先に取り上げた■大日本近世史料・細川家史料の一番初めの記事に続いて、順次ご紹介したいと思う。
慶長5年
2、八月朔日書状
前の記事から20日ほど経過している。忠興は下野で軍を返しこの時期相模の淘綾郡大磯に居て東海道を西上するという。
(7月17日、ガラシャ死去)(7月下旬に石田三成らが挙兵)
「光」は秀忠と行動を共にしていて宇都宮に在陣している。
もうこの時期「光」は母ガラシャの非業の死を聞かされたことであろう。
そんな「光」に忠興は父・幽齋が籠城する田邊へ赴援することを知らせ、秀忠への奉公が肝要であると強調している。
3、九月八日書状
この書状から宛名が内記となった。「其方ニ名を御付、又御字も被遣候由、目出度候、」とあり、後註にはそれが8月
21日のことであるとする。「秀忠ヨリ一字を拝領シテ忠利ト名乗リ、内記ヲ穪ス」とある。
処が家記には忠利の名乗りの前に「忠辰」と名乗っていたと記されている。詳細不明。
内容は(一)家康の出陣のこと、(ニ)忠利は家康の御意にて江戸へ帰されたこと、(三)秀忠が信州を発したこと、
(四)田邊城は堅固であること、などが記されている。(9月12日田邊城開城)
4、九月廿二日書状
この時期になると関ケ原戦の戦勝報告と幽齋が無事である事、また亀山城を受け取ったことなどが記されている。
三人の士が亀山から江戸へ赴いた。忠利はいつこれらの朗報を耳にしたのだろうか。
「其方事聽而迎可遣候間、可心安候」と記されているが、「聽而=ききて」は何を意味するのか、江戸證人の身分を
解放されたという意味か。「迎えを遣わすから、安心するように」と言っている。
5、十一月廿八日書状
寛永五年最後の書状である。
「豊前一國、豊後にて拾壹萬石令拝領候」と報告すると共に、「其方儀も來春は可呼上候・・」とも書き贈っている。
ある論考を読むと「12月26日に忠利を伴い中津に入封」とあるが、これは明らかな間違いであることが判る。
中国路を、馬も難儀する積雪のなか新天地に向かい丹後を発しているが、この書状は丹後からであろうか。
尚々書に「此文肥前殿御母儀へ可被届候」とある。肥前殿御母とは前田利家室の芳春院(まつ)、忠利同様前田家の
證人の身で江戸にある。忠興嫡男・忠隆の室・千世の生母である。まだこの時期、忠隆廃嫡の気配は見えない。