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10宇佐郡元重村給知庄 | 申上覚
屋等申状案 | 草市右衛門殿
竿ハマり | 一、宇佐郡之内 鳥居六左衛門殿 御両人御知行分元重村、高百三拾八石余之所、さほはまり、殊外ちかい申
| 候、中哉下々所も、上々・上なとニ、御検地御帳ニ付申候ヘハ、悪田畠も高過分ニ懸り申候ヘハ、
池成 川成 | 高ニ懸ル諸役等ニも、御百姓めいわく仕候、其上、池成・川成引高大分ニ御座候へ共、惣高ニ御
| 免被下候ニ付、御百性手まへニハ、物成過分ニ懸り申、めいわくに奉存候事
| 元和九年十一月十日 鳥居六左衛門殿庄や
| 又五郎
| 進上 草市右衛門殿庄や
| 彦介
惣奉行等用状案 |
竿違ハ次ノ検地マ | 一、竿之違は、重而之御検地を相待可申候事
デ待ツベシ |
郡役ハ百石ニ十石 | 一、御郡役儀、高百石ニ付、十石宛、免被遣候事
宛免除 | 以上
| 元和九年十一月廿七日 西郡刑ア
| 横山助進
| 上田忠左衛門殿 浅山清右衛門
| 釘本半左衛門殿 仁保太兵衛
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今日も朝から所用で外出、用事を済ませ本屋さんに入る。
歴史関係の本はAmazonでほとんど購入するが、やはり本屋さんでいろんなジャンルの棚を眺めながら購入するのも大いなる楽しみである。
都合三冊3,046円なり、これで二週間ぐらいは楽しめる事でしょう。
●渋沢栄一著・現代語訳「論語と算盤」ちくま新書
●巽好幸著・「富士山噴火と阿蘇山大爆発」幻冬舎新書
●鈴木健一編「漢文のルール」笠間書院
それにしても熱い、35度くらいあるでしょう。帰宅してシャワーをして遅い昼食をとり、只今クーラーの前で英気を養っています。
延寿宣勝の鎗がオークションに出品されている。刀とか鎗とかは全くわからない門外漢なのだが、思わずオッと声を出してしまった。
全長59センチの短鎗だそうだが、見事なものである。好事家にとっては垂涎の品物かもしれない。
延寿宣勝とは熊本藩士・武永喜三右衛門。はじめ美作の多田正利(津山藩士・細川正義門人)門人でのち江戸で細川正義門人となった。
天保末年から明治にかけての作刀がある。明治四年没、七十五歳。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h411335529
仁田氏・熊 鳥居氏・喜和
4代・光尚 ‖-----吉利 ‖---------7代・宗孝 比企氏・美衛
‖----------+---5代・ 綱利=====6代・宣紀6代 吉澤氏・織衛 ‖---------13代・韶邦
清高院 | ‖----------8代・重賢 ‖------11代・齊樹==12代・齊護
| 岩瀬氏・里加 ‖---------9代・治年==10代・齊茲 ‖---------14代・護久
| 金澤氏・此井 加藤氏・田鶴 ‖---------15代・護全
+ーーー利重 深水氏・縫
‖ ーーーーーーーーーーーーーーーーーー宜紀
築山氏・辨
熊本における細川家の菩提寺・妙解寺の近辺の幾つかのお寺に、藩主の生母のお墓が存在する。
正室は妙解寺もしくは泰勝寺に葬られるが、側室は菩提寺に葬られることはない。
安国寺に韶邦の生母・比企氏、西福寺に宗孝の生母・鳥居氏と護久の生母・加藤氏(実・深水氏、養女)のお墓がある。
また綱利の二男で跡を継ぐと思われた吉利は惜しくも18歳の若さで亡くなっているが、妙永寺にお位牌があり、生母である仁田氏の一族のお墓があった。
又、同寺には護久の弟・護美の生母・飯銅氏(長)のお墓もある。
一夫一婦制になるまでの間、細川家で正室から生まれたのは忠興・忠利・光尚・齊護・護立の5人しかおらず、其の他は側室のなした子である。
細川氏の偉いところは、綱利・利重兄弟の生母・清高院をべつにして、これら側室の一族を際立って厚遇することがなかったことである。
暑気あたりなのでしょう、身体がだるくて仕方ありません。血圧も高止まりして、ふらついています。
いろいろ考えるのもっくうですし、PCのキーボードをたたくのさえ苦痛です。散歩もずる休みしています。
明日は所用で出かけなければならないのですが、34~35度の予報が出ており、用を済ませたらとっとと帰宅しようと思っています。
夏は毎年熱いのでしょうが、今年は凄く体に応えているところを見ると、これは年齢から来るものでしょうか?
皆様も十分お気を付けください。
M寺にあるお位牌である。見事な作りでありただならぬ人物を感じさせる、頂部にクルスらしきものが彫られている。
戒名の右わきに「寛永十六天」とあり、左わきには「三月廿一日」とある。
忠利公(写真お位牌の右側)や綱利公の嫡男・吉利公などのお位牌と共に並べられていたということから、細川家にかかわりある人ではないかと考えたが、私が所有する史料では、寛永十六年三月三日に亡くなった女性は見いだせないでいる。
位牌の左右の飾りには、それぞれ三つの家紋らしきものが刻まれているが、これもよく判らない。
一度お邪魔して、直接拝見したいとも考えている。
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9下毛郡奥畑村百姓申 | 申上状
状案 | 一、下毛御郡之内ニ、秋山五兵衛殿先知行山移村ニ、了念と申者ハ私おやニ而御座候、然所ニ、秋山
| 五兵衛殿へ、御公儀ゟ御知行御わり付なされ候より此方ハ、百石分之小庄屋ニ、私おや了念被成
| 御定、元和三年之冬年迄、小庄屋仕来り申候、此百石高之内ニ、彼了念田地名付高分、田畠弐拾
| 六石余御座候事 (破損)
| 一、私事、右之了念世ニかゝり罷居申候所、慶長六年之二月ニ、秋山五兵衛殿御申付□おや了念ハ、
| (ママ)
| 五年も十年も庄屋百姓仕かね申者ニてハ無之候、五兵衛知行、山移村へ百石御座候、其内ニ、小
一代百姓 | 村之甚五郎と申者つふれ申候、其跡式之高、弐拾弐石余御座候を、秋山五兵衛、一代百姓仕候へ
| と、無理ニ被仰付候故、私事不叶、小村へ移申、十二、三ヶ年も御百姓仕居申候所ニ、彼子村と
| 申ざい所、玖珠郡之境目ニ而、殊之外悪所ニ付、御年貢米未進弐石余、私手前ニ御座候方ニ、私
忰清介は秋山某中 | せかれ清助と申者を、元和弐年之十一月ゟ同四年之二月十三日迄、五兵衛殿御中間ニ召仕候、就
間 | 夫、五兵衛殿へ、彼清介ニ御暇を被下候へ、御百姓永ク仕候ヘハ、清介御返し不被下候ヘハ成不
暇ヲ与ヘズ | 申通、御惣庄屋山移源右衛門を以、色々御わひ事申候へ共、御暇終ニ不被下候、私せかれ清介め | しつれ、御蔵納ニ引のき申候て、御惣庄屋山移源右衛門を以、私おや了念、とし罷越申候間、本
| 之様ニ、おや了念名付高分渡シ被下候へと、御わひ事数度申候へ共、わひ事仕内ニ、秋山五兵衛
| 殿 御前あしく御座候而、元和四年三月末ニ、上方之様ニ被成仰上候事
| 一、私おや了念田地之事、御惣庄屋源右衛門才覚ニて、五兵衛殿へわひ事申候内ニ、結句山移右衛門
| ・五兵衛と内談被仕、山移源右衛門方之むこのおや新左衛門と申者を、元和三年十一月ゟ、中津
百石分小庄屋名付 | 御蔵納ゟよびよせ、私おや了念事ハ脇ニおしのけ、百石分之小庄屋名付高家屋敷共ニ、むりニお
高家屋敷共押取ラ | しとり、新左衛門ニ渡置被申候、殊外、御惣庄屋山移源右衛門方むこニわたし申度と存、五兵衛
ル | 殿へ内談し、むこのおや新左衛門まい物申ニ付、私おや了念田地おしとり申候、私事は、五兵衛
| 殿、一代小村之甚五郎跡目ニ移申たる事ニて候、其上、五兵衛殿 御前悪御座候而、上方の様ニ
| 御上候間、御郡奉行か、又は山移源右衛門方迄被仰候而給候へと、御惣庄や加野木與左衛門頼申
| 候て、おや了念田地御渡シ候へと、度々御理申候へ共、山移源右衛門被申候ハ、山移九百石余之
| 所ハ、我等次第と被申候、山国之御惣庄屋斗存候へ共、與左衛門無用之由被申候而、むこ引出物
| ニ、源右衛門被申候ヘハ、渡不給候、其時、與左衛門被申候ハ、源右衛門分別違候哉、数代之田
| 地之事、清左衛門ニ渡し不申候間、今ゟ後ハ、中違申とて、二、三ヶ年も出入は、加野木與左衛
| 門不被申候、其時、私事不及是非候而、他国可仕と申候処ニ、私女房之せかれ八右衛門と申者、
| 蒲田久左衛門殿へ、元和三年二月二日ゟ御奉公仕罷居申候、此八右衛門申きかせ候ハ、御国之御
| 法度を不存候哉、御国中ニかんにん仕候へ、不聞之分別ニて候由、申ニ付、私事尤と存候而、加
牢人分 | 野木與左衛門手永之内ニ、おくばた村と申所ニ、無主三十石余之所、牢人分ニて、于今、御百姓
| 仕居候事
| 一、右之通、下毛郡御郡奉行木村九郎兵衛・小崎太郎左衛門尉殿迄申上候へ共、先御郡御奉行乃間次
前任奉行ノ一ツ書 | 左衛門殿・平岡新兵衛殿ゟ、一つ書出申候間、我々ハ済申事不成由、御申候事
| 一、乃間次左衛門殿・平岡新兵衛殿ハ、御惣庄屋山移源右衛門申上分、誠ニなされ、私ニ一理之子細
| 無御尋、中津御蔵納之者をめしよせられ、私おや了念名付高御渡し被成候事、めいわくニ御座候、
| 其折ふし、加野木與左衛門を以、度々御理申上候へ共、我等申上候事ハ、終ニ御分別不被成候事、
| 一、私おや了念事、歳罷寄、其上、無筆之者ニて御座候を、秋山五兵衛殿ゟ無理ニおしかけ、田地上
| ケ申書物仕候へと、被仰懸、了念判形仕候事、夢々我等ハ不存候、右之了念田地之事ハ、私数代
高麗陣ノ軍役マデ | 之田地ニて御座候故、こうらい国迄の役目等迄、私仕来り申候、たとひ、小庄屋うめ、御惣庄屋
ヲモ勤ム | 山移源右衛門むこニ被遣候共、名付高之儀ハ、私ニ被下置候は可忝候事
| 一、私、元来之儀ハ、沢村弥左衛門尉殿能々被成御存候□、此中ゟ可申上儀ニ御座候へ共、 御郡々
| ニ 御目安箱被成御立候故、忝と存、申上候、私おや了念田地・家やしき共ニ、私ニ被下候は可
| 忝候、以上 下毛郡山国之内、御蔵納御百姓
| 元和九年十一月十四日 おくばた村清左衛門
| 進上
惣奉行等宛 | 小倉御奉行様中
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惣奉行用状案 | 一、当御代ニ初り御訴訟の儀は可承候旨、被 仰出候間、此儀、不及改候也
忠利代ニ初ル訴訟 | 元和九年十一月廿七日 西郡形ア少輔
ハ受ケ先代ノ件ハ | 浅山清右衛門
改ムルニ及バズ | 小崎太郎左衛門殿 仁保太兵衛
| 木村九郎兵衛殿 横山助進
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悪友氏が連絡をしてきて、お前のサイトに或る「237年の細川家の歴史」とは何だと聞く。
また「いちゃもん」だなと思いつつ御高説を聞くと、廃藩置県までだと239年だぞとのたまう。
いやいや肥後入国(寛永9年12月・1632)から版籍奉還(明治2年・1869)までの237年だと答えると、納得いかぬ風情である。
「そいじゃ~最後の殿さんは誰だ」と聞く。ひょっとすると尻尾を掴まれているかもしれない。
「厳密にいうと韶邦公だな。しかし護久公が藩知事を勤められたから護久公でもいいのじゃないか」と苦しい言い訳をした。
熊本大学の三沢先生が「最後の殿様‐護久と護美」(熊本歴史叢書5・細川藩の終焉と明治の熊本所収」で書かれている、「廃藩置県時には原理的には大名は存在しないから『殿様=大名』という図式からすると、最後の殿様は細川韶邦という事になる」という説明からすると、版籍奉還では少々まずいのかもしれない。
2003年8月にサイトをUPして以来の事だが、修正をしなければならないかと思案中である。
今週は色々所要もあって、四日ほど外出しました。これが少々応えたと見え、今日は体調不良です。
身体がだるくて仕方ありません。昼過ぎには椅子にもたれ、小一時間うとうとしてしまいました。
今年は熱中症にならないようにと奥方の勧めによりクーラーを動かしっぱなし、これも体に応えています。
今日は丑の日、奥方が前々から注文していたうなぎが届きましたから、是を頂いて元気付けいたしましょう。
そして暑気払いに焼酎などいただいて疲れを振り払いたいと思います。
皆様もこの夏を元気に過ごされますようお祈りいたします。
稗史(はいし)とは正史の対義語である。正史とはまさに真実と対極にある不都合を排除する忖度によってなされている。
間違いではないが真実が隠されている。ただし、稗史には「作り話」が含まれることに注意しなければならない。
いろいろ古文書に触れていると、思いがけない記述に出会い驚かされることが有る。隠された事実がわずかに顔を見せる瞬間である。
公にされていないこのような事柄を見つけ出したときの喜びが、古文書に触れる醍醐味かもしれない。
落書なども時代を反映させた痛烈な藩政に対する批判文であり、これを細やかに見ていると面白小説が上梓できそうに思える。
強烈な個人攻撃がなされ、中には身体的特徴などをあげつらい誹謗するものがある。それは戦いにおける傷痍であったりするものであったりして、名誉が著しく損なわれている。作り話が含まれていることも十分頭に入れておく必要がある。
これ等の落書は、当時は公にされることはなく、密かに公権力によって秘匿された。しかし破棄されることもなくて現代によみがえっている。
忖度によってなされた正史に於いては、受け入れることが出来ないものであるが、事実であろう側面がうかがえる。
これ等を併せみると、歴史の真実が見えてくるように思える。
「肥後の稗史」なぞかいてみたいな~と思ったりしている。
今朝8時前阿蘇山が噴火しました。阿蘇山は1,592m(ひごくに)の高さがありますが、煙は1,600mほど上空に達したといいます。
夏休みシーズンに入りましたが、地震後ようやく観光客が訪れるようになった地元には、少々痛手となりそうです。
しかし、警戒度は2ですから、安心してお尋ねください。
M寺では古いお位牌のお掃除を為さっているらしい。その中に細川家関係の位牌が見つかったらしく、その戒名についてお尋ねがあった。
電話の先で「えんみょういん」と仰る。「平成宇土細川家系譜」を慌てて広げると、「圓明院」とあり、綱利公の二男・吉利公のものであることが判った。「圓明院惠海宗達」
以前私はこのM寺の文書を読んだことが有る。このお寺には吉利の生母・仁田氏の一族のお墓もあったらしい。寺伝によると、吉利は度々この御寺を訪ねていて、御寺の増築をたすけたりしている。生母を一とする長兄が亡くなり、二男の吉利の成長は綱利にとっては喜ばしいことであった。
将軍家にも御目通りをして、細川家の嫡男としての地歩を確かにしたと思えたが、残念ながら十八歳の若さで亡くなっている。
この御寺に或るお位牌は、その供養のためのものであろう。
今一つ、これも細川家に関するものと思われる位牌が見つかったという。
電話でのやり取りの中では、戒名からは該当者を見いだせなかったが、この位牌のごみを払っていたら、「クルス」が見つかったというのである。
それも「ごふん」らしきもので隠されているのが顔を出したらしい。電話の先のT氏が興奮している。
写真をとったからあとで送るとの話で、少々興味が湧いているのだが、なんだか古い位牌の再利用のような気もする。
もしそうだとしても、クルスがほられた位牌など新発見ではないか?
何方の位牌なのか、人物の特定ができればまた新たな展開もありそうである。
8中津郡元永村百姓等 | 任 御諚ニ乍恐御理り申上条々之事
申状案 | (仲津郡)行橋市元永
陸役ノ筋目 | 一、元永村之儀ハ、余村ニ相替、先年ゟ、岡役仕ル筋目之御百性斗二て御座候故、舟持申御百性壱人
| (漁)
賃加子 | も無御座候、りやう仕者も壱人も無御座候ニ、御加子役仕ニ付、水夫御用之時は、方々ニて、賃
| 加子斗ニて御役目調申ニ付而、百姓めけ申由、被及 聞召候而、御加子役御免被成被下候間、忝
| 奉存候処ニ、去年之御免御奉行被仰候は、御水夫御免シ被成、此忝さハ、何ニて御礼可申上候哉、
高免 | 御免を上り、御請仕候へと、稠敷被仰付、去年ゟ高免ニ罷成申候、其上、岡役御荒仕子夫米・御
| 薪米、此外御郡役毛頭不残被仰付候故、めいわく仕候処ニ、其後、浦々ゟ御加子御やとい被成、
| 為御賃米、御水夫壱人ニ付、一日ニ御米弐升宛被下候へ共、りやう仕浦並ニ、春秋之御菜米ニ御
| 引次被成候故、御百姓前ニ、御米御算用請取申議ム御座候事
櫓手ハ本百姓ノ荒 | 一、元永村、高千百五拾石余ノ内、残本百姓之内ニハ、舟手を存たるもの無御座候条、おか役ニ被仰
仕子 | 付可被下候、此中も櫓手・岡手之御改可有御座と奉存候条、今度是非共、御分別被成、筋目之岡
| 役被仰付可被下候、か様ニ申上候儀も、以来、御百姓仕度奉存、申上候事
深田 追田 | 一、元永村之儀ハ、余村と相替り、田畠悪所ノふか田・さこ田斗ニて御座候ニ付、麦まき申議も無御
| 座候、其故、百姓めけ申ニ付、田地大分他村ニ出作ニ付、其御年貢之上、まどい仕り、百姓めけ
水陸一方ノミノ役 | 申候條、おかニ成共、水夫成共、一方之御役目被仰付可被下候、右之通ニて、御百姓めけ、年々
儀ヲ願ウ | 御年貢ニ、しち物置申儀ハ、御代官能々御存知之前ニて御さ候事
| 右之通、少も相違無御座候間、乍恐、被聞召分、以来、御百姓続申様ニ、被仰付可被下所、如件
| 元和九年十一月十五日 仁右衛門尉
| 五郎兵衛
| 七郎右衛門尉
| 源蔵
| 善右衛門
| 又介
| 忠兵衛
| 五郎右衛門尉
奉行中宛 | 御奉行衆中 甚右衛門尉
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惣奉行等用状案 |
忠利裁許 | 一、右之面書ニ付、被 仰出候事、
| 一、日比、水夫壱人ニ付、一日ニちん米弐升宛被遣分ハ、御菜米ニ差次、水夫手前へ不取候段、無紛
| 候間、兵粮米前かとのことく被遣、其上ニ、村中ゟ仕立候銀、壱人ニ付、拾五匁宛之分をも、此方
| ゟ可被遣候、然上ニ、陸役之内、用水普請・道作、御荒仕子人から之事、万小遣ニ申付候、夫か
| ら之事、右四人之水夫手前之分、被成御赦免候事
御菜米免除 | 一、御菜米、免被遣候事
| 以上
| 元和九年十一月廿七日 西郡形ア少
| 宮部久三郎殿 浅山清右衛門
| 佐方少左衛門尉殿 仁保太兵衛
| 横山助進
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新しい元号「令和」も落ち着いてきたようだが、私は過日役所に出す書類に「元和」と書いてしまい、指摘されて赤面してしまった。
私には「令和」よりも「元和」の方がなじみ深い。
さて上の写真は大宰府の展示館に展示してある、博多人形の「梅花の宴」である。
裏には次の様な説明がなされている。
天平2(730)年の正月13日、太宰帥・大友旅人は自身の邸宅にて、梅の花を題材とした歌会を開催しました。
この模型は、其様子を博多人形で再現したものです。歌会には筑前守・山上憶良をはじめ、大宰府の官人たちや
管内九国三島の国司たち32人が集い、中国から渡来した高貴な花であった梅の花を題材として歌を詠み交わした
ことから「梅花の宴」と呼ばれています。
詠まれた32首の歌は「万葉集」に収められており、後に「万葉筑紫花壇」とも称された華やかな万葉文化がこの
地に花開くこととなりました。また、32首の歌の序文から、大伴旅人が中国の著名な書家・王義之の「蘭亭集序」
の影響を強く受けていることが分かります。
「令和」の元号が発表されて以来大宰府は最大賑わいの状態が続いている。そんな中ある方から、頂いた資料に紹介されていた写真と説明文である。
一昨日は、大雨のせいで近くの健軍川(水無川)は水位が2.5メートル程も上がり、人工的にいくつもつくられている段差の為に、川面が踊り狂いすさまじい勢いであった。
昨日今日、静かな流れに戻り、あと二・三日もすればまた水無川になることだろう。
そしてどうやら梅雨明けもそろそろではないのか、朝から蝉しぐれがものすごい。高校球児たちはこの炎天下、甲子園を目指して頑張っている。
球音の消え行く先や蝉しぐれ 津々
多分球児たちには、蝉しぐれも耳には入らないのかもしれない。
明日は九州学院:熊本工業高校の対戦である。さて栄冠はどちらが手にするのか・・・熱い夏がつづく。