津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

細川家譜--細川齊茲譜 ・・ 2(了)

2010-04-30 18:42:47 | 歴史
三年癸亥受免ノ法ヲ定ム 受免トハ土免ノ定數ヲ民ニ受負ハシメ年ノ豊凶ニ拘ハラス所務スルヲ云 當國租税ノ舊法ハ寛永ノ地撫シ 加藤氏ノ舊法ニ依リ三年ヲ平均シテ物成ヲ定メ風水ノ損毛アル時ハ實ヲ検シテ之ヲ取ル後ニ所謂損引ナリ 延寶ノ土免 十ケ年ヲ平均シ地味ノ善悪土反別等考合スル法ナリ 寶暦ノ地引合寶暦七年ヨリ十三ケ年ヲ経テ地方の経界ヲ定ム 等屢改革ヲ経テ其法稍ク密ナリ然レ共租税は猶延寶土免ノ法ニ沿リ年ニ随テ豊歉アリ故ニ若一タヒ凶荒ニ遇フ時ハ必ス役人ヲ遣ハシテ諸郡ノ損毛ヲ巡察セシム 於是大勢ノ役人郡中ヲ巡行シ村役立合ヒ試升等數日ヲ経ルニ付テハ人馬ノ労饗應ノ費皆郡中ヨリ之ヲ辨ス且其事ヲ終ルマテ収納ヲ許サ々レハ作毛雨露ニ暴サレ餘計ノ損毛ヲ重子随テ跡根付モ延引シ春作ヲ妨ク 如此ノ類民ノ疾苦最多シ且損引分ハ物成ノ不足トナリ會計ノ規則ヲ定ムル事能ハス 彼是ノ患アルヲ以テ既ニ寶暦度地引合ノ節時ノ執政堀平太左衛門受負ニ定ムヘキトノ志有レ共其事遽カニ行ヒ難キヲ知テ姑ク黙止シタルヲ今年ニ至テ奉行島田嘉津次彼ノ平太左衛門ノ志ヲ継キ其議ヲ有司ニ下シ孝定セシム 其法安永三年ヨリ今年マテ都合三十ケ年ノ間當領ノ現高七拾一萬五千石餘ノ物成ト遂年損毛ノ所務高トヲ平均スレハ二拾七萬二千石餘ノ歳入ニテ三ツ八歩二朱餘ノ免トナル コレヲ延寶ノ土免四ツ六歩餘ノ物成三十三萬五千石餘ニ差引ク時ハ六萬三千石餘ノ餘米アリ之ヲ一國ノ民ニ與へ其私有ヲ寛ニシテ三ツ八歩餘ノ定免ヲ年ノ豊凶ヲ論セス 之ヲ納メシム然レ共猶其苦ム所アラン事ヲ恐レテ更ニ潤色ノ一法ヲ設ケ兼テ餘米ノ内ニ歩ヲ貯ヘテ其不足ヲ補ハシム 然ルニ此餘米ヲ小民ニ貯ヘシムル時ハ不時ノ失墜トナシ凶荒ノ歳ニ至テ却テ賠償ニ苦マントス 因テ右ニ歩米ヲ備へ米斗唱へ年貢ニ准シテ其管轄セル會議所ニ備置テ若凶荒ニ遇テ受免ヲ細メ得サル事有テ申出レハ郡代初總庄屋等其作毛ヲ検定し相應ニ備へ米ヲ與へ其不足ヲ補ハシム 翌文化元年右ニ歩米ヲ猶一歩五朱ニ減ス 是ヲ一歩半米ト唱へ受免ノ定備トス 於是下ニ冗費ヲ省キ上ニ闕税無ク各其法ヲ便ナリトシテ農務大ニ効験ヲ得タリ 此擧ニ因テ諸郡役人巡検ノ費ヲ省ク事許多ナリ 因テ國中ニ令シテ毎年二萬石ノ上米ヲ納メシメテ以テ會計ノ不足ヲ補ハシム
島田嘉津次ハ島田郷右衛二男ナリ 郷右衛門肥後八代城附馬廻ニテ代々百五拾石ヲ知行す 嘉津次幼二シテ家賓シ一旦剃髪シテ僧トナル 適家兄病死ス 遂ニ家ニ還ルヲ得タリ 其為人聡明夙ク學文ニ非サレハ知識ヲ開クノ道無事ヲ知ル 二三ノ同志ヲ求メ日夜勤學ス 燈火ニ乏シク薪ヲ燃テ書ヲ照ス 生ル後府學ニ入寮ス 書中蚊帳ナシ反故を集メテ紙帳ヲ作ル 聡明ノ資質加フルニ心志ヲ刻苦スル事如此教授藪茂次郎素ヨリ其才識ヲ知リ時ノ執政堀平太左衛門ニ申入ル 平太左衛門亦善ク之ヲ遇シ官府會計ノ秘録ヲ與ヘテ之ヲ讀シム 因テ嘉津次モ能ク方向ヲ知テ益経済ノ學ニ力ヲ用ユ然レ共初メ郡代タル時は人ト異ナル事無カ如シ 其漸ク進ムニ及テ其任大ナル時ハ其業益盛ニシテ齊茲齊樹二代ニ仕ヘテ大ニ用ラレ遂ニ能ク寶暦中興ノ遺業ヲ潤色セリ 決断流ル々々如ク筆翰立トコロニ就リ人ノ難豦時變ニ處スル事最其長スル所ナリ 齊茲隠居ノ時齊樹ニ我老臣ヲ遣スト云ヘリ 家督ニ添テ引譲ルノ意ナリ 八代城附ヨリ起テ遂ニ中老トナリ禄千二百石ニ至ル 本藩非常ノ抜擢ナリ 門下有名ノ士ヲ輩出シテ各能ク経済ノ功ヲ立ル事ヲ得タリ

六月廿一日勘定頭井上長九郎以下十餘人ヲ貶黜ス 是ヨリ先寶暦ノ革政ニ因テ國計漸々不足ヲ補ヒ明和安永ニ至テ一國良法ニ安シケルカ寛政中非常ノ災害並ヒ至リ國力殆ト窮スルニ及テ長九郎計策ヲ以テ無實ノ楮幣ヲ造リ又歩入米等種々ノ法ヲ以テ國計ヲ立ントセシ處ヨリ姦商共不正ノ利ヲ掠メ勝手向愈以テ逼迫ニ及ヘリ 畢竟會計ノ根元ニ心付薄キ故トテ長九郎以下ヲ貶黜シ新タ二勘定目附二員ヲ置テ観察セシメ會計ノ法大ニ革ル 嶋田嘉津次改革ノ主事トシテ精覈ノ考議ヲ建ツ 葢シ當時ノ急務トスル處食貨ノ二ツ二在リ故ニ當藩寶暦ノ革政後享和ノ事業最大ナリトス

文化元年甲子冬時習館尊明閣西楣二白鹿洞書院掲示ヲ掛ケシム 藩中此頃マテ種々ノ學派アリシカ是ヨリ學ヨリ學館ノ生徒専ラ程朱ノ學ニ方向ヲ定ム
文化ノ初年長崎へ異國舩入津ノ報告アリ 出兵有ルヘシトテ種々ノ風説穏カナラス急ニ留守居伊藤又左衛門ヲシテ長崎ニ赴カシム 於是城下大ニ騒キ浮説益盛ナリ 齊茲此夜邸中ニ於テ囃子ヲ命シ武備ニ與ルモノモ亦其人數ニ加ヘテ深更ニ及フ 翌日浮説十カ一ニ減シ遂ニ鎮定ニ至ル

二年乙丑正月十日歌舞伎浄瑠璃踊ノ類捴テ芝居同様ノ人集リハ近年差留置ケル豦城下郡中共ニ前々ヨリ有来リシ場所ニテ諸事質素ニ興行スルハ苦シカラス然レ共士ノ子弟往々奉公ヲ勤ヘキ類は城下内外ノ差別ナク歌舞伎其外見セ物アル場ニ入込事遠慮スヘシト布告ス
三月牛馬ヲ盗ム者ハ斬罪ノ定刑ナリ  古来ヨリノ國典ナリ 然ルニ貧困ニ迫リ或ハ不圖心得違シテ盗取リ情緒軽キハ死ニ入レス 一旦教刑ノ重ニ處シ再ヒ犯ス者又ハ同類ヲ數多駈催シ或ハ牛馬盗ヲ産業ノ如クスル者ハ此限ニ非ラスト議定ス

三年丙寅三月四日江戸大火龍口屋敷モ危ク見へケルハ此由ヲ齊茲ニ告ク 齊茲云ク長屋ニ火掛ル程ナラハ立退クへシ其節ハ老若一同ニ我ニ附従来ルヘキ用意スヘシトナリ 奥向ヲ始トシテ邸内定詰ノ家内マテモ先ツテ立退ク事ヲ憚リ窺ヒ居ケル程ニ用意十分ニ調フ時既ニ長屋ニ火掛ラントス 此由ヲ告ク齊茲夫ヨリ湯浴シ火事装束ニ着替へ馬ニ乗り徐々トシテ地道ヲ歩セ行ケルユヘ後二附添ヒ老若皆無恙芝ノ屋敷ニ立退ク間モ無ク龍口屋敷ハ類焼セリ

四年丁卯四月當時勝手向難澁ノ折柄ナレハ役人共相互ニ存寄申合セ國ノ為ニスル事勿論ナリ 就中勘定所ト郡代ハ諸事通議スヘシ 其故ハ民力ノ盛衰ハ所務ノ可否ニ係リ山海川澤ノ利害ハ貨財ノ損益トナル 且又勘定ノ駈引ハ郡村野興廃ニ係ル故ニ勘定所目附は折々郡代詰間ニ出席シ或ハ郡村打廻リ郡政ノ得失ヲ察シ存寄ノ筋ハ郡代ト相議シ且郡代ヲ始トシテ捴庄屋以下モ勘定所取計ノ當否ニ心付カハ勘定所目附ト相議スヘキ旨布告ス

五年戊辰十二月凡家中ノ士ヲ罪科ニ處スルニ其罪状未タ發セス 世上ノ聞ヘモ無キ内自ラ過ヲ悔ヒ親類モ早ク心付キテ病乱ト穪シ知行ヲ還納スル者アラハ宥議ヲ加へ臨時ノ僉議ヲ以テ家名断絶ニ至ラサラシムヘシト議定ス

天保六年乙未十月廿三日江戸芝白銀ノ屋敷ニ於テ卒ス年七十七 齊茲天資聡明果断往々人意ノ表ニ出ツ威厳能区権門尊貴ノ人ヲ服セシム 常ニ節倹ヲ守リ撫恤ヲ施シ身ヲ政事ニ委ヌ故ニ一世ノ治業其功少ナカラス
                          
                               (了)
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津々堂お薦めの幕末期に関する著作

2010-04-30 12:05:07 | 書籍・読書
                            スフィンクスと武士
■幕末遣外使節物語-夷狄の国へ
    尾佐竹猛著 発行:講談社 (学術文庫)(1989/12/10 出版)

 メリケンは1万里の外なり、君命を耻しむれば神洲の耻辱ならん。
 万延元年、初めて海を越えアメリカに赴いた新見豊前守一行は、汽車に驚きダンスに呆れ、歓迎
 のキッスに慌てながらも意気軒昂であった。
 サムライたちの見た西洋を、航海日誌や新聞記事を自在に駆使して描き出した本書は、憲政史
 の泰斗が一流の諧謔をもって世に問うた異色の幕末史である。
 他に池田、竹内、徳川の3遣欧使節の物語を収める。

   遣米使節 新見豊前守一行 (万延元年)
   遣欧使節 竹内下野守一行 (文久二2年)
   遣仏使節 池田筑後守一行 (文久3年)
   遣仏使節 徳川民部大輔一行(慶応3年)
   仏蘭西時代の思ひ出


■慶応三年パリ万国博奮闘記・花のパリへ少年使節
    高橋邦太郎著 発行:三修社 (1979/10/1出版)

 「日本の古本屋」でしか購入できないと思いますが、面白い事請け合いです・・・
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万延元年遣米使節航米記

2010-04-30 10:50:36 | 書籍・読書
万延元年遣米使節航米記 現代語訳 肥後藩士木村鉄太の世界一周

著者/訳者 木村鉄太/著 高野和人/編訳
出版社:熊本日日新聞社
発行年月:2005年04月
販売価格:2,100円

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  万延元年の遣米使節は正使・副使・監察はともに、九人ずつの従者を連れて行った。
  監察小栗豊後守忠順(のち上野介)の従者の中に、熊本の木村鉄太が加わっている。
  そして彼は「航米記」なる見聞録を残した。見事な挿絵が施されており彼の才能ぶりが伺える。
  帰国後残念ながら亡くなっている。

  参考:要約筆記 木村鉄太 日本開国の先駆者(PDF)  崇城大学教授・松本寿三郎
           www.parea.pref.kumamoto.jp/koza/data/matsumoto/matsumoto_koza.pdf -
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咸臨丸・サンフランシスコにて

2010-04-28 19:20:50 | 書籍・読書


咸臨丸、サンフランシスコにて (角川文庫)


著者:植松三十里
出版社:角川書店
販売価格:620円


【本の内容】
安政7年、条約批准のため遣米使節団が江戸湾を出航した。勝海舟が艦長を務める「咸臨丸」には、瀬戸内の塩飽衆・吉松たち日本人水夫が乗り組むが、悪天候に悩まされ、病気も蔓延する。アメリカ人水夫との対立、士官・中浜万次郎への反発など不穏な空気の中、果敢に太平洋横断に挑んだ彼らを思わぬ運命が待ち受けていた。書き下ろし後日譚「咸臨丸のかたりべ」を併載し、第27回歴史文学賞受賞作品が大幅改稿を経て、待望の文庫化。

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天地明察

2010-04-28 18:31:09 | 書籍・読書


天地明察


【本屋大賞2010受賞作】

著者:冲方丁
出版社:角川書店
販売価格:1,890円

【本の内容】
江戸時代、前代未聞のベンチャー事業に生涯を賭けた男がいた。ミッションは「日本独自の暦」を作ること。碁打ちにして数学者・渋川春海の二十年にわたる奮闘・挫折・喜び、そして恋!早くも読書界沸騰!俊英にして鬼才がおくる新潮流歴史ロマン。

【著者情報】
冲方 丁(ウブカタ トウ)
1996年、大学在学中に「黒い季節」で第1回スニーカー大賞を受賞しデビュー。以後、小説を刊行しつつ、ゲーム、コミック原作、アニメ制作と活動の場を広げ、複数メディアを横断するクリエイターとして独自の地位を確立する
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トピックス

2010-04-28 11:13:51 | 熊本
■4/25熊本市に合併した植木町の熊本市議会議員の選挙で、マラソンランナー松野明美さんが見事当選、あの速射砲のようなお喋りが議会に響き渡る事でしょう。

■地元銀行・肥後銀行が「永青文庫常設展示振興基金」に3000万円を寄附、2014年までに合計3億円を寄附の予定とか・・・

■明日4/29は「くまもと城下まつり」中心部では歩行者天国となり、路面電車もストップGWは天気もよさそうで、熊本城はさぞ賑う事でしょう。
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細川家譜--細川齊茲譜 ・・ 1

2010-04-28 10:14:50 | 歴史
藤孝--忠興--忠利--光尚--綱利--宣紀--宗孝--重賢--治年--齊茲--齊樹--齊護--韶邦--護久
   細川齊茲譜

細川越中守源齊茲ハ末家宇土藩細川興文ノ第三子ナリ 幼名ハ興松諱ハ立禮 安永元年正月廿五日興文隠居立禮家督相續従五位下ニ叙シ和泉守ト改
天明七年丁未九月本家細川治年疾篤シ長子雄次二男應五郎即皆幼少依之立禮ニ家ヲ継シメント請フテ卒ス 十九日立禮依召登城治年遺領無相違相續十二月廿三日従四位下侍従ニ叙ラレ越中守齊茲ト改ム

八年戊申七月廿三日始テ入國ニ付家中ノ者ニ心得ノ令ヲ下ス 其略ニ曰我等先代ノ不幸ニ依リ不圖大國ヲ領す 遠クハ祖宗以来ノ法ヲ時勢ニ随テ斟酌シ近クハ先々代以来ノ旨ヲ相守ヘシ 家中ノ禄少給ノ事ニ於テハ國計不足シ如何ニモ意ニ任セ難ケレハ倶ニ倹約ヲ守リ不足ヲ償フヘキ旨精々相心得存寄ノ儀コレ有者ハ封書ヲ差出スヘシ先代ヨリ言路ヲ開キ置カレ我等ニ於テモ同前ノ事ニ付家中ニモ其旨心得へシトナリ 然ルニ月ヲ経テ封書ヲ差出ス者無シ 因テ頭々ヲ呼出シ是マテノ仕置筋ニ一統存寄ナキヤ又ハ憚リテ申出サルモ有ルヘシ心付ノ事ハ少シモ憚ルニ及ハスト申聞ク 翌年正月教授藪茂次郎ニ語テ曰ク近頃貞観政要ヲ讀ムニ大宗程多ク直言ヲ得シ人君ハ未タ之アラス我初政ノ日言路を開キ置シニ應スル者寡ナシ必ス其故アラン汝此意ヲ以テ周ク諸生策問セヨト命シケレハ諸生共數多ノ封策ヲ差出ス
九月 禁裡造営トシテ上納金ノ事ヲ命セラル 先是當正月京徒大火ニテ禁裡炎上ナリ因テ祖父重賢存念ヲ継キ獻金セン事ヲ請フ追テ採用アルヘシトテ此度二十萬両四ケ年賦ニ納ムヘキ旨命アリ 然ルニ領内非常ノ災害打續キテ不得止寛政八年ニ至リ始テ獻納終ル

寛政二年水庚戌正月清率ニ據リテ諸刑徒ニ刺墨ヲ加ヘタル者追テ改心シ産業ニ基キ五ヶ年ヲ過ル時各其市在ノ長ヨリ申出レハ刺墨ヲ除ク事ヲ許ス
九月衣服貴賎ノ綱領ヲ定ム 士席以上徒士足軽ノ三等ヲ以テ其品目ヲ定ム 此節ヨリ衣類横目ヲ差廻シ違犯ヲ監察セシム
十一月郡代ヲ勤ムル者共ニ手書ヲ授ケテ云ク郡中ノ事ハ兼テ委任シタル條々ヲ守リ農家ノ風俗廢頽セサル様ニ為スヘシ凡ソ數郡ノ利害ニ係ル事ハ同僚ノ衆議ヲ集メテ決断シ官ノ新古ニ拘ルヘカラス若シ己カ支配ニ限ル事ハ土地ノ風俗ニモ依ル事アレハ同僚ニ拘ハラス銘々ニ裁判スヘシ 近年郡政自カラ弛ミ村々ノ費用相増タル由是風俗奢侈ノ萌シナルカ或ハ村役人私曲アルモ知へカラス宜ク怠慢ナク厳重ニ申付ヘキ旨布令ス
十二月六日齊茲政事堂ニ往テ親ラ執政ノ會議ヲ聴ク先是國主親ラ臨テ會議ヲ聴ク事無ク唯議定テ後二聴キ之ヲ可否スルノミ 此後臨時ニ出席シテ親ヲ聴ク事ヲ定例トシ代々其事ヲ継キ行フ
是冬寒気特ニ甚シ國中ノ貧民ニ衣類ヲ與ヘテ救恤ヲ加フ是ヨリ年々定例トシ齊茲世ヲ終ルマテ其數凡二十萬ニ及ヘリ後代亦之ニ效フテ毎年寒節ニ入ル時ハ必ス窮民救恤ノ事ヲ行フ
此年佐敷ニ文武稽古所ヲ設ク 佐敷ハ肥後ノ南境ニシテ番騎二十餘員ヲ置テ境ヲ守ラシム 且許多ノ郷士アリ故ニ稽古所ヲ建テ々文武ノ藝ヲ習學セシム 
(寛政)三年五月江戸龍口白銀両邸ニ稽古所ヲ設ケ毎月定日アリテ儒官経ヲ講ス 亦會讀習書武藝等ノ科アリ 六年大坂蔵屋敷ニ文學所ヲ創ム 大坂ノ儒官中井善太號竹山 講釋ヲ勤ム 享和元年鶴崎ニ文武稽古所ヲ創ム文學ハ脇儀一郎竹山門人號蘭室 講釋を勤ム 鶴崎は番舩ヲ置ク所ナリ毎年番代一人ヲ遣ハシテ海陸ノ諸務ヲ捴轄ス役員數多ナリ

(寛政)四年壬子四月一日肥前島原領ノ温泉嶽崩ル 肥後領内飽田郡海邊津波高クシテ流失死亡スル者千五百二十人ニ及ヘリ 五月高瀬方洪水右両度ノ災害救恤ノタメ九月ニ至リ幕府ヨリ金三萬両借用其外大坂町屋借金ヲ以テ國計ノ不足ヲ補フ

六年甲寅二月備頭ニ命シテ平場ノ調練ヲ試ム 銘々軍役ノ人數高ヲ全備スルニ及ハス 衣類は股引半切ヲ用ヒ猟場ノ出立ト心得田畑作毛ノ障リトナラサル場所ヲ見立テ先ツ道押丙備立大略ノ駈引ヲ試ムヘシトテ是ヨリ往々調練ノ仕法ヲ創ム

八年丙辰六月強雨降リ續キ十一日阿蘇嶽根子嶽等ヨリ山潮湧出テ白川水溢レ遂ニ城下ニ漲リ入ル 其勢烈シク所々橋落チ家流レ夜ニ入リ叫喚の聲止マス 齊茲委ク見聞シ深ク憂トス 八月ニ至テ小松原ヨリ龍田口子飼マテ新タ二塘ヲ築テ水害ヲ防カントテ親ラ工夫ヲ口授シ造築セシメ屢騎馬ニテ巡覧ス 於是役夫大ニ競ヒ塘石垣水刎等許多ノ作事是歳ノ末二至テ成就ス 此時土石ヲ運フ囃子言ニ豊年々々ト呼ヒ亦功速ニ成ルヲ以テ誰名クルト無ク此水防ヲ豊年塘又一夜塘ト云テ于今存セリ
十月廿八日留守ノ面々年頭五節ノ拝禮ノ外ハ齊茲目通ニ出ル事モ間遠ナル故ヲ以テ毎月五度宛ノ定日ヲ設ケ儒臣二命シテ尚書中庸ヲ講セシメ之ヲ聴カシム 但多人數一同ノ出席は差支アル故二番ニ分チ更ル々々出席セシム 毎度夕八時ヨリ始メテ小姓頭奉行用人等附屬ノ者モ官暇アル時ハ出席シテ講説を聴事ヲ許ス
十一月廿七日近年非常ノ災害相継テ至ルハ滞獄ノ内其或ハ寃罪過失ノ者アルモ知カタシ 聴訟ノ有司固ヨリ心ヲ盡スト云へ共天災ニ臨テハ亦宜ク戒ムヘキ所以ナリ 囚徒人別ニ何ノ罪状何ノ不審アルヤ又幾年月ヨリ入牢シ吟味ノ行並斯様々々ト云事ヲ吟味所二於テ取調へ郡中入牢ノ者モ右ニ准して滞獄決着ノ期ヲ促スヘシトノ令ヲ下ス是ヨリ毎年冬至ノ日ヲ以テ期トシ永ク定例トス 刑法ノ官之ヲ冬至達ト穪ス

十二年庚申八月廿三日藩中ノ子弟文武藝術ニ志シ懦弱ノ風俗ニ流レサルヤフニ心得テ成長スルハ勿論ノ事ナレ共間ニハ不遜粗暴ノ仕形ヲ剛気ト心得テ血気ニ任セ人ヲ軽侮シ不作法ノ事多ク下軰ニ向ヒ理不盡ニ嘲哢打擲等致ス者アリ士風ニ有間敷事ナリ父兄ヨリ堅ク教戒ヲ加フヘシト布令ス

享和元年辛酉二月日向飫肥領ニ外國舩漂着ス 使番二人ヲ遣ハシテ探索セシム 軍備ニ係ル人員ハ皆出兵ノ用意ス 外國舩ハ無程馳去リ使番歸テ無事ヲ告ク 齊茲云ク假令ニ三艘ノ舩有リテ来ルモ固ヨリ意トスルニ足ラス 但太平ノ世武備怠リ易シ是時ニ乗シテ宜シク用意スヘキナリ 且伊東氏我ニ依頼ス厳重ニ為サルへカラストナリ
十二月十六日依召登城左近衛権少将ニ任セラル
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細川家家臣・木村氏

2010-04-27 18:47:04 | 歴史
 木村氏については何度か触れたつもりでいたが、どうやら見落としていたらしい。その出自は宇治の上林氏である。(タイトルを打ち込むとき、木村の次ぎに「うじ」と打ち込んだら「宇治」と出てきて思わず笑ってしまった)
        武家家傳-上林氏 www2.harimaya.com/sengoku/html/kanbaya.html
先祖附によるとその祖は上林加賀守とあり、宇治のお茶の代官職であったとされる。上林久重であろうか。掃部--徳順--峯順--峯順と続き初代半平へと至っている。分家があるが峯順から初代万蔵とある所を見ると、半平と万蔵は兄弟か。上林家の家紋とされる「三つ柏」が分家の方で「丸に三つ柏」紋として使われているが、両家とも家紋は「四つ目結」が表紋のようだ。

 半平家は3000石家老等を勤めた名家であり、二代豊持は隠居を躊躇する綱利に諫言をしたことで知られる、三代豊章は細川新田支藩・三代藩主利恭の弟であり光尚とは叔父甥の関係である。

 熊本市上林町に其の名を残す「上林氏」も、藩では茶に係わる仕事をして入る。こちらは「田邊籠城衆」で戦死した名誉の家だが、遡れば同族であろう。
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枯芦ノ 塒(ネグラ)モ寒シ 夜ノ鶴

2010-04-27 16:58:10 | 歴史
重賢譜に登場する養母(兄宗孝室)靜證院が亡くなった際の重賢の句である。靜證院は紀伊大納言徳川宗直女、友姫、享保五(1720)年庚子十一月十六日生ル~安永九(1780)年庚子十月四(六)日江戸ニテ卒ス、年六十一、法号靜證院慈海義雲、妙解寺ニ葬る。宗孝が不慮の死を遂げた延享四年(1747)は二十八歳である。家譜その他で重賢は養母に対し孝を尽くしたと特筆されている。

この句はそんな重賢の悲しみが伺える句であると共に、別の想いが言外にあるような気がして仕方がない。重賢と靜證院は同じ年の生まれであり、靜證院が四十日ほどのお姉さんという事になる。「重賢日記」なる資料を読むと、二人が頻繁に顔を合せている事が判り、凡人たる私は変な勘ぐりをしてしまうのである。
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細川家譜--細川治年譜 ・・ (全)

2010-04-27 14:56:55 | 歴史
  細川治年譜

細川越中守源治年ハ重賢ノ嫡男ナリ 幼名胤次初賢年ト名乗ル 安永三年三月廿二日従四位下ニ叙シ侍従ニ任セラレ中務大輔治年ト改無

天明五年乙巳十二月十ニ日父重賢遺領相違ナク相續同六年正月越中守ト改ム

【犬追物の事】
七年丁未二月齋藤権之助高壽ヲシテ武田流騎射師範トシテ犬追物稽古ヲ倡ハシム 犬追物ハ先祖藤孝ヨリノ傳来ニテ竹原勘十郎カ家ニ代代ヲ掌ラシムレ共其式久シク行ハレサリシヲ天明ノ初ヨリ権之助并ニ境野嘉十郎意明二人弓馬ノ禮再興ノ志ヲ起シテ勘十郎ヲ師トシテ秘府ヲ開キ故籍ヲ探リテ日夜ニ研究セシカ中比二人不平ノ事アリテ其黨二派トナリ嘉十郎ハ城北二塚山ニ権之助ハ城南椎田村ニ各騎射場ヲ設ケ同士ヲ語ラヒテ騎射ヲ學フ 天明六年治年此由ヲ聞テ犬追物ヲ観へシト命ス 勘十郎承リ権之助嘉十郎両人ニ諭シテ云各多年ノ志ヲ遂テ犬追物高覧ニ供スル事武門ノ面目ナリ然レ共両勇不平ノ形ヲ成シテ南北ニ分レン事甚タ然ルヘカラス願クハ和解シテ両門一途ニ歸シ禮式ヲ行ヒ高覧ニ供セハ猶更然ルヘシト示諭シケレハ両人忽チ和睦シ椎田村ノ騎射場ヲ造営シテ同年十二月始テ治年ノ一覧ニ供巣 於是今年権之助ヲ師範トナシ家中ノ士ヲシテ益其藝ヲ習練セシム 其後齊茲代寛政三年益城郡矢部山ニ狩セシ時権之助并ニ門人十人ヲ撰ミ随従セシメテ其技ヲ試ム 同四年椎田村ノ騎射場ヲ熊本城竹ノ丸下ニ移シ同十二年十二月ニ至テ又城南田迎村ニ移ス 先是寛政四年十一月権之助故有テ師範ヲ除カレ嘉十郎ヲシテ師範タラシム 九年十一月嘉十郎師範ヲ辭巣 十一年九月故實葉竹原一家ニ任スヘ騎旨申付十一月竹原九左衛門ヲして更ニ騎射師範ヲ兼帯セシム

九脱十六日治年卒ス年二十九 治年人ト為リ温恭簡黙ニシテ父重賢善政ノ跡ヲ踏テ旧臣二任シ遺制ヲ守リ一モ自ラ為事ナクシテ一國能ク服シタリ
                         (了)
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細川家譜--細川重賢譜 ・・ 6 (了)

2010-04-27 08:24:51 | 歴史
明和七年冬一近臣不正ノ事アリ家老奉行共之ヲ罪セント請フニ聴カス 翌年正月十一日ノ朝奉行謁見ヲ乞フ重賢前日放鷹シテ■■刻ニ還リ未タ浴セス直ニ延テ之ヲ見ル 奉行前議ヲ陳スルニ猶聴カス諫争稍久シテ評議ノ終ルヲ待ツ 奉行退テ其未タ朝食セサルヲ知リ驚テ日晷ヲ視レハ己ニ午ナリ重賢初メヨリレル色ナク亦倦タル容ナシ 重賢平生飲食衣服ニ節倹ヲ加フ 朝飯ハ茶漬香物焼味噌梅干ノ類夕食ハ一汁一菜夜ハ吸物外ニ有合ノ軽キ一肴ニテ酒畢テ夜食香物焼味噌マテナリ 一年天下凶荒ノ折節例ノ味噌香物ヲ進ムルニ其内一品ヲ除ク 左右之ヲ見テ節倹モ限リ有ヘシ何ソ如此ニ至リ玉フヤト云ケレハ今年柄家臣ノ扶助モ毎ノ如クアラサル故今程難儀タラン責ヲ斯ル事ヲモシテ聊艱苦ヲ同フセント云ヘリ 又臺所ノ定メニテ飯ハ以前ヨリ二釜炊キ来ルト聞テ炊キ損シタル時ハ臨時ノ仕方モ有ヘシ平日其備ヲナスハ奢ナリ且夜ハ夕飯ノ残リタルヲ用ユヘシトテ是ヨリ二釜ノ炊ヲ止メ夜飯ハ毎モ冷食ス 呉服ハ京師ヨリ買テ其上品ヲ擇フ定メナリシヲ重賢命シテ次品ヲ買ハシム且常服二ハ紬以下棉布ヲ用ユ 年老疾添ヒテ後人々強而勧メケル二任セ漸ク尋常ノ縞類ヲ用ユトイヘ共垢付ケハ濯ハシメ猶之ヲ用ヒタリ 或時庭中ニ逍遥ス従臣二美服スル者アリ重賢之ヲ見テ天道を恐ルヘシト再三申ケレハ近侍其意ヲ問フニ我常ニ天ヲ恐ル是ラ以テ運ニ協ヒ今日待て饑寒ニ免カレタリト云ヘリ 近侍又國主ノ身トシテ何ソ饑寒ヲ患玉ハンヤト云へハイヤトヨ天道ハ盈ルヲ■ク衣食住ヲ初メ萬事ニ節倹ヲ守レハ天ノ悪ミヲ受ケス是運ヲ保ツナリ 我大國ヲ有ツテ不足ナキ身ナレ共家子郎黨ヲ扶助シテ非常ニ備フル職ナレハ始末饑寒ヲ免カレハ事足レリト思フナリ然ニ美服珍味ヲ求ムルハ冥加ニ背カント云ヘリ 又家作等ノ事最モ質素ナリ先ツ居間ハ柿渋ヲ引タル紙ニテ壁ヲ張リ疂縁モ渋布ヲ用ヒ楣間ニハ篠竹ヲ間遠ニ打セタルマテナリ 嘗テ江戸龍口邸焼亡ス其跡客殿ノ柱は良材ヲ擇ハント請へ共許サス只堅固ヲ主トシテ営ナマシム サテ熊本屋方ニ三層ノ樓アリ遠謀極メテ勝レタレ共不用ノモノナリトテ取除ク又屋方ヲ距ル事一里計リ水前寺ト云所二別荘アリ成趣園ト名ツク砌下ヨリ清泉湧出テ頓テ舟ヲモ泛フヘキ池トナル向フニハ富嶽ニ象トリタル假山ナト有テ比類ナキ勝地ト穪ス政事ノ暇ニハ必ス茲ニ遊ヒケルカ此別館モ打毀チ只水ニ臨メル水月亭ト名ツケタル聊ナル一宇ノミ残ヒリ
天明五年九月ニ至里病既ニ篤シ起臥モ左右ヨリ之ヲ扶クルニ寝所ノ疂破レ足ニ碍ラン事ヲ恐レ重賢用所二在ルヲ窺ヒ竊ニ敷替ヘタルヲ見咎メ誰カ如此由ナキ計ラヒヲセシトテ以テノ外ノ気色ナリ時ニ幕府ノ醫堀本一甫側ニ在リケレハ一甫コレ見ラレヨ我平生節倹セシヲ近習ノ者共心得スシテ斯ル振廻ヲナスコソ口惜ケレ 斯申セハ餘リ吝嗇ノ様ナレ共我一生心ヲ比ニ盡シタレハコソ領内ノ人民饑餓ヲ免カレタレ 今ヤ病ミ惚レタリ只言ハテ止ミナント悶ヘタリケルカ翌十月ニ身終リヌ
重賢が養母靜證院ハ紀州中納言宗直ノ女ナリ重賢之ニ事スル事甚タ慎メリ 在國ノ節冬日ニハ必ス放鷹ノ鳬ヲ贈ルニ日ヲ経テ味ノ變セサランカ為ニ賜ヲ除テ實ルニ小豆を以テシ二翼を贈ル時ハ別ニ二翼ヲ同様ニシテ蓄ヘ置キ飛脚ノ江戸ニ至ル頃ヒニ其二翼ヲ調味シ座ヲ正シテ之ヲ喰フ 一ハ以テ侍食ノ意ナリ一ハ以テ肉味ノ變ヲ試ミルナリ 一年重賢中風ノ気味アリ 近侍ニ命スル事モ例ニ替リテ性急ナリ 靜證院之ヲ聞テ疾ヲ得テハ誰モサル習ヒナレ共召仕ハルル者共モ亦痛ハシケレハ今少シ心持アレカシト言贈ル重賢大ニ恐レ慎ンテ忽チ昔日ニ異ナル事ナシ 安永九年九月靜證院病篤シ時ニ重賢國ニ在リ之ヲ聞テ大ニ驚キ使を幕府ニ馳テ湯薬二侍セン事ヲ願フ従臣皆旅装シテ使ノ還ルヲ待ツニ疾遂ニ起スシテ凶訃至ル 重賢哀殊ニ甚ハタシク偶俳句ヲ賦シテ曰ク
枯芦ノ 塒(ネグラ)モ寒シ 夜ノ鶴 俳句ノ道ニモ委シ雅名花裏雨ト称す遺草一櫃ニ満テリ

重賢封ニ就クノ初メ先ツ孝貞勧業ノ者ヲ吟味して其程程ニ恩賞ス 其風稍ク移リ恩賞ニ與カル者年々相増シ四十年ノ間殆ト六百人ニ及フ 中村忠亭ト云フ者肥後孝子傳前後編ヲ著ハシテ世ニ梓行ス 重賢殊ニ老者ヲ憐レミ四民ヲ擇ハス齢ヒ九十ニ満ル者アレハ其人ニ随シテ衣服金銀ヲ與へ百歳已上ハ毎年之ヲ行不 初メハ歳ノ六月ヲ期トセシカ老木風ヲ待タスト有レハ後ニハ正月十一日ヲ以テ定例トス 嘗テ江戸ニ在ル時尚歯會ヲナス七十歳以上之人々ヲ招テ之ヲ饗シ人毎ニ壽ノ字ヲ蒔絵シタル盃一ツ宛贈リ餞者ニハ金子輿賃ヲモ與フ 女ハ夫人ノ所ニテ之ヲ饗す 此日會スル者賓客十三人家臣九人雑人七人女十九人ナリ 
重賢鷹を愛シテ朝夕之ヲ玩アソフ然レ共狩ニ出ル時ハ稼穡ノ妨ヲ恐レ供ノ者ハ本道ヲ行シメ自身ハ近習ノ者ト僅ニ畔ヲ傳ヒ假リニモ田畑ノ内へ入ラス芸耕スル者行逢テ重賢ナル事ヲ知ラス先是狩ノ時ハ其所郡代陪従スル定ナリシヲ治民ノ要職遊獵ニ従ヒテ民事ヲ弛スヘカラストテ此事永ク停止ス嘗テ阿蘇ノ地方ニ狩ス日既ニ暮ル 其邊ノ百姓共手毎ニ明松持来ヲ道ヲ照ス其事ヲ村長ニ問シムルニ昔ヨリノ掟ナリト答フ晝夜ニ暇ナキ百姓を我狩ノ為ニ煩ラハスヘカラストテ皆返シ遣リ頓手國中ニ觸レ手此事モ停止ス
宝暦六年農政改革ヨリ民心悦服シテ戸口モ年々ニ相増シ賑フヨリシテ誰勧ムルトナク一年に一度殿様祀リト云フ事ヲ始メテ漸ク國中ニ遍ナシ其祭リ定日ナク秋後農隙ヲ考カへテ一郷申合セ酒ヲ醸シ餅ヲ搗キ程々ニ営ナミ其ヲ神ニ奉ルカ如クニシテ此君ノ御國ニ生レ逢タル身ノ歓ヲ述へ酒ヲ飲ミ歌ヒテ一日ノ樂ニ百日ノ労ヲ慰ムルヲ定例トス
サテ世子細川胤次附ニ小野武次郎景辰ト云フ者アリ往年重賢ニ侍へリシ愛甲十右衛門カ門弟ニテ北越流ノ軍理ニ達ス 或時重賢世子ノ館ニ至リ武次郎ヲ呼テ士ノ重ンスル所ハ死生ノ二ツナリ其を如何覚悟シタルヤト問フ 武次郎謹テ傳書ニ死ノ萬般ヲ推スト申ス事ノ候死ハ様々有テ易ケレ共死ニ
處スル事ノ難キヲ申スナリ苟モ處スルノ道ヲ知ラハ心惑フ事アルマシト對フ 又問フ其死ニ處スル道如何武次郎凡ソ士タル者戦場ニ操ラ立ルハ申スモ愚ナリ所詮一度ハ節義ニ死スヘキノ道理ヲ豫メ覺悟シ常々勤ニ懈ラス銘々ノ居リ場ニ安シ身ヲ保ツテ非常ニ備ルコソ死ヲ辨ヘタルト申スヘキ歟重賢暫ク黙然タリシカ又云フ武士トハ大名モ小身モ一ツニ唱ル詞ナルヘシ小身ノ死生ハ左モ有ルヘケレ共大名ハ唯死生ノミナラス國ノ存亡ヲ辨へスンハ有へカラス如此筋合ヲ児共ヘモ能々知セン事ヲ願フナリト云ケリ
                          (了)
                         
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細川家譜--細川重賢譜 ・・ 5

2010-04-26 12:54:14 | 歴史
類族掛の條目ニ曰ク切支丹宗門改公義届帳等念ヲ入レ若宗門等ノ事聞ユルニ於テハ速ニ穿鑿ヲ遂ケ年寄共へ達シ我等在府ノ節ハ急速ニ江戸へ注進スヘシ一條 右條々堅ク相守ルヘキナリ 以上

八年戊寅領内ニ命シテ租税ノ内程々ニ従ヒ籾ナカラ納メシメ所在ニ倉ヲ置テ凶荒ニ備へ米價騰貴ノ時ハ價を賤フシテ賣リ與フ是ヲ以テ天明中天下鐖饉我藩ノ民ハ死ヲ免ル事ヲ得タリ又此凶荒ニ當テ瘟疾モ大ニ行レ田地居宅ヲモ所持セサル者ハ猶更困窮ス故ニ所々ニ仮屋ヲ建粥ヲ與ヘテ其窮ヲ救比醫を遣ハシテ其疾ヲ療セシム
【養蚕】
古ヨリ我藩ノ民蠺事ヲ知ラス 宝暦十年領内ニ命シテ桑ヲ植へ蠺ヲ養フ事ヲ勧メ且絲ヲ治ルノ道ヲ知ラサル者繭ニテ持チ来ラハ價ヲ定テ與フヘシト沙汰ス 又嶋已兮ト云フ者此道ニ志シアリケレハ之ヲ京師并ニ江州ニ遣ハシテ蠺事ヲ訽ハシム 已兮職工ヲ携サヘテ歸ル 継テ江州ノ蠺婦三人ヲ招キ男女ニ其業ヲ授ケシム サレ共城下遠キ所ノ者ハ猶習フニ便リ無カラン事ヲ恐ル 依テ已兮廻村シテ教ユヘキ旨ヲ命シタリ 是ヨリ邦内始テ其業ヲ知リ遍ク之ヲ営ム事トナレリ サテ又山林繁茂ハ以前ヨリ其掟アリトイへ共兎角伐ル事多クシテ植ル事少ナカリケルカ水足五郎兵衛ト云フ者此道ニ委シキ由ヲ聞キ之ニ命シテ始末領内ヲ巡リ土地相應ノ木ヲ植サセ且河岸等聊ノ空地アレハ櫨楮ヲ植サセ各吏ヲ置キ養ヒヤウマテ教ヘサセケレハ何レモ年々生ヒ茂リ屹ト國用徒ハ成リタリ

明和六年己已楫斐十太夫當分預所肥後國天草島へ萬一唐舩漂着其他人數等入用ノ節ハ同人ヨリ注進次第急速差出スヘキ旨幕命アリ是マテ兵備ノ事ハ憚ル所アリテ推移リシカ此命ヲ幸ナリトシ即チ群下ニ令シテ云フ夫レ武士タラン者銘々ノ分限ニ應シ軍器ヲ貯ハユルハ恒ノ事ナリ然レ共昇平既ニ久シク家子郎等マテ出陳センニハ不足モアラン唐舩漂着今ニモ量リ難ケレハ速ニ用意スヘシ若家貧シクシテ力ニ及ハサル者ヘハ用途ヲ與ヘン サレト弓矢取ル身ノ武具全タカラサルヲ公然ト申出ルハ深ク耻チ思フヘシ 依之其組頭潜ニ承ハリ程能ク計ラフヘシト有ケレハ此厚意ニ感シテ皆々勇ミ立チ馬ノ口取陳具ヲ運夫 雑人マテモ頓テ支度整ノヒタリ 其翌年ヨリ一ト備ツゝ手當受持ト申事ヲ初メタリ 又番士ト穪スル者數百人其他諸隊用ユル所ノ徽號舊ト私造ノ定メナリシヲ斯クテハ均シカラサル事モ有ヘシトテ明和七年悉ク官造シテ之ヲ授ク 於是部曲益分明ニシテ人々ノ心モ粛然タリ 又我邦ニテ昔ヨリ軍令ノ宝螺吹ク者ヲ定メス 事アル時ハ領内ノ山伏ヲ用ユル事ト聞ヘタリ 今ハ山伏モ其技ヲ心得タル者少ナケレハ藩士横田勘左衛門景一トテ軍學ニ達シタル者ニ命シ先ツ山伏ヨリ其式ヲ學ヒ夫ヨリ歩小姓ニ教ヘサセケレハ熟達ノ者軰出シテ始メテ貝吹キノ役ヲ置タリ

是年十二月十八日左近衛権少々ニ推任ス 初メ重賢侍従タリシ時某侯重賢ト相識ル事久シ私ニ其少将タラン事ヲ勧ム 重賢辭シテ曰ク家中ノ仕置タ二未タ心ニ任セス豈轉任ヲ望ムヘケンヤ 又家臣共屢昇進ヲ希フ 重賢堅ク拒ンテ聴カス 爰ニ至テ此命アリ

天明五年乙巳十月廿六日江戸龍口邸ニ於テ卒ス年六十六 初メ重賢部室住ノ頃ハ貧苦最モ甚シフシテ袴ノ着替サヘ無ク或時何カ求メ度品有レ共其價ヲ出シ得サレハ用人某羽織一ツ申卸シ質ニ入レテ求メ遣ハシタルヨシ其質札後待て懐中して家老共ヘモ見セタル程ノ事ナリ サテ庭訓の次第ハ幼年ノ頃父宣紀ヨリ愛甲十右衛門ト云フ者ヲシテ侍ラシム 日課ヲ定メ朝素讀晝習書武藝夕調馬夜會讀與力ニハ蹴鞠猿樂ナトノ稽古モ有テ暫ノ暇モ無リケルカ遂ニハ習ヒ性トナリテ自ラ寸陰ヲ惜ミ襲封ノ後江戸往来道中舩中ニテハ毎モ秋山儀右衛門ヲ召テ會讀シ平生ノ會業ハ一月六次闕アレハ之ヲ補フ 頽齢ニ至ルマテ聊日課ヲ懈ラス 其毅性ヲ称スル者アレハ是毅性ニ非ス十右衛門カ恵ナリト答フ 一生會業ノ書籍経史諸子數百巻ニ及フ 其内論語詩書左傳漢書等循環數回手澤ノ存スルモノ少ナカラス喜テ詩ヲ賦ス 遺稿若千巻アリ嘗テ服部元喬高野蘭亭等ヲ延テ詩社ヲ開キ先生ト穪シテ敢テ名言ハス其元喬ニ於ル 唯詩ノミナラス咨詢スル所多シ 元喬老後文名最モ顕ハレ延請スル諸侯多シトイへ共皆辭シテ往カス獨リ重賢ハ能ク老ヲ養フ人ナリト云テ不断往来ス 又藩内ニ於テ文學ヲ以テ抜擢シタル内其最モ著キ面々米田波門ハ家老長岡助右衛門カ弟ナリ別禄ヲ與ヘテ遂ニ中老ニ至ル 秋山儀右衛門ハ前代ヨリ侍講タリシカ時習館成テ教授ニ任ス 藪茂次郎ハ藪市太郎カ弟ナリ儀右衛門没後別禄ヲ與ヘテ教授ニ任ス 池邊平太郎ハ家督直ニ教官トシ時習館成テ訓導師トス 片岡善次郎ハ藩士藪某ノ家臣ナリ侍講ニ擢ツ 伊形荘助ハ玉名郡木葉村ノ農民ナリ詩ヲ善クスルヲ以テ擧ラレ遂ニ和歌國學ヲ以テ聞ユ 此頃儒学ハ一技藝ニ比シ醫師茶叟ト伍スル習俗ナリシヲ重賢年来心ヲ用ヒタル故其風大ニ變ス 重賢又武技ヲ善クス最モ弓馬ノ術ニ達ス 弓ハ木原總兵衛ト云フ者ニ竹林流ヲ學フ元文五年總兵衛疾ヲ謝シテ藩ニ歸ル別レニ臨テ射ヲ試ム重賢八寸的ヲ射ル事百五十発中ラサルモノ唯一矢ナリ馬ハ大坪觧龍二流ヲ極ム然レ共駿足を求メス 常ニ云フ乗ル人喜ケレハ驚馬タリトモ生レ得タル程ノ能ハ自ラ出ルモノナリ 乗ル人桃尻ナレハ駿足モ用ヲナサス我ハ馬ノ程々ニ應シテ馬ノ性分ヲ盡サセント欲スレハ強テ其善悪ヲ擇ハス 代金二十両ニ過タルヲ求メストイへ共遂ニハ能ク調フニ至ル其人ヲ使フモ気質ノ種々ニ異ナルヲ擇ハス唯其直ナル者ヲ擇ミ器ニ應シテ之ヲ用ユ 嘗テ曰ク人ノ悪事ヲ聞テ喜フ色著ハレ言葉ニ花ヲ咲セ眸子ノ定マラヌ者ハ必ス表裏ノ心有リ又眸子沈ミ過タルハ多クハ姦悪の相ナリ斯様ノ類ハ大概分ル者ナレ共先年蒲池喜左衛門ヲ側近ク召仕ヒ初メ三年計リハ愚人ノ如クニシテ物ノ用ニ立ツマシト我ノミナラス誰ノ目利モ同シ事故既ニ役ヲモ免サントスル内案外大器量ノ有ル事ヲ知テ奉行ニ擧ケタレハ抜群用ニ立タリ危カリシ事ナリト云ヘリ 又常ニ云荀モ賢能ノ士アラハ我誓テ棄テスト其人ニ任スルニ心ヲ用ユル事如此故ニ人各其才を竭ス 藪市太郎ト云者性質鯁直ニシテ人皆時用ニ協ハスト云ケルヲ重賢之ヲ擧ケ累リニ進メテ奉行ニ至ル遂ニ大ニ其才能ヲ顕ハス事ヲ得タリ 重賢又近侍ノ用人事ヲ専ハラニシ命ヲ矯ルノ弊有ラン事ヲ恐ルゝヤ仕置ノ事ハ内外ノ差別無ク聊モ用人ニ謀ラス総而家老ニ任し一月六次用日ト云事ヲ定メ家老ヲ初トシテ奉行目附郡頭勘定頭等凡ソ要務ヲ執ル者ヲ召テ各其職掌ノ事ヲ直ニ言ハシメテ之ト謀ル 且平生近侍ニ戒メテ外臣ニ無禮スル事勿ラシム 或夜白金邸ニテ近侍ノ者ヲ集メ酒宴ス皆々酔テ笑語シ重賢モ深ク興ニ入タル折節堀平太左衛門龍口邸ヨリ馬ヲ馳テ来ルト告ク 忽チ容ヲ改テ夜モ既ニ更ケ寒気モ亦烈シ老人サコソ疲レタラン暫ク休息セヨトテ頓テ左右ヲ屏ケ密語數刻畢テ暇ヲ與へ歸ラシム 始終寂然トシテ人無キカ如ク敢テ言ヲ発セス 亦宝暦革政ノ時細目ニ至リテハ事最多端ニシテ家老以下更ル々々伺候シテ旨ヲ請フモアリ呼出シテ事ヲ命スルモアリ素ヨリ晝夜ノ別ナク彼此談判ノ内夜明ニ至ル事度々ナリトイへ共精神敢テ撓ム事ナシ
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細川家譜--細川重賢譜 ・・ 4

2010-04-25 09:26:29 | 歴史
租税ヲ納ルニ年ニ因リ所二因リ豊歉アリテ定式ノ通リ行レ難キハ検見ヲ望ム事アリ 重賢封ヲ襲テヨリ心ヲ斯二盡シテ此検見至要ノ事トス 苛ケレハ民苦ミ緩ケレハ民怠ル之ヲ鳥雛ヲ握ル二喩フトテ乃チ二法ヲ立テゝ兼子施ス 一法ハ田面ヲ見且テ其賦ヲ定ム至テ弘ナリ 一法ハ毎畝一歩ヲ獲テ其中ヲ取ル至テ密ナリ 既二寛弘ノ度アリテ又精密ノ規アリ
【地引合】
是年領内残ル處ナク地引合ト云事取起シ明和六年マテ十三年ヲ経テ其功成ル 田畑一區一區ノ畝數上中下ノ地位蔵納給知ノ員數受持百姓ノ名前マテモ記タル帳面ヲ製一國不朽ノ大典トス

是年當國ニテ掛リ物ト唱フル賦ノ類其品數多アルヲ重賢聞テ民ノ疾苦ハ賦ノ重キニ在リト有司ニ命シテ三品ヲ蠲ク一年ノ減スル所一万五千石ナレ共重賢世ヲ終ルマテ三十餘年通計若干ナリ況ヤ永ク之ヲ蠲クヲヤ又田二虫を生スレハ遍ク鯨油ヲ與ヘテ除カシム 其價モ亦若干ナリ 又民ノ居宅ハ土地ノ善悪ヲ問ハス上田ニ比して賦税ヲ出サシムル習ヒナリシヲ古ハ一夫ニ五畝ノ宅アリト聞ク 然ル事能ハスト雖共責テ土地ノ位ニ従テ出サシムヘシトテ有司ニ命シテ其法ヲ改ム

(寶暦)七年丁丑家老以下小吏ニ至ルマテ各職心得ノ條目ヲ渡ス 是ヨリ人々職ニ死スルノ守リアリ其内奉行ニ渡セル條目ニ政體ノ概略ヲ示テ曰ク 公義ノ法度堅ク相守レヘシ一條 奉行所ハ政令ノ出ル所賞罰ノ定ル所衆務ノ府ナリ故ニ毫厘ノ當否一國ノ利害ニモ係ル最相慎ヘシ二條 事ノ大小ニヨツテ年寄中老大奉行等二達シ事事至公タルヘシ三條 諸号令分職ノ奉行先ツ之ヲ揆リ同僚参談シ大奉行審ラカニシ年寄中老之ヲ反復スヘシ四條 代々ノ家法ヲ守リ繁章ヲ省キ事々留滞スヘカラス五條 郡方勘定法分職有リト雖共一國民間ノ利病ニ関リ或ハ軍用ノ大計或ハ冗費ヲ沙汰シ節用倹約等ノ事ハ参議シテ大奉行又ハ年寄中老へ達シ相決スヘシ六條 言路ノヲ開カントシテ分外ノ者ト事ヲ謀リ機事ヲ漏達スルハ大ナル僻事ナリ最相慎ムヘシ七條 事ノ軽重各参議反復シテ我等ニ伺フへキ事遅滞アルヘカラス八條 文武ノ道ハ士ノ常ト雖共彌以テ怠慢ナク支配方モ相励スへシ附支配方ノ武器厳重ニ相糺スヘシ/九條 賄賂屬託ヲ堅ク禁シ依怗偏頗ナク附屬ノ者ニ至ルマテ萬事潔白タラシムヘシ十條 選擧方學校方兼帯ノ條目ニ曰ク人物ヲ秤量スル名ニ循テ實ヲ責メ短ヲ弃テ長ヲ取リ備ラン事ヲ求ル事勿レ才徳抜群ノ者ハ卑賤タリトモ選擧スヘシ附物/頭以下選叙賞賜参議スヘシ 一條 士席名籍正シクスヘシ二條 學校ノ事年寄共へ任シ置ト雖共存寄等ノ事ハ學校懸リノ者共へ申達スヘシ三條 郡方ノ條目ニ曰ク農ハ國家野大本ナリ歳時農桑を勧課し租税正シク力田孝悌ヲ激勧シ風俗ヲ勵シ本業ニ敦フシ游テ苟簡ヲ戒メ地利ヲ興シ徭役ヲ均フシ饑窮鱞寡孤獨ヲ賑恤シ蓄積ニ厚ク水旱ニ備へ水理ヲ導修シ農器を貯へ民ヲ導クニ善ヲ以シ其姦慝ヲ紏シ訴訟留滞スへカラス一條 勘定ノ條目ニ曰ク 入ヲ計リテ出を制シ國用ヲ支度シ関東ヲ始メ所々ノ運漕留滞ナク或ハ不虞ノ備ヲ厚クシ總テ銭穀ノ大計最怠慢スヘカラス附属ノ軰廉謹精密タラシムヘシ一條 寺社方ノ條目ニ曰ク大社ノ神事祖廟ノ祀典麁略ニスヘカラス寺社ノ造営或ハ境地ヲ増ス等ノ事ハ公義ノ掟ヲ相守ルヘシ 總シテ寺社ハ本末ノ法有ト雖共國法ヲ擾濫セサラシムヘシ一條 寺社本末帳正シクスヘシ二條 普請作事掃除方掛ノ條目ニ曰ク普請作事ハ堅固ヲ主トシ美ヲ好ムへカラス要害ノ所々ハ別テ念ヲ入レ傳来ノ石工及ヒ工匠其業ヲ勵マセ民力ヲ用ユヘキ土木ハ時節ヲ考へ農事ヲ害スヘカラス一條 百工名籍帳正シカルへシ二條 町掛ノ條目ニ曰ク貴賎ノ日用總テ商買ノ交易ニアリ各生業ニ敦ク游手苟簡奢侈ヲ戒目孝悌ヲ勧メ或ハ利ヲ恣ニセサラシムヘシ一條 町馬ハ軍用ヲ兼ル者ナリ怠慢ナク申付蕃息セシムヘシ二條 商家名籍帳正カルヘシ三條 城内掛ノ條メニ曰ク城郭の修理及ヒ兵器ノ修補怠慢スヘカラス一條 新規及ヒ補修ノ兵器其數年々差出スヘシ二條 鉄炮ノ玉薬其外軍用ノ品乏シカラサル様ニ怠慢ナク申付ヘシ三條 兵器記録帳正シカルヘシ四條 馬具兼掌スヘシ五條 舩方ノ條目ニ曰ク古来ヨリノ舩數頽顛コレナキ様ニ補修セシメ作事等聊モ麁略スヘカラス且又舩頭ノ巧拙ハ舩ノ危安ニ係ル家業最習練セシムヘシ一條 國中ノ買舩ハ時ニ臨ンテ軍舩ニモ用ユヘキ冬兼テ舩數等シラヘ置ヘシ二條 鶴崎舩手ノ事ハ彼所ノ蕃代ヘモ申談スヘシ三條 舟舩器械記録帳正シカルへシ四條 客屋掛ノ條目ニ曰ク公義役人及ヒ諸侯領内通行或ハ諸國ノ来使等總テ客屋ノ饗應小姓頭用人并ニ右筆頭へ申談シ年寄共へ相達シ軽重時宜ニ取計ラフへシ一條 屋敷掛ノ條目ニ曰ク屋敷ノ廣狭ハ禄ノ多少ニ依テ相渡スヘシ家作ヲ致サス無用ノ屋敷ハ家作スヘキ者ニ相渡シ城下嚝シカラサル様ニ斟酌スヘシ附足高モ禄ノ數ニ加へ坪數相渡スヘシ・一條 屋敷繪圖面正シカルヘシ二條 刑法方ノ條目ニ曰ク刑ハ暴邪ヲ禁止シテ刑無キヲ期スルモノナリ比附罪ヲ成スモノハ宜ク軽キニ従フヘシ猛ニ過レハ人ヲ傷リ寛ニ過レハ法ヲ廃ス特ニ死刑ニ處スル者ハ刑法方會議シ大奉行審ラカニシ年寄中老反復シテ伺フヘシ我等在府ノ節ハ年寄中老更ニ反復シテ決断スヘシ附物頭以下ノ罰参議スヘシ・一條 類族掛の條目ニ曰ク切支丹宗門改公義届帳等念ヲ入レ若宗門等ノ事聞ユルニ於テハ速ニ穿鑿ヲ遂ケ年寄共へ達シ我等在府ノ節ハ急速ニ江戸へ注進スヘシ一條 右條々堅ク相守ルヘキナリ 以上

八年戊寅領内ニ命シテ租税ノ内程々ニ従ヒ籾ナカラ納メシメ所在ニ倉ヲ置テ凶荒ニ備へ米價騰貴ノ時ハ價を賤フシテ賣リ與フ是ヲ以テ天明中天下鐖饉我藩ノ民ハ死ヲ免ル事ヲ得タリ又此凶荒ニ當テ瘟疾モ大ニ行レ田地居宅ヲモ所持セサル者ハ猶更困窮ス故ニ所々ニ仮屋ヲ建粥ヲ與ヘテ其窮ヲ救比醫を遣ハシテ其疾ヲ療セシム
【養蚕】【植林】
古ヨリ我藩ノ民蠺事ヲ知ラス 宝暦十年領内ニ命シテ桑ヲ植へ蠺ヲ養フ事ヲ勧メ且絲ヲ治ルノ道ヲ知ラサル者繭ニテ持チ来ラハ價ヲ定テ與フヘシト沙汰ス 又嶋已兮ト云フ者此道ニ志シアリケレハ之ヲ京師并ニ江州ニ遣ハシテ蠺事ヲ訽ハシム 已兮職工ヲ携サヘテ歸ル 継テ江州ノ蠺婦三人ヲ招キ男女ニ其業ヲ授ケシム サレ共城下遠キ所ノ者ハ猶習フニ便リ無カラン事ヲ恐ル 依テ已兮廻村シテ教ユヘキ旨ヲ命シタリ 是ヨリ邦内始テ其業ヲ知リ遍ク之ヲ営ム事トナレリ サテ又山林繁茂ハ以前ヨリ其掟アリトイへ共兎角伐ル事多クシテ植ル事少ナカリケルカ水足五郎兵衛ト云フ者此道ニ委シキ由ヲ聞キ之ニ命シテ始末領内ヲ巡リ土地相應ノ木ヲ植サセ且河岸等聊ノ空地アレハ櫨楮ヲ植サセ各吏ヲ置キ養ヒヤウマテ教ヘサセケレハ何レモ年々生ヒ茂リ屹ト國用徒ハ成リタリ
 
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長岡元知と志水新之允

2010-04-24 19:36:26 | 歴史
細川忠興---+---忠隆               
        |                
        +-----興秋(与五郎) 
        |        ∥           
        +--忠利-------------------+---光尚---綱利
                 ∥          |
                 ∥          +---元知 
                 ∥     南条元信室    ↓         
                 ∥-----------鍋 ==元知   
                 ∥               |------+---米田元庸・・・・→代々家老・米田家
氏家卜全------元政-----●      米田是長---吟     |
                        室・南条元信女・伊千     +------●
                                             ∥
                                           志水新之允・・→志水新九郎家
                                                         (1000石)

 志水新九郎家の五代新之允は、細川興秋の遺児・鍋(南条元信室)の娘婿となった長岡元知の女婿であることが、ご子孫からのご連絡で判った。長岡元知は甥である細川綱利により永蟄居の処分を受けた。陽明学徒の追放事件に際し、その罪の軽い処分を願っての諫言が原因である。この時期に家禄の動きがあるが、女婿故ということも考えられるが・・・
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本日は・・・・・・

2010-04-24 17:56:26 | 徒然
 本日UP予定の「重賢譜-4」は、余りにも難しい漢字に翻弄されて、予定の半分にも至っておりません。一日15~16ページのペースを何とか維持したいと思いますので、「今日はお休み」の可能性が大となりました。草書で書かれていますが、独特の省略文字(?)が登場したりして、御家流同様苦労しています。判らない所は■表示をしておりますが、段々その数が増えてくるような感じです。現在は特に「法令」に関わる所で特別なのかもしれません。明日のUPとさせていただきます。
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