津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■喉・鼻かぜ+大くしゃみ=胸・背中痛

2021-11-30 17:21:20 | 徒然

 朝散歩に出て帰宅したら奥方も買い物で不在、それはいいが鍵を持たず家には入れない。
奥方に電話するが通じず30分ほどして向こうから返事があり、鍵のありかを聞いてようやく家に入る。
少々汗をかいたのに外に立っていたから、すっかり風邪をひいてしまった。喉もやられ、のど飴のお世話にもなっている。
尾籠な話で申し訳ないが、鼻水が留まるところを知らず瞬く間にティッシュの山が出来る。
そしてクシャミの速射砲である。私のクシャミは大変激しくて奥方があきれるほどの「ご近所にご迷惑」級のものである。
勢いその反動で、胸や背中が痛くて散々の体たらくである。
厚手のカーディガンを着込んでまずはクシャミが出ないようにと本当に必至である。
そんな中、相変わらずティッシュの山は嵩を増しつつある。

明日は寝込まなければ、鍵屋さんで予備の鍵をつくり、ティッシュを大量購入しなければならない。

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■下馬橋あたり

2021-11-30 06:48:13 | 熊本

 一昨々日(土)、熊本城ホールに講演を聞きに行った帰り、壷井川ぞいの熊本城長塀前をそぞろ歩いた。
長塀が馬具櫓に突つこんでいる様子がよくわかるが、少し角度をつけ開いている。これはかってここにあった下馬橋を正面に受ける形で開くと共に、ここに升形を形成するためだと思われる。現在では大きなイチョウの木が植えられていて確認しずらい。

左下の淡彩画は甲斐青萍が昭和20年ころ、記憶をたよって書いたものだが、書物櫓の向こうに続く長塀や、遠くにはかっての有吉屋敷があった、当時の衛戍病院が描かれている。現在は、かっての国の出先機関の建物群がすべて撤去されて、往時の形が見て取れる。

下馬橋が何とも貧弱に描かれているが、上の絵図をご覧いただくともっと堂々としたものである。
右下の版画は川瀬巴水が大正11年同じ場所を描いたものだが、ここに見える橋は明治天皇行幸にあたり新しく建設された「行幸(みゆき)橋」である。
この地図や、一長一短あるいろいろな資料から当時を想像してみるのも面白い。

       

       

        

             甲斐青萍「熊本町並画集」から下馬橋付近                     川瀬巴水の版画(大正11年)
             昭和20年ころの淡彩画 水面が随分高く描かれている。

          
            下馬橋があった位置関係から馬具櫓を正面に見る。足元の石垣は崩壊している。
            左の石碑(熊本城とある)は熊本大地震で台座から45度回転して奇跡的に倒壊せずに残った。
            この場所はかって書物櫓があった場所だが、石垣の左端あたりから現在の行幸橋がかけられている。

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(一)

2021-11-30 06:43:31 | 書籍・読書

      選 評(一)

 衆妙集其他遺詠作を全讀して、五十音を左に選評する。幽齋を代表する佳作は多
く餘さずと信ずるのである。出典を擧げるに當つては、衆妙集所載の歌は一々こと
わらずしてその歌の入りをる部立(春とか秋とか雑とか)のみを示すことにした。

白妙の月は秋の夜かくばかり越路の山の雪もありきや

 秋部「月の比越後の國主上杉なにがしにつかはしける」と詞書あり、天正の初の頃
の作と推定する。越後の國主云々は上杉謙信にちがひない。謙信は永禄二年上洛の
時、近衛稙家から歌の教を聽いてをり、さやうの節に、藤孝とも相識つたかも知れ
ぬ。天正五年正月には藤孝から彼に和歌口傳一巻を贈りなどしてゐる。同六年三月
謙信は急逝した、歌意、藤孝京都に在つて明日を眺めながら北越を想ひやつた趣で、
皎々として白い昨今の夜の月光、越路の連峯には既に初雪が來て、その雪の白き耀き
は、恰も秋月の光の如くあつた乎、と情を寄せ、問ひ尋ねたのである。月の光を白妙
の雪のふれるかと譬へた歌、雪の光を月の影の白きによそへた歌、共に古來夥しくあ
る。その中でも藤孝の一首は、越山の新雪を聯想したところに新鮮さが認められる。
〇日下寛編纂の豐公歌集には右の歌をば、天正十六年八月十五夜、聚楽第觀月歌會に
て上杉景勝の作つたものと記載してあり、筆者の戰國時代和歌集(昭和十八年刊)には、それ
に從つて景勝の詠と擧げておいたのであつたが、其後、再考の結果、やはり衆妙集の
方を信ずるが宜しと、訂正せねばならなくなつた。 

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■御恵贈御礼「家系研究・第72号」

2021-11-29 08:26:22 | 先祖附

                  

 家系研究協議会の会誌「家系研究・第72号」をお贈りいただいた。
会員諸氏のご研究の成果をご紹介し、ご厚意に深く感謝申し上げる。

    ・大谷吉継の祖系に関する一考察
      ー平姓の土屋・垣屋一族の分布と系譜ー     宝賀寿男

    ・古書に見える珍姓・難読姓(4)         安原繁俊

    ・先祖調べは大人の総合学習
      ~ネットで先祖調べ、グーグルブックスの利用~ 野口裕子

    ・東京国立博物館蔵「武田族譜」の考察       真野信治

    ・「公」の字を通字として
       馬允の官位を持つ橘氏            岡田有史

    ・嵯峨源氏の伝承について(三)
      ~筑後柳川藩士三池氏の系図~         山邊尚幸

    ・薩摩刀匠 浪平正国一先年秘話
       刀鍛冶の里(十二の一)           浪平博司

    ・表紙家紋について/あとがき           馬原浩一   

  

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■部分御舊記・軍事部九(1)有馬一件二付武功御吟味并働之面々覚書

2021-11-29 06:32:52 | 史料

    有馬一件二付武功御吟味并働之面々覚書

寛永十八年從 妙解公真源公江ノ御書之内 全文御書附并御書部之内御父子様御書通之条下ニ出
一、其方両人知行之事能々被念尤候わけハ城へ乗込候てやりにてつきあい候ものハ多御入候 のりこまさる先ニうちへはい
  りやりを仕候事ハふしんなる事に而候 さやうの者ハ我々ものニハあるましく候 何ともふしんニ候 へいノくつれ口ゟ
  つきあい候ものハ我々ものニハ無候 とかくたしかなる事にてハあるましく候間せんさく被仕候ハ何とか成可申哉能々
  たちキかれ可然候 其身ノよきハ其分まきれなく候間知行之事ハ其方心さしにてやりたきと被申越候ハゝ可申談候 其方
  被申候ことくハ何ともふしんある事ニ而候間其事にて我知行道と申候ハゝ又さやうニてハ無之なとゝ申物も候ヘハお
  やこノおちとにて候間せんさくなしによく/\可聞候 奉公もよく候間知行遣度と候てやられ候はゝ可然候間重而分別
  候て可被申越候事 必々両人へいの内へはやり候てやり候ハゝそうのり之時たるへく候間必々みかたハあるましく候 さ
  た候ハゝもしあしくなり可申候 入ぬ事ニておしキものともニ候以上


   二月廿七日有馬城乗之刻放火仕者之覚
一、三丸・二丸ニ火をかけさせ申者 中根市左衛門
一、二丸にて火をかけさせ申者   藪 図書
            歩ノ御小姓入江三丞与
一、二丸にて火をかけ申者     都甲太兵衛
        右之太兵衛ニ被成御付御鉄炮之者
               長谷川仁左衛門与    山田五兵衛
           寺尾左助与
                平江十兵衛
           高橋九左衛門与
                岩尾牧右衛門
           都甲太兵衛おい
                 斎藤少蔵
一、本丸東之角ゟ一番ニ火をかけ申者
           益田弥一右衛門おい
                 岡本伝十郎
一、同二番・三番ニ御鉄炮火矢ニ而焼立申者
        都甲太兵衛ニ火成御付御鉄炮之者
                 山内五兵衛     (山田か?)
                 平江十兵衛
                 岩尾牧右衛門
           都甲太兵衛おい
                 斎藤少蔵
   右四人廿八日ニも本丸大家へ火矢打付焼立申由
同廿八日
一、本丸ニ而四郎家ニ矢火矢仕焼立申候
                御しのび
                 吉田十右衛門
同日
一、同南ノ方之家ニ矢火矢仕焼立申候
           寺尾左助与
                 木村勘左衛門
           
                 高橋加右衛門
           
                 米村清兵衛
           
                 村山十左衛門
    以上
    寅
    三月廿五日        筑紫大膳亮判
                 寺尾左助 同
                 寺本八左衛門同
                 須佐美権丞同
       長岡佐渡守殿


    林孫介働之様子

一、二ノ丸にて敵きしニ伏居候て鑓つきかゝり申候ヲ鑓を合つきたおし則首を取申候ハ山田八兵衛見被申候 一色いたんと
  申牢人ニも言葉をかわし申候事
一、本丸大手口へ祖父江弥五左衛門手之牢人野村才兵衛と両人ニ言葉をかわし乗上り道にて小塚太郎兵衛と申牢人手負居
  申候 是にも言葉をかわし申候て石垣ニ付敵数人居申候を則すゝみ候もの壱人つきふせ申候 石垣之上ゟ敵鑓をつき出申
  候所又鑓を合申候 右之段松井外記ニ言葉を替シ申候へとも外記ハ其場にて打死被申候 外記内之もの言葉かわし申候段
  覚申候由申候 右石垣上より之敵鑓あいの内ニ鉄炮ニ而手負居申所ニ山田三郎右衛門と申牢人是非引取候へと被申候故
  其場にての首を山田三郎右衛門・祖父江弥五右衛門ニ見せのき申候 右之鑓あい之しかた野村才兵衛かゝり申候とて具
  ニ見被申候事以上
   二月廿九日      林 孫介判
       松井仁平次殿


 

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 遺著(四)

2021-11-28 17:46:05 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 遺著(四)

 又「詞のふとみ細みといふ事」の條に「歌を詠ずる事、たとへを以ていはゝ詞は糸
なり。紋をなすは心なり。歌は綾羅錦繍なり。作者、織手のごとし。細く美しき糸の
細き中へ、ふとあら/\しき糸の一ふしもまじりたらむには、綾羅おり出だしても、
何の詮か侍るべき。又詳撰の絲なりとも、織手のあしきはいかが。雅歌をよまんは、
詞の穿鑿肝要たるべし。かへす/\是を思へと、幽齋、行住坐臥の金言なり。」

 なほ彼が、智仁親王に奉りし歌口傳心持と題せる消息あり。彼の思想を一層明かに
するものなれば、その主要を抜抄せむ。「萬葉集を始め、いづれも可引見候事
勿論候。まづ常に可御心は、拾遺愚草などは、聞き得がたき所多く御座候
間、其御分別有るべく候哉。家隆の歌をば常には被御心然候。逍遥院など、
其の分御座候つると承り及び候。近き世の歌は、後柏原院御製、逍遥院殿御歌など被
御覧候て、上古中古當世の風情を能く御覧じ分られ、御作意をのべられ候はば殊
勝の御詠可出来候。」

 要するに幽齋は、もとより殊に推奨すべき學説を有する學者にあらず。ただ當時に
於いては、教養完たき一有識家として、まさに絶えなむとせし二條流歌學の傳統を傳
へたる唯一の學者なりしなり。

 以上は日本歌學史に據る。定家の詠歌大概や小倉百人一首を「行住坐臥」見習ふべ
しと云つたのは、宜しとする。「萬葉集を始め」云々も當然の意見とする。乍併、道
隆院(三條西實隆のこと)の作を推擧したり、更に、爲家の續後撰集を正風體とし花
實相應と稱するに至つては、見當が外づれ過ぎてゐる。其處が幽齋二條流の幣であ
る。又當年のいづれの人々の和歌も高度に上り得ざりし所以である。

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■柘榴

2021-11-28 14:16:37 | 俳句

           

散歩の途中三・四個はじけた実をつけた柘榴をみつけた。柘榴を見ると俳句歳時記にある、西東三鬼の句を思い出す。

              露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

なにやら鬱憤が見て取れるが、どういうシュチエーショなのかよく理解できない。
ググってみると「増殖する俳句歳時記」では次のような説明文がつけてあった。

作者の状況説明。「ワシコフ氏は私の隣人。氏の庭園は私の二階の窓から丸見えである。商売は不明。年齢は五十六、七歳。赤ら顔の肥満した白系露人で、日本の細君が肺病で死んでからは独り暮らしをしている」。「叫びて打ち落す」のだから、食べるためではないだろう。いまで言うストレス発散の一法か。そんなワシコフ氏の奇矯な振る舞いを、二階の窓から無表情で見下ろしている三鬼氏。両者の表情を思い合わせると、なんとなく可笑しい。と同時に、人間の根元的な寂しさがじわりと滲み出てくるような……。

悲しみを放出させるための行為だ。露人ワシコフ氏の深い悲しみとそれを理解した作者の感情がよく表現されている。

 

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■善蔵さんをさがす

2021-11-28 11:10:10 | 歴史

 善蔵さんとは「■ 御大工棟梁善蔵聞書控から‐下津さん」で書いた熊本城の普請に係わった棟梁である。
この原本は失われたらしく、私が所持するコピーは近代に書き写されたものであろうと思われる。
有る方から「よければコピーを分けていただけませんか}とのお話が合った。

そのコピーが現況行方不明で、一昨日からそれを見つけ出すべく捜索活動を開始した。何かにファイルしたのか、袋に入れて保管したのか微塵ほども思い出せない。
あんまり出てこないと、ひょっとしたら私が所持しているというのは夢だったのではないかとも思いだしたりする。
欲しいと仰る方には分けて差し上げようと思っているのだが、見つからないでは何ともならない。
今日は、本格的に暮れの大掃除である。

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■部分御舊記・軍事部八(18)本丸・出丸ニ乗候衆差出六ッ

2021-11-28 09:54:11 | 史料

       本丸・出丸ニ乗候衆差出六ッ

        差出
一、二月廿七日城乗之刻本丸下之丸へ東之方ゟ七ッノ頭ニ乗こミ取かため居申候 他所之昇日ノ入自分に入申候 日暮候而頼
  母
殿より御使にて其外より引取候へと被仰下候得とも御使江直ニ相不申候ゆへ私前ゟ夜ニ入使を進シ丸之内ニ乗込申
  候通
申達シ候ヘハ引取候得と返事候 又使を進し爰元より本丸之乗口能御座候間其まゝ可被召置候 夜明次第ニ付而夜四
  ッ過ニ
頼母殿御座候所へ参候 廿八日ハ本丸ニ頼母殿御備ニ居申候  我等せかれ六大夫・小八郎・弟藤左ヱ門儀も同然
  ニ候以上

   寛永十五年七月四日      新美八左衛門判
        志水新丞殿
        清田石見殿


        差出
一、二月廿七日城乗之刻私共ハ七ッ頭ニ本丸大手之出丸を乗取申候 其砌ハ他所之者不参候 夫より方々之者著申候 他所之
  昇日之入自分ニ見へ申候 然処ニ及暮ニ頼母殿より両度之御使參候而早々引取可申由ニ候間引取申候以上
   寛永十五年七月四日      庄林隼人佐判
        志水新丞殿
        清田石見殿


        差出
一、有馬城乗之刻私共ハ七ッ頭ニ本丸出丸を乗取申候 其砌ハ他所之者も不参夫より次第/\ニ方々ノ者共著申候 昇ハ日ノ
  入時分ニ私共居申所より跡まて著候而夜ニ入候てから私共居候所へ玄蕃殿昇著申候と見へ申候 然処ニ及暮ニ及て頼母
  殿より庄林隼人・新美八左衛門方へ両度使參早々引取可申由にて右両人引取被申ニ付私も引取申候 明ル廿八日まて相
  組一所に居申候以上
   寛永十五年七月四日      槙島掃部判
        志水新丞殿
        清田石見殿


        差出
一、二月廿七日有馬城乗之刻私儀ハ本丸之出丸石垣下へ八ッ之下刻ニ著申候而御鉄炮せ申候 左候而則七ッ頭ニ石垣を乗申
  候 其刻石垣へ一二間手前にて両もゝをうたれ其上之かいまを石にてうたれ申候 つれともやう/\に石垣を乗上り塀を
  乗越候而御鉄炮を打せ居申候 其砌ハ他所人数ハ見へ不申候 夫より次第ニ方々の者共乗込申候と見へ申候 昇もいつか
  たのも不参候 日暮ニ成候而有馬玄蕃殿昇私とも居申所より跡に見へ申候 左候而夜ニ入り私とも居申所の右之方へのほ
  り参候 然処庄林隼人・新美八左衛門方へ頼母殿より早々引取候へとの御使度々参候由にて右之両人引取被申候 夜更候
  てから私ハ手所こハり申ニ付国友式右衛門・佐藤安右衛門抔ニ申談候て本小屋へ引取申候 与之御鉄炮之者共せかれ五
  郎三郎ニ付置御鉄炮打せ申候 其後式右衛門・安右衛門なと同前ニ出丸を引取式右衛門同心仕本丸柵きわへ上り候て翌
  廿八日まて御鉄炮打せ申候以上
   七月四日           高田角左衛門判
        志水新丞殿
        清田石見殿 


        差出
一、有馬城乗之刻私とも二月廿七日七ッ之頭ニ本丸出丸を乗取申し宇候て鉄炮うたせ居申候 其砌ハ他所之ものも不参候
  夫より次第/\に方々のもの共著申候 塀ハ日ノ入方ニ私居申候左之方へしほり昇三本立可申と仕候間細川七左衛門
  私申候ハ細川越中守之内ニ而候間他所ニ御立候ヘハ色々せんさく仕候而後御人数ゟ右之方へ通申候 私引候迄ハ御人数
  之中ヘハ他所之昇立不申候 然処ニ暮ニ及庄林隼人・新美八左衛門方へ頼母さまより御使両度参候而早々引取可申由に
  て右両人の集引取申候 谷忠兵衛・高田角左衛門両人ハ手負申候ニ付引取申候 差候ヘハ国友式右衛門・佐藤安右衛門引
  取申候と見へ申候間我等も引取申候 前後之儀ハ前之差出ニ書上申候已上
   寛永十五年七月四日      松崎助右衛門判
        志水新丞殿
        清田石見殿


        差出
一、二月廿七日有馬城乗之刻二ノ丸海手之方ノ須戸口を乗上申候処ニ二丸より本丸へのき申敵余多御座候 其敵二付溜池の
  頭まで追付ニ御鉄炮衆ニうたせ則ため池上東平ノ石垣より本丸之内大手之小丸江乗込申候 夫より丸之内ニ而御鉄炮衆
  ニ打せ申候 私共小丸へ乗込申時分ハ七ッノ頭にて御座候 其時ハ他所之人数昇なとハ中/\乗込不申候 後ニハ次第/
  \他所之人数も参候と見へ申候 昇ハ日之入時分ニ其丸之西之方へ参り申候と見へ申候 然処ニ私儀丸へ乗申砌石垣下ニ
  而手負申候へとも当分いたみ不申候ニ付乗込申候小丸へ乗申候段又手負申由も夜ニ入佐渡殿へ申入候ヘハ手負申候ハ
  ゝのき申候様ニと被仰下候 其上手もいたみ申ニ付夜更ニ而のき申候
     以上
   寛永十五年七月四日      谷 忠兵衛判
        清田石見殿
        志水新丞殿




                      

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■水前寺成趣園350年記念講演・シンポジウム

2021-11-27 17:23:58 | 講演会

                                                                    

    午後1時から、熊本城ホール(サクラマチ クマモト)で「水前寺成趣園350年記念講演・シンポジウム」が行われるの出かけた。
バスで出かけると終点がサクラマチ クマモトのバスターミナルでで、呆気ないほど運動量の少ないお出かけである。
コロナ禍から解放された?皆さんが満席とはいかないまでも盛会である。
基調講演はおなじみ奈良大学の千田嘉博教授、演題は「水前寺成趣園・熊本城と細川綱利」これはYouTubeでライブ放映されたようだ。
さすが千田教授、ライブ放映を大いに意識されながら、立て板に水の如くユーモアたっぷりでの講演は、多くの聴衆を魅了した。
そして城郭研究家ならではの視点での、作庭に応用された石垣築造技術に関する説明などは大いにうけてご満悦のご様子である。
シンポジウムも基調講演同様、引き続きライブ放映されたようだが、終了後はストップしたらしい。
出来れば引き続き放映をお願いしたいものだ。(要チェック)

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■熊本藩豊後鶴崎のはなし

2021-11-27 09:37:49 | 書籍・読書

私は過ぐる年大分に所要で出かけた折、わずかな時間を割いて図書館に出かけ鶴崎に関する資料を探し、そして鶴崎の地に数時間過ごしたことがある。
見たいところは沢山あるのだが、たかだか数時間ではお話にならない。
今般、鶴崎に係わる書籍を調べているうちに2020年5月に発刊されたこの書籍がある事を知った。
「輪中」・・・そうか鶴崎は二つの川に挟まれた島だと改めて認識させられた。
素晴らしい「鶴崎」の案内書であろうと確信して購入の手配をしている。到着が待ち遠しい。
そして精読をして、また彼地を訪ねたいと熟望している。


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 弦書房の出版案内から
熊本藩の飛び地・豊後鶴崎は、参勤交代の港町として栄えたことで知られている。大野川の河口に位置し、堤防で囲まれた川の中の小島=輪中で生きる人々の特異な生活形態を克明に踏査した労作。5~10年に一度の割合で洪水被害にあうにもかかわらず、なぜこの輪中の中で暮らし続けるのか。また、京都大坂と長崎を結ぶキリスト教布教の拠点でもあり、多くの刀鍛冶が住み数々の名刀を生み出した独特な地域が当時の面影を宿しながら今も生きている。ほとんど知られていない輪中の世界に光をあてた画期的な一冊。

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 遺著(三)

2021-11-27 07:05:22 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 遺著(三)

 左に彼が古今集以來の歌風について論ぜし一節を擧げむ。

 「古今は花實相對の集なり。後撰は實過分すとかや。拾遺は花實相兼ねたり。是ま
では歌の餘風ありと雖も、次第に陵夷するなり。後拾遺は、八雲御抄に、經信公、俳
諧の歌を入るゝにて、他事のわろさも知らると侍り。是より此の道たじろぐやうにて、
金葉詞花にて、はたと其の風損じけるを、西行が詠み直せるよし世穪之。然るにな
ほ俊成卿千載集を撰し給ひしより、金葉詞花の風をすて、歌道中興せり。新古今は正
しく定家卿撰者の一人たりと雖も、五人の撰者まちまちにて、定家撰の本意あらはれ
ず。然る間、勅をうけて新勅撰を撰まる。新古今は花が過ぎたりとて、新勅撰には實
を以て根本とせり。其の後、爲家卿、また續後撰を撰び進ぜらる。此の風、正風體、
花實相應、初心の學尤も肝要たるよし、先達穪之。此の後また歌の道陵夷するを、
後普光園攝政、頓阿が力なり。よく一集々々の建立を心にもちて見習ふべし。・・・・・
行往坐臥口にあるべきは詠歌大概、百人一首なり」

といへり。其の他、題詠、本歌取様、風體、歌病等、凡て中世歌學の祖述なり。ただ
彼の説中注意すべきは、「歌の程拍子の事」として説けるものなり。其の説に曰く、
「歌の程拍子といふ事は、歌は音律にかけて披講するものなり。然らばなどか程拍子
なからむ。世の常人の言語も、理りはありと雖も、程拍子わろければ理り聞えず。假
初の文章なども斯くのごとし。まづ歌に三十一字を用ゐる事も、程拍子によりての事
なるが、旋頭歌、混本歌などいふことも、本は三十一字に一句餘し、或は一句不足の
ある歌なり。これを今の世に、はやりもてあそばぬ事も、三十一字の歌には程拍子劣
る故なり。字餘りの歌も、程拍子をよく受けむが爲なり。古今、大江千里歌に、月見
れば千々に物こそ云々、此の歌の下句、秋ならねどもとあるべきを、秋にはあらねど
と、一字餘せるところに歌の程拍子あるべき歟、一字千金とはかやうの事なるべし」

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■熊本大学図書館、オンライン貴重資料展 及び 公開講演会

2021-11-26 20:09:28 | 講演会

 熊本大学付属図書館では例年「貴重資料展」を開催されてきた。
熊本大学永青文庫研究センターのサイトで告知されてきたものが今年はそれがなく、少々首をかしげてきた。
今日に至り、付属図書館のサイトで紹介がなされているのではないかと思い至り、開いてみると案の定であった。
今年は下記の如く、you tube を使っての公開講演を拝聴することが出来る。
皆様に置かれてもどうぞお楽しみいただきたい。


令和3年度「廃藩置県と熊本藩」(第36回熊本大学附属図書館貴重資料展) 

   公開講演会/第15回永青文庫セミナー(you tubeでお楽しみください)
      ■ 熊本城廃棄申請書の成立事情と「御城拝見」 三澤 純  大学院人文社会科学研究部 准教授
      ■ 廃藩置県後の旧藩主細川家と旧藩士     今村 直樹 永青文庫研究センター 准教授
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■御恵贈御礼「こんけんどうエッセイ集 第一集 祝電」

2021-11-26 13:33:09 | 書籍・読書

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 今般、「こんけんどうエッセイ集 第一集 祝電」を発刊された近藤健氏とは、随分長いお付き合いとなった。
そして氏より今般このエッセイ集をご恵贈いただいて、大変感激している。厚く感謝申し上げる。
氏とはその御著「肥後藩參百石 米良家‐堀部弥兵衛の介錯人 米良市右衛門とその族譜」の出版に際し若干のお手伝いをして以来のお付き合いである。
エッセイストとしてのご活躍はそれ以前からのもので、当サイトでもリンクしてご紹介してきた。
その文章は軽妙洒脱で時折健康的な下ネタも相まって、思わずクスリと笑わせてくれる。
今般の発刊は第一集とあるが、書き留められたエッセイの量からすると十一・二巻分になるという。
よくぞまあ、こんなに豊かな文章を書き続けらえてきたものと感心してしまう。
まだ現役のサラリーマン・エッセイストだが、指導者として軸足を移して行かれるようだ。

肥後藩參百石 米良家の共著者の佐藤誠氏と共に来熊された折、楽しい時間を過ごしたが、そのお人柄はますます円熟味を増しておられる。今後のご活躍を大いに期待したい。

  

 

 

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■部分御舊記・軍事部八(17)佐渡守書物

2021-11-26 06:55:14 | 先祖附

      (17)佐渡守書物        (松井佐渡守興長)

  先度監物を以被 仰聞候ハ有馬城乗之時いつれも御物頭之衆廿七日ニ本丸へあかり不申段御不審ニ被思召之由一段尤
  ニ奉存候 就夫私先手之様躰書付上申 拙者一手之衆右之 御意之通承候ハゝ私一手之様子不申上所迷惑ニ存衆御座候時
  ハいかゝと存ニ付御内証申上候覚
一、二月廿七日三之丸・二丸乗込本丸下海手之きしの上ニ私・式部少武者を立居申候 其刻別之御先手頭ハ見不申候 はるか
  後に見候事
一、私一手之御物頭衆いつれも私より先に本丸に著申候 尾藤金左衛門討死平野弥次右衛門・志水新丞・西郡要人手負申ゆ
  ゑ本丸へ乗込不申以前ニ引取申候 谷主膳儀ハ石にてうたれはす池の上に居申候 廿八日ニハ本丸にて手負申引取申候事

一、谷忠兵衛・高田角左衛門ハ出丸にて手負申引取申候事
一、廿七日之夜本丸ニ相詰申御鉄炮頭ハ私与之御鉄炮頭并御側筒私自分之鉄炮にて柵うらをかため鉄炮打せ申候 此外にハ
  本丸ニ相詰候御鉄炮む御座候 惣別廿七日之夜本丸ニ相詰申候御人数ハ御はた本衆私一手之御人数并私時分之ものにて
  大かた相詰申候かと奉存候事
一、私儀廿七日之夜本丸へ罷上り柵うらを見廻申候ヘハ御鉄炮頭之外ハ頭分之衆居不申其上御人数も手うすく御座候 本丸
  を 殿様御取被成候処に越度出来候而ハ大事之儀と存下へさかり近所ニ居申候衆本丸へ上ヶ申候 此段要人組・主膳組
  主膳もことばをかハしよく存候 私そハへ召置候ものまても上ヶ申候事
一、頼母所へ私申遣候ハ本丸へ上ヶ置申候私与之御鉄炮玉薬うちきり申候間其方之与之御鉄炮御物頭衆もさげられ候へと
  申遣候処ニ頼母返事ニ申来候ハ頼母組之御鉄炮頭手負・死人之外ハ頼母側に置不申す候得ハ不成由申来候間又重て申
  遣候ハ私そハにハ御鉄炮一組も置不申勿論時分之鉄炮も不残本丸へ上ヶ申候間其方のものあけられ候へと申遣候得と
  も上ヶ不申候 其外御物頭も上ヶ不申候事
一、のほり夜之内ニ本丸へ上ヶ申候事
一、本丸二而玉薬うちきり申由申来ニ付而其段便を以 殿様へ申上候ヘハ玉薬被仰付追々私居申所迄被下候間私ものを相
  添本丸へ上ヶ申候事
一、本丸之子ややけしつまり候から本丸之内殊外くらくなり敵方見へ不申候間たいまつ被仰付本丸へ御上ヶ可然由使を以
  殿様へ申上候ヘハ則被仰付たいまつ被遣候事
一、一揆共海手へ落申儀可有御座候間海手之方御手あて被仰付候様ニと使を以 殿様へ申上候ヘハ海手之事ハ気遣仕まし
  き由 御意にて候 扨はま手を見申候ヘハたいまつ数多出申躰見へ申候事
一、廿七日夜ニ入候から本丸下ニ居申候御人数はまてへさげ候へ佐渡・式部少儀もはま手へ引さかり居候へと被仰付ニ付
  少々御人数ハはまへ引さけ申候 私・式部少儀ハはま手へさがり候ヘハ本丸之躰見へ不申其上本丸ほととふく居候てハ
  いかゝニ奉存ニ付今夜ハ其まゝ本丸下ニ相詰可申由使を以申上候ヘハ其元之儀ハ見合ニ仕候へと被仰下ニ付而其まゝ
  居申候てはま手へさげ申候 御人数も夜七ッ自分ニ本丸へ上ヶ申候て私一手之ものハ不残本丸へ上ヶ申候 廿八日未明ニ
  式部少・立允も本丸へ上られ候へと申候て私同道仕本丸へ上り相詰申候事
    右私・式部少儀随分御人数をも本丸へ上ヶ申少も不存油断勿論廿七日夜中本丸之儀私一人にて万事申付候様ニ奉
    存候 尤是ほと之儀は御先を被仰付候上ハ可申付儀と奉存候故少も今までハ右之段不申上候得共今度監物を以本丸
    へ物頭共上り不申候通被聞召御ふしんニ被思召候ニ付私手前之分言上仕候 右之通ハいつれも御家中衆可存候已上
      十月廿八日        長岡佐渡守・判
        皆川治部殿

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