大日本近世史料・細川家史料の第一巻は1969年の3月25日に発行され、既刊は27巻に及ぶ。最新版は2022年3月9日で、取り上げられた文書の数は6140件という膨大な数に及んでいる。
最近これを第1巻から読み返し始めた。その通し№1は忠興が軍を率いて中山道を進む中、信濃の佐久郡望月から、證人として江戸に在る三男「ミつ=光(後の忠利)」に宛てた書状である。慶長5年(1600)7月9日付の書状だが、「ミつ」からの徳川秀忠が19日に江戸を発するという知らせに対しての返事で、17日には下総の古河まで進むとしている。
尚々、我々事來十七日ニこがまて必々可付候、以上
書状披見候、中納言殿十九日ニ御出馬之由候、御供仕可被出候、若又御供も難成候は、夜を
こめ二里も三里も御先へ出、御陣著毎ニ御陣屋へ見廻れ候様ニ成共可仕候、かつて可為次第
候、先にてハ我々陣屋へ啼越候、謹言
七月九日 越
ミつ 忠(花押)
この時、「ミつ」は15歳、忠興は38歳、母・玉(ガラシャ)も38歳、この書状がミつの手元に届いたころにはガラシャは非業の死を遂げていたことになるが、秀忠の御供をして出陣した陣中で父・忠興から聞くことになる。
この後ミつは江戸へ帰るが、父・忠興は関ケ原へ転戦し、又祖父幽齋は田邊城籠城して僅かの兵力で、三成勢15,000人を食い止めた。戦後恩賞として豊前国を給わりこの年の年末に入獄するなど、慶長5年(1600)という年は、細川家にとっては波乱万丈の年であった。
それを象徴するような、この書状が細川家史料の№1に所載されているという事も象徴的ではある。