津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

萩花忌

2008-09-30 09:13:30 | 歴史
 今日は玄祖父(曾祖母の父)上田久兵衛の命日である。つまり無実の罪を以って刎首の刑を得て死んだ日である。ここに示した写真は、久兵衛が獄中に於いてこよりをときほぐし、箸の漆を噛み砕いて認めたと伝えられる詩である。その中に妻を偲んで作ったのであろう次ぎの詩がある。
   
    秋風ノタヨリニキケバ古サトノ萩カ花妻今サカリナリ
    (秋風の便りに聞けば古里の萩が花妻今さかりなり)

 この詩から、私は久兵衛の命日を一人密かに「萩花忌」と呼んで、一枝の萩の花を仏前に供える事にしている。

 明治政府の脆弱さは、一市民の善行を受け止める懐の大きさもも持ち得ない事で窺がえる。一市民の生き死になど、どうでもよい瑣末な事であったのだろう。今もって川尻の町において町民に愛されている久兵衛を思うとき、私の心の中の煮えたぎる無念の思いが少しばかり癒されるのである。

 ご近所からいただいた萩の花は、今年は何故か蕾が多い。久兵衛の古里半田の川辺にも萩の花が見られるのだろうが、今日は大いに風に揺らされる事だろう。
 

    

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細川忠隆のこと

2008-09-29 18:48:31 | 歴史
誕生「永源師檀紀年録」
   天正八年(1580)四月八日忠興主長子ヲ生ム、千丸殿ト小字ス、
   後元服シテ忠隆ト称ス
 細川家記は天正八年四月廿七日生まれとしている「綿孝輯録巻九」忠興公(上)p18
   天正八年庚辰四月廿七日、於青龍寺御嫡子御誕生、御幼名熊千代君
   後与一郎忠隆従四位下次従、剃髪以後休無被改

病気「兼見卿記」
   天正十二年(1584)五月九日
   長岡越中(忠興)息煩之間、罷越之由被了
         病気平癒の祈祷が行われたのだろうか・・?

結婚「兼見卿記」
   慶長二年(1597)七月廿九日・・18歳
   越中息与一郎今夜祝言云々
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バナナ・ダイエット続々報

2008-09-28 15:56:51 | 徒然
 TVの力や恐るべしである。近所のスーパーの店頭からバナナが消えた。お陰も以って、我がバナナダイエットは継続不能となった。
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百舌鳥のこえ

2008-09-28 13:38:52 | 徒然
 一昨日まで31℃を越える暑さが続いた熊本は、一転昨日から26℃台に突入しました。朝のクシャミが腰にこたえます。あわてて長袖のシャツなどを引っ張り出して、アタフタとしています。そんな中、昨日の朝久しぶりに百舌鳥の鳴き声を聞きました。「キーツ・キーツ・キーツ」という、あの甲高い鳴き声です。以前済んでいた花園町は、本妙寺に近く緑が多くてよく百舌鳥の鳴き声を聞いたものでした。時折干からびた蛙の死骸が裏庭に落ちていたりして、子供達が吃驚したものでしたが、どうやら百舌鳥の仕業だったようです。いわゆる「百舌鳥の早贄」というやつで、裏の崖の法面に榎ノ木の大木がありましたが、そこから落っこちたのでしょう。

    百舌鳥のにえ 北島ばりのフォームかな (汗)
                         こんな感じでしたね

 現住地に移り住んでからは本当に久しぶりに聞いた感じがします。
こんな事に季節の移ろいを感じながら、熊本も本格的な秋に入って行きます。
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仕官は寄之殿へ

2008-09-27 08:07:48 | 歴史
 寛永六年(1629)正月十五日「日帳」にある記事である。

かゝみ善右衛門尉むすこ三太郎召連候而、登城にて被申候は、いまた三太郎御目見え不仕せ候間、懸御目候とて登城仕候 左様ニ御座候へハ、私手前も不罷成候間、監物(米田是季)殿へ奉公仕せ申度候、如何可有御座候やと被申候、此方よりノ返事ニ、いまた御目見えも不仕候ハゝ、可然之由申候、并兄むすこ、是は如御存知御目見え仕せ候而、御岩様(岩千代)様へ御奉公申度候由、■せかれ申之由、善右衛門尉申候、是は御目見え仕候儀ニ候間無用之由、返事申候事

 船頭の総元締めともいうべき、鏡善右衛門の息子の仕官に付いてである。兄は松井寄之に、弟は米田監物に仕官したいと言っている。善右衛門の立場であれば、本藩での仕官も可能であろうと思われるのだが、なかなか面白い判断である。

 元和三年(1617)生まれの岩千代は、この年13歳である。
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バナナ・ダイエット続報

2008-09-26 13:10:54 | 徒然
 今日の「Yahooトピックス」に「朝バナナで減量 健康には?」という記事が出ていたのでちょっと覗いてみた。

    テレビの影響で品切れ大騒動 バナナダイエット健康にいいのか
                  9月26日12時16分配信 J-CASTニュース
 ■森公美子さん7キロも減量に成功
「2、3日間、バナナは全部、ありませんでした。昨年の納豆ダイエットのときに次ぐ反響ですね。注文の半分ほどしか入荷せず、すぐ売り切れるんですよ」
熊本市内のスーパー「ハローグリーンエブリー」長嶺店の店長は、こう明かす。

 これには驚いてしまった。地元も地元、妻がよく利用するスーパーである。
我が家のストックも今朝で終了。どうやら「バナナ・ダイエット」は本日を以って終了となるかもしれない。
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お手元金(米)の運用

2008-09-26 12:27:26 | 歴史
 こめの収穫前の、藩士の前借は当たり前の事である。一方では、ご一門のお手元金の運用が行われているが、これは「コロンブスの卵」で、どちらが先なのかはよく分からない。例えば忠利室の、米の貸付の記録がある。
               「日帳・・元和九年九月日にち不明(十三日カ)」より

九月十三日矢野利斎奉り
一、御上様之御米、元十石、先年小林勘右衛門ニ借被下候ヲ、于今、元利共返上不仕候間、元分
  十石ハ、従 殿様御米二て被返進候間、来年ヨリハ 御上様御米ヲ相加へ、借付可申事
一、御上様御銀子、窪田善助ニ、先年借被下候ヲ、年々相調、残未進御座候ヲ、 殿様御銀子ニて、
  元利共ニ御返進被成候算用ニして、来年ヨリハ、 御上様御■■銀子ニ相加へ、借付可申事

 此処で面白いのは、忠利が自分の米(銀子)をあてて、立て替え払いをしている。内室への借金返済が滞るのは困ると見たのであろう。改めて元利合計をお借りして、忠利に返却するという手法である。
 米の収穫の時期だが、果たしてこの年の出来はどうであったのだろうか。
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「言葉のゆりかご」

2008-09-26 10:42:24 | 新聞
 熊本日日新聞に毎日掲載される、「言葉のゆりかご」を執筆されている「智」氏を、時折図書館でお見受けする。通し№が打たれていないので、果たして何回掲載されたのか定かではないが相当な回数である。1000回はゆうに越えているのではないか?。郷土に関係する著名人のトピックスである。最近はその日に亡くなった方を取り上げて居られるような気がするが、氏の元には著名人の生没年表みたいなものを造られているのだろう。それに準じて、図書館で史料を見つけておられるのだろうと推察しているが、これは並なことではできない。そのご努力に敬意を表したいと思う。「目から鱗」の情報を沢山いただいた。

 当方ブログはいささかネタ切れ状態である。
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幻の「八代細川藩六万石」

2008-09-25 09:59:27 | 歴史
『部分御舊記』(熊本縣資料・近世編第一 p289)に、正源院宛忠利書状(抜粋)として次のような文書がある。

「我等弟立允事人質之為替と江戸へ三齋御下候 御目見させ被成度由に付て心得之由返事申候 又重而立允身上之事は先ツ三齋御一代は此中のことくにて江戸ニ居三齋後は知行都合六萬石に可仕由約束仕埒明ケ申候 (略)」

 舟田義輔氏の研究論文『宇土細川支藩成立の前後』の、系譜「5-細川立孝」の欄に、【寛永十六年六月廿二日三齋死後は隠居料分を加えて立孝の家督を六万石に決める(部分御旧記による)】とあるが、上記文書のことであろうか。

 忠利が亡くなり、当の立允が亡くなり、三齋の悲願とも云うべき八代藩の立藩の思いは頓挫する。三齋が亡くなると「薩摩を抑える軍事上の拠点」として、八代は松井家に委ねられ、三齋の家臣団も解体されてゆく。そして新に立允の子・宮松(行孝)を以って、宇土支藩・三万石が誕生するのである。

 


 
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系図に登場しない姫様達

2008-09-24 08:38:22 | 歴史
 かって我がサイトに「細川三齋の艶聞」という文章二話を載せていたが、何時の時期にか取り外してしまった。ここでは七十を過ぎた三齋が二人の娘をなしている事が分かる。 

 年代不明だが、忠利が八代の三齋を訪ね帰熊後に書いた書状に興味深い一文がある。
「おしほ事初而あい申候處ニ一段とあいらしく御座候間何よりもの御慰と奉存候(略)」
                      (熊本縣資料・近世編第一 p534・一楽宛)
この文章からは、どうも三齋の娘ではないかと察せられるが、「おしほ」という名前は初見である。これは「艶聞-3」かもしれないがこれ以上のことは現況分からない。


 「三斎公の艶聞」を、今一度ご紹介しておこう。

■三斎公晩年の艶聞-1
 三斎は孫娘祢々(三斎女・萬 *烏丸中納言光賢卿簾中* の女、細川光尚室)のお側に幼少のころから召し置かれていた「みつ」という娘を、十四歳になったころもらい受けた。「格別の御憐憫を以召仕れ」ていたが寛永十七年八月、俄かに深尾長兵衛なる者に下し置かれた。身重であったみつは翌月女の子を出産する。「くま」と名付けられたこの赤子は当然の事ながら三斎の子である。三斎七十八歳であった。「御老年の御事ニ御座候とて、御隠密ニ被遊度思召上られ」たが、お七夜には産屋に入り守刀や産着、白銀、御樽・肴を届けたという。また台所向賄いを心配し乳母抱守の手配をし、長兵衛には知行五百石が宛てがわれた。後くまは名をすまとかえる。三斎の没後は烏丸光賢卿簾中萬からすまに対し扶持が下されたらしい。生前の三斎の配慮ではなかったのだろうか。後年長兵衛は弟伊兵衛を養子とし、すまと娶わせ家督させる。源六という子をなすが源六が五歳の時すまは亡くなったらしい。みつなる人の消息は知れない。享保三年深尾源六の記録である。

(正保二年十二月付け「八代分領侍帳」に深尾長兵衛五百石、おすま二百石などの記載が確認できる。深尾長兵衛は忠興死後、肥後を離れている。細川興秋を葬ったという京都稲荷山近くの、南谷という所に「ありのやま墓地」があり、ここに長兵衛の墓がある。傍らに深尾源六郎の妻という墓があるという。はたして何方だろうか)

■三斎公晩年の艶聞-2
 或記、三斎君八代江被成御座候節、御側江被召仕候糸と申御女中ニ御女子様御出生あり、御名を御百様と申候、早速御聴に達し、志水金右衛門を召し、在中ニ遺候而穏便に養育いたし候様ニ被仰付候、依之八代郡永田村百姓善兵衛と申者の妻よろしき乳房持候由吟味之上、善兵衛所江被為入候、御五歳之時御城江被為召、御目見被成候、三斎君御逝去後、立法院殿八代御城より小川御茶屋江御移ニ付、お百様を右金右衛門御供ニ而立法院殿御方江御出なされ、彼方江被成御座候、其後御さん様方江御移なされ候、御成長の上、浪人余宮娘之由ニ而、水野伊左衛門と申者之妻ニ被下候、寺尾(生)嘉九次曾祖母之由申伝候

 (寛永九年忠利の熊本への国替えに伴い三斎は八代に入った。当時三斎は七十歳であり以降十二年余を愛息立孝等と過ごす事に成る。三斎のお側には側室立法院がいた。そんな中、三斎の御身周りの世話をしていた女中「糸」にお手がつき女の子が生まれたのである。お百さまと名付けられた。はたして三斎幾つの頃の話だろうか。「城中での養育はまずい」と考えた三斎は家臣志水金右衛門に赤子の将来についていろいろ相談・指示をした。百姓善兵衛の妻が「よろしき乳房」をもっている(?)として養育を頼んだのである。五歳になってお百さまは三斎にお目見えする。三斎の没後は小川の御茶屋の三斎側室立法院のもとで育てられ、後には立孝夫人おさん様のもとに引き取られる。おさん様は立法院の姪であり三斎の養女として立孝の夫人となった人である。お百さまは余宮某の娘として水野伊左衛門なる人に嫁したという。この人が寺尾嘉九次の曾祖母だと申し伝えられている。)

 平清盛の血を引く肥後宗氏の胤が浄勝寺を興すが、二代目祐閑の二男を寺尾就右衛門といい、その妻は水野伊左衛門の娘である。この伊左衛門の妻が三斎の娘お百であると「浄勝寺善慶父子武功覚書」は記している。(参考:鈴木喬著 肥後宗氏一族の盛衰)                
      
   この二つの話いずれも「綿考輯録-巻二十六」に記載されている。
   まことにお盛んな三齋公ではある。

 追記:この書状の前段に、「千世姫様・御袋様御他界ニ・・・」とある。忠利の他の書状から考えると千世姫とは家光の娘・千代姫(尾張藩主徳川光友正室)であることが類推される。御袋様とは生母自証院(振姫)であり、その没年は寛永17年(1640年)8月21日である。そうすると名前が違うものの【艶聞-1】のことかとも思われるが・・?
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正室千代姫様江戸引越しに関する忠利書状

2008-09-23 22:08:01 | 歴史
 元和九年九月四日付、魚住傳左衛門宛忠利書状
        (熊本縣資料・近世編第一 p406)
女とも儀来十四日ニ罷立候分相定候併喜助殿者・小右近殿者申候ハ今之分之煩二而者道江罷出候而可有御座哉与申候 我等者喜助殿次第と申筈御座候罷下候故留申儀も無御座候 多分十四日ニ罷上へきかと奉存候事
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彼岸花

2008-09-23 16:19:53 | 徒然
 お彼岸後の一週間、私は先祖供養の毎日(?)である。明日24日は三十年間起居を共にした母方の祖母、27日は母、30日は玄祖父・上田久兵衛の命日である。毎年この時期になると、駐車スペースの脇のわずかな所に彼岸花が顔を出す。健気ではある。二三本を切って仏壇に供えた。

     むらがりていよいよ寂しひがんばな 草城
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伊丹角助(黒田蔵人)鑓働き

2008-09-23 15:09:41 | 歴史
 「寛永拾五年二月廿七日有馬城乗之刻働之衆証拠ニ被立御帳」
          (熊本縣資料・近世編--第三)p252 ・・抜粋
 一、伊丹角助
     一、二月廿七日有馬ニノ丸須戸越に敵と突合申候
     一、其後ニ丸乗越候而敵一人つきふせ申候
                薮図書与ニ入牢人
              証人   寺尾三郎兵衛
              右三郎兵衛書状取置申候長谷川仁左衛門存之仁ニ而御座候
    寛永十五年          長岡佐渡守 判
        七月廿一日      有吉頼母佐 判
            坂崎内膳殿
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バナナ・ダイエット

2008-09-22 23:18:33 | 徒然
 腰を痛めている。椅子から立ち上がるのが切なくて仕方がない。痛みをこらえて、よっこらしょと立ち上がるのだが、それから腰を伸ばすのに一苦労する。立ち上がってしまうと、いささかの痛みはあるが、歩こうが、自転車に乗ろうが不自由はしない。私の運動不足状態をみて、妻がもう少し体重を落とせとうるさい。最近TVでタレント・森公美子さんがやっているという、「バナナ・ダイエット」をやろうという事に相成った。朝食は「バナナ」と「水」だけである。
    www.tbs.co.jp/program/dream_presssp_20080919.html
「トースト」一枚と「コーヒー」+「果物」がこれに代わっただけで、別に空腹感もないしこれで本当に体重が落ちればめっけものである。妻の話によると、スーパーのバナナが品切れ状態だというからTVの影響は凄いものだ。案外バナナの品切れで、私のダイエットは頓挫するかもしれない。そろそろ就寝の時間、ベットに横になるのが又一苦労である。
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望まれて・・黒田蔵人-- 2

2008-09-22 18:16:57 | 歴史
 大日本近世史料・細川家史料(1710)より

尚々、餘仁して申事ニて無之候間、其方直二可被申候、以上
  追而申候
一、大前黒田筑州(長政)ニ居申候小性、福島太夫(正則)殿高麗ニ而もらハれ候て、其後太夫殿
  つかひたてられ、此中共 上様(徳川秀忠)も御存知被成候黒田蔵人と申者之事ニ而候、今度
  廣嶋へ御人數不下以前、黒筑より舟を遣、太夫殿之儀 御前相果候、然間、妻子をハ先筑前へ
  越候へ、前より存知之者候間、如何様ニも身上可被爲馳走之由被申越候處ニ、蔵人返事ニ、か
  様之砌寄思召忝存候、然共、左衛門太夫一著見届不申以前は、妻子なと何方へも遣申事不之由
  返事申候つる事、
一、其後一著候て、おとな分之者大坂へ上候所、又黒筑より使を被遣候て、米なと兵粮ニ仕候と申、
  被爲音信之由候、それをハ度々之御懇忝と申候て、請取候事、
一、其後太夫殿之高知行も取候者共、それ/\へ有付候、先度其方より被申越候ハ、 上様御諚ニ
  て、方々へ被分遣之由候つる、左様ニてハ無之、縁引/\ニ方々へ有付申候を、其主/\より
  上様江被申上由候事、
一、此黒田蔵人も、今度も 上様立 御耳候書付之者共之うち候へハ、われ/\所へ前かとよりせ
  かれを出置、其上宇佐之大宮司ニて候故、われ/\所へ出度との望ニて、何方ともなく西國へ
  罷下之由、竹中采女(重義)所迄ハ申たる由候、右之分ニて候故、われ/\所へ下候、此之者
  之儀、用ニも立候者を前より知り候、其上宇佐之者を筑州なとへ遣候へハ如何と存ニ付、高知
  行之者ニ候ても、先可召出と申候て、國■しまて呼寄置候事、
一、福左太之者、加藤肥後(忠廣)を初メ方々ニ抱置候間、此儀大炊殿(土井利勝)迄申ニ不及候
  へハ、第一ニ宇佐之者候、其上用ニも立候者ニ付、黒筑事之外之おしかりニて、此中も人を付
  置、懇之躰候を、われ/\所へ出候■か様ニ仕内ニ、竹中采女を以本上州(本多正純)なとへ
  被申、此者を抱申候由被申上候■、定而抱候へと可被 仰出候、其内ニ■や我々所へ有付候■、
  御諚之由申遣候へハ、それを不致承引、越中所へ罷出候と被申上候■、御諚をそむき候と 思
  召候てハ如何候間、大炊殿まて此段々前かと可被申事、
一、可被申專之所ハ、黒筑前かとよりほしかりニて候へとも、蔵人兄蜂屋隠岐と申者、黒筑所を走
  候て太夫殿へ參、此中居候、其者を捨て黒筑へ參候こと第一ニ不成、第二ニ■當國之者候、第
  三ニ■われ/\所へせかれ一人前かとより越置候ニ付、我等所へ出候、其上黒筑へ高知行ニて
  ハいやと被申候故、彌われ/\所へ出候條、得其意、大炊殿へ内々語候て可被置候、恐々謹言

   (元和五年)十月十五日                  越(ローマ字青印)
            内 記 殿
                進之候
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