津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

小笠原家文書目録

2007-06-30 11:56:36 | 歴史
 熊本県立図書館が所蔵する、小笠原備前家(小笠原少齋家)の文書目録(過日コピーしたもの)を読んでいる。史料分類項目は、
  1、知行
  2、勤務関係
  3、小笠原家の家経
  4、小笠原家の家系
  5、書状
  6、小笠原家家臣
  7、武芸故実
  8、武術目録
  9、軍事書
  10、その他
  11、肖像画、絵図  など310点に及んでいる。
残念ながらガラシャ夫人に関するものは見受けられない。私が興味を持っているのは、家臣の先祖附である。弘化四年~慶應三年の「小笠原家家臣帳」ほか、宝暦十一年十一月編の「先祖附并私御奉公附」、寛政四年編「御奉公之覚」など25点である。又、小笠原長頭・長洪の肖像画や、小牧合戦之図・岐阜合戦之図など興味深いものが沢山ある。果たして公開可能かどうかが問題であるが、しばらくはここらに時間を費やしそうな気配である。
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鈴木喬先生のお仕事

2007-06-29 10:31:50 | 書籍・読書
 6月24日の地元熊本日々新聞は、郷土史家鈴木喬先生が、故岡山県知事長野士郎氏(6期24年在任)のご先祖探しに係わられ、見事筑前国規矩郡の大豪族長野氏の末であることを突き止められたことを、氏のレポートとして報じている。長野氏は秀吉により加藤清正の与力を命ぜられて肥後に入り五千石、清正の死後は大阪城に入り討死にをしたという。
(時習館本・加藤家侍帳に一千石・長野吉兵衛とある)
 先生は1920年のお生まれだから87歳になられる。いまだ地名研究会会長、その他の要職を務められながら、相も変らぬ研究三昧のご様子である。私の玄祖父「上田久兵衛」については、ご父君の跡を継がれての真摯なご研究の結果、新たな事実を発掘していただき感謝に堪えない。鈴木家は大垣のご出身であるという。ご父君が熊本にこられてからの熊本人であるが父祖の地をお忘れではない。昨年7月には「大垣藩戸田家の見聞書・二百年間集積資料、御家耳袋」を刊行しておられる。鈴木家家蔵史料の公開第一弾である。と云うことは続きがあると言うことだが、大いに期待したい。(尚2002年2月には、戸田家過去帳御家譜・鈴木杢允家史料が刊行されている)なにせご高齢ご自愛いただきたいと節に願うのみである。「上田久兵衛」の直系子孫、スウェーデン在住の、ヤコブセン上田香さんが帰郷されたおり、お目にかかってからご無沙汰申し上げているが、暑中お見舞いを申し上げようと思っている。
http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN4-87294-052-0.htm
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熊本市島崎地区周辺

2007-06-27 21:48:08 | 熊本
 「在宅願頭書」の侍帳への転記を完了した。詳細は先に書いたので此処では省略する。島崎地区は熊本城から西北の方向、距離にして1~2キロの所だが、ここに在宅願いを出している人がかなりある。高禄の人が多いようで、別宅という感じ、ご隠居や病気の父母の為と言うような、本来の「在宅制度」とは些か趣を異にしているような気がする。續弾右衛門が綱利から拝領した御茶屋跡「釣耕園」、藩の医学校再春館師役の村井家(朴見・椿寿)の別荘・叢桂園などもその名残だろう。隈本城主城親賢の岳林寺、加藤清正の本妙寺、細川家藩主の菩提寺妙解寺、細川内膳家下屋敷や菩提寺などが周辺に点在する。ところで釣耕園の「續氏」もともとは中村氏。京都の村雲と云う処に謀反人が籠城したので攻め懸けるが、落ちないので中村安芸守(續亀助親)に退治の下命があり即刻上洛してこれを見事退治。「是にツツク者是ナシ」とて「續」の家名を賜ったと先祖書は記している。石田治部少輔家臣、関が原での戦い振りを三齋公がめでられて慶長五年於丹後召し出しの家である。ご子孫は精神科医、250床ほどの病院を経営されておられる。
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哀悼の日

2007-06-26 23:47:47 | 徒然
 子飼橋という橋がある。54年前の今日、数日続いた未曾有の大雨はものすごい濁流となり、沢山の流木を運びその橋げたに留まってダムを作った。水の勢いはその橋の左岸部を、数百メートル大きくえぐり取った。そこだけで200名くらいの方が家諸共に流されて亡くなった。その中に多くの同窓が含まれていた。
 昨日所用で出かけた折、二つ下流の橋(大甲橋)でしばし合掌、無念の方々に哀悼の気持ちを捧げた。6月26日は私が命を拾った日でもある。
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カテゴリーは歴史・・否

2007-06-25 12:48:28 | 徒然
 54年前のことである。数日間続いた雨は、上流部の阿蘇方面の水を集めて激流と化し、熊本市を貫流する白川をかけ下った。昭和28年6月26日の熊本大水害である。夕刻鴨居まで浸水した家を脱出して命を拾った。終戦からわずか7年余の事である。男手のない我が家では、小学校六年生ながら泥を掻きだしたり、畳や家具や布団や着物や・・・外に出したり、家に引っかかった大量の流木を処分したり・・・よくやったなーとしみじみ回顧するのである。毎年この時期を迎えると、昨日の事のように思い出される悪夢、50数年経っても単なる歴史のワンシーンとはいかない。通っていた小学校の同窓27名が亡くなった。いささかも気持ちは癒されていない。
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二つの文書

2007-06-24 14:24:57 | 歴史
 図書館へ出かけようと思ったが、ちょっと躊躇してしまうようなすごい雨、熊本は梅雨真っ只中といった感じで、結局取りやめる事と相成った。
 お目当ては田中左兵衛氏久の「諫言之覚」と、「吉村文右衛門上書」の二つ。前者は松井興長同様の藩主綱利に対しての封事だが、寛文六年綱利二十五歳の頃のものである。肥後文献解題は、綱利「豪放の行多いので」と解説する。また悪友から、「綱利のあら捜しかい?」と言われそうだが、そのような事は全然考えてはいない(のだが・・・)
 後者の吉村文右衛門の上書は、非業の死を遂げた宗孝の時代のものである。よく研究者の引き合いに出されるものだが、小ざかしい小吏の馬鹿な発言が紹介されている貴重な文書である。すなわち「如何程下方迷惑ニ及候共、太守様御為ニさへよく御座候得ハ、支ハ御座無候、よく思候得、太守様大切ニ御座候哉、下方大切ニ御座候哉」と言い「太守様にはかえられない(領民は切り捨てよ)」と言っているのである。文右衛門はこの小吏を「聚斂の臣」だと切り捨てて、沢山の領民が死に直面している様が「御為」かと訴えるのである。文右衛門も又百石取りの小吏だが、この勇気ある上書は宝暦の改革への導火線となったのかもしれない。ぜひとも全文を読んでみようと思っている。

 「聚斂の臣=重税を取り立て人民を苦しめる臣」
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HEMMIの計算尺

2007-06-23 09:31:39 | 徒然
 机の周りの環境を、些かでも改善せねばと掃除に取り掛かってみる。何が入っているのか検討もつかぬ紙箱がいくつかあって、「明けてびっくり玉手箱」状態だ。古い年賀状の束であったり、万年筆や全く遣わなくなった製図道具や、古い新聞の切り抜き、平凡とか明星とかの付録だろうと思われる楽譜つきの歌詞本等々である。そんな中にHEMMIの計算尺があった。設計や積算に関わってきた私には、計算尺はきっても切れない存在であった。精度は三桁くらいのものだが、乗除の計算はこれでやった。位取りを頭で計算しながらカーソルを動かして答えを導く。加減計算はソロバンでと相成る。手回し計算機が登場し、真空管式の計算機、そしてカシオ、現在の計算機へと替わりに変わった。かすかにきしむカーソルを動かすと、35~40年前の事が走馬灯のように思い出される。きれいに掃除をしてまた箱に収めた。

 HEMMIの創業者は熊本出身の大塚氏、清酒月桂冠の大倉家に入り後逸見(へんみ)氏と共にこの計算尺を作り上げている。今は需要も無いのだろう製造を止められて、全くの異業種へ転進しておられる。
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再放送もあろうかとユーミン

2007-06-22 23:21:22 | 徒然
 毎週金曜日はNHK教育での「美の壺」が楽しみで、今日は「土壁」建築設計を生業とする私としては、先週予告があったときから首を長くしていたのだが・・・。ニュースを見終わってチャンネルを切り替えるのを忘れていると、ユーミンの声が聞える。そのまま十数分「あっ」と思った時「土壁」は既に遅し・・・
「ちくしょう」と思いながらもチャンネルを戻して再ユーミン。仲間達とセッションを楽しむ若々しいユーミンの歌声に、「土壁」は再放送と言う事もあるだろうと、自分自身を慰める。「卒業写真」を一緒に口ずさむ頃にはユーミン100%と成っていた。
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藩校サミットin鶴岡

2007-06-21 13:50:31 | 徒然
 全国藩校サミットが22.23の両日鶴岡で開催される。早いもので第六回だそうな。鶴岡と言えば、加藤清正の子忠広が改易となり、領国肥後を召し上げられ配流となり亡くなった地でもある。鶴岡市本住寺に生母正応院と共に眠っている。そんな事もあって熊本からも多数の方が出席されるようだが、熊本城築城400年記念事業として、次回の藩校サミットを熊本に誘致しようという動きもあってのことであろう。
 湯島聖堂(東京)→会津藩・日新館(福島)→多久藩・東原庠舎(佐賀)→高梁藩・有終館(岡山)→高遠藩・進徳館(長野)、そして今回が鶴岡藩・致道館と引き継がれてきた。我が肥後藩にも、細川重賢創立の天下に名高い「時習館」がある。来年は、ここ熊本の地に全国から沢山の方をお迎えして、ぜひ「第七回全国藩校サミット」が開催されることを願ってやまない。朗報がもたらされることを祈っている。わが「熊本史談会」のメンバー数人も出席のために足を運ばれる。本住寺に香華を手向けられることは勿論の事であるし、藤沢周平氏の著作の世界を堪能してこられることだろう。
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藩の専売事業

2007-06-20 08:54:41 | 歴史
 元熊大教授森田誠一氏の執筆による「名君賢宰による宝暦の改革」の最後尾部分に、「宝暦の改革がもたらした不幸な賜物」とある。それは横井小楠らの排斥につながり、肥後の維新の遅れに繋がっていると仰りたいらしい。
 熊本城に「櫨方(はぜかた)門」という場所があるが、藩の専売事業櫨蝋の管理をした役所「櫨方」が有った所である。そして「養蚕」も又専売事業である。森田先生は「藩の専売事業」→「民業圧迫」→「大地主層の分出の抑制」→「商人資本のマニファクチャー化の抑制」→「絶対主義的傾斜の抑圧=横井小楠の排斥」→「熊本の明治維新の遅れ」になったとする。些かこじつけがましく、受け入れ難い話ではある。氏の詳しい資料に接したいと思っている。
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新知・旧知のこと

2007-06-19 18:52:41 | 歴史
 「肥後・御家中新旧御知行高」なる侍帳は、天保四年のものだとされている。上段が旧知、下段が新知と二段に別けて、家禄の高いものから列記されている。ちょっと苦労したが数えてみると、旧知600人、新知681人(内擬作100石の者216人)合計1,281人が記載されている。旧知の家筋とは「藤孝君、忠興君、忠利君、光尚君御四代之内慶安二年己丑年以前被下候知行」を「旧知ト唱」と定義付けされている。綱利家督以降の知行を新知としている。旧知の家はさすがに錚々たるお歴々の名前が並んでいる。「世減之規矩」はその旧知の家筋は対象外としているが、改革の途上に於いては守旧のお歴々はそうしておかざるを得ない政治情勢があったのだろう。「宝暦四年此ヨリ減候知行・60,094石程、同28,770石程、右同蔵米擬作取・30,610石程」とある。減知約12万石、重賢改革の第一歩である。
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gisaku100考

2007-06-18 17:10:57 | 歴史
 いろいろご連絡をいただくために、サイトに公開している私のメールアドレスは、現在受信はできるが送信が出来ないと言う、なんとも不思議な現象に困り果てている。その為返信は別のアドレスから行っているが、それが「gisaku100@yahoo.co.jp」である。さてこの「gisaku100」は「擬作百石」をもじったものだが、擬作すなわち「あてがい扶持百石」の意である。これなら絶対忘れる事は無いと言う訳である。
 細川重賢による宝暦の改革は、膨大な借金返済という大命題からスタートしている。これは中家士の家柄である、堀平太左衛門を大奉行に抜擢する事でなしえた事である。だからこそ旧体制との色々な軋轢が起った。その中に「世減之規矩」という家禄の引き下げという事がある。当家は豊前で三齋公に召し出されたが、八代にお供し病気勝ちであったらしく、三齋公死去の後は新知の扱いを受けた。(理由がよく分からない)新知百石の家は「世減之規矩」により「擬作百石」へと格下げになるのである。知行地が無くなり蔵米支給となる訳だ。
  慶安三年以降新知の家(旧知の家は対象外)
     5,500石~4,500石  500石減
     4,400石~3,400石  400石減
     3,300石~2,200石  300石減
     2,200石~1,200石  200石減
     1,100石~ 600石  100石減
      500石~ 150石   50石減
      100石新知       御擬作 という風に各家の家禄が減らされた。

 度支彙函によると、この措置後蔵納は減っているが、逆に給知が増えていて・・・よく分からん。
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続・コピー製本版侍帳

2007-06-17 08:34:33 | 徒然
 悪友の「コピー製本版侍帳」の事を書いたら、「いらん事を書くな」と本人から電話・・・。ちょっと気に成る事もあって少々長電話。

○「いったい何ページくらいになった?」
●「数えた事ないから分からん、1000ページ位じゃないか」
○「そうだろうなー、散財かけたなー」
●「そうだよ、俺も物好きだよなー」
○「コピー製本でも結構金かかるなー」
●「俺ん処のコピー機は一枚四円だから四・五千円って処だな」
○「そうか、そんなにかかるか・・・」
●「何だお前、本にするつもりか?」
○「そうじゃないけど・・・」
●「止めとけ・・・それに誰もこんなもん買わねーよ」
○「いや売ろうなんて思っちゃいないよ」
●「どっちにしろ今のままじゃ駄目だな、文字やら、レイアウトやら」
○「・・・・・・・・」
●「文字を小さくするだけで、100ページ位は少なくなるだろうけど」
○「・・・・・・・・」
●「止めとけ、止めとけ」
○「うん・・・・」
●「それよりお前、興長(松井)の諫言(綱利に対する)載せないのか」
○「うん、やる気が無いなー」
●「何故だよ、やれよ、待つとるけんね」
○「・・・・・・」

 「明日は娘が孫つれて遊びに来っとたい」と、嬉しそうな友の声。
 今日は父の日、口の悪い悪友もかわいい孫は例外のようだ。
 それにしても、コピー製本版「侍帳」が気になって仕方が無い。
  
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整理整頓

2007-06-15 22:56:57 | 徒然
 資料の山から探しているそれらしいコピーの束を引っ張り出そうとしたら、山崩れ状態。「こりゃー整理せにゃーいかん」と思い立ち、床に座り込んでの作業と相成った。一つ一つ目を通していると、久しぶりに見る資料を熟読したりして、一向に前に進まない。「こりゃーいかん」と思い直して、一つ一つファイルに閉じこんでみる。分厚い数冊のファイルが完成、背文字を入れて棚に並べてみると「ウン、なかなかすっきりした」。侍帳にデーターを打ち込むために、そんな資料をキーボードの横に置くと、知らぬ間に二三冊重なって又資料の山・・・明日は机の周りの空間確保の拡張工事をしなければ成らない。午前中は史談会の例会に出て、ちょっと美術館をのぞいて、ついでに生業の雑事をかたずけて・・・うん、今日は無理だな、日曜日にしよう。
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愛読書は辞書

2007-06-14 19:35:25 | 歴史
 私の記憶に間違いなければ、作家藤本義一の愛読書は「国語辞典」である。(だと思う・・・違うか?) そんな話を聞いた時「成る程なー」と感心したものだ。作家高田宏氏は中学生の時古本屋で大槻文彦の「言海」を手に入れられたと言う。四十歳を過ぎた頃、椎間板ヘルニアに罹られ、自宅での牽引治療の時間つぶしにその「言海」完読にチャレンジされたそうだ。一日数ページ一言一句を読み、千百余ページを一年余りで読み終えたと言う。そして一年ばかり後、大槻文彦伝の「言葉の海へ」を上梓された。この作品で大佛次郎賞・亀井勝一郎賞を受賞された。言語学者の大変な努力を知ることが出来た佳作だった。
 私は今毎日のように寝床の中で、一生懸命「くずし字解読辞典」を読んでいる。もちろん史料を読むためにだ。あの複雑なそしてよく似た形の文字が沢山あり、単に形を覚えるだけでは行き詰まる。それこそ一文字ずつにらみつけているが、進歩が無い。そこで書道と相成った。悪筆の文書にあきれる事しばしばだが、自分でやってみるとご同様である。さて、一年もすれば結果や如何に・・・・
・・・・・・どうも怪しい。
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