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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「茶話ニ・・・・」

2013-09-30 10:57:37 | 史料



先にご紹介した細川家の「御先祖御由来」を読んでみると、閑話休題と云った感じで、綱利公・宣紀公の項に「茶話ニ・・・」という書き込みがある。

  綱利公
  茶話ニ妙應院様ハ御幼年より御家督を継為ひ御生得御大気ニ被成御座候と也
  此御代御家来に御知行多く御加増を被下候面々有、御手傳等も数度御勤被成
  候故、御不勝手ニ御座被遊候と云

  宣紀公
  茶話ニ宣紀君ハ御小身ニ而公儀之御■■■御勤其後妙應院様之御養子と成為う
  御不勝手之上数多く御子様を持為ひ候故御勝手向弥丈御一生御不如意ニ御座     (は「拾」と有るが「給」か? 「給るだけ」?)
  被遊となり 

 内輪の事を書かれた細川家御先祖の御由来としてはいささか辛辣であるが、それがまさに真実であろうことを物語っている。

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母・祖母そして久兵衛殿

2013-09-30 07:30:41 | 徒然

 九月の末は命日が集中している。母方の祖母(30年程起居を共にした)が24日、27日が母、今日30日が上田久兵衛(曾祖父の岳父)の命日である。
遡ると二代太左衛門が享保三年(1718)九月廿四日である。ここ一週間ばかりはいささか身を引き締めざるを得ない。

太左衛門は我が家の姓の名乗りとしては初代である。旧姓磯部氏から母方の姓を名乗って現在の姓となった。亡くなって295年、そのお墓は所在が知れない。

上田久兵衛についてはたびたび書いてきたが、萩の花が咲くこの時期に成ると、故人の無念の思いがふつふつと胸を差す。
私はひそかに久兵衛の忌日を「萩花忌」とよんでいる。
お墓がある禅定寺は計画道路にかかっていたが、どうやら計画変更により若干位置がずらされるらしい。いまだ確定の報告はないが、久兵衛の墓は現状のままでいけそうである。

昭和19年祖父母と父が亡くなり、一家三人父祖の地である熊本に帰郷して、以来の私は熊本地五郎である。
そして母方の祖母との同居生活が始まった。いかにも武家の娘という風情があり、貧乏の中にも凜としていた。此の祖母との毎日の生活から、私の歴史狂いの素地が作られてきたのは間違いない。いまにして思うといろいろ聞いておきたかったことが多々あるのだが・・・・・・

母のことはやめておこう。仮題「擬作百石我が家の歴史」を書いているのだが、母のことに成ると筆が進まないでいる。(合掌) 

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くまもと美と匠の四〇〇年

2013-09-29 21:25:32 | 書籍・読書

 

 くまもと美と匠の四〇〇年 

くまもと美と匠の四〇〇年
肥後いにしえを想い 熊本いまを想ふ
 

編著者:吉丸良治
体裁:A5判、並製本、200ページ
出版年月日:2013年9月8日 
定価:2,100円(本体2,000円+税)
ISBN:978-4-87755-464-4 C0072
発行:熊本日日新聞社
制作・発売:熊日情報文化センター

 お求めは書店、熊日販売センター、熊日支社・総支局、または熊日情報文化センターTEL096(361)3274。こちらからもご注文いただけます。


内容

加藤・細川時代から、熊本に脈々と息づく美の源流、創造の歴史を振り返り、匠の世界のいまと未来を考える好著。二部構成で、前半は熊本の歴史と伝統工芸にまつわるエピソード、後半は講演録やエッセーなどで綴る。

 

著者紹介

昭和13年(1938)熊本県荒尾市生まれ。中央大学法学部卒。熊本県職員時代は商工観光労働部長、企業局長など歴任。現在、熊本県文化協会長、熊本ルネッサンス県民運動本部会長などを務める。


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熊本史学 目録(1号~10号)

2013-09-29 13:59:29 | 史料

  ■創刊号 (1952.4)

1 宗教の傳播より見た村の成立
2 町村の名稱について
3 繩文式文化の耕作性について
4 古代宇土の地歴考
5 願成寺本尊の由来
6 戰國時代の肥後と大友氏との関係
7 ローマ字印について
8 天草の鈴木塚餘録
9 肥後藩の廻船式目
10 隈府町に於ける近世の祭座

  ■第二号

1 肥後國の中世文書
2 近世史に對する一考察
3 墳墓地域の單位性
4 球磨地方に於ける庚申塔
5 八代妙見宮門前町の成立
6 莊園法について
7 肥後國檢地諸帳について
  ■第三号
1 肥後藩干拓新田の特異性
2 十八・九世紀の交における平和論
3 古事記と安麻呂の撰録
4 宇土の上水道
5 永の成立について
6 大友・大内兩氏の關係とその肥後に及ぼせる影響
7 近世に於ける商品流通の一例
  ■第四号
1 九州経済史の史的特質
2 紀記における異伝歌謡
3 肥後上代の鉄
4 祭り座の構成と開放
5 近世初期肥後の地撫
6 熊本藩における「豪農」の役割について
  ■第五号
1 熊本藩士の米国紀行
2 肥後藩林政の性格について
3 八代妙見宮の諸座 (一)
4 封建末期における農民生活の一端
5 中世イギリスにおける「小屋住農」の分化
6 改革政治(宝暦)の農民政策
  ■第六号
1 九州経済史の特殊性
2 淨水寺延暦碑の研究
3 舎人親王家の隆替
4 八代妙見宮の諸座 (二)
5 アウグスツスの元首政の性格についての一試論
6 近代工業発展の基盤-士族授産製糸工場について-
  ■第七号
1 詩経にみえる生活苦
2 荒尾赤田池古墳
3 節度使の起源
4 末子相続制の経済史的考察
5 中国古代献犬考
6 士族授産政策の背景
  ■第八号
1 九州山地に於ける「自然茶」の生産に就いて
2 律令制官僚における氏族的構成の変化について
3 九州経済史の性格
4 熊本の民主主義の伝統について
5 紋章学研究史
  ■第九号
1 肥後藩切支丹之名簿 (一)
2 浄水寺天長碑の研究
3 天草諸島海村生活調査覚書
4 松井徴之参府御供日誌
5 明治初年熊本県関係農民騒擾録 (一)
  ■第十号 
1 玉名郡倉址と推定される肥後立願寺の遺構
2 古代末期における阿蘇神社家の動向
3 古代の天草
4 肥後藩切支丹之名簿 (二)
5 明治初年熊本県関係農民騒擾録 (二)
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資料を読む

2013-09-28 17:28:02 | 史料

翻刻『天草軍記』 (元寛日記抜粋)

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歴代法名

2013-09-28 09:42:54 | 史料

あるお寺さまから細川家歴代(五代~十一代)の法名が記されたものを拝領した。

   5代綱利公 妙應院殿中太夫前羽林次将兼越州太守雲嶽宗龍大居士

   6代宣紀公 霊雲院殿中太夫前拾遺兼越州太守桃谷義蟠大居士

   7代宗孝公 隆徳院殿中太夫前拾遺兼越州太守廊然義周大居士

   8代重賢公 霊感院殿中太夫前羽林次将兼越州太守徹岩宗印大居士

   9代治年公 大詢院殿中太夫前拾遺兼越州太守禅月宗関大居士

  10代齊茲公 諦了院殿中太夫前羽林次将兼越州太守海覺義廣大居士

  11代齊護公 諦感院殿中太夫前羽林次将兼越州太守春谷宗堪大居士

    12代以降が書かれていないのは、明治に至り細川家は神道に改宗されたからである。

 

ここで気が付くのは全ての方に付いている中太夫(正式には中大夫)だが、これは「ちゅうたいふ(きゅうたいふ)」と読み、従四位下の官位を示している。
細川家は家督時には四品としてのこの官位を得ている。
羽林次将(うりんじしょう)とは近衛中将又は少将の事を差すが、細川家の場合は近衛少将である。5・8・10・11代が極官としてここへ至った。
6・7・9代は年若くして亡くなっており「拾遺」に留まった。これは「侍従」の唐名である。越州太守は勿論越中守であることを示している。

  日本式に書くと5代綱利公は次の様に成る。
               でん     さきの
           妙應院殿従四位下前近衛少将兼越州太守雲嶽宗龍大居士

唐名にこだわっているのが面白い。通常は官位官名をはずして、妙應院殿雲嶽宗龍大居士 また 妙應院様 と申上げているわけである。
 

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崩し字「登」と「愛」を見極める

2013-09-28 09:42:42 | 徒然

東大史料編纂所の電子くずし字字典データベースに登録されている、「愛」と「登」の文字である。

 
 

またよく似た崩し字に「祭」「癸」等があることが記されている。 



 

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子飼橋初渡り

2013-09-27 18:06:31 | 熊本

 熊本市の子飼橋が半分だけ完成して、24日供用開始した。今後は上流部の現在の橋を撤去するとともに、今回出来上がったものと同様の橋を上流部に新たに架けることになる。橋脚はすでにできあがっているから、橋げたを渡すだけであとは意外と速いのではないこと思っている。

今日は所要で出かけた帰り道、わざわざルートを変えて初渡りをしてきた。中途半端な感じは否めないが出来上がりは想像できる。 

大江側から子飼橋を渡ると左右方向に国道57号戦とともに、子飼商店街へ向かう道や、道向こうから北の方へ向かう藩政時代から変わらぬ小さな道が集まっていて、ここが日本で一番にスクランブル交差点に成った場所である。若い人たちはもうそんなことはご存じないだろう。

完成は二三年後になるのだろうか、阿蘇方面に向かう道が上下一車線しかなく、橋がよくなって余計に渋滞するのではないかと心配でもある。

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「武士の献立」

2013-09-27 07:29:04 | 徒然

 加賀藩の史実に基づいた「武士の家計簿」は、今を時めく磯田道夫氏の出世作ともいえる著作である。私も買って読んだのだが、中々面白かったが映画の方は見ていない。これも今を時めく俳優・堺雅人をつかって鬼才・故森田芳光が撮って評判となった。

今度はこれも加賀藩の史実による、勘定方ならぬ料理方を取り上げた「武士の献立」が出来上がったらしい。主演の高良健吾は熊本出身だし、女優上戸彩とどう演じるのか興味深い。

加賀藩の料理方と云うと、私は香蘭女子短期大学の橋爪信子氏著の 「料理方秘」について を思い出す。
現在熊本城などでふるまわれている「本丸御膳」等のベースに成っているようだ。一品/\はともかく、あの豪華なお料理を殿様が毎日食べておられたかのような取り扱いは噴飯ものである。細川家の食事の質素さは色々な史料でうかがい知ることが出来る。

この「料理方秘」の所在は何故か東京都立中央図書館の加賀文庫である。享和三年に「御料理頭村中乙右衛門」が秘かに書写したものとある。
加賀文庫に所蔵されているという事は、加賀藩の御料理の情報も多く取り入れられているのではないか・・・・

熊本市の某ホテルで出されている細川家にちなんだ御料理は、データ―の出所を異にしているらしい。
細川家には「料理仕法書」なるものであり、護貞様の御著「魚雁集」に「宝暦の料理 p216」として紹介されている。
             この料理の仕法の儀、御台所、古来より作法にて候、料理の品により、相違の儀もこれあり候を、
             宝暦年中、佐藤嘉大夫・江藤武助両人へ承るただし記し置き候。この余の繁多これを略し候、後
             年に至り批判これあるまじき也
                    天明四甲辰年閏正月

御著によると料理の数は201に及ぶという。橋爪氏はどうやらこの資料の存在をご存知ではなかったらしく、まったくこれには触れられていない。
「料理仕法書」を読んでみたいと思うのだが、所在がよく判らない。

「武士の献立」は加賀前田藩の料理人・舟木伝内包早による「ちから草」による脚本と思われる。 加賀藩料理人舟木伝内編著集 という本が出ている。

                                              加賀藩料理人舟木伝内編著集

料理人の世界がどのようなものであったのか、興味深い。
 

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「噯」という字

2013-09-26 06:33:02 | 徒然

数日前から次回の史談会で使う史料「大矢野家文書」を読んでいる。いわゆる小西行長が加藤清正の助勢を得て、志岐麟泉を首領とする天正の天草の戦いの顛末である。ここに清正が大矢野家に遣わした書状(写)がある。で囲んだところに 噯 という字が見える。
「噯」と判明するのに数時間を要したのだが、当初は「口偏に登」という文字「噔」ではないかと考えた。これでも意味が通じない。崩し字では「登」と「愛」はよく似ている。くずし字辞典を目で追っていたら「噯」の文字に出くわしたのだが、この文字は「おくび」と読む。とてもこの文章にはそぐわない文字ではないか。
文章とにらめっこをしていると、頭に「取」という文字があり文章の流れからすると「取扱い」かなと思うのだが、なんとも難解な文字である。

神頼みならぬWEB頼みで検索を懸けると、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あった。
 OCTAVE: 取噯 というサイトがあって、正解を教えてくれた。ここにもあるように、思いもかけないことである。やはり「取りあつかい」だった。
「おくび」がなぜ「あつかう」となるのか、どなたかご存じあればお教えいただきたい。古文はなんとも奥が深い。
 

 

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「おもだか」咲く

2013-09-25 11:17:02 | 徒然

もうずいぶん以前の事だが、東京のY様から「沢潟」の球根をわざわざお送りいただいた。2009-12-27 10:22:51 
実は家紋の「おもだか」の デザインの素晴らしさに心打たれ、園芸店に出かけたとき「沢潟」を見付けたのだが、残念ながら手に入れることが出来なかった。
ちょうど四年ほど前、その事をブログで書いたらわざわざ送って下さったのである。(感謝)
処が植えっぱなしで手入れの仕方も判らず一向花がつかない。のちにY様から肥料がたらないのだろうとのご教示をいただいた。
そして今年ようやく蕾が付き、花が咲いた。頂戴してから3年9か月の快挙である。嬉しい・・・・・

田んぼでは嫌われ者の「おもだか」だが本当に愛らしく、これを家紋としてデザインした先人の目の確かさに脱帽である。

                                             

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書状を読む 伊達正宗の「白萩所望」状

2013-09-25 08:50:10 | 史料

 見事な鶺鴒の花押がある、あきる野市が所蔵する伊達正宗の書状である。私はこの書状の内容が大好きである。
宛先の大悲願寺の秀雄上人は正宗の末弟だとされるが、このお寺に見事な白萩の花が咲いていた。先に訪れた折には言い出せなかったが、この白萩を分けてほしいという手紙である。戦場では勇名をはせた武将が併せ持つ心の豊かさが伺える。

                            追而是式ニ候へ共任折
                            節小袖壱重進候
                            以上
                          態以飛脚申入候
                     先度者参遂会
                     面本望仍無心之
                     申事候へ共御庭之
                     白萩一段見事候キ
                     所望致候先日
                     兼候罷過候頂候
                     可恭候猶後音候
                     恐惶謹言
                           松平陸奥守

                          
                     八月廿一日 花押

                        彼岸寺
                               御同宿中 

 

新暦・旧暦の違いがあるが季節はちょうど今頃であろう。秋めいてきたお寺の庭先の白萩はいまを盛りと美しいことであろう。
              http://www.akirunokanko.com/index.php/hanagoyomi/191-2011-09-17-00-41-58

 (熊本のある御宅に御先祖様に送られた正宗の書状が残されている。誠に達筆であり鶺鴒の花押が見事であった。教養豊かな人物であったことが伺える文面も印象的であった)

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秋山家の家紋

2013-09-24 11:12:14 | 家紋

                                              

            9月21日のお寺廻りに於いて、熊本市壺川(こせん)の流長院で発見した秋山家の家紋である。
            右手斜め上方向から撮影されているので正円に見えないが、丸に釘抜きに梃子紋とでも言うのであろうか。
            秋山玉山先生の出身地である大分鶴崎では、先生の顕彰の動きがあるらしい。お役にたてば何よりである。
            ちなみに立田の小峯墓地にも玉山先生のお墓がある。 

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熊本県・市の歴史関係施設

2013-09-24 08:54:35 | 徒然

 熊本市立熊本博物館は本年4月1日から休館してリニューアル工事に入っている。情報が定かではないが来年8月が再オープンらしい(?)
「くまもと市政だより」に「熊本の歴史と自然・リニ―アルする博物館」があり、10月号で6回を迎えている。
前回から歴史担当学芸員の木山貴満氏が担当されているが、これによると歴史のコーナーは少しは充実するようだが、全体のパイが増えるのではなかろうから、さてどうなるのやら・・・・・・

一方熊本県では、図書館に併設されている近代文学館を「歴史・文学館」に改編しようという動きがある。これには文学関係者の反対があるように聞く。
今でこそ潤沢とは言えないスペースに歴史関係資料を展示しようとなると手狭になることは間違いない。増築でもしようというのだろうか。

宇城市松橋町にある歴史収蔵庫が熊本博物館の建設予定地であったが、現熊本県知事によって博物館計画は白紙に戻された。
私は熊本県に於いては歴史・公文書館くらいの施設があってしかるべきだと考えている。県にしろ市にしろ「文化」とか「教育」とか大いに歌い上げているが、このような歴史に関する施設の貧弱さはどういうことだろうか。

熊本大学の手にゆだねらている日本に冠たる「永青文庫」の資料も、県民・市民がこれらに接する機会はそうそうにはなく、大学側も今少しの柔軟な対応が必要ではないのか。私たちは大学のお偉い先生方の研究や論考などが出てくるのを、ひたすら待つほかないのだろうか。

如何にも歯がゆく切ない思いが募るばかりである。 

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御恵贈御礼「第44回古書籍即売展目録」

2013-09-23 17:08:26 | 展覧会

 毎年のことだが「古書籍即売展目録」をお送りいただいた。厚く御礼申し上げる。今年で44回目の開催であり、是はもう歴史である。関係者のご尽力の賜物であり敬意を表したい。

舒文堂河島書店と天野屋書店の写真で大変興味ある物が目に入った。とても高くて当然手が出ないの物もあるのだが、是非とも見て見たい。

舒文堂河島書店
  01「宇野東風・廉太郎写本類 一括」 630,000円とある。約段ボール三箱分とあり60~70点有るのではないか?
  05「寛永治迹」25巻10冊 享保13自序 黒木知由 は420,000円 島原の乱に関する写本だというが、1冊目30枚が図譜となっていて、天草全図
    の七枚の地図や城攻めの絵図・旗印など興味深い。

       尚「寛永治迹」については、熊本市立熊本博物館の「熊本博物館館報」の「館報2011年度報告」に、木山貴満氏の「収蔵資料紹介」の「伊時家資料
    について」
の中にも紹介されている。

天野屋書店
   9「小堀水翁書状」             
  12「細川御先祖御代之御事跡」
  13「(細川家)実本御系」
  15「藤堂佐渡守御玄関上出迎之図」
  28「上田半田(久兵衛)短冊」           これは身内としては是非とも買わずばなるまい。
  41「加藤氏代熊本城ノ図」 200,000円
        これはすごい・・・・説明によると、熊本高階氏原本とある。
        「加藤清正傳」に附録としてあった「加藤氏代熊本城之圖」の原本であろう。松本雅明氏所蔵のものが出版元・青潮社の手により校訂印刷さ
        れたらしいが、ここにも手取・高階氏旧蔵と書かれている。本物であれば、安い。    

以上は私が興味をそそられたものを挙げたのだが、その他いろいろの郷土資料がメジロ押しである。品物によっては、展覧会前にどなたかが買われて消えている可能性がある。    

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