熊本大地震後、奥方が走り回り現在住んでいる住まいを見つけ出し、ここでの生活がそろそろ7年になる。
狭い部屋に本や資料にうずもれて生活しているが、住めば都でここが終の棲家でも良いと考えていた。
現在の住まいは買い物や銀行や病院等、大変便利がよく気に入っている。処が奥方はニ三か月前から、引越し先を見つけ始めた。
老後は今より少しゆったりした部屋で楽をしたいというから、反対だとは言えない。
奥方はタブレットを駆使して周辺地域のマンションを調べ始めた。そして自転車で走り回り確認をし始めた。
歩いて10分ほどの処にある物件が気に入ったらしく、同意を求めてきたのでOKしたが、一歩先を越されて駄目になった。
その数日後、今度は歩いて5分もしないところにあるマンションの5階に2軒が空きが出ることが判った。
まさに「灯台下暗し」であった。今日は退去されたばかりの部屋を見せていただいた。
奥方は大いに気に入ったようで、明日内見の予定が入っているという事で早速内金を入れて抑えた。
というのは今一つの南東角の部屋が月末退去予定だそうで、こちらに大いに気持ちを動かされているからだ。
どうなるかは判らないが、いずれにしろ5月内には引っ越しと相成った。
本や資料を眺めまわしながら、これを整理して持ち出し、引っ越し先で本棚に戻す作業を考えると、気持ちがどんよりとしてしまう。
「傘寿一歳」の老体に鞭打って、最後の御奉公を務めなければならない。
東大史料編纂所の「大日本近世史料 細川家史料・26」において、荒木左馬助(のちの細田栖隠)の公儀召出しに尽力する、忠利・光尚の
様子が紹介されている。
荒木左馬助は望まれて荒木局(村重女)の養子になっている。
荒木村重と入魂であった烏丸大納言から光尚に対し左馬助の将軍家への奉公について頼まれ、忠利が代って老中・松平信綱に申し入れている。
忠利はその翌年十八年三月十七日、死去することになる。
■(寛永十七年) 四月廿五日松平信綱宛書状
村常 烏丸光廣 細川光尚
一書申入候、仍荒木左馬事、からす丸大納言殿同名肥後ニ頼被申候様子御座候、當月ハ間も無御座候間、
重而之御月番ニ肥後可得御意候、御取成も御座候者、可忝候、恐惶謹言
卯月廿五日
信綱 細川忠利
松平伊豆守様
人々御中
徳川家光
尚々、荒木左馬事ハ、別之儀ニ而ハ無御座候、 上様へ御奉公之事ニ付得御意度と
肥後申候、以上
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■(寛永十七年) 五月十四日松平信綱宛書状
昨日者御使者、忝存候、一昨日御馬拝領、忝存付而致伺公候通被聞召、為御禮被仰越候段、御事多内御慇懃
之儀共候、次ニ、荒木左馬助殿之儀被聞召由、忝存候、尚期後音候、恐惶謹言
五月十四日
松平伊豆守様
人々御中
上記二つの書状から、この時期左馬助が徳川家光への奉公を望み、これが承認されたことを知ることが出来る。
しかし僅か四年後、左馬助にとっては思いがけない事件が起こる。城中にあった養母・荒木局の流罪事件である。
その原因はよく判らないが、左馬助は連座の罪で細川家へお預けの身となるのである。
その後は細田栖隠を名乗り、荒木村重の血筋は細田氏として細川家に仕え明治に至っている。
■(寛永廿一年)五月十日御老中より之奉書)
一筆申入候、荒木左馬助事、母不届有之付、其方へ被成御預候間、其国可被指置候、
扶持方等之儀委細留守居之者迄可相達候、恐々謹言
五月十日 阿部対馬守
阿部豊後守
細川肥後守殿 松平伊豆守
(綿考輯録・巻六十一)
綿考輯録は次のように記している。
荒木左馬助ハ攝津守村重の孫ニて、父ハ新五郎と申候、左馬助幼少にて親ニ離れ、浅野但馬守殿江罷在候へ共、
御直参を願ニ而京都に居住、烏丸光広卿前廉村重と御入魂の訳を以江戸に被召連、光尚君へ被仰談候、則忠利君
より被仰立、公儀江被召出候、其比御城女中あらきと申人子無之ゆへ左馬助を養子可仕旨上意有之、親類ニ而も
無之候へとも上意ゆへ親子のむすひいたし候、然処右之女中故有て今度流罪被仰付候間、左馬助も其儘被差置か
たく御預ニ成、後熊本ニて果候
正保二年「御扶持方御切米御帳」には「金小判三十両 細田清印」という記載が有り、まだ知行が確定されていないことを伺わせる。