津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■メダカの新居

2023-06-30 12:50:21 | 徒然

 引越しもしたことだし、メダカの住まいも新しくしようとAmazonでガラス製の水槽を注文した。
引っ越しに当たっては、小さなポリケースに入れて娘の車で膝の上に載せて移動させた。
地置きの状態で大きなポリケースで育ててきたが、この際何もかも小型化しようと思い18Lほどの水槽にした。
循環ろ過機だけを取り付け、照明もはずしてシンプルにしたが新天地で三代6疋が元気に泳ぎ回っている。
昨年の繁殖期以後は11疋いたが5疋も死んでしまい、水容量からすれば倍に増えても余裕だからちょっと補充も考えなければならない。
愛犬ゴエモンが18歳で死んでから、「もう犬は飼わない」と奥方に宣言され、取って代わったのがメダカである。
散歩をせがまれることはないが、餌や水の監理など結構気を遣う。この管理は当然のことながら奥方は一切ノータッチ私の管轄であることは当然である。
如何にも住み心地がよさそうに元気に泳ぎ回っている。


            濾過器の滝に流されて メダカターンする  津々

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■三井家と細川家

2023-06-30 06:50:58 | 歴史

                                         
                    三井越後屋と棒手振

 三井越後屋の創業者三井高利の孫・高房が著した『町人考見録』という史料に、沢山の大商家が倒産したが、殆どが大名の「踏み倒し」だとする一方、「大方大名がしの筋は同じことといいながら、その内わけて細川家は前々より不埒なる御家柄にて、度々町人の断りこれあり」と辛辣に記述されている。
この資料は享保十一年(1726)~十八年(1733)ころの成立だとされるから、細川家の当主は宜紀である。
宜紀は正徳二年(1712)、先代綱利の隠居に伴い遺領を相続したが、この時期「財政窮乏シ幕府ヨリ拝借金三十七万両ニ上ル」との記録が残る。
つまり、この窮乏の原因は綱利によってもたらされたものである。このような大金を幕府から融通されたにもかかわらず、三井家あたりからも高額の借り入れを為してこれを踏み倒したというのである。
処が三井家からこのような罵倒を受けるころ、宜紀は享保十三年十月手足がしびれる病に倒れている。病状は快方に向かう事はなかったとみられ、享保十七年六月廿六日に死去した。
宜紀の後は嫡子・宗孝が相続したが財政窮乏の状態は継続された。処がその宗孝が江戸城中で刃傷に及ばれ死去するという一大事が起きた。
急養子として弟の紀雄(重賢)が跡式相続するが、相続前の紀雄の住む部屋は壁や畳はぼろぼろであったというし、欲しいものを求める事も出来ず、羽織を一具願い下げいただきそれを質屋に入れて金を工面したという逸話が「聞くままの記」に記されている。
そのような財政窮乏の中で育まれた精神が、のちの宝暦の改革を成し遂げ、借金を完済し城中に備え銀を確保するほどになった。

重賢は綱利の血は引いてはいないものの、その生母(宜紀の祖母)で浪費家の清高院の血を引いているのが不思議とも思える。
歴史の不思議さは、血を越えてこういう高潔な英雄を輩出した。

 時代が下って現在では細川家と三井家は親戚関係にある。これも歴史の不思議さではあるが、「不埒なる御家柄」の話は禁句なのかもしれない。

 

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■可惜人生を棒にふる

2023-06-29 06:16:27 | 徒然

 「可惜」は「惜しむべし」と読むのだろうが、正解は「あたら」である。「・・・人生を棒に振る」「・・・好機をにがす」などと使う。
「可惜」は「惜しい」「残念」の意である。
今回はその「可惜人生を棒にふった」細川一族のお二人を御紹介しよう。

     +ーーー忠隆ーー+ーーー忠恒 
     |    |
     |    +ーーー忠春ーーー忠重
     |

     +ーーー興秋
     |
細川忠興ーー+ーーー忠利ーー+ーーー光尚ーー+ーーー綱利==宣紀
                              |     |                 ⇧
          |      +ーーー利重ーーー宣紀
          +ーーー尚房
          |
          +ーーー元知

その1、「肥後の書家・陽明学者 北嶋雪山の生涯」という青潮社出版の社長・高野和人氏の著書がある。
    主人公となった北嶋三立(雪山)は300石取で、仲間と共に熱心な陽明学徒であった。
    徳川幕府が陽明学を異教となすと、寛文九年(1669)十月、藩主・綱利(27歳)の陽明学徒追放事件が勃発する。
    雪山を始め19名の有能な士が追放された。その処分に付いて諫言をしたのが忠利の末子で綱利にとっては叔父に
    あたる元知(29歳)である。南条元信(室・細川興秋女鍋)の養子となり、長岡元知と名乗り家老職を勤めていた。
    その諫言に対し綱利は「永蟄居」の処分を為したのである。翌年には屋敷まで召し上げている。
    処分が解かれたの元禄十年(1697)九月のことであり28年という長きに及んだ。これだけの長きに亘ると綱利の気分を相当損ねたものと思われる。
    元知室が米田是長女・吟であるため、嫡男・是庸は若干15歳で世襲家老・米田家(賜長岡姓)の五代目(求政を初代とし)の当主となった。
    父の永蟄居から8年、勝千代の成人を待っての綱利の計らいとも考えられる。

    熊本藩年表稿は「長岡監物の外孫三渕勝千代(実は長岡元知の嫡子)を監物の養子とし、監物を隠居させ、勝千代を長岡監物是庸と称させ家老に列す」と記す。
    是庸は寛文三年(1663)の生まれだから、父の永蟄居処分の頃は7歳である。
    どうやらこの時期三渕家に引き取られたらしいが、このことについては三渕家の系図では確認できない。


その2、綱利の継嗣・吉利が19歳で死去すると、綱利は徳川綱吉の側近・柳沢吉保の三男を養子にすべく奔走している。
     前にご紹介したようにこの企みは頓挫した。そこで弟(新田藩主)利重の次男・利武を養子と為した。これが宣紀である。
     正史に於いては伺えないが、細川右京(内膳)家資料集 に、綱利の継嗣に関するお身内のみが承知しておられたと思われる記事がある。

    それは、細川内膳家四代の忠重が藩主・綱利の後継争いに敗れ、綱利により隠居を強要されたとするものである。(31歳)
    そして次の藩主となった宣記(綱利弟・利重二男)により「押籠め」の処分がなされたという。
    30年にも及ぶその処分は解かれることもなく忠重は61歳で亡くなったが、内膳家の墓所(瑞巌寺)に埋葬する事も許されず、久本寺が墓所となった。
    又檀那寺である瑞巌寺にすでに埋葬されていた生母や奥方も改葬が指示され久本寺に移されたとされる。

    正式には表に出ない秘事を、あえて著者の菅(細川)芳生氏は内膳家の資料から明らかにされた。
    細川右京(内膳)家資料の著編者・菅(細川)氏は、綱利公の後継者として忠重を推す勢力があり、後継争いがあったとされる。
    そのことがもたらした結果として、隠居・押籠・内膳家墓地への埋葬の不許可に至ったものだと結論づけをされている。
    平成二十年八月菅氏のご尽力により瑞巌寺跡の内膳家墓地は改装され、忠重夫妻と生母のお墓は久本寺から移された。

    歴史の表に出てこない隠された真実は背筋をぞっとさせるものがある。

そんな二つの事件は、気持ちを陰鬱なものとさせるが、丁度その時期、越後騒動事件に連座して遠島(伊豆大島島流し)の処分を受けた小栗兵庫(美作弟)の三人の子、岡之助(8歳)、八之助(6歳)、六十郎(4歳)、小三郎(2歳)が細川家に預けられた。
延宝九年(1681=天和元年)七月のことである。竹の丸の御質屋に供をしてきた乳母らと共に押し込めとなり、八之助・小三郎は夭折、岡之助・六十郎は享保五年(1720)八月に至りようやく公儀のお許しが出た。39年の長きに亘る梗塞状態が解かれた。
上の二つの事件は丁度そんな状況の中に在る。公儀の処分だとは言え綱利はどういう気持ちで幼い子供たちの成長を見ていたのだろうか。
そして、このことは長岡元知・長岡忠重の処分にどう影響を与えたのだろうか。
怨念めいた処分にも思えるが、綱利・宜紀の心の底は伺うことは出来ない。

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■迷君?汚名を重ねた綱利公

2023-06-28 06:07:31 | 歴史

 細川家家臣に「薮田氏」が在る。この薮田氏の祖は「柳沢市政れていた。
実は中学校時代のクラスメイトに同姓の女の子がいた。もう10数年前同窓会に出かけたらアメリカ在住だと聞いた。
そんなこともあり調べていく中で、市政(重守)なる人物が柳沢吉保の一族(女系外戚)であることが判った。
大和郡山の「柳沢文庫」にお尋ねして確信となった。又、福富真紀氏著「徳川将軍側近の研究」を御紹介いただいた。

なぜ、柳沢一族の薮田氏が細川家家臣となったのか?薮田氏は柳沢家の家老職を務める家柄だが、その二男が細川家家臣となり、柳沢家の取次役を務めたのであろう。
細川綱利は水戸家出身の奥方が延宝三年に亡くなると、水戸家とは関係が良いとは言えないかった柳沢吉保に接近、江戸では巷間「夜中越中」などと不名誉な綽名を付けられるなど、夜な夜な柳沢家に出かけては来客の世話などを勤めている。
(奥方の兄、松平頼重は元禄八年に、水戸光圀は元禄十二年に死去している。)

宝永三年四月、後を託すつもりの次男吉利が亡くなるという不幸を迎えると、綱利は柳沢吉保三男安基を養子に所望するという奇手に打って出た。吉保も了解したらしい。
ところが老中稲葉正往が「国許の家中は同心するのか、近親はいないのか、無縁の者の養子は御条目にたがう」として、反対したらしい。
福富氏著によると、正住はこの件に関し将軍や吉保の不興をかい失脚したと言う。正住は宝永四年に隠居している。
細川家と稲葉家との関係は、明智の血を通して春日局との懇意まで遡る大事な関係だが、綱利も罪なことをしたものだ。
綱利が弟・細川利重の二男宣紀を養子に迎えるのは其の直後である。しかし家督を譲ることはせず、また柳沢家に通うためか?、なかなか帰国せず、先にご紹介したように「鸚鵡籠中記」に、綱利が帰国せぬのは、「帰ればお国で押込に遭うからだろう」との噂が書かれる有様である。
宝永六年一月将軍綱吉が死去すると、柳沢吉保も力を失い同年六月には失脚隠居、又生母・清高院も死去する。
それでも藩主の座にしがみついて不名誉な噂が流れる中、綱利の側近の江戸家老・木村半平が綱利の居間に寝ずの番で二日に亘り諫言を重ね、ようやく隠居したとされる。
名君と呼ぶには大いに躊躇する人物だが、「綱利公のお陰で」と仰るお宅が多い事も事実である。

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■帰国をこばむ藩主

2023-06-27 06:28:32 | 歴史

 「鸚鵡籠中記」と言う記録が残るが、この中に宝永四年五月十九日之条に「頃日の江戸沙汰ニ云、細川越中守(綱利)今年も在江戸の事は在国にては'、あのふ行跡にては執権共に押し込められるべきやとて在江戸のよし」と書かれており、江戸で噂が立っていたことが判る。
執権とは家老その他の重臣を指しているが、「御代々様御参勤御帰国控」(抜粋)を眺めてみると、赤穂浪士預かりの数年前から明らかにその行動がおかしいことが判る。

元禄十二年・十四年・十六年と四月上旬には帰国の暇賜を得ているが、生母・清高院の病気を理由に九月~十一月と帰国が遅れ、わずか五か月ほどの熊本滞在で江戸へ下(参勤交代)っている。
宝永ニ・三・四年には堂々と江戸滞府即ち帰国はしない旨の届け出をしている。
鸚鵡籠中記の記述が現れるのはこの時期、宝永四年のことである。
生母・清高院又綱利自身も大変な浪費家で、家老松井興長からそれぞれ痛烈な諫言を蒙ったが、後のいろいろな史料があからさまに記述するように、藩の財政が立ちいかなくなるほどであった。
豪放磊落な気質であったとされるが、幼くして藩主となった時には父を始めその誕生を喜んだ曽祖父・三齊はすでになく、諫言した家老・興長も19歳の時に死去すると、重しがまったくなくなり自由奔放な人格を形成したのであろう。
多くの子女(二男九女)を為したが、正室(水戸徳川家・光圀実妹)が五女を為したがすべて夭折した。その後の六女以降のお子は、正室死去後の側室の腹によるもので、意外と恐妻家であったのではないかと思われるし、母思いの人物像が見て取れる。
元禄十六年に帰国、翌宝永元年に参勤後は以降十年間、熊本に帰国することはなかった。余程江戸がお好きであったと思われる。

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一、元禄十二年(1699)四月十四日御暇被仰出 八月廿五日江戸御発駕 九月七日熊本御着
     此年御実母様御病気ニ付 依御願至秋御発駕
一、同十三年二月廿八日熊本御発駕 四月三日江府御着
一、同十四年四月十二日御暇被仰出 八月廿五日江戸御発駕 自大坂中国路御旅行十月四日熊本御着
     御実母様遂年被為至御老齢候付 依御願三伏中御滞府
一、同十五年二月廿五日熊本御発駕 四月三日江戸御着 小倉路中国路御旅行
一、同十六年四月十三日御暇被仰出 九月廿八日晩江戸御発駕 十一月五日熊本御着 小倉路御旅行
     此年御老母様御侍養之儀依御願秋之末御発駕
一、宝永元年(1704) 元禄十七年改元 三月廿五日熊本御発駕 四月三日江戸御着
一、同二年四月十一日依御願今年可為御滞府之旨御奉書御到来
一、同三年三月廿九日御滞府御願之通井上河内守正通様御宅江御招被仰渡之
   (四月廿日、二男吉利死去・19歳)
一、同四年三月十九日大久保加賀守忠増様御宅江右同断
   (鸚鵡籠中記記事)
一、同年八月十一日 御老母様為御侍養 今年茂御滞府御願之通 秋元但馬守喬朝様於御宅右同断
一、同五年御滞府
     此年正月如御願利武公 後宣紀公と御改 被為成御養子
     四月利武公御国江之御暇被仰出 七月初而熊本御着
一、同六年御滞府 此年利武公初而御参府(柳沢吉保隠居す)
一、同七年御滞府 此年二月十二日滞府之儀宣紀公江御暇御願之通同十六日被仰出之
   (この年三月廿九日・生母清高院死去92歳)
一、正徳元年(1711) 宝永八年改元 四月十二日御暇被仰出 此年茂御滞府尤御滞府御願之儀不相見
一、同二年御滞府 此年御足疾ニ付四月十三日以御使者御家老木村半平御参勤之御礼御献上之
     此年七月十一日綱利公御隠居 宣紀公御家督(家老木村半平の諫言により隠居す)
一、同四年十一月十二日綱利公御逝去(享年72歳)

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興(三斎)文書-元和九年」を読む (3)

2023-06-26 16:55:15 | 史料

 忠興(三斎)文書-元和九年

388、九月廿五日書状
 ・谷下総病ム、喜齋ヲ遣ス 谷衛長ノ知行ノコト失念ス

389、十月十二日書状
 ・亥子ノ祝儀到来、祝着

390、十月十三日書状、
 ・中国ノ鶴ト筑前堺ノ鮭ヲ給、喜悦

391、十月十六日書状
 ・本多康紀歿ス

392、十月廿五日書状
 ・肥後ゟ到来ノ鷹ノ鴈給、祝着

393、十月廿九日書状
 ・秀忠ヨリ鷹ノ鶴拝領

394、十一月十五日書状
 ・筑後塩鴨ノなし物給、祝着

395、十一月廿三日書状
 ・唐猫ヲ所望ス

396、十二月十三日書状
 ・瓜ノ香物等給う喜悦、鷺取ノ隼アラバ借リタシ

397、十二月十四日書状
 ・忠利ヨリ鷺取ノ隼届ケラル

398、十二月十八日書状
 ・上野焼ノ水指給、満足

399、十二月廿日書状
 ・忠利ヨリ借用ノ隼ヲ返却ス

400、十二月廿二日書状
 ・美濃柿百他給、祝着

401、十二月廿三日書状
 ・忠利、三斎蔵入地へ走入リシ百姓ノ返還ヲ求ム
 ・忠利、三斎代ノ追放人ヲ呼ビ返サントス、領内ニ人ヲ多ク置キタシトノ意向ヲ察シ忠利ノ取計ヒニ委ス
 ・三斎代ニ他国ノ走百姓ヲ領内二入置ク、忠利領内百姓ノ三斎蔵入地ヘノ走人ハ返サズ
 ・幕府ノ法度ニハ本国へ返者ハ構ナシ、走セ損・取徳
 ・忠利直々ノ構アル者ハ法度ニ拘ラズ理非ニ入ラズ返サン、以来ノ走人ハ理非徳

402、十二月廿四日書状
 ・忠利、三斎蔵入地ヘノ走人ヲ免ズ
 ・走人ニツキ忠利側ノ申分ニ真実ナラザルコトアリ、理非ノ聞手別ニナクテハ解決セズ、理非決シ難ケレバ外聞悪シ
 ・理非ノ裁断ハ他国衆カ火起請ニ依ラザレバ決シガタシ、三斎側ノ申分ヲ真実ト為スニハ非ズ

403、十二月晦日書状
 ・歳暮ノ祝儀、祝着

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■熊本最大の水害は・・

2023-06-26 06:49:26 | 熊本

 今日6月26日は昭和28年の熊本大水害の日なのだが、当時小学校6年生だった私が通っていた大江小学校では学友27名が死去した。
我が家は鴨居の上まで水がきてすべての財産は流失し、戦後8年の母子家庭には大きな試練となった。

ふと熊本の歴史の中で最大の水害はいつのことだろうと思い立って調べてみた。

 熊本藩年表稿によると、寛政八年(1796)六月十一日に熊本を襲った大洪水(辰の年の水害)は、高さ1丈6尺(約4.8メートル)の古今未曾有の洪水と成り、熊本府内京町山崎の外全域浸水、潰家2,927軒、田畑15、202町、損毛362,000石に達し内坪井の流長院では九重の石塔の六番目、約6メートルの高さに達したという。
どうやらこれが熊本の歴史上では尤も大きな洪水なのではなかろうか。

この洪水は高さ4.8mとしながら、その流長院の九重の石塔は6.0m迄水没したというのは話のつじつまが合わないようにも思える。計測の基準が異なるのだろう。
この九重の塔は現地に出かけ写真に収めた記憶があるが、管理が悪く発見できずにいるが、坪井繁栄会のサイト「坪井まちあるき」にその姿が写されている。
それにしても損毛36万石とは大変な数字である。一方ではこの時の死者は59人であったとも言い、昭和28年の死者422人に比べると断然少ない。

 今年の熊本の梅雨は中休み状態がずっと続いて居り、7月に入ってから強い雨が降るのではないかと心配している。
それでも眼下の健軍川はいつもの涸川状態に流れが出来て一応川の様相を呈しているが、これが一端強い雨が降ると怒涛の川となる。
溢水の恐れはないように思うが、28年の水害がトラウマとなっており高台のこの地に住み着いているが、それでもこの季節になると雨が気に成って仕方がない。

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■興津弥五右衛門に対する風評

2023-06-25 06:48:50 | 史料

 三斎の孫・光尚にとって爺様の存在は如何なるものであったのだろうか。
三斎が亡くなると光尚は八代の不穏な空気を感じてすぐさま丹羽亀之丞を八代城下に派遣して、三斎附の侍たちの動向を逐一報告させている。
それは三斎の死(十二月二日)の直後、十二月九日に始まり、翌々年の正月十八日迄13回にわたり報告書が上げられた。現在「丹羽亀之丞言上之覚」という貴重な資料として残されている。
その11番目は正保三年の七月十四日付だが、ここに後に殉死する興津弥五右衛門にかんする風評が取り上げられている。
「『殿様(光尚)を御主だと思っている』と、口では言っているが、内心は少しもそうは思っていないようだ」と・・・
弥五右衛門の殉死は正保四年十二月二日のことだが、ただただご恩を蒙った三斎に殉死することを思い、このような評判が生まれたのかもしれない。
但し、森鴎外はこの文書を承知していない。もし知っていればいささか小説「興津弥五右衛門の遺書」の筋書きが変わっているかもしれない。
その死に際し、主・光尚の厚意に対し心痛むことはなかったろうかと言う私の密かな思いである。

        一、三齋様江戸御屋敷御留守居ニ被召置候沖津弥五右衛門 三齋様被成
          御逝去候而後ゟ傍輩共申候 殿様を御主と奉存候由申候得共内
          心ハ少も左様ニ不存様ニ相見申候由此表ニ而沙汰仕只今加様之儀致言上
          候儀最早跡ニ可罷成与奉度候得共重而御心得ニ茂可被為成る候と存
          申上候/特又此表御侍衆 殿様江戸御發足被遊御延引候故何も気
          遣ニ存躰ニ御座候/私共も乍憚奉存候ハ此表之御仕置之儀ニ付被為得
          上意之処ニ江戸御發足相延気遣ニ奉存候/猶相替儀も御座候て可
          致言上候此等之趣宜願御披露候恐々謹言
              六月廿五日            丹羽亀之丞
                 藤崎作右衛門殿
 

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■通潤橋国宝指定へ

2023-06-24 06:27:29 | 熊本

             
           ゆんフリー写真素材集・No.2799から引用

 重要文化財の指定を受けていた山都町(旧・矢部町)の通潤橋が国宝指定になるようだ。おめでたい限りであり地元はさぞお喜びのことであろう。
私の年代は矢部町の方が通りが良いが、かってこの地は阿蘇氏の居館「浜の館」が有りまさに山の中の都「山都町」となった。
奥方の実家が宮崎の延岡という事もあり、矢部経由で何度も通ったことがある場所だが、通潤橋や阿蘇氏の浜の館跡を拝見したのは一二度のことである。壮大な水のアーチの姿は見たことがない。
嘉永7年(1854)矢部手永の惣庄屋の布田保之助により、水を得ることのできない白糸地区に灌漑をするために3本の水管を通すこの石造アーチ橋が築造された。
肥後の石工集団の実力は名高く、各地に石橋が設けられているが、その技術の頂点にあるのがこの通潤橋である。
熊本大地震で被害を受け、その後の大雨に於いても更なる被害を受けたがその修復も終わり昔の雄姿が蘇った。
そのタイミングを受けての今回の国宝指定の発表となったように思えるが、又多くの人々が訪れることになるのだろう。
水が落とされるシーンを見てみたいと思うが、さて爺様の望みは叶うだろうか?                 

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■忠利小倉城入城

2023-06-23 05:59:04 | 歴史

                    

 元和六年(1620)の末、細川忠興(58)は江戸に於いて「以之外ニ御煩被成」(もっての外にお煩いなされ)て気弱になり、継嗣忠利に家督を譲り隠居、三斎宗立と号する。
帰国していた忠利は急遽江戸へ下るが、到着するのは明けて七年の正月二日のことである。その日のうちに江戸城に登城し将軍に拝謁している。そして、正月七日家督相続が決定した。
二月になると三斎の体調も回復し、忠利ともども御暇を給わり帰国、元和七年(1621)六月廿三日に到り忠利(36)はそれまでの居城・中津城から小倉城へ入城した。
慶長十四年(1609)四月に結婚した千代姫との間に、元和五年には嫡子・六丸(光尚)が誕生しており、以来過ごした中津城から共に小倉城に移徙したが、元和九年(1623)に至り正室の江戸居住が仰せ出され十月四日千代姫は14年間過ごした豊前国を離れた。

忠利の豊前国に於ける治世は寛永九年(1632)肥後移封までの11年間に及ぶ。

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■御扶持方御切米御帳(19‐了)

2023-06-22 05:28:11 | 先祖附

   御町奉行江御付衆
一 貮拾人 壹人ニ付貮人扶持 御切米七石宛
            田中兵庫・貴田角右衛門組
〇御扶持方合四拾人扶持
〇御切米合百四拾石

   御飛脚番・御鉄炮衆
一 拾五人 壹人ニ付貮人扶持 御切米八石完
            堀江勘兵衛組
一 右同断 右同断
            道家七郎右衛門組
一 右同断 右同断
            町 市丞組
〇御扶持方合八拾八人扶持
〇御切米合参百五拾弐石    人数四拾五人

   御留守居御鉄炮衆
一 六拾九人 壹人ニ付貮人扶持 御切米四石宛
            豊岡理助・矢野勘左衛門組
一 四拾人  壹人ニ付貮人扶持 御切米五石宛
            上林次郎左衛門組
〇御扶持方合貮百拾八人扶持
〇御切米合四百七拾六石    人数百九人

   御掃除之衆
一 三拾人内 六人ハ壹人半扶持四石宛
       貮拾余人ハ壹人半扶持三石宛
            上林次郎左衛門組
〇御扶持方合四拾五人扶持
〇御切米合九拾六石

   御花作
一 貮人   扶持八石 小堀長左衛門
一 四人内  壹人ハ壹人半扶持五石
       三人ハ壹人扶持三石五斗完
            同人組
〇御扶持方合六人半扶持
〇御切米合貮拾三石五斗    人数五人

   所々御蔵帳付・御蔵子
一 六人  壹人ニ付貮人扶持 御切米五石完  熊本御蔵帳付
一 拾貮人 壹人ニ付貮人扶持 御切米三石完  同所御蔵子
一 貮人  壹人ニ付貮人扶持 御切米五石完  河尻御蔵帳付
一 壹人  壹人ニ付貮人扶持 御切米四石完  同所御蔵子
一 壹人  壹人ニ付貮人扶持 御切米五石   高瀬御蔵帳付
一 壹人  壹人ニ付貮人扶持 御切米四石   高瀬御蔵子
一 壹人  壹人ニ付貮人扶持 御切米五石   鶴崎御蔵帳付
一 参人内 壹人ニ付貮人扶持 御切米五石   同所御蔵子
      壹人ニ付壹人扶持 御切米四石     同
〇御扶持方合五拾参人扶持
〇御切米合百八石       人数貮拾七人

   御荒仕子
・上御臺所夫
一 参拾五人 壹人ニ付壹人扶持半 御切米七石宛
            矢津少兵衛・長常茂左衛門組
・正 二年之拘高
一 百九拾九人
     内
    百四拾壹人ハ壹人半扶持七石宛
    六人ハ   壹人半扶持四石宛
    五拾貮人ハ 壹人半扶持三石宛
            戸田惣右衛門・南野九郎兵衛組
  但此荒仕子ハ毎年入次第吟味仕召拘申ニ付依年人数多少御座候

・御鉄炮ノ薬はたき
一 拾貮人 壹人ニ付壹人半扶持御切米四石宛
            宇田長門・渡邊平左衛門組
〇御扶持方合参百六拾九人扶持
〇御切米合千四百六拾石    人数弐百四拾六人

   新地御鉄炮
一 百六拾九人   壹ヶ月五日宛御役仕候付壹
          人ニ付御扶持方五升宛被遣
            上林次郎左衛門組
一 百六拾人    右同理り
            緒方甚左衛門・西田惣右衛門組
〇米合拾六石四斗五升  壹ヶ月分也 
                人数三百貮拾九人
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     〇御扶持方五千八百四拾六人扶持
     〇御切米壹万七千七百壹石四升
     〇金大判四枚
 揔合  〇金小判百六拾四両貮歩
     〇銀子拾壹貫百拾壹匁
     〇大豆拾八石
     〇小豆七斗貮升
     外ニ
〇銀子七拾五匁    御賄銀壹ヶ月分
〇米七斗       御賄米壹ヶ月分
〇同拾六石四斗五升  新地鉄炮御扶持方壹ヶ月分
     人数合貮千四百八拾四人
      此外ニ寺社方御合力・女中方者此人数内ニ不入候

   正保貮年正月十一日    沖津作太夫印・判
                瀬戸五兵衛印・判
                阿部主殿助印・判

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■奇麗な風

2023-06-21 06:35:46 | 俳句

 神野紗希と言う女流俳人の編著「日めくり子規・漱石 俳句でめぐる365日」の6月21日は、子規の次の句が紹介されている。

            六月を奇麗な風の吹くことよ 子規(明治28年)

 明治27年(1894)夏に日清戦争が勃発すると、子規は翌28年4月近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月帰国の途についた。その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。喀血したことから、「鳴いて血を吐く」と言われているホトトギスに準えて、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。(ウイキペディアから要約)
この句はそんな時期の句である。

 最近引っ越した我が家は、以前の3階から5階に高登りした。東南角であるため、窓を開け放つと気持ちの良い風が部屋の中を吹き抜ける。
子規が言う「綺麗な風」の意が今一つ理解できないが、梅雨の中休みの時期に吹き抜ける爽やかな風だと考えると、私は子規と同じ感慨の中にある。
夜中も窓を開けて寝ると、風邪を引きそうな冷たい風が吹き抜けて心地よいが、ついでといえば「石わくど(蛙)」の大合唱が余計ものであった。
同じ時期漱石は「どっしりとしりをすえたるかぼちゃかな」(明治28年)という句をものにしている。
ふと次の句が浮かんだ。
            どっしりと尻据えて啼くわくどかな  津々

            

             

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■安場仁左衛門姑・少将という人

2023-06-20 06:29:29 | 人物

 ガラシャ亡き後細川忠興の継室とでもいうべき立場にあった松丸殿は、寛永六年六月十九日に死去した。
この松丸殿附の老女少将なる人は安場仁左衛門の姑(夫人の母)で、安場仁左衛門妻の死後松丸の指示により少将の子分と為された。
松丸はそのことを三斎へ遺書し、三斎もまた少将へ後立を約したとされる。
仁左衛門は安場家の初代、3代目が一平で赤穂義士首領・大石内蔵助切腹に当リ介錯、10代目が 安場保和 「幼名一平、後保和と改め、咬菜軒と号す。横井小楠の門に入る。明治元年徴士内国掛並に東海道鎮撫総督府参謀に任ぜられ、膽澤縣(現今岩手県の中)および酒田縣(山形県の中)大参事となれり。又熊本県の権大参事となりて藩政改革及び廃藩置県の二大事業を完成せり。其後大蔵大丞に任じ、又特命全権大使に随行し欧米を視察し、帰朝後福島県令となり、また愛知県令に転ず。至る所治績嘖々たり。其後元老院議官に任じ、福岡県令となる。此の時三大治績を残し、一は九州鉄道創設、二は門司の築港、三は筑後川の改修大工事を竣工せし如き此なり。実に良二千石の称ありき晩年は貴族院議員に勅任せられ、又北海道長官となる。」 

さてその「少将」とよばれた松丸殿附老女に関する記述は次の通り

 一、安場仁左衛門尉登城にて被申候は、松丸殿ニ而召仕候少将と申仁、前廉仁左衛門尉ためニしうと
   にて御座候処ニ、仁左衛門尉女房相果申候、其後松丸様御さいはんにて女房果候とも、仁左衛門
   を子分ニ仕候へ之由被仰付、契約仕候、然処ニ、今度松丸殿被成御遠行砌、 三斎様へ御書置被
   成被置候、持候而、少将中津へ被参候処、 三斎様被成御意候は、少将儀久敷奉公仕たるものゝ
                 
   儀も御やしないか被成間、〇得其意通被成 御意候ニ付、少将被申候は、仁左衛門尉と右之通契
   約仕申候間、仁左衛門尉ニ懸り申度通被申上候ヘハ、ともかくも心次第ニ可仕■候、うしろ立ニ  
   は、 三斎様を持候へ之由被 仰付、罷帰候間、為御礼中津江致参上度由、仁左衛門尉被申候間、
   一段可然候、其段式ア少殿へ申理、被参候へと申候ヘハ、はや右之通、式ア少殿へ申候ヘハ、尤
   之儀ニ候間、早々参候而可然由被仰候、各へ茂此通化申入之由、被 仰ニ付、如此候由被申候也、

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■松の丸殿逝去

2023-06-19 06:59:21 | 人物

 ガラシャは死に臨んで忠興に対し「お藤」の名を挙げ、これを継室にしないようにと遺言したと伝えられている。
「子共の事ハ我為に子なれは忠興君の為にも子也、改め言におよハす、三宅藤兵衛事を頼候也、此上にいはれさる事なから藤を御上へ御直し不被成様ニとの事なり」(綿考輯録・刊本212頁)

ガラシャが山深い味戸野(三戸野)で子を想い、良人を案じているなかで、忠興はお藤に「古保」を生ませている。
お藤を継室にしないようにというガラシャの想いは、嫉妬ともとれるし、忠興への当てつけのようにも思える。
ガラシャの芯の強さをうかがわせる逸話である。
その「古保」は筆頭家老・松井興長の室となった。小倉城にある「松の丸」の名は「松丸殿」に由来したものであろう。
この松丸殿が寛永六年(1629)六月十九日が死去した。

当時の日帳に次の記録が残る。
    一、松丸様夜前丑之下刻被成御果候、就夫、江戸へ御注進可申上ため、御飛脚両人申付、差上申候、
      小早之御船頭は河村喜左衛門尉、御飛脚ハ西村文右衛門与林二郎左衛門尉・佐分利作左衛門与吉
                            (有吉英貴)(米田是季)
      田久太夫、右両人ニ、我々言上之文箱之内ニ、頼母殿・監物殿ゟ之言上壱つ、同前ニ入、持せ上
                       (松井興長)(興長生母)       (木下延俊)
      申候、又我々ゟ江戸御奉行衆へ之状・式ア殿ゟ自徳院殿へ御状・右衛門殿ゟ自徳院殿へ之状、又
               (成定)  (坂崎) (坂崎成政)
      坂崎道雲ゟ一角・清左衛門方へ之状、一からけニして相渡、遣候事、

この「お藤」は、郡宗保の女だとされる。細川家に郡家があるが、これは郡宗保との関係は見受けられないが、郡氏の名を残すために綱利代、三淵藤正の子・氏正をして初代となして創家されたものと理解している。

三斎が「お藤」に宛てた書状が残されている。松丸から祝儀に小袖を贈られたことに対する礼と健康を歓ぶ、三斎の返書である。
忠興が三齋と名乗ったのは元和六年(1620)だから、この死までの約9年の間の書状であることが判る。
三齋は隠居後は「中津城」に在り、お藤は小倉城の中の娘・古保の近くで生活していたものと思われる。
死の直前、病に伏した義母・松丸をおもい、松井興長は義母の好物である季節外れの「楊梅=やまもも」や「野苺」を調達するのに奔走している。
葬儀は六月廿九日に執り行われた。

そして興長は松丸の墓石にするため、丸い大きな石を探すのに又奔走することになる。
細川家の肥後入国後、松丸のお墓は松井家の墓地、熊本市子飼町・松雲院に移されている。
その後、八代の松井家墓地・春光寺に移されたものと思われるが、確認に至っていない。

 

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■御扶持方御切米御帳(18)

2023-06-18 11:07:56 | 史料

            河尻御加子  
       村上七左衛門
       橋本勘左衛門 組

         貮人ハ       貮人扶持七石宛
         貮人ハ       貮人扶持六石五斗宛
   一 貮百五十貮人内貮百拾三人ハ 貮人扶持六石宛
            貮拾九人ハ  貮人扶持五石宛
            貮人ハ    貮人扶持三石宛 御舟番

   鶴崎御加子
       加々見善右衛門
       糸川長左衛門  組

         貮拾九人ハ     貮人扶持八石宛
         貮拾九人ハ     貮人扶持七石宛
         四拾八人ハ     貮人扶持六石五斗宛
   一 四百四拾貮人内三百拾八人ハ 貮人扶持六石宛
            拾七人ハ   貮人扶持五石宛
            壹人ハ    貮人扶持三石宛 御舟番

   〇御扶持方合千参百八拾八人扶持
   〇御米四千貮百貮拾五石     人数六百九拾五人
                

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