津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

進化している侍帳

2009-07-31 15:24:16 | 徒然
 「侍帳にある人数」を時折訊ねられる事があるが・・・数えたことが無いので判らない。もともとは川口恭子先生の「細川家家臣略歴」を底本にしているから、その数をまとめてみると1,995家ほどになる。その他「家臣略歴」には記載がないが、「肥陽諸士鑑」に登場するお宅や、その他細川家家臣であったことが間違いないお宅(数代に渡っていること)などを独自に+している。(都合2,050家位か)また、個人の名前が相当数ある。1,000名位は在るのではないか。

 1,995家については先祖附が永青文庫に残されている。一時期全ての家の主だった部分を、コピーしようと思ったことがある。最近は図書館でコピーを活用される方が多く、長時間独り占めする事もままならず・・ある時期頓挫してしまった。それでも相当数の先祖附をコピーした。その他の家については、必要に迫られると図書館へ走り該当家の分をコピーしている。史料として保管しているが、置き場所に事欠く有様である。

 図書館で先祖附をぱらぱらしながら斜め読みをしているが、思いがけない記述に出くわしたりしてにんまりするのである。最近は目的をもってコピーに出かけるのではなく、先祖附をイロハ順に追いかけながら、にんまりニュースに有り付こうと宗旨替えをした。特段ご報告はしていないが、時折それが「侍帳」に反映されている。
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藤孝の兄弟(姉妹)

2009-07-31 13:58:29 | 歴史
 藤孝の兄・藤英、姉・宮川の母を、清原宣賢女(智慶院)とする系図がある。
これは明らかな間違いである。晴員は三渕家に養子として入り、晴常女・養源院を妻としている。これが藤英の生母であり、宮川や佐々木越中守に嫁した女性ももそうではないかと思われる。晴員が将軍の命により藤孝を身篭った智慶院を迎えた時、まだ養源院は存命しており、其の時の養源院の行動は定かではない。

藤孝の弟南禅寺長老・元冲や、大徳寺高桐院玉甫紹は智慶院が生母であろうか。
細川家の重臣三渕家の初代好重の生母は山名民部少輔一雲斎だという。
土御門久脩に嫁ぎ、二条泰重を生んだ末妹の生母は良く分らない。

 細川元有---+--元常=========藤孝---忠興
         |            ↑       
         +--晴員        | 
                       |   
         +--養源院      |
         |   ∥----------------------藤英---秋豪
 三渕晴常---+==晴員        |
              ∥---------藤孝
            智慶院

              ∥----------------------好重
            山名一雲斎・女
         
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南禅寺

2009-07-31 09:16:29 | 歴史
 幽齋公歿後400年に関連し、しばらくの間幽齋公に関することを書いていきたいと思う。

細川家記によると、幽齋は三渕晴員の洛北の別墅で生まれたとある。天文三年四月廿二日のことであった。その場所が何所であったのか、答えは家老米田家の中山宗俊が書き残した「中山宗俊覚書」にあった。2009年05月29日のブログ【米田家臣中山宗俊覚書(一)】を参照されたい。

   幽齋様實ハ 公方義晴公の御子也此段舟橋家に詳也以前ハ
   船橋家を高倉と申候此時より舟橋に改りて今船橋と申候其
   比船橋環翠軒宗尤実名宣賢公と申候宣賢公息女後
   号智慶院殿 公方義晴公の宿直等被成懐妊なり然処に
   後奈良院より近衛尚通公の女を義昭公に被聘之不能辞叓
   して懐妊智慶院殿を三渕伊賀守晴員後妻に被下候也      
   晴員居宅は室町花の御御所近隣といへとも本宅へハ不入置は懐
   婦を東山の麓黒崎の別墅 藤孝公栄産の地之其後若狭少将木下勝俊入道長嘯遁世の地と成
   暫蟄居之由其後聴松院と云寺に成南禅寺塔中に今存せり幽齋様ハ義輝公ハ二歳の御舎兄なり 

   に被移置て晴員無逢見栄産あつて暫して被嫁なり

 つまり現在の南禅寺聴松院の地が三渕晴員の別墅(べっしょ=下屋敷、別荘)であったことが分る。そしてこの場所が、幽齋とは大変親しかったとされる木下勝俊(長嘯子)が、蟄居中の一時期を過ごしたと言うのも大変興味深い。

     南禅寺   http://www.nanzen.com/keidai_map.html
     木下勝俊  http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html

 幽齋の没年は慶長十五年八月二十日、京三条車屋町の館で亡くなった。そして其の墓所は、同じく南禅寺の天龍庵に設けられた。分骨は豊前に建立された泰勝院に葬られた。(このことについては後に記することとする)

 私は昭和42年(1967)に結婚したが、新婚旅行は京都を旅した。当時ディユークエイセスの「京都大原三千院・・」という歌詞の歌が流行っていた。二番は「栂野高山寺」、三番は「嵐山大覚寺」であるがこれらを廻った。勿論南禅寺も訪ねたのだが、当時はまだ歴史には全く興味が無く、幽齋公のお墓があるなどとは露とも知らなかった。南禅寺前の店で名物の湯豆腐を食べたことくらいしか覚えていない。その後何度か機会があったのだが、いまだ訪ねることが出来ないで入る。 
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全ての始まりは・・

2009-07-30 11:33:24 | 歴史
熊本市と福井市とは姉妹都市である。その締結の経緯は熊本市のサイトによると次のようにある。

「肥後熊本藩主・細川斉護公の娘である勇姫の越前福井藩主・松平慶永(春嶽)公への輿入れ(1840年)、郷土の先哲・横井小楠が福井藩の藩政改革にあたるなど、深い歴史的縁のある都市です。このような歴史的背景がきっかけになり、平成6年11月16日、熊本市において姉妹都市盟約書調印式を行いました」

 松平慶永(春嶽)は田安徳川家三代斉匡の八男である。斉匡は一橋徳川家から田安家に養子として入ったが、一橋家の長兄が徳川将軍家十一代の家斉であり、妹・紀姫が細川斉樹に嫁いだ。その斉樹の孫が慶永に嫁いだ勇姫である。慶永からすると細川斉樹室・紀姫は叔母であり、室となる勇姫は従兄弟の娘という関係にある。
 縁談は松平家から申し入れがあったらしい。将軍家斉の妹を迎えている細川家も、松平家からの縁談には躊躇しているが、斉樹室・紀姫の薦めもあり婚儀へと至るのである。後の福井藩からの肥後藩士・横井小楠の招聘も、松平-細川の婚姻関係によることも影響していることは間違いなかろう。全ては此処からスタートしている。

 「事実は小説よりも奇なり」というが、結婚直後離縁問題が生じていた。事実勇姫は松平家を出て龍口邸に帰っている。このことについては、高橋みゆき氏の論文「近世大名家の婚姻--熊本藩と福井藩の婚姻・勇姫の事例を中心に--」に詳しい。表立った史料が無く、隠れた史料を丹念に積み上げての勝れた論文である。ご一読をお薦めする。
福井藩のこの時期における財政破綻状況が、勇姫を苦しめているし、横井小楠の任用という事態もここが起因している。

 
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「細川家家臣・郡(勘右衛門)家」に寄せて

2009-07-29 22:24:56 | 歴史
 先日のブログ「細川家家臣・郡(勘右衛門)家」に寄せて 、埼玉のTK様から次のようなコメントをメールで頂戴した。厚く御礼申上げると共にご承諾を頂戴して該当部分をご紹介する。

■足利義昭は、天文六年生れで、堀孫四郎こと上野大和守秀政も寵童あがりという事情からほぼ同年代もしくはそれより若い人ではないかと思われます。また、眞木嶋玄蕃頭昭光は、正保三年百十余歳で没したとすると、足利義昭と同年代と推定されます。この三人がほぼ同年代とすると、秀政を昭光の聟とするのはありえなくはないものの、一寸世代ギャップを感じます。昭光は長寿の人なので子女も色々いたのかもしれませんが、昭光の聟となると、細川家臣氏家宗入の子氏家志摩守元高と相聟にもなるわけで、やはり世代の違和感が感じられます。

■ところで、「鹿苑日録」を見ますと、足利昌山の旧臣に上野中務某がおり、慶長二年昌山他界の際に、眞木嶋昭光に続いて上野中務の息二人勘左衞門・御吉が剃髪した記事があります。私は、上野中務は上野秀政の嗣子で、昭光の聟は、秀政ではなく、中務なのではないかと推測しています。そして「鹿苑日録」に見える中務の子勘左衞門は、細川家中の郡勘右衞門家の祖で、後に五左衞門を称したのではないかとも考えております。秀政の「子」が昭光の聟というのであれば、世代的はすっきりするのですが、いかがでしょうか。

■田家の記録、郡家伝来の記録等によると、豐臣家臣郡主馬首宗保の長女細川忠興側室と四女三淵光行妻の生母は、郡宗保の先妻出雲の人野村平次右衞門の女です。

■郡宗保の長女お藤は、荒木村重の一類三十餘人と共に虜囚となりましたが、乳母に匿われ、後に織田七兵衞尉信澄の侍女となり、明智左馬助光春内方に遣されました。次で細川忠興の側妾となり、松の丸殿と稱せられ、一女御古保〔長岡佐渡守興長の後妻〕を生みました。寛永六年六月十九日豐前小倉に於て死去。法名靈雲院貞岸正榮。

■郡宗保の四女慶壽院は、初め明智舊臣木村伊勢守に嫁しました。或時伊勢守の子を死産し、豐臣秀吉家臣萱野彌三左衞門長政の妻女偶々同時に産んだ兒を乞取りました。この兒は長じて田家に仕え、郡正太夫慶成を稱しました。天正年中奥州仕置の不手際から木村家が改易されると、母子共に宗保の妹聟餘田源兵衞重政方に寄食しました。後に三淵伯耆守光行に再嫁し、嫡子三淵縫殿助藤利、次子郡右兵衞〔彌四郎藤正號形庵〕、三子三淵山入を生みました。

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細川家家臣・竹田氏

2009-07-29 19:02:13 | 歴史
 細川家家臣竹田家の初代は平大夫である。先祖附によると平大夫父半左衛門の叔母が、松井佐渡守室・自徳院であることから、真源院御部屋住みの頃召し出されたという。しかしながらご機嫌を損ね御暇、有馬一揆に牢人の身を以って参陣して、後帰参が叶ったとされる。寛政四年竹田半弥なる人が、半左衛門以前の先祖附を別途提出している。これによると、以下之如くである。

        竹田梅松軒---+--松井織部---松井角左衛門・・・→松井家家臣竹田家
                  |
                  +--源助長勝
                  |
                  +--永翁
                  |         初代
                  +--半左衛門---平大夫・・・・・・・・→細川家家臣竹田家

    一、私先祖竹田梅松軒法師武者ニ而外ニ俗名無御座候
    一、松井織部儀右梅松軒嫡子ニ而御座候處大坂御陳前廉松井康之養子ニ相成申候
       然處其後智梅院殿出生ニ付織部自退仕候故知行千石為合力被遣置嫡子角左衛
       門代より家司ニ相成申候 今以松井角左衛門子孫松井名字免無之内者竹田を名
       乗申候
    一、竹田永翁右梅松軒次男ニ而御座候 梅松軒同前ニ而俗名無御座候
       太閤様より領地■■茂被下置大坂御陳之節御馬■并雑兵八千預リ申候由天王寺
       表江出張■立申候様子者大坂御陳之御絵図ニ相見申候通ニ御座候
    一、私高祖父竹田半左衛門儀右梅松軒三男にて御座候

        右者當時邊差出来候先祖附右之通御座候 以上

         寛政四年八月        竹田半弥

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  寛政四年月表示のない先祖附がいま一通存在している。これは森羅三郎義光に遡る
  ものだが、これについては今回は取り上げないことにする。

追記:PM22.12
ちょっとまずいことになった。いま一通ある先祖附は、ここに上げた先祖附に修正が加えられていた。
織部と永翁の間に源助長勝という人が在った。明日改めてUPすることにして、今日はお断りに止める。

       
            
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田中左兵衛のこと・・続

2009-07-29 17:55:23 | 歴史
 今日の熊本地方は大雨の予想、朝からぱらぱらしていたが、どうしても調べなければ成らぬことがあり図書館に出かける。
お目当ては田中左兵衛の出自である。名門田中家の先祖附にしては書き出しが至ってシンプルである。

     先祖田中左兵衛儀長門國長府之産ニ而佐久間忠助と申候 
     実父佐久間玄蕃外祖父江良但馬と申候 但馬儀は毛利
     秀元公之御家来ニ而御座候 忠助儀於豊前田中兵庫養子
     ニ仰付(初代)田中左兵衛と■名相改申候 元和七年八月
     十七歳之時 妙解院様江御中小姓江被召出候 其後真源
     院様御部屋住ニ被成御附候 被召出候節之肝煎は志水伯
     耆ニ而御座候

 元和七年(1621)十七歳だということは、生年は慶長十年(1605)と考えてよかろう。だとすると父親佐久間玄蕃が佐久間盛政(天正十一年没)ではないことは明らかである。
江良但馬と言う人から手がかりは無いか。こちらは大内氏・陶氏につかえたという江良氏だろうか。そうすると忠助の長門國長府の生まれが理解できる。それにしても同名異人の佐久間玄蕃とは如何なる人か、興味は尽きない。

 大雨予想は見事に外れて、爽やかな風が気持ち良い。
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田中左兵衛のこと

2009-07-28 22:35:01 | 歴史
 先にご紹介した「田中左兵衛封事」を上げた人である。有馬一揆の於いては一番鑓を上げたが、上使の認めるところとは成らず「幻の一番鑓」と称された。細川家はこれを手厚く遇して都合四千五百石とし、肥後藩初の城代職を勤めた。
「大日本史料・細川家史料」の人物索引は、次のように紹介する

【細川家臣。初め佐久間忠助と称す。長門長府に生る。のち豊前にて田中兵庫養子となり、田中左兵衛に改む。元和七年八月忠利中小性に召出さる。のち光尚部屋住の時、御附となる。寛永八年六月十一日忠利より知行百五十石拝領。有馬陣の功により十七年七月五百石加増、并陣刀・時服・羽織・金子等拝領。十八年八月廿三日光尚よりも有馬陣の功により五百石加増、小性頭を命ぜらる。正保元年正月十一日千石加増。慶安四年五月廿八日二千石加増。延宝四年正月隠居。】

 又熊本県史料の人物索引は佐久間玄蕃の子だと紹介する。
これがどうもいただけない。玄蕃とは盛政の事だと思うが天正11年(1583)に、秀吉の手にかかり殺されている。元和七年(1621)といえば玄蕃の死から38年が経過している。
細川家には佐久間の一族の名前が幾人か確認される。それらを含めて改めて精査しなければと考えている。 
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建築家安藤忠雄

2009-07-28 17:45:14 | 書籍・読書

建築家 安藤忠雄
著者:安藤忠雄/著
出版社名:新潮社
販売価格:1,995円(税込)

【本の内容】
建築で闘い続ける男、初の自伝。


【目次】
ゲリラの活動拠点
建築家を志すまで
旅/独学で学ぶ
建築の原点、住まい
都市に挑む建築
なぜコンクリートか
断崖の建築、限界への挑戦
継続の力、建築を育てる
大阪に育てられた建築家
グローバリズムの時代に
子供のための建築
環境の世紀に向かって
日本人のスピリット
光と影

【著者情報】
安藤 忠雄(アンドウ タダオ)
1941年大阪生まれ。建築家。世界各国を旅した後、独学で建築を学び、1969年に安藤忠雄建築研究所を設立。イェール大、コロンビア大、ハーバード大の客員教授を務め、1997年東京大学教授、2003年から名誉教授に。1979年に「住吉の長屋」で日本建築学会賞、2002年に米国建築家協会(AIA)金メダルほか受賞歴多数
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細川家家臣・郡(勘右衛門)家

2009-07-27 12:43:30 | 歴史
 ここでご紹介する郡家は、細川家一門の郡家(幽齋兄・三渕藤英系)とは全く関係ない。
槙嶋云庵が娘壻堀大和守秀政(堀孫四郎)の子を養育し、忠興がこれに郡姓を与えたとされる。大和守秀政は、足利義昭臣上野清信の養嗣子となり、槙嶋昭光の娘を室としたが、後義昭の命により義父昭光の手で誅伐せられた。その真相は良く分からない。

永禄十二年の御所造営の現場で、惣奉行を勤める上野清信の手の者と、藤孝甥・荒川少兵衛輝宗の手の者との喧嘩がもとで二人の仲は急激に悪化する。藤孝は収拾に奔走するが、義昭は清信の讒言により「藤孝君を疎ミ給ひ、終にハ可被誅かとの趣にて、御館に御蟄居被成候、此時将軍家より信長江細川誅伐の命を下さる」と綿孝輯録は記す(巻二・p47)驚いた信長は諫言、義昭も「理に服し」たという。
■「義昭公清信を愛せられ候訳は、清信に女子有、甚美にして義昭公是を御寵愛、其上男子なけれはとて、一乗院におはしましける時よりの寵童堀孫八郎と云うものを清信が養子とせらる、後上野大和守秀政と云」(巻二・p48)
 
■「上野清信其後逆心仕、義昭公より御征伐被仰付、郡大和守・槙嶋玄蕃頭両人ニ而討果申候 此儀備後国仙水山合戦之砌と言伝 と云々」(綿孝輯録巻二・p70)
 姉壻の槙嶋玄蕃頭(昭光)と、養嗣子の郡大和守(昭光女婿)の手により「征伐」されたと綿考輯録は記すが、これはどうやら疑わしい。

上野大和守・秀政(堀孫八郎)については次のようにある。
■「秀政重々の非義ありける故、義昭公御法体以後、槙嶋玄蕃昭光に仰て、泉水山にて誅せられ候、秀政は昭光か婿成ゆへ、秀政が子を育ミ置、後ニ忠興君に達して、御家人と被成候、其時の御意に、上野は当家に対して敵なれは、家号を改めよと被仰、郡主馬名字をあたへ郡勘右衛門と名乗候なり」(綿考輯禄巻□・p□□)

義昭の死去にあたり葬儀を秀吉の命により奉行した昭光は、大坂の役後豊前に下って忠興に仕えた。

             足利義昭
                ∥
 +---上野清信---+--●
 |           |   堀孫四郎  
 +------●     +==大和守秀政
       ∥            ∥------郡五左衛門・・・・・・・・・・→細川家家臣・郡家
   槙嶋玄蕃頭昭光(云庵)----●

 忠興が云庵(昭光)の孫に与えた「郡主馬」の郡姓は、細川忠興女・古保(長岡佐渡興長室)の生母(松の丸殿)の父・郡主馬宗保のことであり、由緒ある姓が与えられたことになる。
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吉村文右衛門上書 - 6

2009-07-26 15:04:45 | 歴史
             軽キ御役儀
         大体人初メはよく後二ハ悪敷所出申候と奉存候 いつまても
         怠りなく慎ミをたもち申候儀難きと相見へ申候 軽キ御役儀等

         被為 仰付候ニハ一役を永ク共参年二ハ過申間敷候 十年も
         二十年も同し御役儀被為 仰付置候儀ハ宣しかる間敷候
         乍恐奉存候 御役儀被為仰付候初メ一二年之程ハ殊之外
         つゝしミ大事二かけ申ニより私欲をも仕得不申よく
         可有御座候 最早三年にも及ひ申候へハ物こと手ニ入巧者ニ
         成り申候故事により弁しよき事も可有御座候得共
         此所より慎ミを忘連心怠りゆるミそ連より私欲をも
         可仕と奉存候

              片落万遍
         江戸御供仕り者ハ毎度 御供仕 御供不仕者ハ数年
         御供不仕候 御役儀相勤候者ハ久敷相勤 無役ハ数年
         無役ニ手打過し申候然共無役之者ハ愚鈍ニ而 無器量人計り
         歟と奉存候得共 曽而左様ニ而も無御座候 御役儀相勤候ものハ
         発明ニて有器量人計り歟と奉存候得ハ是も又左様ニても
         無御座候 廻り/\ニ江戸御供も被仰付御役儀も被仰付
         候ハゝ人々きほひも出来可申候 万遍ニ御座候へハときめき
         申ものハます/\ときめき埋木ハます/\埋連
         行申候 万遍ニ被遊御用候ハゝ人々の才不才 智
         不智も分り可申哉と乍恐奉存候

              人才
         國を治め民を安する本ハ、人才を得て是を用ゆるに
         可有御座候 人才を用ひて政をよく仕候ハゝ國治り民

         安んする事必然ニ御座候
         君今御仁政を行ハせられん事を被為 思召上候共
         君を羽翼し奉るもの無御座候ハゝ 御仁政行ハ連
         ましく候ト子游武城の宰となり申候時、孔子爾
         人を得た里やと問せら連候二而推察仕候 天下を治申候事ハ
         人才を得て挙用ゆるを第一と仕候 武城ハ魯の下邑と
         御座候へハわつかの所と相見申候 そ連たに右之通孔子の
         問御座候へハまして一國にもなり申候ゐてハ人才を
         用不申候わてハ宣難参可有御座候 大舜ハ善與
         人同す 己をすてゝ人にしたかふ人に取て以て
         善をなす事をたのしむと御座候 尭舜の君ハ

         大聖人ニ而だに自己の智まてにて治メ給ハす多クの
         人才を挙用ひ給ひてそ天下を平治し給ひし事に
         御座候 其事は諸書に見へ申候事に而今事新しく
         申上候二及はざる事に御座候へ共皆古の國天下を治
         給ひし君ハ人才を御用被成候 國天下を失ひ給ひし
         君ハ皆倭人を近つけ賢者ニ遠ク忠臣を諌を不聞
         人才を用ひ給ハさる故に御座候 武丁位に即キ
         給ひてふたたび殷のおこさん事を思ひしか共 其佐ケ
         を得給はす 三年迄ニ不信後ニ説を得給ひ 是を
         相とし給ひてより殷國大ひに治り申候と見へ申候
         いつ連良臣あるにて無御座候へハ國を平治する事

         あたはしと見へ申候 聖君といへとも賢臣を得て
         是に任し給ハさ連ハ天下に大功をなす事あたはさる
         心を韓退之ハ龍も雲を得さ連ハ其霊を神に
         する事なくと申候 誠ニ人君賢才を得給ハさるは
         龍の雲を得さるの如く船の拕(舵カ)なきかことくに御座候
         今 御國におゐても被遊御求候ハゝ全く古人にお
         とらぬ様成ル人無御座候 忠義純一にして 御仁政の
         御佐ヶに成り申者無御座事ハ有御座ましくと
         奉存候 人を被遊御用候二も嫉ミそしるもの必しも
         御座候而其人平生不取廻しの事なと申 或ハ
         自分の振さハきさへよく仕り得すして大國の

         御仕法の事なと此者等か及所にあらすなと可申上候得とも
         聖賢の外ハ必しも全ク揃申事ハ無御座候 韓信元貧
         賎にて 食を漂母によせて身を資ルの策なく辱を跨
         下に受て人を兼日の勇なしとて龍旦笑ひあな
         とり申候へ共漢の功をなし申候ハ韓信か計に
         御座候 牛は大きなる獣に御座候得共鼠をとらせ申候而ハ
         猫におとり申候然共車を引田を耕二ハ其益猫の
         能にハかへかたく御座候 無事なる馬の人に馴安キハ
         千里の能なく人をふく身くらひ申候馬に必しも
         千里の能御座候様に人にも今日わつかの立居
         振舞ふつゝかにまいすけいあんの相(挨)拶等不調法なる

         ものに大事を任してよき人も可有御座と奉存候
         惣躰玉ニ疵と申事ハ御座候得共石ニ疵と申事ハ無
         御座候 大躰可用人に疵も可有御座候 無疵ニ而も石ニ而ハ疵有ル 
         玉には及不申か如く疵無御座候とて碌々たる庸人ニ而ハ
         用ゆるに足り不申候 只々明智の人を被遊 御用 
         御仕法被為 仰付候ハゝ乍恐宜奉存候
         明智の人出て事を行ひ申候ハゝ万々の事自然ニ宜成り
         可申候返々も明智を被遊 御用古を師とし給ひ
         今ニ宜様ニ 御仁政を行ハせられ民を安んし給ふ
         様に有御座度乍恐奉存候
         君の被遊 御好候所は一國好申候

         君善を被遊 御好候可申候善らハ
         御國善国となり可申候
         右之通段々申上候事返々も千万恐多奉存候
         誠惶誠恐頓首頓首死罪死罪

            延享三丙寅年六月廿一日
                        吉村文右衛門・判

                 (了)
          
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歿後四百年

2009-07-25 16:50:42 | 歴史
 23日のブログで、加藤清正公の歿後400年が来年であることを書いた。熊本では加藤神社や本妙寺で何らかの行事が行われることだろう。

 歿後400年といえば、今年がその年に当るのが細川幽齋公である。慶長十五年年八月廿日京都三条車屋町の館で薨じた。享年七十七歳。法号泰勝院徹宗玄旨、京都南禅寺天授庵及び小倉泰勝院に分骨葬られた。
細川家肥後入国後寛永十四年七月立田山の麓に一寺建立、泰勝寺と号し、ここに遺骨が移された。夫人・麝香、嫡子・忠興、忠興夫人玉(ガラシャ)とともに「四つ御廟」と称して仲良く並んでおられる。
熊本では年忌が執り行われるのかどうか承知しないが、細川家内々で行われるのであろうか。当日とはいかないかもしれないが、泰勝寺を訪ねお参りしようと思っている。
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梅雨明けは八月ですか・・・

2009-07-25 11:57:22 | 熊本
 山口県防府の災害はなんとも痛ましく、毎年のようにおこるこのような災害は避けようのないものなのかと気持ちを暗くさせる。長崎・福岡では一時間に100㎜を越える猛烈な雨がふったと報道しているが、熊本も雷鳴がとどろき時折叩きつけるような雨が降っている。

 昭和28年の熊本大水害は6月26日だったが、その四年後32年にも水害に襲われている。(この時も床上浸水の被害を受けた) この水害があったのは7月26日であった。月は違うが同じ26日だったからよく記憶している。この年の梅雨明けは何時になったのだろうか? よくよく考えると今年はまだ梅雨明けしていなかった。この調子だと八月に入ってしまうのではないか。

 冷房を入れているわけでもないのに、冷気が足にまとわりついている。温度計は27℃を表示、靴下をはこうかしらと思案したりしている。
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吉村文右衛門上書 - 5

2009-07-25 07:58:54 | 歴史
            御百姓の害
         御郡方所役人不正賄賂を受申す所より其賄賂落る所ハ
         御百姓の出方と成り申候 惣躰御惣庄屋小頭等私
         欲をほしゐまゝに仕候故御百姓の滅亡ニ御座候 中ニも
         甚しきものハ御座候 江戸
         御上下之節其外人馬入申候節村ニ不応人馬を申掛人馬
         不足之分を夫銀馬銀を出させ取申候而己か私欲ニ仕候 ケ様ニ
         仕候而取申候故不勝手之者も小頭ニ成り申候へハ三年
         之内ニ蔵を立申様ニ相成申候と承り申候 此小頭と申者
         前ハ三人か五人かニ而事済申候処只今ハ十人餘或ハ廿人餘ニも

         成申候由是ハ御惣庄屋贔屓之者ニ富を付可申ため小頭ニなし
         申所よりケ様ニ小頭増申候由ニ御座候 小頭多御座程御百姓之
         衰微ニなり申候近年次第ニ御百姓の害多なり申候故
         御百姓倒申候而家の七拾軒も御座候処に高を作り居
         申候 御百姓ハ十人二ハ過不申様ニ成申候由唯今通ニ而ハ
         作毛之事ハ召置御百姓皆々滅亡可仕候 気之毒千万共可
         申上様も無御座候 惣躰小役人多ク成り取集り申候而者
         皆私欲専一ニ仕候と相聞申候
               御百姓出方承り申候分大概之覚
         一、御代官江取立前之賄賂
         一、御惣庄屋江賄賂

         一、御内検江賄賂
         一、御塘奉行 小者給
         一、庄屋給
         一、小頭給     出方人数之多少ニ寄申候由
         一、帳書給
         一、手代給     人数之多少ニ寄申候由
         一、常走給
         一、かゝへ夫給
         一、夫銀      小頭申懸次第
         一、馬銀       右同
         一、四ノ口     前々ハ一ノ口ニ而御座候処段々増申候而
                     只今ハ四ノ口ニ御座候由 

         一、三加子     前々者一加子ニ而近年増申候由
         右之通ハ承り申候処之趣ニ御座候 委細之儀ハ不奉存候 御百姓ハ
         御國之本ニ而御座候得ハ御百姓害少ク相成り力を得申候而
         耕作仕候様有御座度奉存候故ケ様之儀迄申上候
         御勝手向是程迄ニ 御差支ニ至候へハ孔明か如きもの
         出申候共俄ニ成申間敷様ニ奉存候 今年よりハ来年ハ宣
         来年よりハ又其翌年ハ宣 次第/\立なをり申様之
         基出来仕候ハゝ恐悦ニ奉存候
         
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吉村文右衛門上書 - 4

2009-07-25 07:57:57 | 歴史
          しゅうれん
           聚斂        出典  聚斂の臣あらんより寧(むし)ろ盗臣あれ   「礼記」大学
                           重税を取り立てて人民を苦しめる家臣よりは、主家の財をかすめ
                           取って私腹を肥やす家臣のほうが、まだしも害は少ないということ。

         聚斂の臣とて悪しきものと申伝へ申候 其故ハ民の怨を取
         申候事聚斂より甚しきハ無御座候 貨を積ミ申事滋多
         御座候へハ怨を蓄申事も滋厚御座候 民の怨ミハ國の災の本に
         御座候 君の為を奉存候而も民の為に仕る儀を不奉存候へハ實ニ君の
         為ニ成不申候 民の為ニ仕候ハ取もなをさ須君の為ニ御座候 古より
         民の為ニ仕候而ハ君の為ニ不仕ものハ無御座候 君の為ハかりを仕候ハ

         一旦は君の為と見へ申候へ共年々國衰へ民痛ミ申候故
         衆民怨ミ悲しミ申候 其心天に通し自然に大雨・大旱等の
         ことき災志きりにつゝき申候而五穀不熟仕り如何程志へたけ
         取り申候ひても倉廩に積かたく成行申ものに御座候由 少しく
         民の為に仕候へハ大きに効し御座候而終にハ
         君の御為に成り申候事を御役人等不奉存こそ誠ニ気の毒ニ
         奉存候 只今ハ聚斂の臣盗臣二ッなから御座候と可被為
         思召上候ほのかに承り申候へハ何レの御役人に御座候ゐしか
         其御役人に心安キ者申候ハ御國中銀札通用之儀被 仰出候得ハ
         無程色々評判仕諸人さはき穀物直段上り諸色も高直ニ成り
         其後銀札すたり申候とて不怪噪動に及ひ町人等穀物を隠
         して買不申故飢ニ及申者おひたゝしく御座候諸式も一切

         買不申候へハ其難儀之様子ハ誠ニ/\不怪事ニ而前代未聞の
         事ニ御座候 ケ様ニ下方迷惑仕ル事に御座候へハ銀札ハ 御止メ方に
         成り申様ニ有御座度事と申候へハ 彼御役人答て申候ニハいか程下方
         迷惑ニ及申候共
         太守様之 御為にさへよく御座候へは無御座候諸人何程御役
         人之事をにくミ申候共或ハ落書ニ作り笑ひ申候共苦しき
         事ハ無御座候ただ
         君御一人の御為に成申候へハ苦しからす候 よくおもひ
         見給へ
         太守様か大切ニ御座候歟 下方か大切ニ御座候歟
         太守様にハかへら連しと申候由誠に利口なる申分之様子

         御座候得共是聚斂の臣ニ而御座候 御國不安して諸民死亡ニ
         及候而も御為と可申哉 返々も御外聞之程気の毒奉存候
         國之廣堂大厦ハ倉廩の積より起り倉廩の積ハ民の
         耒耜より出耒耜の微積て斗升の粟となり 斗升の
         粟積廩の積溢連て廣堂大厦と成り申候 廣堂
         大厦倉廩ニ起ル事を人皆奉存候得共本耒耜の微に出る
         事を不奉存候 誠ニ廣堂大厦倉廩の積本皆民の辛苦
         より出不申ハ無御座候 邦の邦たるハ民有候故ニ御座候民無御座
         候ハゝ國立申間敷候 志かるに此民を飢て死しむる時ハ何を
         もつてか
         君の御為と成り可申哉 君の御寶民に志くハ無御座候 聖主賢才を求メ給ふも此民を
         治め安せんか為ニ御座候
         君の為に事を謀り申候ハ先利害を思慮して後 取計
         可申事に奉存候ハゝ民にも利御座候ハゝ是を行被可申候 若民ニ
         利無御座害ををなすへき儀御座候ハゝ 君に利益御座候共是を
         行ひ申間敷候たとへ目前に金銀米銭の山出来申候共
         民を害し申す候而は益更に無御座候 民ハ邦の本
         基本を害し申候へハ國不安事必然ニ御座候 國安
         からさ連共君独り安きの理可有御座哉君を憂し
         め他邦之嘲を招き國人を苦ましめ後年無貢の
         基をなし候ハゝ何を以てか君の為と可申哉聚斂の

         臣 聖賢深く戒しめ給ふハこの故に御座候

         

         
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