津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

1/36 車僧

2012-11-30 08:35:45 | 徒然

千利休が作った竹の花筒は36本だといわれる。文献などを調べてそのリストを作って居られる方がある。

              http://rhinohippo.blog129.fc2.com/blog-entry-33.html

ところががこの中に「車僧=くるまぞう」という花筒が含まれていない。
特定ができないという事もあるのだろうか。しかし36本あるといった人は全てが判っているのだろうが、記録が残っていないという事か・・・・
難しくてよく判らん 

元和六年忠興から内記(忠利)にあてた書状(199)に次のようにある。

     竹之花筒道三(今大路親満)ニ被返之由候、一段尤候、此竹花筒小田原にて利休ニきらせ候
     名をも車僧と付被申候、人も存たる花入にて候、則是を進之候、竹之花筒と計被存間敷候、一
     廉之數寄道具にて、車僧之わけハ、浮世をはめくらむものを車僧のりもうるへきわかあらはこそ、
     是にて被付候事

車僧とはお能の http://www.syuneikai.net/kurumazou.htm であろう。

どうやらこの竹の花入「車僧」は現存していないようだ。(細川家にあるものとばかり、随分図録などを探したのに・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

よくよく眺めていたら、ここにありました。

              http://rhinohippo.blog129.fc2.com/blog-entry-69.html

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霊厳洞

2012-11-29 14:48:59 | 徒然

 某会社の社長と話していたら、「宮本武蔵の墓に行ってきました」と仰る。何故またと伺うと、「武蔵の勝気にあやかろうと思ってです」とのこと、ほほえましく思いながら話を聞いているとちょっと筋道が離れてきた。東の武蔵塚でもなく、泰勝寺でもないそうだから西の武蔵塚のことだろうと思って聞いていると、話がかみ合わない。「途中で海が見えていいところ」ときいて、ああ霊厳洞のことと合点して話を合わせる。
              http://www.manyou-kumamoto.jp/html/A109.html 

              http://www.selection-s.net/musashi/reigandou.html

彼は私の歴史狂いはご存じない。しばらく聞き手に回って彼の熱のこもった武蔵談義を拝聴する。

一族に阿蘇家とつながる方が居られる彼は信心も深い。先祖の供養も良くされる。「神様・仏様を大事にされるから、ご利益がありますよ」と申し上げると、「いや、ご利益目当ての信心じゃありません」「先祖あっての私ですから」とおっしゃる。 まさに「神仏を尊んで神仏を頼まず」という武蔵の言葉どおりである。

「ああいう場所には気が満ちています。その気を頂戴し活力にして頑張ろうと思います」
彼には夢があり、その実現のために助言を求められている。本気になって居られることを実感し、成功を祈るばかりである。

過日 Dr.T と玉名へご一緒した帰り道近くを通ったのだが、寄り道をしておけばよかったなあと反省している。改めて出かけずばなるまいと思っている。 

 

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千姫の嫁入り

2012-11-29 09:25:40 | 史料

 忠興から内記(忠利)への元和二年八月廿九日書状(131 抜粋)である。
千姫が桑名藩主本田忠政の嫡男・忠刻と結婚することを報じている。 

    大坂 御姫様九月末ニ桑名江御よめ入 大炊殿御供候由候
    於必定は大炊殿へ人を可遣候間 能々被立聞 前かとニ可被
    申越候 使者を差上 大炊殿へ音信可申候事

大坂城で火傷をおいながらも千姫を救出した坂崎出羽守は、家康の約束(坂崎家への千姫の嫁入り)を反故にされたことに反発し、嫁入りの道中を襲おうとして露見自害したとも、家臣に殺害されたとも言われる。これにより坂崎家は絶えることと成った。
細川家家臣に坂崎氏があるが、その祖川崎忠三郎が出羽守の弟だとする資料が出羽守のご子孫の元にあるという。

時代に翻弄された千姫と坂崎出羽守である。
     

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くまモン全国CMデビュー!!!

2012-11-28 16:20:09 | 徒然

                     http://www.youtube.com/watch?v=M0K1T5ClH10&feature=g-all

 27日くまモンがカゴメの『野菜生活100デコポンミックス』のコマーシャルで全国デビューした。
           http://kumamon-official.jp/%E3%81%8F%E3%81%BE%E3%83%A2%E3%83%B3%E5%85%A8%E5%9B%BDcm%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%EF%BC%81%EF%BC%81%EF%BC%81.html

 品切れが予想されるため期間限定というシロモノ、皆さんいそいでお買いまっせ~

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瓦の文字・・何と読む?

2012-11-28 15:56:10 | 史料

 高麗門跡の発掘現場から貴重な瓦の破片が出ている。慶長五年の年号がある滴水瓦等と共に出土したこの瓦もその一つだが、文字の解読ができないでいる。
このままの横文字なのか、起こした縦文字なのかさえ判らない。はたして何と読むのか、お分かりになる方は居られないだろうか。

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焼鳥のへおと・・・?

2012-11-28 09:50:44 | 史料

 元和六年忠興が息・内記(忠利)にあてた書状(205)に、理解しがたい文言に出くわした。

     一 城修理普請之儀も 右一度ニ大炊殿へ談合申候ヘハ 新敷事ハ少も無用 前のことくニなら
       ハ普請可申付由具ニ御申候間 普請可申付と存候つれ共 焼鳥のへおと一切不申付候 只
       今其方より被申越分ニ候ヘハ 不申付が能候事

文章の大意は、小倉城の普請について土井利勝に相談し、了解を得たのだが忠利が何か言ってきたのか、普請は行わないというのである。
そのなかに「焼鳥のへおと」なる不思議な文言がある。

いろいろぐぐっていたら「料理のことわざ」というサイトに、焼鳥に捉緒(ヘお)をつけよを見出した。
焼鳥が逃げないように緒をつける、つまりは「念には念を入れる」という意味である。「焼鳥のへお」の「」は不要の感じがするが如何だろうか・・・
しかしながら昔の人のボキャブラリーの確かさには驚いてしまうと共に、この用心深さが忠利にも光尚にも受け継がれていく。
 


     

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御成り道発掘現場説明会

2012-11-27 17:51:06 | 熊本

 まったくの偶然だが、去年の今日 高麗門周辺の発掘調査 を書いた。

 その西側の高麗門から妙解寺にいたる御成道跡の発掘現場は、11月末一連の発掘調査は終了する。現場は九州新幹線に並行する在来線の高架化の工事が熊本駅側と新町側から進んでおり、発掘作業の終了を待つ形で、工事が続けられドッキングすることになる。こちらで最後の説明会があるという事で出席した。こないだクレーン車の転倒事故で新幹線が長時間ストップした高麗門側から道を挟んだ西側の四つの工区である。幅8メートルほどの御成り道が確認されたこと、滴水瓦その他の年号が確認される瓦の出土、西南戦争時の水攻めによる土砂の堆積等々、興味あるお話を伺う。貴重な史料も頂戴して、約2時間弱の貴重な時間を過ごした。

                                            

 

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「細川文書(宇土)6 家筋調 一」の最初のページ

2012-11-26 21:11:03 | 史料

                                     細川文書(宇土)6 家筋調 一 

 トップページは井門(いど)家である。忠興公に従い八代に在ったが、宇土支藩創立に伴い家老として仕えることになる。
名君の呼ばれ高い宇土支藩六代興文公は、一時期この井門家の養子であった。 

幽齋公田邊城籠城の際、攻め手の赤松左兵衛の家臣としてその働き振りを賞賛された物頭井門(いど)亀右衛門は、後忠興公により召し寄せられる。その働き振りを綿考輯録は次のように記す。

赤松左兵衛陳の内より、母衣武者一騎かけ出、杉の馬場口へ乗廻し候躰如何様一ふし可有之と、城中各覚悟いたし候に、左はなくて、堀溝にかゝミ、引兼たる者共を可引取との儀にて、馬上にさいを振廻し、見方を招き、馬を乗廻し、順逆に輪を乗、静に引取候躰、見事なる振也、母衣は白赤、横に段々筋、母衣の出しは同毛三ッ羽子、間に蛇の目有、馬は栗毛とも、粟毛共見へ候、城中よりねらひ、鉄炮余多打懸候へとも、程遠き故か不中、此武者赤松左兵衛・物頭井門亀右衛門重行と云者也

                                  
又「古武士の面影」は次のように記している。(井戸(井門)亀右衛門 参照)
 

  亀右衛門---+---亀右衛門重忠
         |         千石・若年にて相果、跡断絶
         |
         |  中津別禄召出                             宇土代々家老・禄七百石
         +---少次郎重之---------次郎左衛門重之・・・・・・次郎左衛門重
                八代御供            文三郎 宗中 

 

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宇土支藩細川家、御三卿(代々御家老)家の御家来衆を調べるには・・

2012-11-26 10:59:08 | 史料

宇土支藩細川家、御三卿(代々御家老)家の御家来衆を調べるについては、熊本県立図書館に以下の資料があります。
詳しくは熊本県立図書館 にお訪ね下さい。 

■宇土支藩・細川家家臣については、「家筋調」という以下の文書が存在する。  写真は(細川文書(宇土) 6)

            1 家筋調 一 細川家(宇土)     (細川文書(宇土) 6)
 
         
            2 家筋調 一 細川家(宇土)     (細川文書(宇土) 7)
 
         
            3 家筋調 三 細川家(宇土)     (細川文書(宇土) 8)
 
         
            4 家筋調 四 足軽 細川家(宇土) (細川文書(宇土) 9)
 
         
            5 家筋調 五 譜代 細川家(宇土) (細川文書(宇土) 10)
 
 

■松井家については、八代市史 近世史料編Ⅳ 松井家文書 御給人先祖附 がある。

■米田家については、米田家家臣 先祖附 御奉公附 [古](米田家文書) 15冊が存在するが、痛みがひどく未だ家臣名の索引もできていない。
 来年索引だけでも作り上げたいと思っている。

■有吉家については、[有吉家御家中先祖付] 上 〔古〕複写版 が存在する。
     1 中山半助 2 吉川源助 3 内藤左五右衛門 4 菅沼文太 5 廣瀬才兵衛 6 本郷三郎 7 長坂右兵衛 8 大山角兵衛
     9 大山三十郎 10 菅源兵衛 11 林田庄左ヱ門 12 高山彦兵衛 13 中尾権太夫

 下巻については見受けられないが、有吉家には「御馬乗中家系附」があり、ここには以下の御宅の先祖附が揃っている。
 これについては、当方にお問い合わせいただきたい。

       御知行取  長坂、 外山、 原田、 生地、 吉安、 野田、 菅、 江藤、 萩野、 葛西、 中尾、 岸
               内田、 三輪、 上田、 大山、 岡崎、 服部、 浅香、 河野、 赤尾、 菅沼、 本郷、 荒木
               高山、 廣瀬、 津島、 緒方、 吉川、 林田、 内田、 伊東、 中山

       御馬乗衆  古田、 江口、 徳山、 栗崎、 中村、 高木、 岸、 今村、 青木、 生地、 阿部、 尾崎
               上田、 平川、 龍造寺、 郷司、 荒木、 真崎、 東田、 松村、 松村、 松村  

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見る、読む、調べる 江戸時代年表

2012-11-26 10:05:53 | 書籍・読書
見る、読む、調べる 江戸時代年表
 
        小学館

内容紹介

江戸時代の歴史が楽しく分かる画期的年表
1603年の江戸開府から1867年の大政奉還にいたる、あらゆるジャンルの出来事を1冊の年表にまとめ、重要項目については、ビジュアルなどを使って平易で楽しい解説を加える。「地方の出来事」欄を充実させた。
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「在宅」する人たち

2012-11-25 12:57:14 | 徒然

「在宅」する人たちを調べてみると、単に生計が成り難いという事ばかりではないように思えるものがある。

 ・續団右衛門 嫡子信十郎を嶋崎拝領屋敷江当分住せ度願 (宝暦十三年十月)
      この拝領屋敷とは綱利公から拝領した釣耕園のことであろう。これは生計云々ではなく、別荘の管理といった感じがする。
          
 ・平野太源太在宅願 穏便中ニ候へとも類焼ニ付参向無之迷惑ニ付 相達候段口達 早速如願及達 (宝暦十四年八月) 

 ・(有吉)四郎右衛門殿弟 有吉金三郎・同曽八郎在宅願之事 御家老中承届 (明和二年十一月)
      御三卿の家老家(12代立喜)でも在宅とは・・・・? 

 ・有吉市左衛門弟有吉亘 在宅仕せ度達之問合 半切覚書草書差遣 (明和四年六月)
       
 ・清水数馬育之叔父並喜 在宅願
      こちらは綱利公生母・清高院の実家で一時期一門の扱いを受けた家である。こちらも経済的な匂いは薄い・・・・? 

 ・槙島権之允 在宅三ヶ年願之通当六月及達候処 所柄勝手不相成候付 引出之儀其年十月ニ至り内意
  有之 勝手次第との返答 (明和五年十月)

 ・續庄之允在宅仕度由 家内付ニ上下三人 内下男一人・下女一人書出之事 (明和六年六月) 

 ・田中典儀父田中左兵衛 蟄居被仰付置候 在宅願 (明和九年十二月)
      4000石城代・備頭等を勤めた左兵衛殿(実・小笠原長知二男)はちょっとした事件を起こし、明和七年十二月知行召し上げの上蟄居を仰せつけられた。
        息子の家では肩身が狭いといったところか・・・ 

 ・藤崎太右衛門在宅之処 組脇被仰付候付而引出願 (安永九年十二月)

 ・小笠原多宮育之伯父 在宅之儀問合有之 組頭承届ニ而相済との返答

 ・小野武次郎儀 下益城郡河江手永北小川村之内江在宅之処 軍学師役被 仰付可成ニ相勤候得共 
  遠方故年限内候得共 熊本屋敷江引出願之事 (寛政二年六月十三日)
       綿考輯録の編者である。御擬作100石の家だから在宅していたのだろうが、役に就いて府中住まいとなり引出と相なった。 

 ・米田章太郎 飽田郡嶋崎村之内江引越居申候処 今以勝手取続兼 其上父米田松洞老老衰仕候付
  而ハ何分難見放 旁猶七ヶ年在宅願之事 ( 寛政二年八月)
       こちらも御三卿の米田家、七代是福の甥にあたる人物で合力米千俵を頂戴している。寛政五年に27歳で死去するのだが病気療養(?)なのか・・・? 

 ・陳佐左衛門在宅願書 三百石取ニ而候得共着座之事ニ付 伺ニ茂成可申哉と及吟味候得共 御改正
  以来見合無之 此節伺ニ不及筈相究候事 (寛政四年正月)
       島原の乱で天草四郎の首を挙げた先祖佐左衛門の功により、座班着座のこの人物はその身分故在宅は罷りならぬという事であろう。 

 ・藤掛忠左衛門 在宅所江早々引越可申筈之処 内場難渋之筋有之 不得止事引越出来不申候付 熊
  本江罷在相勤申度内意之書付溝口蔵人より御懸合有之候付 願書被差出候様返答之事
                                  (文化三年二月廿日)

 ・上月平次右衛門 久末村拝領屋敷江転宅願書内見せ有之候得付 拝領屋敷ニても右様之願ハ見合
  無之 在宅願之取扱ニ相成候様返答之事
      但 同年二月廿三日在宅願出ル 且熊本居同様被仰付被下度との内意覚書達有之候事
                                (文化十三年二月十三日) 

 ・朽木内匠 在宅願之内意有之候処 奥より留メ相成候由朱書之事 (天保二年二月)
 ・右同人 在宅之内意猶達有之候処 在宅之儀者見合申度 居在宅之届有之候様及達候段 御奉行
  取遣帳ニ記録有之との頭書之事         (天保五年三月)
       幽齋公の兄・三淵藤英二男の血筋である朽木家だから、在宅はちょっとまずいよという感じだろうか。奥から留められたというのがきつい。 

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在宅

2012-11-24 08:37:36 | 史料

 現代において「在宅」とは、宅に在するすなわち「外出しないで自分の家にいること」と定義している。
藩政時代における「在宅」とは、在に宅することをいう。すなわち生計に困窮した家臣・藩士が、地方に住むことによって生活の立て直しを図るという制度である。宝暦の改革に伴い原則500石以上の家臣には許されなかったが、約1/
4 の家臣が家族を伴い地方で暮らした。

          御知行取之内在宅願之儀左之通
   一 五百石已上之面々在宅被仕度被存衆ハ 熊本居住難成との訳立候面々ハ
     其訳頭々委ク被承届 尤之様子ニ候ハゝ今迄之通 月番御家老衆内意被申
     達候上ニ而願書・家内付・添書被仕 御役所日ニ頭々持参可被相達候事
        但 頭々病中又ハ差合等之節ハ組衆を以可被相達候事
   一 四百五拾石以下在宅願之儀 願之趣頭々委細承届 尤之様子ニ候ハゝ御家
     老中江内達ニ不及 直願書・家内付・添書被仕 頭々持参不時ニ御役所へ
     可被相達候事
        但 右同断
   一 右之通ニ付 向後妻子在宅之類ハ難成候事
     右之通被 仰出候事
        以上
   宝暦五年
       七月廿七日 

 

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大坂落城戦国終焉の舞台

2012-11-24 07:29:16 | 書籍・読書
大坂落城 戦国終焉の舞台 (角川選書)
 
            角川学芸出版

内容(「BOOK」データベースより)

戦国時代に終わりを告げた「大坂の陣」。徳川家康が豊臣家を滅亡させるための謀略に満ちた戦いという通説は、事実なのか。家康謀略史観に疑問をもつことで見えてきた、浪人やキリシタン、商人の存在。武将の活躍の陰で、彼らもまた生き残りを賭けて戦っていた。軍功書、首取状などの豊富な史料を駆使しつつ、関ケ原合戦から大坂の陣にいたる激動の時代を鮮明に描く。
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熊本城顕彰会・季刊「熊本城」から

2012-11-23 12:11:24 | 熊本

先に書いた 柊? タブの木? に呼応するかのように(ではないのだが)、財・熊本城顕彰会が発行する季刊「熊本城・88号」に、この坂のことが富田紘一氏の記事で取り上げられていた。「熊本城の歴史と探訪」第二十六回 二の丸(七) 宮内(一)である。熊本城研究の第一人者である氏も、史料に混在する「柊坂」「タブの木坂」にいささか困惑のご様子である。これは永久に謎のままで終わる感じがする。

その他、「加藤清正妻子の研究」の著者・福田正秀氏の連載、「肥後加藤家改易の研究」は第七回となり、今回は「二条城会見の清正」である。
又村田真理氏による「熊本年中行事圖絵」に見る熊本城下の年中行事 は、多くの圖絵を紹介しながらの記事で親しみが持てる。
今回は十回目「藤崎宮放生会(Ⅰ)」である。そのた村上豊喜氏の「熊本城前史 中世の熊本城」も九回目に至っているなど、盛り沢山のメニューである。

皆様の御入会をお勧めしたい。購読料・年四回分 1,500円/一年 随時入会可
                    連絡先 財団法人・熊本城顕彰会
                          電話 096-352-2975 

 

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巡り合わせ

2012-11-23 09:07:54 | 徒然

 わがサイトは2003/8/22 に立ち上げたので、今日で9年3ヶ月を経過した。その間随分の御宅のご先祖探しに関わってきた。
そのつど共に感動を味あわせていただいたが、今回にすぎるものは又とないかもしれない。

M家のご子孫から有禄士族基本帳に高祖父様のお名前があるとのご連絡をいただいた。実は同姓の御宅の先祖附が残されているのだが、こちらは五代で絶家扱いになっている。両方を取り寄せ読み下してみると、一二代抜けているがまさに一つの流れとしてつながる御宅だと判明した。それは一貫して藩主内家に仕えておられていたことによる。

一方昨年九月G様から細川支藩新田藩(高瀬藩)に仕えておられたM氏(お祖母さまのご実家らしい)の家系図のご提供を受けた。新田藩に関する資料は大変少なく、ご厚意に甘えるばかりで、こちらからご報告する資料もなく大変心苦しいことであった。

今般ご連絡のあったM家は細川宗家のご家臣であり、G様のお祖母様のM家は細川新田藩のご家臣の違いはあるものの、ルーツは同じなのではないかと家系図を詳しく拝見すると、なんと両家はご先祖を一にするご兄弟を祖としていることが判明した。
それを確認したとき、興奮と共に鳥肌が立つ有様であった。ご提供を受けた家系図は42ページに及ぶもので、ご兄弟からさらに1,000年ほど遡る詳しいものである。その由緒が明らかになりM家にご報告した次第である。

それにしても何という巡り合せであろうか・・・・9年3ヶ月の活動が報われた一瞬であった。 

 

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