津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

上手の手から水が漏れる

2008-03-31 20:56:08 | 歴史
 熊本縣史料・近世編第二の附録「主要人物略歴」に次のような記述がある。
【浅山齋助 忠利・光尚に仕え二千八百廿二石、鉄炮三拾挺頭。没年不肖。子は次郎左衛門。のち断 
  絶か、宝暦頃には同姓見えず】

 昭和四十年十一月発行のこの本は、我々にとっては珠玉の近世史料で、100%に近い信頼をもって使わさていただいているが、上記の事はまったくいただけない。我がサイト「新細川藩侍帳」に有る如く、浅山家は営々と続いている。

次郎右衛門は齋助の養子であるが齋助長兄幸綱の孫にあたる人である。寛文四年六月・御侍帳には「有吉頼母允組 御小姓頭 弐千八百拾石余」とある。じつはこの次郎左衛門は当時異学とされた陽明学徒の故を以って、寛文九年十一月御暇を遺わされている。年三十六にして洛西嵯峨に隠棲する。
天和二年四月十二日歿す。年四十九。
    3、斎之助        細川斉茲公御書出(天明八年)百五拾石
    4、恩地(後・斎之助)   百五十石
    5、数(養子 後・斎之助) 細川斎護公御書出(文政九年)百石
    6、亀太郎    下間求馬組御番方二番組 百五十石

                                       ・・・上手の手から水が漏れた・・・

 
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宝暦の改革・薮慎庵と三人の子供たち

2008-03-31 11:30:54 | 歴史
 薮氏の先祖は薮伊賀守、織田信長に仕え伊勢で戦死した。その子内匠は「中村式部少輔一氏に仕、江州日野の内二千九百石領地、後九千石同伯耆守代様子有之致仕京都牢人頭 忠興豊前召寄壱万石、のち大隈(兄)知行二千石加増、都合壱万二千石 元和五年八月五日歿・八十一歳。
 娘壻・長岡主膳信友は、「織田信雄の二男也、豊前ニ御呼被成、藪内匠か壻ニ被成、妙庵主御卒去後竜王城御預被置候処、今度御立退(慶長十六年)、無程公儀ニ被召出、織田出雲守(一ニ出羽守)高長と改、従四位下侍従ニ叙任、弐万石被下候(以下略)大和松山藩初代藩主・・四代目以降柏原藩主」

 その内匠の子・図書の流れに一家と九十郎家の二流があり、図書の弟・市正の流れに市太郎家と分家の小吉郎家がある。さて、薮氏三兄弟とは市正の曾孫久左衛門(慎庵)の嫡子・市太郎、二男・茂次郎、四男・小阪一明である。

■薮市太郎(嫡男槐堂)安永元年九月~安永六年一月 奉行副役
              安永六年一月~寛政元年四月(病死)奉行
■茂次郎(二男孤山) 御鉄炮五十挺頭同列・時習館教授 五百俵御心附拾石五斗(新禄之家)
■小坂一明(三男士議)安永三年十一月(物奉行)~天明元年四月 川尻町奉行
           天明元年四月~天明六年七月 奉行副役
           天明六年七月~寛政四年四月(江府ヨリ帰国中尾州ニテ病死)用人・比着座

 宇野東風はその著「細川霊感公」に於いて、「政治に学事に、共に重要の位置を占め、藩政に貢献せしこと、実に薮氏子ありといふべし」と云う。

         
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ジャイアンツ状態

2008-03-31 08:54:49 | 歴史
 嶋又左衛門の父親が織田掃部介忠寛だということがわかったとき、「ジャイアンツ状態」だなとふとおもった。細川家の大物好きが見て取れる。それも高禄での召し抱えで、まさしく「ジャイアンツ状態」だ。あらためて当サイトのコンテンツ「肥後細川藩・戦国武将の裔」を見てみると「綺羅星」である。破綻していく経済状態にようやく手が入ったのは重賢の代になってからであるが、これとて俸禄の改正「世減の規矩」に於いても、高禄藩士については手が入れられることはなく、改革の限界が見える。そして、先も見える。
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宝暦の改革と町氏

2008-03-30 17:17:55 | 歴史
 宝暦の改革に於いての、町氏(長曾我部氏)の活躍が目を引く。町市郎右衛門とその子孫平太、
市郎右衛門の実弟・村山九郎次郎、従兄弟大里角次などである。夫々が奉行職を務めた。

■町市郎右衛門
    宝暦十年十月~宝暦十三年 奉行副役・後十挺頭ニ転

■町孫平太
    安永六年七月~天明五年七月 奉行副役
    天明五年七月~寛政二年九月 奉行(被差除)
      孫平太性甚だ酒を嗜む、或夜隣家の平井某の宅にて泥酔し、裸体に肩衣袴を着て帰宅
      する程なりしが、翌日早朝政堂に出て、事を処するや、判断流るゝ如く、少しくも滞ること
      なかりきとぞ、然れども之に因りて職を免ぜらる
    寛政十年七月(大組付)~寛政十一年三月 中小姓頭
    寛政十一年五月~文化十一年七月 奉行(致仕後隠居)

■村山九郎次郎
    宝暦五年五月~宝暦七年十二月 奉行
    * 御知行被召上候 宝暦七年十二月上知 高三百五十石
    (奉行職にて江戸行使中乱心知行没収・・細川霊感公より)

■大里角次
    安永二年八月~安永六年五月 奉行副役
    安永六年五月~天明五年三月 奉行 

  阿蘇大宮司惟種--+--惟光(嫡男)大宮司・文禄二年八月十三歳にて刑死
              |            
              +--惟善--+--(嫡男)阿蘇家
                     | 
                     | (二男)大里氏            (町源右衛門二男)
                     +--儀大夫惟直---牛右衛門惟仲---牛右衛門惟正---角次惟公 





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桜・・遠山の金さんの刺青

2008-03-30 13:24:45 | 書籍・読書
 「大江戸座談会」という本に、遠山左衛門尉についての話しがある。

 昔有名な遠山左衛門尉は、首まで刺青があった。それが病に付筒袖御免となっていた。彼を遠山の金さん金さんと云って、裁判する時、女郎が「御奉行様というのは金さんの事だよ」と云ったら「だまれ、今は遠山左衛門尉」と云った。

 このことを語っているのは伊藤晴雨という日本画家(1882~1961)で、明治末年頃から新聞の挿絵を担当したという人だが、映画やTVの金さんの話に通ずるものがある。
「講釈師見てきたような・・・」の類の話しでもなさそうだ。「病気に付筒袖御免」というのはどう云う意味だろうか。桜吹雪を散らせる風が寒かったのだろうか。真面目な本だけに興味深い。
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2008-03-29 20:06:07 | 書籍・読書
 坂口安吾の著作に「桜の森の満開の下」というものがある。いささかおどろおどろしい内容の作品だが、奇妙に魅力的で、モノクロの画面の中に、桜だけがカラーで浮かび上がっているような感じがする。愛読書の一つだが、改めて読んでみようと思っている。
  www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42618_21410.html

 どうやら夜半から雨模様らしい。お花見の皆さんも長居は無用である。
私はといえば図書館への生き返り、道を替えうろうろと桜を満喫してきた。

         さくらさくら 弥生の空は 見渡す限り
            霞か雲か 匂いぞいずる
           いざや いざや 見にゆかん
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織田掃部(カモン)

2008-03-28 18:09:32 | 歴史
 「天正十年一色義有を御饗応の席にて被討果候節、一色之者と見誤、小腹を鑓にて突候故、一時はかりして果候、米田・有吉にも劣るましき者にて有しに惜しき事をしたりと後ニも被仰候と也」細川家臣嶋氏の祖・庄左衛門の事跡であるが、「此節家断絶」している。庄右衛門の甥又左衛門信由が、「金森法印之頼」にて慶長七年豊前にて千石を拝領して召出された。のち有馬の陳で討死している。
 金森法印とは豊臣秀吉に仕えた金森可重の事である。後宗和流を興した金森宗和なる茶人がいるが、可重の息である。何故又左衛門が金森法印の世話で細川家に仕官が出来たのかという疑問が有った。よくよく調べると「熊本県史料近世編第二」の附録「主要人物略歴」に、「父織田掃部は尾張國春日井の産、織田信長に仕」と書き込みがある。何かこの当たりの繋がりからだろうと推測されるが、織田掃部なる人物が特定できない。「掃部介」とか「掃部頭」とか、二三人の人物が見える。これからまったく前へ進まないでいる。ご存知の方が居られればご教示願いたい。   
コメント (2)
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細川家家臣・竹原氏

2008-03-28 09:22:16 | 歴史
 宝暦の改革における立役者は大奉行・堀平左衛門である事に異論はない。影の立役者があって、この人の堀平左衛門の推挙が有ってこそのことである。その人の名は竹原勘十郎(玄路)である。その祖は阿蘇竹原の人で、阿蘇家の庶流である。阿蘇家65代惟種の代「不足の事?」があって薩摩の島津氏に仕えた。細川幽齋が薩摩に下った折、竹原家の市蔵(9歳)なる人物の才知・能書を愛し龍伯に請い京都に連れ帰っている。「綿孝輯録」には「幽齋君丹後へ被召連、慶長元年正月御児小性被召出、知行百石被下、後に庄左衛門と改候、三齋君百五十石の御加増被下、御伽に被仰付候、能書なるを以、幽齋君御代筆被仰付、書礼の事、故実をも御伝へ被成、呼松斎へ御相伝の御取次并写本等も仕り、一色一遊齋へも仕付方の弟子に被仰付候、三齋君よりも御口授等被遊、御両君御卒去以後も猶稽古不相止、隠居名を墨斎玄可と云」とある(第一巻・幽齋公p185)

 寛永九年十月七日「三斎君、忠利君江之御書」として、次のようなものがあり、三齋がいかに庄(少)左衛門を重用していたかをうかがわせる文書がある。(綿考輯録・巻二十二)
            
   竹原少左衛門以之外相煩、半死半生之体ニ候、此もの心安ニ付、
   いか様之事も書せ申候処、果候へは、はたと事をかき申事ニ候、
   幸むすこ清太夫能所へ参候間、これを親ニ付て上せ申度候、左
   様ニ被申付候ハゝ満足可申候、為其申候、已上
     十月七日                三斎
       越中殿

 綿孝輯録編者・小野武次郎は「御両君御卒去以後も猶稽古 云々」と記している処をみると、上記書状のような状態から少左衛門(墨斎玄可)は快気したのだろうか。

 阿蘇を出でて心ならずも薩摩に赴いた竹原氏が、幽齋公に出会ったことが運命的であり、偶然は豊前へ肥後へと古里へ近づけている。竹原氏の出自の国への愛情は、後の竹原勘十郎の献身をして思い知らされる。そして現今も阿蘇地区に活躍される多くの竹原氏が在る事を承知している。

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花寒む

2008-03-27 11:57:04 | 徒然
 朝方ブーンという音で目がさめた。どうやらエアコンの音らしいと気がついたのは、起き出した時の空気の冷たさだった。暖房の効いた部屋のカーテンを開いて外を見ると、メジロのために準備したみかんが、全然ついばまれる事なく五六個置かれたままだ。「最近メジロこないねー」と聞くと「山に帰えったんじゃないの」と妻の声。「この調子じゃ、わざわざみかん買う事ないねー」というと「みかんももう終わりだしね」と妻も少し寂しいらしい。何処から風に乗ってきたのか、桜の花びらが落ちている。今度の土日あたりは、お花見でどちらも賑うのだろうに、お天気はどうだろうか。神風連が祀られている桜山神社に出かけたいと思っているだが、急な花寒むに躊躇してしまう。

追記:雷を伴ってのしばしの雨模様も、4時前には嘘のような青空で太陽サンサン、どうやら明日は図書
    館へ出かけられそうです。16:05記
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伊也は十六歳・・・

2008-03-27 10:19:44 | 歴史
 忠興が妹婿・一色義有を謀殺したのは天正十年(1582)九月八日、忠興は20歳である。忠興は永禄六年(1563)の生まれ、妹・移也は永禄十一年(1568)の生まれ(家記)で、五ツ違いである。綿孝輯録の第一巻(藤孝公)には、(天正九年)「五月、藤孝君御女伊也一色義有に嫁せられ候」(p139)そして「十二月朔日義有男子出生、五郎と名付らる」(p142)とある。義有についての情報は少なく、この時何歳で有ったのか分からないが、忠興とそう年は替わらなかったであろう。ままごと遊びのような新婚生活は、父・藤孝、兄・忠興の騙し討ちという方法で夫を失った。「伊也は十六歳・・・」である。宮津の城に引き取られた伊也は、懐剣で忠興に切りつけたという。鼻に傷を負ったらしいが、その痛みの代償はいかにも大きい。僅か一歳の愛し子五郎は、伊也から引き離され愛宕山福壽院へとやられ、二十五歳で亡くなっている。伊也は吉田兼治に再嫁、多くの子をなし長寿した。其の事だけがほっとする。

 忠興は一色氏の許にあった稲富伊賀などを召抱えたが、迦羅奢夫人の死に際しては、屋敷から逃亡するなどのしっぺ返しを受けている。又一色氏家老真下梶之介と鑓戦いをした米田助右衛門はこれをい止め、妻子を託されて育て上げた。後の細川家臣真下氏である。又梶之介女(妹とも)を妾とし是に生ませたのが末子・岩千代である。岩千代は幼くして松井康之の養嗣子となる、後の松井寄之である。妾・真下氏も又愛し子を手放し、沼田勘解由延元に嫁ぐ事になる。これが乱世の習いなのであろうか・・嗚呼・・
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