津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

矢野吉重家の史料が・・

2011-10-31 23:23:58 | オークション

 矢野家及び矢野吉重史料が・・・・終了日時 11月2日21時38分 只今5,361円

          
http://page11.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/n100006719

 一寸興味をそそられて居りますが・・・・先祖附等が含まれていて大変貴重なものだと思われますが・・・

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有吉家文書「年中行事抜粋」(四十七)四日政府出初、同日時習館出初、東榭御入之事

2011-10-31 17:59:36 | 有吉家文書

 ○ 四日政府出初

一、麻上下着四時出仕之事
     但上張有無勝手次第
一、御熨斗坊主持出候間座順之通
  頂戴仕候事
            御奉行
            御目附
            御郡御目附
            御感状頭
  右之通一切ニて詰間江罷出候事
     右之外御勘定所御目附御郡代
     根役等有之候節ハ本行一同ニ罷出
     候事
一、正福寺定例御祈祷之神酒供物等
  出候間坐順之通頂戴欠席之人江者
  供物等少完包分出席之坊主より
  差出候事
     但追々御祈祷之品々出候節右之通ニ
     候事
  付紙
     文化十三年正月四日神酒供物出不申
     候付寺社方江承候処戌年より御省
     略中ハ御礼計出候由
一、五日頃まてハ御用番茂見計早引
  不苦加番も十五日まてハ早引勝手
  次第之事


 ○ 同日時習館出初

一、五半時揃ニ而麻上下着同刻例之通
  出席前別黙之事
一、詰間江者助教学校御目附罷出候
  事
一、講堂江師役繰付ニ相成候上学校
  御目附より案内有之御使番不罷出出席
  堂中東側北より二間半五畳目ニ座着不相替目出度段
  会尺いたし直ニ詰間江退去之事
一、助教以下ハ堂中北頭ニ西側より南側ニ
  折廻しニ座着之事
     但今日之師役は助教初算学師
     等館中之師役待てニ而武芸藝之師役
     不罷出候事
一、右相済又学校御目附詰間江罷出
  候間一ト通致会尺候退去之事
  右之通相済政府江出資候事


 ○ 東榭
  御入之事

一、講堂講尺相済直ニ御供廻被
  仰出候左候得者御供申上候前見計
  尊明閣之上まて罷出居御供申上ニ相成
  候之節御敷出ニ下落椽江出御敷出東
  之方ニ罷出候大御目附ハ同席之横
  南之方ニ差出ニ相成候事
一、夫より東榭弓之榭入る愚痴より被為
  入右之所茂落椽ニて御敷出出来ニ相成
  居候事
     但同席ハ御跡より直ニ御供申上刀ハ
     坊主ニ申付置候得ハ坊主尊明閣下
     まて持参候間直ニ御敷出横脇ニより
     見計直ニ刀を差坊主一人草履取
     一人召連候事
一、御居間者弓之榭場之下り口之脇ニ
  御屏風運ニ而出来ニ相成居候事
一、同席之休憩所ハ見分之節休息所
  出来ニ相成居候所より少東ニより出来ニ
  相成居候事
     但坊主ハ跡より付参居煙草盆
     差出候事
一、御覧所ハ東榭中程より少南ニ寄
  小御屏風ニ而出来ニ同席之致
  坐着居候所ハ北之方江二枚屏風立居
  其脇ニ坐着いたし候事
一、上江者名付差上ニ相成候事
     但同席者無之候事
一、御立前江為入候上一度被召出候其節ハ
  御用人より案内有之候事
一、御立之筋見計御敷出南之方に
  罷出候尤至而之狭所ニ付壁ニ引付
  罷出候見計御辞儀申上候事
一、御立跡より直ニ供は坊主申付引
  取候事
一、御跡より直ニ出勤奉窺御機嫌候
  併刻限次第ニ直ニ引取候事

 

                                (全完了)

    これをもちまして有吉家文書のうち、「年中行事抜粋」について全てを完了いたしました。
  我が史談会の講師であり、また読み下しに付いての全ての作業をしていただいた下津先生に深甚なる謝意を表したいと思います。
  又、貴重なる史料のご提供をいただいた現当主有吉登聖様に感謝いたします。

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細川家家臣・不破氏を調べる

2011-10-30 20:24:33 | 歴史

 先に細川家家臣の墓所・菩提寺をお尋ねしたところ、早々にご連絡いただいたのが「不破氏」である。
その後「先祖附」をお持ちではないことが判り、お送りするお約束をした。ご丁寧なメールを頂戴し「歴代霊位尊號」その他の資料を頂戴した。
よくよく眺めると藤原姓であり、歴代通名に「昌」が使われている。

 不破氏といえば、加賀前田家の重臣にその名前が見える。「武家家伝-不破氏」には次のようにある。

  (不破)光治は子の直光とともに浅井・朝倉氏や越前一向一揆との戦いで忠節を励み、天正三年(1575)には、前田利家・佐々成政とともに越前府中に配された。この三人を府中三人衆と称するが、かれらの役務は、越前を預けられて北庄に配された柴田勝家の監視であり、今立・南条の二郡を給された。光治はその後も各地に転戦するが、天正九年九月から翌年三月の間に没して、子直光が家督を相続したものと推定される。直光は信長の死後、前田氏の家臣となり、加賀藩で惣領家は四千五百石を給された。また、一族の多くも加賀藩に召し抱えられている。 

        河内守・彦三
          光治--------直光------光昌

    不破光治  a.wikipedia.org/wiki/不破光治
    不破直光  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A0%B4%E7%9B%B4%E5%85%89
    不破光昌については次の史料が見受けられるようである。
                  由緒帳「加賀藩史料」第2編 p509
                  加陽諸士言行筆記「加賀藩史料」第2編 p509
            

 短絡的な発想だが、光昌の子孫が細川家に入り、「昌」の字を通字としたことが考えられるのではないかと思っている。
又、細川家家臣として三流四家の不破家があるが、私は同根であろうと思っている。二流三家は「昌」の字を名乗り名に入れて居られる。
ところが頭を悩ませているのが、三流の家の家紋である。加賀藩不破氏は「三つ巴」なのだが、同じものがない上に三流とも紋が違うのである。
こういう機会に少し踏み込んで勉強をしておくと、意外なつながりが見えてきて楽しませてくれるものである。

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漱石俳句探偵帖

2011-10-30 10:49:16 | 書籍・読書
   漱石俳句探偵帖 (文春文庫)

        文藝春秋

               最近半藤一利氏の、漱石に関する本を続けざまに読んでいる。
               漱石の作品に関しての解説書みたいなもので、「目からうろこ」的に面白い。
               そして最近俳句に凝っている私としては、こちらも読まずばなるまいと文庫本を手に入れた。
               秋の夜長にはもってこいの一冊である。

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細川家の「一引両紋」

2011-10-29 12:02:43 | 徒然

                                        

引両紋に関連して (東井 茂)  2011-10-18 19:28:05
 誠に瑣事で申し訳ありません。
江戸時代に盛んに刊行されました武鑑、その寛文十二年版のみ大名細川三家の家紋は二引両ではなく一引両(丸内一引両)になっております。公開されている細川刑部邸内の調度品にも丸内一引両紋が付いているものがあり以前から気にはなっておりました。
その後の武鑑では丸内二引両紋(新田藩高瀬細川家では丸無しの二引両紋)で定着しているようです。大名家の家紋が多種あることが常だとして、一引両も細川家の家紋と云う事なのでしょうか。

 先に上記の様なコメントをいただき、色々調べているがこれが判らない。
侍帳を見ると確かに刑部家の家紋に「丸に一引両紋」が記されている。武鑑についてはまだ拝見する機会がない。
ならば刑部家の墓所(泰勝寺塔頭・慈眼庵)と、刑部邸を訪ねてみようと思いながらまだ実行できずにいる。
細川流盆席展も催されていたのだが・・・・

 「一つ引き両紋」は新田氏の家紋だとされるが、刑部家に限らず細川宗家の家紋として武鑑に登場しているとなると、これは何とか解明しなければならない。
他力本願・・どなたかご存知であれば御示教たまわりたい。

コメント (3)
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「旦夕覺書」 鳥--10

2011-10-29 09:57:50 | 旦夕覺書

         この項は大変長文であるため三回に分ける。其の(一)

新知被為拝領しはらく仕候て老父知行所の観音に神米毎年差上候事存出し拙者知行所の村にて祭禮有之候両所とも新米差上申候 御加増被下候正保村名も拙者生れたる年號にて不思議と心付所々様子承り候へはむかし阿蘇大宮司知行にて御座候由承候故阿曾へ初穂銀少差上申候 其後傳右衛門代に替人有之毎年札申請候 尤近所に伊勢御座候故毎年米の初穂差上申候 是も老母被申候は拙者内入新知同日に拝領いたし候時両人に無心申事有之と被申候故何事にて御座候哉と申候へはいや薬師法王へ米豈(壹カ)俵宛毎年くれ候へと被申候得其意候由に毎年上申候 其砌は拙者何の心なく其後又被申候は祖母妙菴の位牌蓮臺寺に上置被申候哉是も得其意候と申西岸寺下にて毎年上せ申候 右の妙菴権之助殿娘一人子にて幼少之時鬼松とつけ被申殊の外秘蔵にて十二三迄は門前を池田輝政公御通被遊候節は召連御目見被仕候へは毎度鬼松出たか堀出かと御意被成候由幼少にて咄承申候 拙者母八右衛門角入不白母にて拙者其為には祖母にて熊本へ被参果申候 十七日廿六日に精進を被仕月待日待も宮内に頼其餅を毎度給申覺申候 老父は誰にても昔咄すき妙菴へ参被候へは昔備前にて構之助殿代の名ある侍ともの事尋被申候に誰は知行何程夫は番頭足軽頭と一々覺咄被申候覺居申候 むかしは外にも似たる人多く候 長谷川久兵衛殿御母儀諸仙と申も老母所に折々被参祖母同前の年にて老父と咄被申候に妙菴同意の咄にて御座候 右の通むかしは女にても武士の子は男子の心御座候 近代にも其所々の風俗と見へ先年十七人の義士磯貝十郎右衛門母儀は貞柳と申拙者に一ツの年おとりにて何も切腹の年の五月廿六日に十郎左衛門事のみ思ひ被申候哉つかへ差出被果候 病中にも音信仕見舞臥居被申候所へ呼被申達候 富森助右衛門母儀にも竹屋惣次郎と申候て此方屋敷へ出入仕候刷屋所にて初て逢申候 右両人の咄承申候何も女には珍敷昔も今も女は女男は男にて替りは有間敷候へとも其所々の風俗にも寄り申又は親の心により娘にも幼少の時より武士の道語り聞せ見習たる哉と存候 其刻亡妻方へ申遣候にも拙者姪共に能く申聞せ候へとて神依頼同前に存右の通に候然とも各存候通同名中にても拙者は身軽く御奉公に罷出三人の内にても弟にて候ヘは何を申か當世はならぬ事なとヽ心の内に何も被存たるも世の習ひにて恨共不存候 拙者初として勤申内には侍中それ/\に結構に被召仕候より禄も多く位も能被仰候へはおのつから人柄も能く見へ敬慎申事に候 左候へは其人は自慢顔にて勤申せとも大勢の小身者の内には右の人より上成る者多く候故打寄/\そしり笑申せ共其人はしらす次第/\におこり出来心まヽに成候故天罰にて或は若くて病死いか様災難も有之天のつけと咾み不申出入者は其人を心實から能きと思ひ又は夫程には思ひ不申候へともへつらひ廻りいや外にもケ様の事多く他國の事を申出うそ誠我等にさへ申たる當世者神以幾人も有之候定て十左衛門殿舎人殿御懇頃の儀は太守様も御存被遊候 家中侍中は不及申其時傳右衛門/\と申相伴にも方々参申候て味き物給廿年在宅仕其時節を思ひ出如斯聞申候 各若く候へば結構にも被召仕候様に有間敷物にてもなくうかへる雲の如しと賢人の言のごとく成行申候間必々古人の言葉を被存結構に成候程重く被召仕候位程/\に手前の身を軽く捨其身より末々を恵む心を第一に心得可被申候 尤目利相違は聖賢ならでは人の目利は成らぬ物と承申候 能きと被思召候ても悪敷物も可有之候へ共人には必又能き所或は十の物六七能き方にて可有之候 又八九能候ても一ツ二ツ悪敷御用に立申さぬ者可有之候十が十能き者可有之様無御座候若有之候ても實の男は無之物と信玄記に有之候

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阿蘇五岳の涅槃像

2011-10-28 08:38:34 | 熊本

                  雲海に浮かぶお釈迦様の寝姿(阿蘇五岳)
                              ある方から素晴らしい写真をご提供頂きました。(感謝)


                             雲海をしとねに五岳の涅槃かな  津々

        この雄大な雲海の下涅槃像に親しみながら、阿蘇カルデラの中に52,000人程の人たちが日日生活をおくっている。

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鶴崎の「お舟歌」

2011-10-28 08:27:58 | memo

 鶴崎町史によると、藩主の乗船が発着するときには、これを祝して引き舟の上で「お舟歌」を謡い、これにあわせて踊ることを例としたとある。この謡方に従う人たちを「船歌組」と称していた。その「船歌組」の方と思われる、房前氏、高木氏によってその歌詞が伝えられている。
鶴崎町史によると、これが全てではないことが判るが、ここにご披露してみたい。

    ■櫻揃
ヤンレ鶯の声にひかれて見れば見しエイ、花なりけりや初櫻、来る/\春に又咲き出づる、花の錦の糸櫻、彼岸櫻に普賢草エイ、實りの花とも謂つべし。泰山木に薄櫻エイ、是よき花の枝々重ね、櫻に八重櫻を嵐の吹くとき、解いて散すな薄櫻エイ。花なき時の藍釜は、須磨で見事な櫻かな。佐世姫様の小櫻の、花戻りたる姥櫻、散るを惜むか散り兼て、いつも盛りは遅櫻、咲く時ワン花の數にはあらねどもエイ、散るにはもれぬ山櫻、老いを慰さむ花見の酒宴、うたへば心も若木の櫻サン、吉野の山を雪かとみれば、雪ではあらで花の吹雪の、この登山には花は折たしノンエイ柴は。

    ■御船卸
ヤンレ日柄よき、四方も長閑に縁起よくエイ、御船卸のお祝をエイ、供へて御船を飾り立て、声を揃へてよい調子、はずみの調子はよい調子、よいや/\や、そうやんや、よいよいさと、勇んで卸したる新造御座船、櫓拍子を揃へて、歌でやりましょうの頓よのお舟にや灘よしや、シャナ嬉し

    ■ほんとめ

○新玉のエイ、年の始の島臺に、鶴は千年亀は萬年、竹はもとより色づいて、扨も目出度五葉の松、うれし目出度、うれし目出度のわかイヨエイヤ
                                                     (以上三首、房前氏の御船唄集より)

○源氏紫あやめもいやよナ。様の姿を花と見るヤハ。花は折りたし梢は高し。心つくしの身は如何にせん。花は手折りたしヤハレ、エイきは。

○山を通れば山桃ほしや。竿も投げかけゆすらば落ちよエイ。さてもつれなや山桃や。なるかならぬかエイ山。

○京は一條今出川。二條で堀川。三條室町。四条四面のあなたでナ、逢ふたが嬉しぞヤハレ。

○行暮れて、木の下陰を宿とせばエイ。花や今宵の主ならましと、花を手折りたしヤハレ、エイきは。

○高き屋に、登りてみれば烟立つ。民のかまども賑ひにける。うれしめでたし。

○奥山に、紅葉ふみわけ啼く鹿も、恋よ/\と友を呼ぶヤハ。妻恋ひがてにヤシレ友を呼ぶ。恋には。

○美濃に妻持ち尾張に住めば、雨は降らねどみの恋し。そもじ恋には。

○夜中夜念仏そりやたが為めかい。幼なじみのつまの為め。そもじ恋にはヤハレ。

○様に置くとて夜水汲めば、水は七桶まだあはぬ。そもじ恋にはヤハレ。

○あの様は西に立つ雪、きたはよけれどふり心。そもじ恋には。

○磯を通れば千鳥が立つよヤハ。立た千鳥よ恋増すに。そもじ。

○筑波根の、嶺よりおつるみなの川。恋ぞ積りて淵となる。そもじ。

○豊後内山、真野の長者の舎人をばエイ、三郎と名づけ、草は刈らいで笛を吹く、一夜きりこそ音もよかれ、なるかならぬかエイ山。

○山川に、風のかけたるしがらみはエイ。流れもならで紅葉かな。うれしめでたい。

○武蔵野にエイ、すヽきは露と寝たといふ。露はすヽきと寝ぬといふ。寝たと寝ぬとの争い、寝たりやこそ孕みて穂にも出てあればエイ。
 何とて此の子が隠されうでもなし。御祝儀目出度。

○嶺の松には雛鶴遊ぶエイ。谷の岩を小亀遊ぶヤハ。御代は目出度。

○岸の小松に雛鶴番ひエイ。谷の巌に亀遊ぶヤハ。御代は目出度。

○そなた伊勢衆か文ことづけうエイ。いせのようだの振袖に。そもじ。

○見れば見渡す竿さしや届くエイ。なぜに届かぬ我が思ひ。そもじ。

○坂の下なる坂本茶屋に。花を一枝忘れ来て、あとで咲くやら開くやら、花を手折りたしヤハレ、エイきは。

○篠竹の、窓の嵐に目がさめて、様もおよらぬ我も寝ぬヤハ。語る間もなくエイそうやよふは。

○初夜も嫌はず夜中もいはでナ。来るも誰ゆゑそさま故ヤハ。一目見たさに門にたつ。そもじ恋には。

○野邊にかはづの鳴く声きけばエイ。ありし昔を思はるゝ。そもじ。

○行平が、残し置かれし形見の木かや。村雨ごとにつれて訪づる松の風下に。

○様は三日月宵々ござるエイ。せめて一夜は有明に。そもじ恋には。

○思召すやら其の恋風がナア、来ては枕にそよ/\と、きてはせいげん恋衣。そもじ恋にはヤハレエイ。

○浅間山からかんばら見ればエイ。さらしかけたか麻布を、布じやござらぬ雪じやもの、思ふまいもの。

○色ははなだの仕立帯。解くや鹿島の誓なるヤハ、めぐり/\て結び合ふ。そもじ恋にはヤレ。

○思ひ餘りにやる玉章を、橋の上からイヨ取り落せば、讀まで二人の名をながすヤハ。あたご思へば。

○さても見事な武蔵野や、秋の千草も花この盛り、桔梗刈萱女郎花。萩や錦のいろ/\に、露にうつる月影、光あるよの中なれば、虫の
 声まで静にて、御代はめでたい。

○小紋唐草やれちらしてもエイ。浅黄鹿の子にひわ鹿の子ヤハ。様に着せてはべに鹿の子。そもじ恋にはヤレ。

○岬山、霞に見ゆるじょうが島エイ。けづり立てたよ島の山。鳥も通はぬだけ。

○わが恋は、みをのを山の夕時雨。やさしや松はの、色も変らで千代をへる。うれし目出度。

○いつ見ても、変らぬものは笹の葉よエイ。二葉の松エイ。君とわが流れ。うれし目出度。

○廿四日愛宕の御縁日、愛宕参りに一目見てエ。われはこがれて通へども、そなた思はぬ振り心。なぜにそなたはいなふりめさる、いとゞ
 思ひのまさるいノウ。そもじ恋には。

○忍ぶ米屋の合の中柱。圓いこそよけれ。へたな大工がなにか口を、四つ立てたし角柱のかど、角のないこそ添ひよかれ。

○さても見事なお若衆様よナア、みめにや迷はぬ姿にやほれぬエイ。心根にこそしょじ迷ふ。そもじ恋にはヤハレ。

○御代長く、民もゆたかに治ればエイ。松のげ行く若水をヤハ。汲めよ千代ふるこの水を、御代はめでたの。

                                                              (以上、高崎氏の御船唄集より)

 

昨日はNHKで「ブラタモリ」の再放送(鷹匠の話)をやっていたが、浜離宮恩賜庭園に船で向かう途中で「昔は竿唄(船歌)が在ったらしいが、現在はまったく伝えられていない」旨の発言を、案内役の某大学教授が語っておられた。
鶴崎にはこれだけ残っているだけでも良いうちかもしれない。この歌詞の具合からすると、端唄・俗曲の類ではないかと思われるが如何・・・・

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光文社新書メールマガジンから

2011-10-27 16:56:19 | 徒然

 光文社から送られてくる「新書メールマガジン」で何時も楽しみにしているのが岡崎武士氏の「連載・蔵書の苦しみ」である。
膨大な蔵書に係る、面白い話が毎回紹介されているが、今回の第十三話は「定年後古本病にかかる」である。

          http://www.kobunsha.com/special/sinsyo/member/serial/pdf/zk013_sm0021.pdf

この話の主人公であるモンガさんのことは全く偶然のことだが、私はそのブログを知っていたので、ここにモンガさんの話題が出てくるとは思いもしなかった。そして彼が熊本出身であることはブログの記事で知っていたので、親近感もあって時折覗かせていただいていた。
今般の岡崎氏の記事でモンガさんが凄い人である事をしった。行く行くは「古本屋」を始めようというのだから並ではない。
遠く故里の地から応援をしようと思っている。
          モンガの西窪日記   http://monganao.exblog.jp/

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八代・未来の森ミュージアム 明日から開催

2011-10-27 08:24:12 | 展覧会

 

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CiNiiでみる「石垣原合戦」

2011-10-26 14:39:56 | 歴史

堀田井上家古文書「石垣原合戦実録 全」
http://bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/download.php/bs01922.pdf?file_id=199

「石垣原合戦」の実像を探る
http://bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/download.php/bs01704.pdf?file_id=146

「石垣原合戦日記」について : 古屋家文書
http://bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/download.php/bs00606.pdf?file_id=2259

史料:石垣原の戦闘(1)
http://bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/download.php/bs00914.pdf?file_id=49

史料: 石垣原の戦闘(2)
http://bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/download.php/bs01012.pdf?file_id=63

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オークション「肥後金工録・全」

2011-10-26 08:42:26 | オークション

●◎明治 肥後金工録全 和とじ本 鍔 武具 刀剣 古書 古文書◎●_画像1

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三人の男の関係・・

2011-10-25 13:20:28 | 歴史

 一見なんの関係も伺えないような三人の男は、女系によって繋がっている。
どのような出会いがあってか興味深いところだが、皆目見当が付かない。

         ・織田高長
              織田信雄(信長次男)の六男、細川忠興の元で竜王城預かり(長岡信友)
              後出雲守、大和松山藩(20,000石)初代藩主、四代目以降柏原藩主
              正室はないとされるが、細川家史料によると薮内匠女である。
         ・薮 忠綱(内匠)
              中村一氏臣薮伊賀守男、細川忠興に召出12,000石、長岡信友(織田高長)岳父
              妻・加藤重徳女、相聟・黒田蔵人
         ・加藤重徳
              有岡城に幽閉された黒田如水の面倒を見、のち次男・一成が如水の養子となり美奈木黒田家を創家
              嫡男・吉成も後黒田家家臣と成り代々重役を務め、幕末期の司書は乙丑の獄に於いて自刃す。
              系図によると重徳妹が「細川兵部大輔藤孝室」とある。法名大法院日周
              室は郡宗保の妹(郡宗保女が細川忠興側室・松之丸)

 加藤重徳女が細川家臣薮忠綱に嫁いでいる。この人の子であるのかどうか判らないが、忠綱(内匠)女が忠興の庇護の元に豊前に在った時代長岡信友(織田高長)室となっている。高長には正室がないとされているが、大和松山藩主となる以前のことであるため、幕府に届出がなされていない故であろう。この女性については細川家史料に詳しいが、高長について記されている柏原藩の史料では全く触れられていない。
              柏原藩史  http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765509

 ひょっとすると、加藤重徳の外孫女が織田高長室であるという可能性が見え隠れしている。

 また、重徳妹が「細川兵部大輔藤孝室」とする説の信憑性や、細川忠興と側室・松之丸(郡宗保女)の出会いはどういう経緯であったのか、細川家と伊丹氏(=加藤氏)の関係が黒田蔵人(伊丹氏)召しだしの経緯を含めて大変興味深いものがある。
          

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有吉家文書「年中行事抜粋」(四十六)講堂御賞美申渡、同席之子弟御用左之通

2011-10-25 08:11:34 | 有吉家文書

  ○講堂御賞美申渡

一、三八之内講役ニ申渡候事
一、前々日呼出之事
一、申渡并繰出之書附等講役ニ於
  君子斎御奉行差出候事
     但佐弐役茂致出席候事
     一両人位之節ハ佐弐役不罷出候付申
     渡之書附ハ前日ニも詰間ニおゐて
     請取候尤御小姓頭御使番も右同断
     にて繰出ハ学校御目附より取計候併
     講目ニ者御使番罷出候付居懸ニ
     取計候儀も有之候事
一、講堂御間取年始御挨拶之通ニ
  候事
一、繰出名附講後ニ御小姓頭江相渡宜
  時分同人より案内有之候事
一、出席之時東中側を通り屏風北迦より
  出坐此時御奉行御目附助教学校
  御目附一人東之入側之末ニ控居同席之
  跡ニ付致座着候事
     但此式ハ諸事御小姓頭より取計候事
     学校御目附ハ無拘両人共列座ニ而有
     之候助教ハ一人列座之事
一、右御奉行以下同席之左之方壱間程
  離レ列坐之事学監ハ障子之内御用之面々
                 出口より少引退北向ニ年始
  之通坐着此所之脇ニ御奉行
  以下筋違ニ座着之事
一、御小姓頭ハ繰出口外南入側同席之方
  向南之障子を後ニ〆座着其次ニ御使番
  一人座着繰出候事
     但一人之御使番ハ障子之陰ニ居ニ而取
     計之事
一、御用之面々繰出様軽輩迄年始之
  通候事
一、着座已上出所者畳壱枚進ミ座着
  之事
一、当代者組頭無足ハ父兄同伴之事
     但軽輩茂同道人士席之節者
     同道人際内ニ入候事
一、陪丞者文ハ訓導武ハ師役より同道
  有之候事
一、右相済申渡書付者壱通も不致其
  席ニて学校御目附江相渡候事
     右申渡之書付御奉行江相渡書留
     事茂有之候得共本行之通ニ付学監江
     渡候方宜候事
家伝之書付
  学監ニ申渡之書付を申渡相済之上相渡候儀
  申渡前ニ卒度申述置候筈之事
  右申渡書付ハ学校御目附受取追而
  佐弐役江致返納候事
一、申渡之書付并不参之面々江申渡之書付
  其外詰間ニて助教へ相渡候諸書付無之
  候之事
一、年始と違此御用者相済候上同席廻
  有之候事

 

  ○同席之子弟御用左之通

一、御用有之候段前々日詰間父兄出懸り
  に御用番坐ニ呼書付相渡候事
  文化十一年二月廿八日美濃嫡子小笠原孫次郎
  御用有之節遂吟味控置候事
一、御請は其席ニ而一ト通御用番江                
  申達罷帰候上御用番江使者口上書
  持参之事
     但御用有子弟御請ニ相見候儀無
     之候事
一、当日者肩衣着罷出候事
一、同道人無之候事
一、右之通ニ付三家衆二男末子弟御
  用有之候ハヽ右ニ准可申事

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有吉家文書「年中行事抜粋」(四十五)五節句御禮之式 2/2

2011-10-24 08:50:26 | 有吉家文書

一、夫より御小姓頭案内有之候得ハ御用番
  初之通罷出組外以下此着座まゝ一同ニ
  謁を受元之如入候得ハ右之面々御弓間
  御板椽之様ニ退去之事
      此所右ニ絵図委之
一、御礼相済候節ハ御小姓頭佐野御間
  まて罷出知せ有之候間夫より皆退出落間
  より多門之様ニ罷通り詰間江引取候
  事
      但御弓之間御椽側ニハ御使番西向ニ
      列座いたし居其次引下り御目附も
      一人座着いたし居候得共無構罷通
      候之事
一、御禮御物頭列已上出仕之事
一、三月四日・五月四日寄合者差止前日
  翌日之上巳端午之御礼ニ寄合候場
  も取来相済候依之御備頭御留守居
  大頭茂月並伺御機嫌茂右節句
  節句ニ伺有之候事
      但文化十二年三月四日之寄合より
      本行之通りニ相極候事
一、九時を承御用聞退出之事
  五月五日者御備頭御留守居大頭江
  陣行営并兵粮積帳差通候手数左之通
一、御備備より陣行営三人一箱宛御留守居大頭
  より兵粮積之帳連名一箱差上候を
  御発駕前被遊御下候付其儘政府へ
  差置詰間御下国之年之五月五日御
  禮後御用番坐ニて返候手渡いたし候付封
  印を不用差返候
  右御礼前相渡候儀も有之候前後之内
  イツレニても不苦候
一、同詰間江相見候様坊主を以申趣候得ハ
  出方有之候事
      但前後如何間違候哉封印之儘
      返達ニ相成候儀も有之候間左様之儀
      無之様入念可申事
一、今日不参之衆ハ近日寄合之節相渡候
  併寛政十一年五月五日御備頭清水
  数馬病中ニて出仕無之候付御用番
  封印を用同役尾藤助次郎江相渡通
  有之候様申達候儀も有之候事
一、転役之面々之箱わ直ニ留置申候
  事

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