津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■洗馬川(坪井川)沿いを電車が走る・ルート図発見

2023-04-24 07:16:50 | 熊本

先にご紹介した■洗馬川(坪井川)沿いを電車が走る、インターネットで探しまくった結果、終にそのルート図を第一期線の工事開始から発見しました。
詳細に眺めてみると、川沿いを進んだ線路は、御幸橋前で左折直進現在の現在のルートに繋がっていました。
そこで私が所蔵する熊本市の地図にルートを落として見ました。

     

この地図は昭和四年のものですが、ー ー ー ー ー ー で示したルートが大正13年8 月1日の開業から、昭和3年3月3日に現在のルートに変更されるまでの4年6ヶ月ほどで
このルートを走る事はなくなりました。
大正12年12月15日には熊本市役所庁舎(写真・左)が竣工、昭和3年には熊本逓信局庁舎(写真・中央)がその隣に完成しています。
また、花畑公園には征清記念碑(写真・右 明治32年建立、太平洋戦争で供出)があり、この脇を電車が走っていたようです。
征清記念碑はさすがに知りませんが、市役所は出入りもしましたし逓信局庁舎のアーチ状の玄関ははっきり記憶の中にあります。

  

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長十九年」を読む (1)

2023-04-24 06:59:28 | 史料

忠興文書-慶長十九年
 58、正月二日書状
  ・新春の挨拶、歳暮の祝儀の礼
  ・両御所様の御前残る所なし

 59、正月九日書状
  ・江戸での仕合残る所なし
  ・大御所(家康)は土気東金で鷹狩、廿日迄もご逗留その後還御か詳細知れ不申
  ・江戸城普請は予想外の大規模、諸大名の動静を推量す、筑前の黒田長政が上府せざれば忠利も在国すべし
  ・大久保忠隣、伴天連拂ひの為上洛
  ・本多佐州土州(秀忠代失脚)父子出頭、前に十倍す
  ・小笠原秀政(忠利岳父)父子、忠興を訪す、忠興も又訪す
  ・尚、御普請奉行永田重利・伊東政世山岡景長一段肝煎につき、便宜之時礼状やらるべく

 60、正月廿ニ日書状
  ・大御所様廿一日発足、駿府へ還御、途中熱海で湯治、詳細知れ不申
  ・大久保忠隣改易、子供たちは諸家にお預け、城請取安藤対馬(重信)
  ・此之儀何方へも被申間敷候事
  ・江戸城普請について、在国諸大名之出府は心次第、黒田長政ニ構わず(忠利)出府之用意すべし、世上の躰を見極めて江戸へ下るべし
  ・家康より鷹并鷹ノ鶴拝領
  ・普請の者到着次第(忠興)下國すべし

 61、二月二日書状
  ・大御所様、廿一日江戸発足、小田原廿四日御着・逗留、廿七日三嶋、廿九日駿府御着
  ・小田原城は破却
  ・大久保忠隣、「御勘当」必定の噂
  ・ 同上子息の沙汰実正知れず
  ・小田原城番、土井大炊・安藤対馬・青山伯耆・内藤若狭在城のこと
  ・秀忠小田原に赴き家康と参会す
  ・秀忠より御鷹の鴈拝領、昼時御城にて御廻花、忠興・有楽・金雲など御召
  ・忠興、暫く下国を見合す
  ・小笠原秀政一両日中信州へ下國、新地拝領の(慶の)遣能時分見合可遣候

 62、二月十四日書状
  ・本多正信と談合、忠利の出府を止む、
  ・蒲生秀行息女加藤肥後(忠廣)へ被遣候、祝言四月初之由、肥後下向あらば馳走すべし
  ・木下右衛門大夫へ此状もたせ可被越候

 63、二月十五日書状
  ・正月廿三日之書状到来、其方被越候儀無用
  ・上洛の折小笠原秀政入部之祝儀を申さん

 64、三月二日書状
  ・加藤肥後の祝言之儀、忠廣幼少・姫君御幼少に付御母(家康女・振姫)儀迷惑かりにて江戸にて祝言相定
  ・上記に付、忠利に出府ノ用意を命ず
  ・兄・冨田信高に連座の罪にて佐野修理の城破却仰出
  ・江戸城普請について、普請用ノ道ヲ造り土居ヲ修築ス
  
 65、三月五日書状
  ・早々に忠利の出府を望む、忠利出府次第暇を乞ふ(下國)予定

 66、三月廿二日書状
  ・江戸城普請ノ根石ヲ置クハ當月中旬ナルベシ

 67、四月廿四日書状
  ・廿一日駿府ニテ家康ニ謁見ス、加様之御機嫌見申たる事も無之由
  ・廿ニ日之晩、與安法印を以て、万病圓千粒その他拝領候
  ・廿三日駿府を発す
  ・其地(江戸)御普請之儀無油断肝要、長き御普請ニ付人のくつろき候やうにせらるへく候
  ・金子八十枚かり候て、金地院松首座に預く、割符を持たせる
  ・伊豆ヨリ取寄セシ土台用材のこと、今度ノ作事ハ請切
  ・定めにて上候御服に代りて銀子献上の事、伊丹康勝と諮る
  ・大車といふ珍しき草花、桑山左近大夫にもらう
  ・駿府にて加々爪忠澄肝煎す、忠利ゟ礼を可被申遣こと

 68、五月朔日書状
  ・忠興下國ノ途次京都吉田ニ著す、来四日出立候

 69、五月廿日書状
  ・江戸城普請ノ様子を報ズベシ
  ・京ニテ調ヘタル銀子小判ニ替へ江戸へ下ス
  ・伊達政宗ゟ贈ラレタル刀ノ鑑定ヲ本阿弥ニ以来ス
  ・将軍へノ進物、将軍ノ小袖ノ吉例
  ・忠興下國ノ途中ゟ病ム、存之外ニ相煩、以外草臥申候

 (5月20日、前田利家(細川忠隆・岳父)逝去)

 

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