津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「神風連とその時代」という本

2006-12-21 21:26:14 | 書籍・読書
 帯には「狂信といわれても、信仰者として命を賭けて異文明を拒否した神風連とは何なのか」とある。熊本在住の日本近代史家・渡辺京二氏の著作である。氏は「私はいわゆる郷土史家たちのみみっちい党派心がつねづね不愉快でならない」とし、「肥後にはいまだに小楠や実学党にたいする隠微な党派的反感が残っていて・・・」と記しているが、果して神風連をどのような目線で捕らえておられるのか興味深い。今から読むぞー。

    洋泉社MC新書 定価1700円+税
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赤穂義士雑感

2006-12-17 09:24:41 | 徒然
 時期も時期だし、赤穂浪士に関して考えた。なんとなく大高源五という人に興味がある。俳句に堪能だったらしいが、そのことが討入りの日の決定に繋がった事はよく知られている。源五の一族は、実弟小野寺幸右衛門と養父小野寺十内や、実姉の子・岡野金右衛門らが参加しているが、それぞれの働きも目覚しい。二人の子や孫を失った母親の心情を思うと、居たたまれない気がするが、源五の母親に対する書簡などをみると、そのすばらしい文面に彼の深い愛情に満ちた気持ちが察せられる。米屋の手代に変装した金右衛門は、米を買いに来る吉良家の女中に思いを寄せていたらしいが、成らぬ恋であった。小野寺十内は大変な愛妻家で、この人の書簡もまた胸をうつ。その妻丹は、討入りに参加しなかった実兄と縁を切り、十内や幸右衛門の七七忌をすませると、食を断って夫・子の元に旅立ったという。それぞれの行動の何と高雅なことか・・・

 教育基本法が改正される事になったようだが、果して素晴らしい「国家の品格」をもった「美しい国」が醸成されるのか、些か心配でもある。源五をはじめとする人々の行いこそが、最高の教育をへた人の行いと思うのだが、如何。
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もしやもしや

2006-12-15 21:20:57 | 徒然
 ある工事現場が着工の運びとなり、近隣の挨拶廻りと相成った。住宅地図でよくよく調べていると、現場の隣のお宅はちょっと珍しい苗字のSさん、ピピッと閃くものがあった。細川光尚に殉死した人のなかにS氏がある。そのご子孫ではないかと思うのである。今日はあいにくご不在であったが、明日また足を運びお目にかかる事を楽しみにしている。当たればいいなーと念じている。
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上野氏小倉から熊本へ

2006-12-10 09:47:31 | 歴史
 kokurakoさんのブログ「小倉っ子日記」にはまっている。これまで豊前小倉の小笠原家や細川家について、興味深いコメントを書き綴られて来たが、10月18日よりこのかた菜園場窯に関する検証をされている。非常に興味深く面白い。永尾正剛氏の「豊前上野焼および菜園場窯に関する編年史料」をベースにしてのものだが、関係資料を読み込まれての解説は迫力がある。この様に平易に解説を目のあたりにできる事は幸せである。細川家の肥後入国後の上野氏(アガノ氏)は、山鹿に入り山鹿上野窯を始めるが、この窯は山崩れで崩壊したという。つい先ごろ、窯跡から相当量の陶器類が発見された事が新聞で報じられ、研究もまた一段と加速するものと思われる。八代市立博物館の福原透先生からかって、論文「帰化陶工の実像について-山鹿上野焼陶工の事例を中心に」をお贈りいただいたが、kokurakoさんの研究にリンクして前後の関係がよく理解できる。福原先生の細川家お庭窯「牧崎窯」の研究も興味深く、これも何時の日か窯跡の特定などができることを楽しみにしている。
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光秀の娘

2006-12-06 23:22:54 | 歴史
 本妙寺(加藤清正の菩提寺)の塔頭・東光院に光秀の娘のお墓がある。表の案内板によると、明智光秀五女因幡守豊前夫人・松本弥々の墓とある。喜多村系図もよく分らないが、明智氏は本当によく分らん・・・・
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確執

2006-12-05 22:20:47 | 歴史
 宝暦期における細川重賢の、堀平太左衛門の大奉行登用については、沢山の抵抗勢力があった。肥後藩に於ける「宝暦の改革」の成功は、藩主重賢が平太左衛門を信じて、全てを任せた事による。
「名君肥後侯の堀平太左衛門 平士より御家老に昇進仰付られける時 御家中一統帰腹致さず 後々は平太左衛門を一統え下され候様にと願出有之候処 御家老扱にて宥され候処両度に及び是非下され候様にと一統願出候処 御家中惣登城にて御逢有之仰出さるには 家中一統平太左衛門を貰い度き段願出候趣逐一聞届けたり 畢竟平太左衛門義(ママ)我心に叶ひ用ひ候故の儀なれば 家中の者我れを如何様とも致すべきと仰せ出されければ 一統誠に恐入りひれ伏候由 誠に有難き事どもなり 夫限り再び平の字も云い出す人無之治まりし由」 これは小倉藩士小島礼重著「鵜の真似」に記された一文である。この様な抵抗勢力(旧重臣)と、重賢・平太左衛門らとの確執が他藩にも洩れていた事が伺える。
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お風邪など召しませぬ様に・・・

2006-12-04 23:46:39 | 徒然
柳女(佐々木久子さん)みたいに
   寒き夜を 燗熱くして 一人酒  と行きたいところだが、おあいにくにお酒が無いから、焼酎などをロックで一杯(そして又・・)こんなに寒いと「こりゃー失敗だ」
些か酔いが廻って自らのブログを開くと、「なんだ日曜日は暦どおりにお休みですか・・」こりゃー何か書かないとまずいなー、などと思いながらタイピング。 明日は氷点下になるみたい、先ほどちょいと外に出て空を見上げたら、お月様はまん丸「お寒くは有りませんか・・・」皆々様お風邪など召しませぬ様に、願いあげます。
  吾もまた 走りたくなる 師走かな   お粗末・・・
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ガラシャの最後

2006-12-02 23:49:41 | 歴史
 ガラシャ夫人の最後とは如何なるものであったのか、真実を極めるのは至難の業だが、残された史料は私達の常識を覆してくれる。「小笠原(少斎)家」の先祖附は、ガラシャ生害の後、「長押ことに焔硝を入置火かけ」少斎も追腹したと記されている。なるほどと思わせるディティールである。火は部屋の四方を走る長押から一気に天井へと打ち上がり、しばらく後には屋根裏へと廻り、ガラシャをはじめとする死者を天国へと誘うために、大きな火柱となって落下したのであろう。その時まで、ガラシャの遺骸は何等損なわれる事なくあったであろう事が、充分理解できるのである。史料の一行の言葉が語る重みを思い知らされる。「熊本史談会」の勉強での「目から鱗」である。
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掃苔

2006-12-01 19:40:56 | 徒然
 師走になったとたんこの冬一番の寒さとなった。しかしお昼はシャツ一枚でいいようなよい天気、又々市営花園墓地を訪ねる。清正公が眠る本妙寺の本堂脇を抜けて墓地に入ると、2000とも3000ともいわれる墓石が並んでいる。古そうなお墓を目掛けて突進、今日は猿木家、都甲家、国友家、林家を発見した。猿木家は小堀流踏水術の名人・猿木宗那が有名だが、実は30数年起居をともにした母方の祖母の父親である。同じDNAを共有するご先祖様に敬礼。都甲家は森鷗外の著作「都甲太兵衛」でおなじみのお宅、かって森鷗外の研究家の方からお墓の所在を訪ねられ、市内の都甲姓のお宅に電話攻撃をかけたことがあった。尤も二件目にして事成就した。太兵衛個人のお墓は処分されたと伺ったが、寄墓として古い大きな墓石が鎮座していた。国友家、林家なども同様、刻されている文字が見えぬ程の、古い墓石が並んでいる。まだまだ発見の予感があるが今日はひとまず退散。本堂境内の大銀杏の木が落ち葉して、黄色い絨毯状態になっている。銀杏の実を収穫し様と試みたが見つからず・・・残念
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