津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■決戦大阪城

2015-06-30 17:33:17 | 書籍・読書
   決戦!大坂城
 
    講談社 

出版社内容情報

乱世を終わらす家康、滅亡に抗う秀頼と淀殿。真田幸村(信繁)ら牢人衆も参陣。いざ戦国最終決戦へ!話題騒然の競作シリーズ第2弾!

慶長二十年(一六一五年)。最終決戦の舞台は、秀吉が築きし天下の名城・大坂城。
戦国時代の幕が引かれようとする中、男たちは何のために戦ったのか――

『決戦!関ヶ原』で東軍大将を務めた伊東潤、西軍大将・葉室麟、そして運命の鍵を握る男・冲方丁がふたたび集結!
前作につづいて天野純希も登場し、当代きっての書き手たちの最新小説が一気に読める。
そして、新たな挑戦者たち、「軍配者」シリーズで新境地を開拓した富樫倫太郎、
「このミス!」大賞&朝日時代小説大賞2冠デビューの鬼才・乾 緑郎、
デビュー作『宇喜多の捨て嫁』が直木賞候補、高校生直木賞となった驚異の新人・木下昌輝が参陣!
波乱あり、下剋上あり、まさに時代小説界の群雄割拠!!

七人がひとつの戦場を描く、話題騒然の競作シリーズ第2弾!
戦国最後の大合戦「大坂の陣」!!

鳳凰記 葉室 麟
日ノ本一の兵 木下昌輝
十万両を食う 富樫倫太郎
五霊戦鬼 乾 緑郎
忠直の檻 天野純希
黄金児 冲方 丁
男が立たぬ 伊東 潤

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■忠興煩う

2015-06-29 10:47:36 | 歴史

 慶長九年(1604)忠興は煩い覚悟のほどがあって三男忠利をもって嗣子となす。翌十年には証人として二男興秋を江戸へ差遣わそうとするが、思いが
けず興秋は京都で出奔、家督問題が影響していることは当然であろう。忠利が家督するのは元和七年(1621)正月七日のことである。

一、同夏ニ至、御積痛差重なり御太切に御煩ニ付、忠利君を御家督に被成度旨御願之通被仰蒙候、是より先御
  介病として忠利君暇取り、豊前へ御下向被成候、又秀忠公より岡田太郎右衛門を御使として御容体を
  お尋ね、松井康之江被下八月十三日之御書
      越州所労之儀太方之様ニ相聞候処、以之外之由無心元候、然は内記被相越候間、右之趣為可申入岡
      田太郎右衛門差越候、度々養生候様ニ其方心遣専要ニ候、猶口上ニ相含候也
                 一本閏八月とあり、又十二日又廿三日とも
             八月十三日                 秀忠御 書判
                   松井佐渡守殿 
  其後秀忠公より御飛脚被差立、御容体御尋被成候節之御書
        尚々、所労之様子承度候て飛脚を差越候
      所労如何候哉、承度候而以飛脚申候、定而其地内記も可為参着候、久々ニ而参会可為御満足令察候、
      将又こゝもと珍敷事も無之候、将軍も此地御着之事ニ候、猶重而可申候、恐々謹言
             九月十三日                 秀忠 御判
                   豊前宰相殿
  盛芳院淨勝京より御呼下被成候、御使沢村大学同道ニて下着、御薬御服用被成御本復なり、其上耆婆万
  病円御相応被成候、此以後ハ土用ハ専ことに為御保養、必御薬御服用被成候、扨御病気御平癒ニ付而奇
  瑞有之候由、今年より宇佐宮御再興之御思召立御座候也 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■晴天の今日

2015-06-28 18:02:06 | 徒然

 久しぶりの晴天、あちこちのマンションのベランダは洗濯もので満艦飾である。
風があって涼しいが気温が上がって30度近い、73爺には暑さがこたえる。水分補給とばかりに冷えた麦茶を盛んに飲んでいると、腹が緩んでくる(失礼)
そろそろ梅雨明けの時期ではないのか。真夏の花「のうぜんかずら」が花をつけている。
奥方がでかいスイカを買ってきて初物頂戴、すっかり夏気分・・・・・・ 

今日は吉村昭の「桜田門外ノ変」を一日で完読しようとチャレンジ、全517頁の内445頁を読了、ギブアップの気配濃厚・・・・・あと3時間ほど頑張ってみるか。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■とんだ散歩

2015-06-27 16:46:01 | 徒然

 雨の合間をぬって朝から自転車で外出、歩道から車道へ段差を降りたときどうやらパンクをしたらしい。
これには参ってしまった。数件の自転車屋さんの場所を頭に描きながら、たどるように押して行くが朝早くであったためどこも開いていない。
約7キロを左ひざをかばいながら、とうとう2時間かけて帰宅する羽目になってしまった。
帰りつくと両足の脛の部分が攣ったような状態になり、これが何とも痛い。奥方の使い残しの湿布薬をはって唯今小康状態。
未だ新しい自転車の思いがけないアクシデント、とんだ散歩と相成った。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■兼見卿記からの発見

2015-06-27 15:38:05 | 史料

 兼見卿記を読んでいての新たな発見、

天正十八年十二月廿六日 甲午、長岡与一郎息女(お長)隣國但馬守(前野長康)子息(景定)へ祝言、今夜被罷向云々

たったこれだけの事だが細川家記では伺われない記事である。お長の生年ははっきりしないが、小説「細川ガラシアの娘・お長」の作者は第一子だとしている。根拠が判らないが何とか知りたいところである。そして結婚も天正十九年四月二十三日としている。

綿考輯録でも生年については触れられていない。お長に関する記事は以下の如くである。

(慶長八年)九月廿九日、前野出雲守後室忠興君御女御名お長安昌院殿御卒去、法号月心妙光
  考ニ一書、妙光を妙覚、慶長八年を九年、九月を八月、御名お長をお市なとある皆誤なり、御碑面を拝し候ニ安昌院殿心月妙光大姉、慶長八年九月
  廿九日と有、但八月と云事は近年盛光寺より願之筋有之、由来記を御役所ニ書出候ニ先住誤て八月と調出候由、当住之物語也寛政十二庚申也、御名由
  来記ニもお長と有之、お市と云事ハなし、当時八代安昌院に御位牌有、此寺ハ元ト盛光寺の隠居所なりしニ、安昌院ハ元来西光寺と云、三齋君の御
  愛妾小上(コノウエ)といへる女の法名を西光院法樹栄林と云、此菩提の為元和年中中津に一寺建立西光寺と被号、右女の弟良運乗誉という僧開祖也、
  夫より四世の僧三齋君を慕ふて八代に來り西光寺建立、安昌院殿殿御位牌も初ハ此所ニ在、後ニ盛光寺と改也、浄土宗筑後善同寺末也 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■62年目鎮魂の日

2015-06-26 09:40:45 | 熊本

 朝から風がうなり雨が横なぐりに降っている。昼頃からは大雨の予想が出ている。今日は多くの犠牲者が出た昭和28年の大水害の鎮魂の日である。

62年前の私は小学校六年生、雨の中をいつものように登校した。当時私は区域外の出水校区から大江小学校に通っていた。
片道7キロほどの距離がある。雨が激しくなったお昼過ぎ、全員下校の指示が出た。
喜び勇んで帰途に就いたのだが、夕刻に成ると思いがけない洪水となり水かさが見る見るうちに上がって鴨居の高さまでつかり、我が家は水没状態になった。
命からがら近くのお寺に避難した。翌日家に帰ると、ちょうど真向いのS家は流失しており、三四軒の家は修復が不可能な状態で傾いている。
更地になってしまったS家の、ただ竹を差し込んだだけの突き井戸からきれいな水がこんこんとわき出ていた光景が今でも目に浮かんでくる。
我家も背後に流木が山とかさなっていた。跡片づけが大変だったろうと思うがこれはあまり記憶がない。

大江小学校同窓17名が亡くなり10数名が行方不明である。校庭の中央にある大きな榎(?)の下で熱い夏の日に行われた慰霊の式典も忘れられない。
白川も河川改修が進み、あのような被害はもうないと思うが・・・・水は恐ろしい。
この大水害がトラウマとなって現在は標高50mほどの所に住んでいる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■朝鮮通信使と細川家

2015-06-26 07:40:59 | 史料

 昨日の■松寿庵先生 第148講に関連して・・・・
 ウィキペディアにある「朝鮮通信使」の記事と細川家記(綿考輯録)とでは若干の違いがある。
それは家記にある江戸期第一回(慶長十二年)の来朝を、綿考輯録では慶長十年としていることである。編者の小野武次郎も首をかしげている。

慶長十年(十二年?)乙巳二月、家康公於伏見朝鮮使ニ御対面、但去年入洛いたし候へとも、当春御所様御上洛御行粧等御見せ可被成との事ニ而
被留置候、今度幣使之来朝ハ将軍宣下を賀し奉り、書簡を以種々の産物を献上、先年召捕れたる朝鮮人を返し給はり候ハヽ、永く高恩を忘れす、御
代々幣使を呈し隣好を結ひ可申旨ニ付、将軍家御許容あり、過半御返し被成候、忠興君・加藤清正等の生捕之内ニハ恩恵に懐き、直ニ日本居住を
願者も有之候、武蔵守立行方ニモ渡辺藤兵衛・滝本八左衛門と云者、元ト朝鮮人なれ共其身之望に依て、忠興君江申上直ニ召仕候

  渡辺ハ高麗より来る時十二歳名不知、滝本ハ十歳計り名を〆ソウシと云滝本八左衛門と改居候、又南条元宅手ニ生虜候李宗閑と申者も日本ニ残居、後
  年豊前に罷越、忠利君御懇意ニ而度々御前へ被召出、其子慶宅と申者八歳成を御もらひ被成、高本之苗字・定紋をも被下候、後ニ御知行被為拝
  領、医師ニ被仰付、今の高本敬蔵祖也、慶蔵本知弐百石御足高三百石、学校(時習館)教授職ニ而着座ニ被仰付候 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■松寿庵先生 第148講

2015-06-25 18:01:00 | 史料

                                  朝鮮通信使来朝図

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■櫨方門今昔

2015-06-25 17:27:14 | 史料

 櫨方門はかっては現・加藤神社にあった。いわゆる櫨方の役所があったのだが、それ以前は質部屋などが置かれたこともあった。
昭和29年加藤神社敷地内にあった櫨方門が半壊したため、復旧に向けて調査が行われ32年には馬具櫓前に移転修復された。
そして翌33年に現在の位置に動かされている。貴重な記録が公開されているのでご紹介する。

                           熊本城櫨方門・建物調査報告書 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■相聟

2015-06-25 10:11:47 | 史料

  小沢町にある西福寺には、宜記公の側室・際(鳥井氏・喜和=映心院)と二人の御子のお墓が三つ並んでいる。

またその前には齊護公の側室で護久公の生母・興顕院(深水氏・田鶴)と、護久公の側室で護成・嘉壽(細川興生室)・宜(伯爵・松平直亮室)・志津(阿蘇惟孝室、後離婚)などの生母・慈雲院(水俣氏・縫)のお墓が向かい合っている。
お二人とも水俣の惣庄屋深水氏の出である。藩主(当主)の生母であっても、側室の取り扱いは歴然としており細川家の墓所に祀られることはない。

田鶴様は深水家十代頼経の次女で加藤傳之進尭久の養女となった。縫は深水家十二代頼寛の三女である。

処で細川家の茶頭古田家の七代宗保の奥方(伊志)は深水家十二代頼寛女とされる。ある史料には三女とあるが縫様も三女とあり、どちらが正解か現況判らない。
つまりは、護成公と古田宗保は深水家を通じての相聟と云うことに成る。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■熊本大学史料叢書・ 藩主裁可文書一

2015-06-24 07:11:22 | 書籍・読書

 1990年9月1日初版が熊本大学史料叢書刊行会から発行されている。定価8,500円現在ではなかなか手に入りそうにないが、某書店に在庫が見える。
元和七年六月廿五日の御印帳がスタートになっている。この御印帳については、以前熊本大学の国史研究室が「史料細川家文書(一)(二)(三)」を発表している。
コピーを所蔵しているが、いつどこに発表されのか記録しておらず定かではない。この発表の時期、出典とされる「御印之物」の1~50は東京大学史料編纂所へ貸し出されており、国史研究会のものは51以降のものであり、こちらは寛永三年からスタートしている。

これ以降のものが今後発行されるのだろうが、すでに25年を経過しており「その二」の発刊が待たれる。

裁可文書は藩主の裁可を得るためのもので、藩主のコメントがあったりして興味深い。唯今40ページ迄読了・・・・・ 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■こんなもの如何・・・

2015-06-23 11:04:48 | オークション

                        

                            鉄製大筒 九曜紋 細川 相馬 試し

                      鉄製大筒 九曜紋 細川 相馬 試し
                           
                    筒内径寸法約21.5mm 外径42mm 全長寸法310mm 高さ113mm 最大幅145mm 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■図書館浴

2015-06-23 10:42:14 | 徒然

 昨日は昼食後図書館行、雨の予報が出ていたがぱらぱらの小雨の中をチャリンコで出かける。(膝の回転が膝痛のリハビリである)
目的は新しく史談会に入られたK氏の先祖附その他を調べることである。護久公の生母・田鶴様の養家である。
また有禄士族基本帳から改正禄高等調を見ると、藩政期最後のご当主は西南戦争時熊本隊に半隊長として参加、のち懲役十年(情状酌量し、除族の上懲役二年)に処せられている。ご連絡したところ、このことについては御存じなく驚いておられた。
これらを昨晩から読み下しにかかっている。全15頁の内8頁をタイピング完了、読めない文字がちらほらあるが、なんとか今日中には終わらせたいと思っているがさてどうなる事やら・・・

一方ドナルドキーンの「明治天皇」上下巻を借りてきたが、これがなかなか面白い。返却日までに精読しようと思っている。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■第7回武蔵忌句会の結果

2015-06-22 12:02:06 | 熊本

                    6月20日の朝にUPしたつもりだった、「武蔵句会」の結果です。遅ればせながらお届けします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■形見の著

2015-06-22 09:43:32 | 先祖附

 故高田廉一(康史)先生の最大の功績は、「平成肥後国誌」の刊行であろう。1998年刊行、夫々が千頁をこえる上下巻になっており、中世・近世・近代・現代におよぶ熊本の歴史の変遷を、お一人で調査・執筆・刊行された。
刊行された後も研究心に衰える所はなく、車に御乗せして何度かご一緒した。
果たせなかったのが、中川壽林や、井上平太のお墓、又宇土市網田にあるという阿蘇家のお墓など一度出かけたのだが、場所が判らぬまま再度出かけることを御約束していたことだ。それぞれの場所が数十年前に訪ねられて、周辺の状況が変わってしまって、さすがの先生もさじを投げられた。

私の手元に今となっては形見となった一冊の本がある。
阿蘇氏や相良氏の歴史に委しく触れられた、「肥後武将の源流」という御著である。
これは随分以前県立図書館で見つけたのだが、貴重な郷土資料として貸し出しが為されていない。
残部があれば購入したいと思ったがもうないと仰る。しばらくして、落丁がひどい本をお貸し戴いた。
お返しして暫くしたころ、落丁部分をコピーして糊付けしたその本を御恵贈いただいた。                                                 

                    
                                                       (落丁部分の両ページにコピーが貼り付けられている)


このブログで阿蘇氏についての「渡邊玄察」の文章をご紹介したころ、この本を熟読した。
系図を作り判らないことをお尋ねしたいと思い御手紙もお出ししたのだが、叶わぬ事となってしまった。
このような先生の御温情に深く感謝を申し上げたい。



                  珈琲を想い出の卓に頼みけり    津々 

                                                
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする