津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

立聞

2008-10-31 16:05:07 | 歴史
 「丹羽亀之允言上之覚」という文書がある。三齋死後の不安定な八代の状況を、本藩に報告したものである。約二年間十二通に及んでいる。これがいわゆる「立聞」といわれるものである。現代の我々が考えるようなものではなく、「情報収集」といったものであろうか。かって私はこのブログで「公安調査」と書いた覚えがあるが、三齋亡き後多くの人が離国するという噂や、宮松による宇土藩立藩の噂など八代侍衆の動揺や、これに対する本藩の監視が強化されていることが分かる。

 三齋の娘お万からの三千両の借金の話は、随分以前「お万様はお金持ち」でご紹介したが、これらの話も同様で、亀之允の言葉を借りれば立聞で「追々致言上候間乍恐御披露云々」としている。全て藩主光尚に報告された。此の金は返済されていない。私も、藩士の離国や本藩へ帰ったり又は宇土支藩へ移籍させられた人々の動きに大変興味が有り、「追々・・御披露」したいと考えている。
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史料纂集古記録編 泰重卿記

2008-10-31 15:02:10 | 書籍・読書

『史料纂集』には、土御門泰重の「泰重卿記」もある。泰重は細川藤孝(幽齋)の末妹(土御門久脩簾中)の子である。藤孝の甥、忠興の従兄弟となれば、読まぬわけには参らぬだろう。

【陰陽頭土御門泰重(一五八六-一六六一)の日記。慶長二十年(一六一五)から正保五年(一六四八)におよぶ。その家の職務とする陰陽道・天文道関係の記事もさることながら、公家の記録の少ない江戸時代初期の宮廷内における学問・芸能の講習をはじめ、学芸関係の記事に詳しく、また時あたかも徳川幕府の創業期にあたり、当時の公家社会と朝幕関係を見るべき好資料である。】

〔収録範囲〕 1625〔寛永2〕~1630〔寛永7〕
○中院通村伊勢物語進講
○将軍家光群書治要を献上
○南蛮鉄砲献上
○好仁親王に所領二千石を進せらる
○所司代板倉重宗を訪問学問雑談あり
○泰重の女徳川秀忠室の侍女に所望さる
○天皇古今御伝受
○終日新暦を調製
○近衛信尋の茶事に参る
○古写源氏物語を御覧に供す
○中宮(徳川和子)能十番を御催
○五十年来の大風
○廷臣の習学考試方法につき御沙汰
○一条家の漢和聯句会
○徳川秀忠上洛につき山科に出迎う
○伊達政宗より定家筆古今集を借覧
○二条城行幸
○玉林の立花を御覧
○池坊専好大砂物を製作
○漢和詩会を催す
○あやつりを御覧
○将軍家光乳母(春日局)拝謁勿体なき事なり
○三代実録により内親王叙品の先例引勘を命ぜらる
○後水尾天皇御譲位
○上皇摂政と御密談あり泰重所存を言上
○女院より女帝の先例を諸家に御尋
○上皇泰重を御使として譲位一件落着の旨を外様番頭に伝えしめらる
○中院通村百人一首を講釈
○詠歌大概書写



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お薦め

2008-10-31 08:21:52 | 書籍・読書

くずし字用例辞典


くずし字辞典を購入したいが、どんなものが良いだろうかとお尋ねをいただいた。
この写真のものは【くずし字用例辞典 児玉幸多/編 出版社名:東京堂出版 発行年月:1993年03月 価格6,090円(税込)】いわゆる普及版というものである。こんな処が良いのではなかろうかと、推薦申上げた。価格:13,650円(税込)の本格的なものもある。こちらも児玉幸多/編 出版社名:東京堂出版だから、お間違えないように・・・

 手ごろなところでは、【くずし字解読辞典 児玉幸多/編 出版社名:東京堂出版 価格:2,310円(税込)】がある。
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うっかり孫右衛門

2008-10-30 20:06:04 | 歴史
 寛文12年12月13日、新坪井弐丁目の質屋・油屋藤兵衛の所に、細川左京殿足軽田尻庄兵衛の父親・孫左衛門が、自分の帯を質に入れた。年末のこととて物入りであったのだろう。処がこれが期日の内に請け出されず質流れと成った。職人町の惣右衛門という人が、これを買い取り、着物の襟にしようと帯をほどいたのだろうか、中を見ると「切支丹之事を書申たる反故(ほご)」が表れお届けに及ぶ。当然のことながら孫左衛門は捕らえられ、御吟味の上その「反故」とともに長崎へ送られた。

 これは「熊本藩の文書管理」の「坤御櫓入目録根帳」(p193)に登場する。
「其帯之がわと中ごに成候縞之きれと此文箱ニ入置由之文箱壱ツ」とある。
当然孫左衛門は罪を得たのだろうが、下手をすると死罪で有ったかもしれない。
職人町の惣右衛門さんの着物のエリはどうなったのだろう?

 細川左京殿とは忠利の三男・尚房のことであろう。新知二万石。松之介、左京、修理(亮)、尚良などと称した。室は松井寄之女・万である。息・尚方に継嗣がなく絶家となった。

 それにしても、こんな大事な物を忘れてしまうとは、うっかりは命取りである。
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避難は水前寺へ

2008-10-30 16:58:50 | 歴史
 「熊本藩の文書管理」を読んでいると、それは色々な文書の所在を表す索引みたいなものだが、それだけでも中々興味深いものがある。

 花畑屋敷にお住まいの姫様方は、近所が火事になるとどうやら水前寺のお茶屋にお逃げになるらしい。(p167)
■御花畑御近所若火事之節 富姫様水前寺御茶屋江被遊 御退候節之御行列札渡之帳一冊
  但享保元年十二月と在之
 富姫とは細川宣紀の娘、「享保元年十月朔日熊本ニテ生ル。同三年四月十二日夭ス。年三。
  熊本西福寺ニ葬ル。臨泉院翠山珠光」細川宗孝の同母姉である

■右同 御末様右同断札渡之帳一冊
  但正徳四年十一月と在之
 これも年代からすると宣紀の娘だと考えられるが、何方なのか分からない。

 全く別のところには、次のようなものがある。上記二件は「若しも」の話だが、これは実際あった話らしい。(p82)
■享保六年 花姫様 ねね姫様并おきわ殿水前寺 御茶屋江御退被成候節之御行列札相渡候帳一冊
 花姫とはこれも宣紀の娘で後に松平讃岐守に嫁いだ。享保五年二月生まれである。
 ねね(彌々)とは同じく宣紀の娘で後に宗対馬守に嫁いだ。享保五年七月生まれである。
 おきわとは乳人でもあろうか。


 実は熊本の城下では、宝永四年・五年と続けて大火に見舞われている。
宝永四年三月五日花畑屋敷のすぐ近所の、住江家を火元として侍屋敷78軒、町屋1036軒、寺院18ヶ寺が焼失した。宝永五年は三月十日坪井竹屋町から出火、1200軒ほどを焼いたと云われる。草場丁、広丁、水道丁などの道が広げられたのは、この火事によるとされる。
享保六年の火事とは、如何なるもので有ったのか資料を持たない。
享保十四年にはいわゆる「薮の内火事」と呼ばれる、千葉城の煙硝所から出火、1430軒ほどが焼失、細川内膳家や朽木家などが被害に有ったとされる。
火事の際の避難については、「御預人」等についてもこまやかな配慮が見て取れる。
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史料纂集古記録編 通兄公記

2008-10-30 13:38:48 | 書籍・読書
 続群書類従完成会が発行してきた貴重な翻刻資料は、現在八木書店出版部が事業を継続している。私達はこれらの翻刻資料に親しんで、続群書類従完成会の崇高な出版理念に敬意を表さなければ成らない。
    みつえ
 久我通兄は細川重賢室由婦姫の父親である。

【右大臣従一位久我通兄(一七〇九-一七六一)の、享保九年(一七二四)から歿年に至るまでの日記を宮内庁書陵部所蔵の自筆原本によって翻刻する。通兄は通誠の孫にあたり、朝廷は中御門・桜町・桃園天皇の治世、幕府の将軍は吉宗・家重の時代にあたり、朝幕関係の良好な時期であった。通兄は議奏や武家伝奏として枢機に参画しており、記事には見るべきものが多いのが特色。】

通兄公記 8
〔収録範囲〕 1746〔延享3〕~1747〔延享4〕
○天皇御脱〓(尸+徙)の思召あり
○天皇譲位の叡慮を関白等に内々仰せらる、通兄等諌止し奉るも聞入れ給わず
○和歌当座御会通兄詠進す
○男俊通の石清水放生会進退につき一門の公卿と談じ教訓を加う
○通兄武家伝奏を辞せんとす、近年病身による
○天皇より武家伝奏辞退を慰諭せらる
○武家伝奏より御譲位御受禅の叡慮を所司代に伝う
○幕府御延引あるべしと奉答
○更めて来年立太子の上御譲位の事を仰せらる
○回峯千日行者大僧都正〓(行人偏+扁)参内拝謁御加持を奉仕す
○千日回峯行満願により綸旨を賜わる御礼参内
○通兄千日行者正〓(行人偏+扁)を招き女子を加持せしむ
○一族の宴に盲目法師を召し琵琶を弾ぜしむ
○天皇頃日御不予今日平常に復せしめ給う
○一昨年よりの江家次第会読終功につき饗宴を催す
○立太子節会
○飛鳥井家と不和の事天聴に達し和解せしめらる
○盲目法師を召し平家物語を謡わしむ
○多年懈怠なく勤仕神妙に思食す旨上皇より御書を以て通兄に仰下さる

通兄公記 9
〔収録範囲〕 1748〔延享5〕~1749〔寛延2〕
○通兄烏丸光栄に歌道入門す
○女子と細川重賢と婚姻の事を願申す
○三男忠丸の東久世家養子の事勅許
○勧進和歌の事により諸家を訪う
○久我惟通薨去
○上皇水左記以下の日記中不所持分を注進せしめらる
○内宮外宮の別宮山口祭等日時定
○地蔵像を板に彫り上皇手自ら摺らしめ給い希望者に頒ち賜う
○今春出生の女子を岩倉恒具の子となす
○冷泉両家近代不和の処和解
○下冷泉宗家上冷泉為村の弟子となる
○父惟通一周忌により今明両日清泉寺に於て法事を修す
○新御茶壷口切酒饌を賜わる
○通兄等年頭勅使として関東下向仰出さる
○女節子江戸下向のため発輿、熊本藩主細川重賢に嫁する迄の間その養母に引取らるるによる
○院住吉社御法楽和歌の添削を風早実績に請う
○村上天皇宸翰延喜式一巻を見せらる
○天皇に皇子降誕なき時は直仁親王継統の仰あり
○故院平常皇太后に継体に関し御物語の内容
○桜町院御葬送の儀
○通兄武家伝奏を免ぜらる

通兄公記 10
〔収録範囲〕 1750〔寛延3〕~1753〔宝暦3〕
○当道座来邸
○一条富子を女御となす御内意仰下さる
○二条城天守焼亡
○幕府女院(青綺門院)御領千石を増献
○徳禅寺に後醍醐帝乗御の輿を見る
○前将軍徳川吉宗重病につき内侍所御神楽を行わる
○吉宗を東叡山に葬送
○道元五百回遠忌法事執行
○久我晴通以来の墳墓は大徳寺中にあるもそれ以前は不明
○貞建親王発駕、将軍代替以後の儀
○菅原道真八百年忌により北野社万灯供あり
○報恩寺什宝虎の絵を見る、世に鳴虎と称す
○家伝の安摩面の辛櫃を開き拝見
○官本諸家伝書続のため延享以来の昇進の注進を求めらる
○久我長通四百回忌法会を清泉寺に修す
○京極阿弥陀寺三万日回向の間の怪異
○中院通枝危篤、嗣子なきにより通兄次男惟孝を養子にせんとす
○領所河内産の水仙花を献上
○上冷泉為村より曩祖俊成卿五百五十回忌勧進和歌を所望せらる
○定家卿自筆公卿補任は具定卿の母は俊成卿女に非ず
○今度大歌の儀再興



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殿様逆上

2008-10-29 23:59:18 | 歴史
 寛永五年三月九日~「日帳」より

山岡書鑑 御機嫌をそこなひ申、事外御たヽき被成候、左候て、人しちへやへ被成御入候事
    何だかいやな雰囲気ですねー。「可愛さ余って憎さ百倍」という言葉がありますが、・・・変な関係という事はないでしょうね
書鑑自分銀子弐百九十四匁弐分有之を、しちへや二おかせられ候間ハ、此銀子にて賄可申付旨、御意之由にて、土佐新太郎・吉山龍介被持出、御銀奉行へ被渡候事
    殿様もルール破りの私怨になって来たようです。

三月十五日:しちへや御番申候ハ、山岡書鑑儀、さい無之二付、めしをたべかね申由申候付、(浦上)せ兵衛・伝右衛門所へ、何ニても肴をさい壱つ宛ほと、下台所衆へ渡可被申由、きりかミ遣候事
    食事は自分で賄えと言っておきながら、おかずの一つもないとは如何したものでしょうかね。

七月八日:書鑑煩申二付、竹田了由被遣候、脉を取被申候か、余りさしたる煩二てハ無御座由、了由被申候、併昨日より今日迄めしをたべ不申由候とて、薬三腹遣被申候、御遣番岡嶋市兵衛ニ持せ、しちへやへ遣候事
    もう四ヶ月経過しました。何の罪なのでしょうか。分かりませんねー。
    そしてその後の書鑑の消息が知れません。無事であることを祈るばかりです。
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気になる史料所在「弐拾七番之櫃」

2008-10-29 11:33:44 | memo
■進士牛之助と申者之儀に付而平野弥次右衛門差上候書付二通

   この牛之助なる人物は、明智光秀の旧家臣、田邊城籠城衆の一人進士作左衛門の子である。
    www.ksbookshelf.com/HJ/Honnoujinohen09.html
 
 沼田光兼---+--清信・・・・・・・・・・・→細川家家臣・沼田氏
         |
         | 細川幽齋
         |    ∥---忠興
         +----麝香
         |
         | 進士美作守国秀
         |    ∥---作左衛門---牛之助
         +-----●

   この牛之助の消息を知りえる書状ではないかと興味深い。

■細川形(刑)部殿書物色々壱包十四通
■沢村大学牢人被仰付置候内道家左近右衛門方迄之状壱包
   大学は寛永二年お暇、三年九月に帰参しているが、細川小倉藩も「日帳」は
   ちょうど其の時期が欠落していて、其の詳細を伺い知れない。
   この書状がその原因などを明かしてくれないものか。
2007年11月22日ブログ『沢村大学介吉重のこと』を、参照されたい。


   
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「松江城秘録」から、立允死去後の八代の事

2008-10-28 08:47:33 | 歴史
 三齋が溺愛した四男・立允(立孝)は正保二年閏五月十一日に死去した。三十一歳。
細川忠利は立孝をして、八代六万石の立藩を考えていた事は、9/25のブログ『幻の「八代細川藩六万石」』でご紹介した。その忠利はすでにない。立允の死後凡そ半年後三齋も亡くなる訳だが、立允死去直後の本藩の意向が伺える文書が次のものである。

   太守へ用之儀にて飛脚を指下し申候間令啓上候 閏五月十三日之御状拝見
   仕候 今度中務殿御遠行跡之儀萬事堀田加賀守殿御談合之上事済、公儀少
   も御気遣なく相済候由目出度存候 八代之沙汰いか様ニ候との儀伊良子喜
   左衛門ニ坂崎内膳正常ニ申付置候間いよヽヽ八代之様子立聞を替候て早飛
   脚を以可申上之由被仰之通■届候 則内膳正ニ申渡候処ニ伊良子喜左衛門
   彼地ニ罷在色々立聞申候へとも替沙汰も無御座候 中務殿御死去以後両度
   其元へ御飛脚被遣之由申候 今迄ハ少も相替儀無御座候弥承届少成共替儀
   御座候ハヽ早々可申上候 御ろうもうニて只今被仰出候をも其まて御失念
   参中務殿の儀も煩いかヽなとヽ于今被仰候由申候 六月二日信長様之御志
   有之ニ付而金西堂被召寄被参候處ニ金西堂とハ何者ニて候哉と仰しばらく
   御しあんにて御前へ御よひ被成御振舞御座候由被申候 二日之朝ハ御長者
   ■■御ちいさ刀二て御寺へ御参被成ありヽヽ敷御セうこうあそはされ無残
   所御ようたい之由金西堂被申候 惣而中務殿御果候儀此以後申遣間敷由被
   仰出候ニ付金西堂も中務殿之儀者不申出之由被申候 金西堂八代より被罷
   帰佐渡守物語被仕候 今度中務殿御煩之由殊外御情出之由八代ニ而何もの
   取沙汰二而御座候由、伊良子申候 此節相替儀無御座候 此段太守へ可被
   仰候 恐惶謹言
       六月六日           沢村宇右衛門
                      長岡佐渡守
         阮西堂様
            以上
    猶々在郷被仕居候衆又ハ當分知行所へ参被居候衆候て被罷出御見廻可被
    申上候已上
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真弓監督は熊本出身だー

2008-10-27 12:10:45 | 熊本
 今年のプロ野球セ・リーグは巨人が大逆転で優勝を掻っ攫って行ったが、CSでも優勝したところを見ると、実力も本物かもしれない。さて日本シリーズが見ものである。13ゲームをひっくり返されると、どうしても監督の責任問題は避けられない。岡田監督が引退してOBの真弓氏が監督に就任されたようだ。柳川商業高校の卒業だから、「福岡出身」で紹介されているが、生まれは熊本県南関町でれっきとした熊本出身だ。わが「有禄士族基本帳」を見ると、お二人の真弓氏が居られる。ご一族だと信じて疑わない。かっては巨人フアンだった私だが、最近はまったく野球には興味が湧かない。しかし、真弓氏が監督となればこれは阪神を応援せねばなるまい。ちょっぴり阪神フアンの妻に、その事を教えてやった。
  
 加藤清正の菩提寺・本妙寺の「頓写会」のお祭りに売り出される、「笹のお守り」というものがある。笹の小枝に張り子の虎が下がっているものだが、「虎退治の清正公」を偲んでのものだろう。巨人フアンの悪友が、13ゲーム差の巨人にこれを送ろうかと真顔で言うのには驚いたが、シリーズ、CSで優勝してさぞ舞い上がっていることだろう。しかしこの悪友、一方では真弓選手の熱烈なフアンでもあった。さあ来年はどうする・・・・
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どうやら店頭に並んだようです

2008-10-27 08:37:27 | 書籍・読書

細川家の700年 永青文庫の至宝 (とんぼの本)

細川 護煕/竹内 順一ほか著
芸術新潮編集部編
税込価格: 1,470 (本体 : 1,400)
出版 : 新潮社
サイズ : 21cm / 127p
発行年月 : 2008.10



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明治22年M6.3熊本大地震

2008-10-26 14:56:34 | 徒然
 ここしばらくM家の墓所の調査をしている。その所在は、昭和17年頃荒木精之氏の貴い調査によって、本妙寺常題目(聴音禅寺)にあることが明らかにされていた。その事は唯一「平成肥後国誌」に貴重な写真が掲載されており、私は間違いない事実として理解してきた。私は数度現地を訪れて同寺墓域を探し回ったものの発見する事が出来なかった。実は同墓域と背中合わせにG寺の広大な墓域がある。ある奇特な方が歩き回って探し出していただきご連絡をいただいた。それはG寺の墓域にあった。荒木氏の文章と上記写真のイメージに執着するあまり、隣接するG寺に有ろうとは夢にも思わない結果だった。

 調査の結果思いがけないいろいろな情報をここから得ることになる。
無残に破断した墓石があり、なんとも痛ましい姿をさらしている。別のお墓には、大きな石が背後から覆い被さっている。県道熊本河内線の左側は島崎方面へ30メートルほど落ち込み、大きな傾斜地を形成している。その傾斜面にその墓域はある。その下方に近代的な建物の小山田団地がある。

 明治22年M家は一家を挙げて北海道に移住された。この年は日本帝国憲法ができた年であり、熊本市が誕生した年でもある。出発された直後であろうと推察されるが、7月28日熊本はマグニチュード6.3の大地震に見舞われている。多くの被害があったと伝えられている。本妙寺周辺でも野宿をする住民が多くあったという事に突然思い出した。そうかあの巨大な石は、本妙寺山から島崎方面へ転がり落ちた石だと思い至った。全ての疑問をこの一点で解き明かす事が出来る。

 いわゆる活断層「立(竜)田山断層」による大地震である。
        www.yotsuba-eng.com/katudansou.html
立田山~花岡山~独鈷山~城山等を通るこの断層の上に、細川家・加藤家の墓所がある。M家もまさにそうである。当時の被害状況がどうしたものであったのか、又勉強しなければならないことが一つ増えた。

 熊本を離れられたM家では、北海道に新に墓所を設けられ、熊本の墓所のことは時の経過と共に忘れさられた。というよりも伝承がなされていなかった様で、あることがきっかけでその所在をお知りに成り、小生も調査のお手伝いをしたわけである。
実に120年ばかりの時を刻んでいる。ご一族こぞってこの発見を喜ばれ、先祖供養の新たな動きが出てきた。喜ばしい限りである。あと数回現場を訪ねなければ成らない仕事がある。
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「松江城秘録」から、庄林隼人佐・新美八左衛門

2008-10-25 09:28:00 | 歴史
 熊本市にある古刹・禅定寺には加藤・細川両家の著名な家士のお墓が数多くある。九州新幹線の工事に関し、寺域を計画道路が走る事に成り、安らぎの場所も今はいささか慌しい。その中にひときわ立派なお墓がある。庄林隼人佐のお墓である。
    www.m-network.com/sengoku/haka/shobayashi450h.html

 隼人佐は「加藤清正三傑」の一人とされる。熊本城の玄関口「西大手門」を預かった。
「加藤氏代熊本城之圖」をみると、その大手門の前に庄林氏の屋敷が確認できる。
細川忠利の熊本城入城にあたっては、隼人佐が城内を案内したとされ其の事は先祖附にも記されている。その後忠利に召出されて、細川家家臣となった。(2000石)綿孝輯録には次のような記述が見られる。幕府にも名を知られた人物であった事が分かる。

  寛永十年三月十九日付 榊原飛騨守書状(忠利様・人々御中)
       庄林隼人・出田宮内両人御かゝへ被成候由、可然人之様ニ承及候
                                  (綿考輯録・巻三十五)

 さて「松江城秘録」によると、三齋の死の直前隼人佐は同じく加藤清正臣であった新美八左衛門と共に扶持を放されている。

    庄林隼人・新美八左衛門御暇被遣候通皆共かたへ被仰下候 
    閏五月廿三日之御書六月三日ニ此地参着致頂戴翌日四日ニ
    則申渡候 庄林儀ハ志水新丞所へ召寄西郡要人・奥田権左
    衛門私共より之使二仕被仰下候通右両人を以申渡候
    八左衛門儀ハ(澤村)大学所へ召寄是も要人・権左衛門私
    共使二仕申渡候 屋敷をあけ申候儀ハ翌日あけ申庄林ハ新
    丞所迄のき申候 八左衛門儀ハ本妙寺之寺内ニ旦那寺御座
    候ニ付而是迄のき申候 四五日■迄仕両人共二爰元罷出川
    尻より舟ニ而のき申候 庄林儀ハ筑後立花領内へ参申由ニ
    御座候 矢島石見せかれ主水庄林淡路時より懇二申通ニ付
    頼参居申候由申候 新美儀ハ女子ハ長崎へ遣シ其身ハ江戸
    へ罷越子共なと御存之方へ預ケ置大坂京二可罷在と申由ニ
    御座候 此両人儀被仰下候御書之御請何も一所二可申上候
    へ共帯刀かたより之書状差上候ニ付而俄ニ私かたより御飛
    脚差上候間先私一人にて右ノ様躰申上候
         (対象外の文言略)
      (正保二年)六月十九日     松井佐渡
              林 外記殿

 原因は良く分からない。「松江城秘録」(一・四)に於いては次のように記されている。これは七月十九日付、藩主光尚から松井佐渡へ宛てた書状である。

    新美八左衛門妻女長崎へ遣其身ハ上方へ罷上江戸へも可罷
    越之由得其意候 庄林義者筑後立花殿領内ニ居候由是又得
    其意候 兎角今度之仕合常々奉公振気二入申候而扶持を放
    レ候段
迄を相尋候かたへ被申可然候事

 この二通の書状は、三齋の死の前後の八代に於けるゴタゴタに関する書状をまとめたものである。隼人佐にしろ八左衛門にしろ、扶持召し放ちの元は八代だという事だろうか。そして二人が加藤家に仕えていた事が影響しているのだろうか。

 先祖附によると、隼人佐は忠利の君恩に対し、藤崎八旗宮に二基、忠利の墓所妙解寺に一基の燈篭を寄贈したとされる。隼人佐以降没落、四代孫七代まで浪人その後再び細川家に召し出された(2000石)。加藤清正代1,380石余を領した。
 新美八左衛門は加藤清正代、騎馬10騎・鉄炮之者46人を預かり、2,736石余を領し、城内・現在の頬当て御門前に住まいした。
    
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 続--松井父子の書状

2008-10-24 11:16:00 | 歴史
 元和二年極月六日付、興長・寄之父子の書状の続きである。

一、今度宮松殿(宇土細川家初代有孝)へ御知行被遣候様子共(長岡)河内才覚二而高桐院へ申入
  此方より申上候由ニ御座候 當三月よりハ何事も少も御覚無御座此方より申上候事ハ其分々々と
  計御意候由ニ御座候 萬事之儀被仰出候事なとハ無之由申候 唯今河内なと申なしハ此方より申
  上儀ハ御聞不被成御心ニ思召通之儀をハ被仰出と申成候 是ハ此知行之様子可申ためと聞へ申
  候 先度おいセよりの処佐渡女房共差上候而必定ニ而可有御座候間左様ニ御心得被為成候様ニ
  と乍憚奉存候 八代取沙汰風聞ニも右之通申由ニ御座候 如此書状相調候間勘解由・亀丞所より
  書状指越三齋様昨日酉之刻ニ泰勝院ニ而者いニ(灰に?)奉成候 御供仕者共■いつれも腹を仕
  候由申越候 此等之趣宜預御披露候
        極月六日                長岡式部少
                            同 佐渡守
           林 外記殿

 この書状は、松江城秘録(九)--「申上候事」とあり、「三齋様御逝去之節松浦三郎左衛門江戸へ差越光尚様へ言上之書状興長寄之より林外記江當」とある。 
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「松江城秘録」とは

2008-10-24 09:12:51 | 歴史
 細川三齋の死に係わる八代の情報がまとめられたものである。松江城とは八代城のこと、八代市松江城町が現在の町名である。忠利はこの地で細川立允をして6万石の支藩を立藩する事を考えていたが、島原一揆、忠利の死、立允の死、そして三齋の死とめまぐるしく状況は変化していった。この「松江城秘録」に見られるように、三齋の死は本藩と八代御附衆との間に微妙な齟齬を生じさせた。まさに秘録であり、細川藩の裏面史ともいえる。細川家磐石の時代に至る生みの苦しみといったところか。追々ご紹介していきたいと思う。

   一、長岡勘解由八代へ被遣付自然世上(状)不慮之儀も候時ハ八代ニ居
      申間敷由佐渡監物へ充候而誓帋差上驚申候(一)(二)(三)
   一、新美八左衛門等今度ノ仕合奉公振気二入不申扶持を放候段可申者(四)
   一、八代之儀兎角宮松を置申事ニ而無之被(五)
   一、刑部二三齋様御對面之段弥御老忘無是非候(六)
   一、三齋様御老忘世情之聞無是非候(七)
   一、庄林隼人新美八左衛門御暇被遣候(八)
   一、三齋様御逝去(九)
   一、三齋様へ刑部御目見之儀(十)
   一、立殿三齋様御一代ハ今之分已後ハ御加被置三万石(十一)
   一、八代之儀とかく宮松殿を被召置儀二て無御座候(十二)
   一、立允様御死去二付而八代之事(十三)
   一、宇土屋敷割之事(十四)

 本文には別途番号が振られている。( )番号がそれである。先にご紹介した(仮題)「松井父子の書状」は(九)三齋様御逝去である。
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