二月小倉に幽齋君御墓所建立、瑞雲山泰勝院と被号候)
 (忠興文書-慶長十年 40、三月三日書状」内容以下のこの書状については綿考輯録では慶長十六年のこととしている・・忠興公‐上、p455)
  ・三日兵庫に到着、明日大阪に着、五日秀頼に謁見の予定、六日に出発して吉田(京都)へ)

 45、三月十六日書状
  ・忠利の徒士を本多正純の使いの如くして書状を届けられたい
  ・未だ上洛せざる衆への書状は留守居に預け受取と取る事

 (三月十七日、家康公御入洛、忠興君此比御所労ニ付、忠利君御迎として伏見辺迄御出候・・以下四月十八日書状へ)
 (三月廿七日御譲位、秀頼公御上洛家康公御対面、加藤清正・浅野幸長御供)
 (四月十二日、後水尾院御退位)
 (四月十八日、家康京都御發駕、万病圓を拝領す)

 46、四月十八日書状
  ・秀忠より本多正純をもって「万病圓」を拝領する、夜分であったため御礼を申し上げていない
   山科で正純に遭ったら御礼申し上げてほしい
  ・蜂須賀至鎮(忠利相婿)はいつ来訪されるか時刻を知りたい
 47、 同日  書状
  ・蜂須賀至鎮の御捻拝見、四つ過ぎに御出候様

 48、(四月)廿一日書状
  ・忠興建仁寺に在り、平野長泰・谷衛友に帰国の暇乞い
 
 (五月忠興下國、忠利これに先立ち下國)
 (六月廿四日、加藤清正死去)

 49、七月四日書状
  ・鮎一籠・高麗胡桃一折到来の礼

 50、九月廿日書状
  ・忠興、蜂須賀至鎮より贈与の鷂三つを忠利に預ける 生育を依頼す

 51、十二月六日書状
  ・忠利目を患う
  ・鴨のしろ川狩りの事
  ・十月八日、藤堂高虎が幕命により(加藤清正死去後の)肥後へ下り途中小倉へ立ち寄る

 (この年、長岡主膳信友(織田信雄二男・薮内匠聟・竜王城主・後高長と改名、従四位下侍従)御家を被立退
 (この年、幽齋室光壽院證人として江戸へ御出、長岡右馬介重政は豊前へ帰国)
 
 52、(慶長十六年頃ヵ)十二月七日書状
  ・注文の寝具が到来した、礼状

忠興書状‐慶長十七年

 (正月廿三日、松井康之於小倉卒、63歳)
 53、九月廿五日書状
  ・見舞いに雲雀200到来の礼
  ・一両日中に下國予定(京都在?)

忠興書状‐慶長十八年

 54、(慶長十八年頃ヵ)四月廿四日書状
  ・大学(?)ニ遣候脇差三、一・親父、ニ・惣領、三・舎弟に配分
  ・同上二番目の子息にもわきざし可然候
  ・同上鵜殿氏長の指図次第のこと
  ・土井利勝忠興の為に懇ろのことを満足す

 55、(慶長十八年頃ヵ)五月五日書状
  ・忠利のため伊藤金左衛門上る
  ・巣鷹を所望す
  ・良馬を買いたい、金は鵜殿氏長より借用すべし

  (六月十八日、忠興叔父、大徳寺僧・玉甫紹琮遷化68歳)

 56、十一月六日書状
  ・石川康長の改易は是非もない、小笠原秀政の移封大変結構なること
  ・津田秀政の折紙請取候

 57、十一月廿三日書状
  ・故松井康之代官所豊後速水郡の幕府領の三洋については本多正純と談合済のこと
  ・わなで取り候鶴拝領、見事で一入満足
  ・忠興来廿八日江戸参勤出発のため出船
  ・青鷺取りの隼を送る

  (十二月、耶蘇宗門堅禁止之旨被仰出)

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■洗馬川(坪井川)沿いを電車が走る

2023-04-20 06:59:44 | 古写真

         

 初めて見た風景写真である。こんな時代があったのだ、
熊本市電の草創期、大正11年に計画され大正13年8月1日、幹線(熊本駅前~浄行寺町4.7km)と、途中の水道町から水前寺線(水道町~水前寺2.2km)の二系統が開通した。
その当時、幹線の電車はこの写真の様に坪井川(洗馬川)沿いを通っていたのだ。
   (熊本市交通局のフォトサイトには反対側から撮影した写真が紹介されていた 坪井川長塀通りを走る市電

又、資料 市電の現状と課題等について‐熊本市 というPowerPoint資料があるが、ここに紹介されている大正13年開業当時のルート図は明らかに間違っている。(今と同じ)
私が所蔵する昭和4年当時の地図を見ると、坪井川沿いを走る開業時のルートはなくなり市電は現在のルートに替っている。
何故変えたのか?いつ変わったのか、熊本市交通局のサイトを眺めているが、なかなかはっきりした時期が見いだせない。
わずか数年間の間の貴重な写真であることが判る。
左下の敷地がかっての御厩があった場所、監獄になり昭和期になると熊本市役所のモダンな庁舎と大きな遠景の入り口が特徴的な逓信局庁舎が左右に並んで建てられた。
左側の森はかっての花畑邸、かっては鎮台があった処だ。写真のこの時期、この場所は何に使われていたのだろう?
「く」の字状態の線路は直進し、川沿いは今ではご存知のプロムナードになり、散策の人たちでにぎわっている。

開業時のルート図を知りたい。そしてこのままの状態であった方が良かったのではないかと考えたりしている。

    追記:4月20日13:32  次の記事を見つけ出しました。ただしルート図が見つかりません。
          ●
1923年大正12年)12月15日 - 熊本市役所(二代目)落成(白川公園前から手取本町に移転)
          ●1928年(昭和3年)3月3日 花畑町 - 市役所前間路線変更
          ●「熊本逓信局」の局舎(1928(昭和3)年完成)
    追記:4月23日7:32
            ついにルート図発見 第一期線の工事開始

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■女優・鈴木京香氏建築文化賞受賞

2023-04-19 09:05:46 | 建築

    ヴィラクウクウ2.jpg 

 女優の鈴木京香氏が、「建築学会文化賞」受賞されたというニュースが報じられている。
あのヤギ髭をたくわえた有名な建築家・吉坂隆正氏設計の作品・東京都渋谷区にコンクリート造の小住宅「ヴィラ・クゥクゥ」が1957年に完成した。
この建物が解体の危機にあったらしいが、これを鈴木氏が購入されて改修をされ、名建築の保存に寄与されたことに対する評価であろう。
以前触れたように思うが、氏のパートナーは俳優の長谷川博己氏(麒麟がくる・主演俳優)なのだが、その父が著名な建築評論家・長谷川堯氏である。■建築史家・長谷川堯氏死去
そのような関係で、鈴木氏は建築に関する興味が非常に強かったとお聞きした。
有名建築が日本のあちこちで消えつつある。建築学会においても大いなるジレンマと無力感を感じて居られるのだろう。
建築設計の世界に身を置いた者として、鈴木氏の行為を大いに称えたい。

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■ご子孫の情報が伺えぬ「永田氏」

2023-04-19 08:17:48 | オークション

 現在永田氏に関する宛行状五点が、バラバラにしてオークションに出品されている。
これ等宛行状の主で、名前が確認できるのはおニ人なのだが、どうやら一族であるのは間違いないようだ。
    ○ 永田三郎右衛門  江戸江相詰衆 百石 (於豊前小倉御侍帳)
               十二番牧平左衛門組 百五十石 (真源院様御代御侍名附)
               百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)
               十二番津田治左衛門組 五人扶持弐拾石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    ○ 永田左平次  御中小姓 (肥後御入国宿割帳)
絶家したのか、もしくは離国されたのか「細川家家臣略系譜」に名前が見えない。つまり先祖附が残っていない。
そういう意味でもこの宛行状は興味深く貴重である。

 

 永田三郎兵衛尉殿宛 細川忠興宛行状

        同上

         永田左平次宛 細川忠利宛行状

 永田三郎右衛門宛 細川忠利宛行状

             同上    細川光貞宛行状

 

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■鳩野宗巴の西南の役観察‐外叔の死を想う

2023-04-19 06:53:36 | 先祖附

             

 鳩野宗巴の生母の弟・八木明義死去の報に接しての漢詩である。

                外叔八木明義高瀬に戦死せしを哭す                      

          平成世に臨み気は□雄
        豈に計らんや今朝の事
        すでに空し高瀬川の砂
        明るきこと玉に似たり
        中でも差がうのは一死其の身の潔さ

さて□部の文字だが「職」であろうと思われるが、意味が通じないように思える。ひょっとしたら「誠」か?しがし「言偏」とも思えず、編者も□表示されたようだ。

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長十年・十二年・十五年」を読む

2023-04-18 08:28:45 | 史料

 忠興文書の慶長十年から十五年にかけての文書はいたって少ない。5点が取り上げられている。
 尚、綿考輯録から主だった記事を補填させる。
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忠興文書-慶長十年
 40、三月三日書状  (この書状については綿考輯録では慶長十六年のこととしている)忠興公‐上、p455)
  ・三日兵庫に到着、明日大阪に着、五日秀頼に謁見の予定、六日に出発して吉田(京都)へ

 41、三月十五日書状
  ・病のため江戸参勤は御免となり差延べとなった

 (三月、与五郎興秋主を証人として江戸江被遣、忠利君の代りと被成候処、途より御出奔ニ付、長岡平左衛門重政を以
  証人と被成候)(興秋、京都建仁寺の塔中十如院ニ着、御剃髪)
 (四月、家康将軍職御辞退、六日秀忠公将軍宣下、同廿六日為拝賀御参内、忠興上洛)ー綿考輯録・忠興公‐上巻p433
慶長十一年
 (江戸城石垣普請御手伝 忠利在江戸にて諸事被仰付)
 (二月中旬、忠興大徳寺希首座を子細有りて御手討被成候)
 (七月廿七日、飯河豊前・其子長岡肥後を御誅伐被成候)ー綿考輯録・忠興公‐上巻p435~

忠興文書-慶長十二年
 42、三月廿日書状(もしくは十五年)
  ・近日下国の予定

 (慶長十二年十一月朔日、兵部卿妙庵幸隆主、豊前竜王城にて御卒去、37歳)
 (十二月十四日、(有吉)武蔵守立行備後国ニて病死、50歳)
 (今年、長岡監物興季故有て豊前を出て京ニ奔る、22歳)
慶長十三年
 (正月、有吉四郎右衛門康以父武蔵守遺跡無相違、諸格式共ニ先代之通被仰付、長岡并御名乗の字拝領、長岡内膳正興長
  と改直ニ高田在城仕候)
 (今年駿府の城御修営、諸将と共ニ忠興君も駿府に至りて御勤被成候ー沢村大学も相詰皆朱の鑓を持たす)
 (今年忠利君御縁組之儀両御所様被仰出、忠興君御満悦ニ而御礼被仰上候)(四月下旬忠利君御婚礼御整被成候)

忠興書状‐慶長十五年
 43、閏二月廿三日書状
  ・名古屋城普請はになるだろう
  ・石の調達とその数の確認

 44、(慶長十五年ヵ)四月廿三日書状
  ・七月二所の祝儀
  ・忠利の帰国を待つ

  (八月、幽齋君於京都御大病之告有之候間、昼夜御急御上、廿二日御入洛被成候へとも、幽齋君ハ廿日御逝去・・・
   御遺言にまかせ荼毘して、御遺骨を南禅寺天授庵と豊前小倉ニ御わかち被成候・・・九月十三日小倉下着、十八日御葬送の御規式有)

     

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■大凡荘主人・柴垣隆と周辺の人々

2023-04-18 07:54:12 | 人物

                 

 昨日図書館で570頁という大部「大凡荘夜話」の「目次」16頁をコピーした。
大部というのは過去に発刊された「天の巻」「地の巻」「乾の巻」「坤の巻」「龍虎の巻」「無窮の巻」が合本にまとめられたが故である。
巻頭を飾るのは、堅山南風の口絵「筆者像」である。武者小路実篤岸信介安岡正篤尾崎四郎などの序文が並ぶ。
それぞれの巻にも序文があり、このほかには保田与重郎牛原虚彦小宮悦造池松文雄小坂順造などの名前が見えその交流の広さが感じられる。
改めて著者(口述筆記・佐喜本陽太郎)柴垣隆なる人物が何者なのだろうかの感を強くする。
全く偶然だが、過去に大凡荘に関してこのブログで取り上げたものの中に、あの棟方志功昭和廿玖(29)年四月十八日の日付で、「不動明王□板畫像」の制作方の依頼文もしくは御礼の書簡(下写真)を取り上げたことがあった。
この本の巻頭を飾っている堅山南風にしろ、この棟方志功にしろ、大いにこの柴垣隆の力を頼っていることが伺える。
棟方は保田与重郎を頼っていたようだ。

               本文数ページ省略 

 

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