津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■萩花忌

2015-09-30 17:13:05 | 徒然

 萩花忌といっても何方も御存じではない。私が高祖父上田久兵衛が斬首された今日九月三十日を、ひそかにそう呼んでいるだけの事である。
久兵衛が妻を偲んで読んだ句に

              秋風のたよりに聞けば 古里は 萩が花妻いま盛りなり

があり、ここから「萩花忌」と名付けた。
今年で138年経過する。今日の熊本は、久兵衛さんの悔し涙かしょぼしょぼと雨が降っている。
二年後の140年忌にはなにかそれなりの行動をしようと考えてきたが、ある事をきっかけに今後は表立ったことはやめようと思っている。
我家の仏壇に線香をあげて報告をした。なんとか萩の花をお供ええしたいと思ったが、手に入れる事ができなかった。

150年忌あたりであちらでご挨拶なんてことに成るかもしれない。

 

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■白金邸

2015-09-29 18:21:46 | 古写真

                                         

  細川藩中屋敷白金邸とされる写真である。二階建ての長屋が続き、左手に玄関を思わせる建物が付きだしている。
これが白金邸のどの位置にあたるのかいろいろ調べているが、良くわからないでいる。
何方かご存知であれば何卒ご教示給わりたい。
  

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■金御紋御先箱御免之一件

2015-09-29 08:45:21 | 史料

                        おもての行列 なんじゃいな 紀州の殿さま お国入り
                          金紋先箱 供ぞろい お駕籠のそばには ひげやっこ
                             毛槍ををふりふり やっこらさの やっこらさ

 これは大正から昭和初期にかけて歌われた童謡「毬と殿さま」(作詞 西条八十 ・作曲 中山晋平)の二番の歌詞である。
行列の先頭を進む金紋先箱(挟箱)は大名の家格を表す大事なものであった。 ここでご紹介する金御紋御先箱御免之一件によると、細川家に於ける特別な由来が記されている。つまり幽齋公が後水尾帝の要請を受けて田邊城から出るとき、古今集が入った金紋の箱を先頭にしたことに依るとされている。大名家二百五十家程の内、金紋先箱(挟箱)が許させるのは二十家程だとされる。
そんな中でもまさに由緒正しい細川家の格式である。



                              金御紋御先箱御免之一件 

                      一、安政四年丁己三月九日牧野備前守様(老中・長岡藩主)ゟ被差出候御留守居名前
                        之書付左之通
                        越中守家ニ而所持之先挟箱之儀ハ對鑓為持候節ハ草覆
                        取相用候家格ニ而嘉永六年對鎗御免之砌先格草覆
                        取相用ケ様仕度奉伺候処不苦旨御差圖被成下尤御倹約御
                        年平日ハ先是迄之通草覆を掛ケ為持御大礼并布衣供
                        召連候節ハ不苦旨も御差圖ニ相成申候 當家先挟箱之儀ハ先祖
                        幽齋
                        天子之御師範として禁裏江和歌為御傳授丹後國田邊
                        ゟ上京之節金紋之古今箱行列之先ニ為持上京仕候 右は慶
                        長五年夏 権現様會津御發向為御先手嫡子忠興ハ出
                        陳幽齋ハ小野木縫殿介大将ニ而其勢一万五千余国中亂入
                        忠興出陳之留守ニ而城中無勢騎士僅ニ不過五拾人手痛く
                        責寄候へ共望固ニ防戦及籠城候処
                        帝後陽成院此事を歎キ幽齋打死セハ本朝之神道之奥儀
                        歌道の秘密永く絶て神国之掟空敷成べし古今之伝授
                        禁裏江残さるべしと九月三日三條実條・中院通勝・烏丸
                        光廣 前田茂勝を被召連両軍和議之 勅使として丹後江
                        下向寄手之将へ 幽齋之文武ニ達シ殊ニ大内ニ絶へける古今
                        之師範たり 神道哥通の国師ト称ス 幽齋命を殨サハ誰カ傳
                        ヘンや速ニ囲を解へき旨被命将江各奉領掌於城内も
                        幽齋 叡慮之趣奉畏其砌前文之通和歌為御傳授上京之
                        節之行列格別之例を以代々對鎗為之節ハ金紋先箱相
                        用来り申候御倹約御年始當年迄ニ付明年ゟ平日共草覆
                        を取可申候へ共對鎗ニ相對シ金紋を・・・・・・・・・・・・・・・
                        禁裏ゟ拝領之■旧来訳彼意を以何卒此節ゟ平日共草覆
                        を取相用不苦候様被成下度此段重畳之御内意申上候様申付候
                        別紙家譜之内書抜相添置申候以上
                              三月九日       御名
                                             家来 吉田平左衛門

                           細川家家譜之内
                        當家年頭七五三之規式先祖幽齋古今傳授之時拝領之
                        規式也 祐筆所を御所(方)ト云も右御傳之訳故なり行列之三ツ箱
                        も同様之事ニ而 禁裏ゟ拝領之御色紙箱を以今ニ右之
                        通是等皆幽齋以来之家格也
                           家中片岡恒知ト申者元禄四年衣紋方為稽古上京
                           山科尭心ニ入門之節覚書之内四月六日之条ニ細川家行列
                           為持ニ相成哥箱ハ如何成訳ニ為持ニ相成候哉定而幽齋時代
                           より之事ニ而御座候哉と山科殿へ御尋申上候処御■
                           幽齋田邊ゟ和歌為傳授状況之節金紋之古今箱行列之
                           先ニ為持上京有之其例ニ而今ニ金紋先箱為持と相成
                      一、同年九月九日備前守様ゟ御留守居呼出御渡之御書付左
                        之通
                        此節ゟ草覆を取相用不苦候事          諸書抜茟

 

 尚草覆という文字があるが、四ヶ所ほどこの文字がありこのようにしか読めないのだが、ひょっとしたら革覆なのかもしれない。
 ともかくこの先箱を何かで覆っていたものを、特に細川家ではこの覆いを外して良いと云っているのである。
 委しい方が居られたらご教示給わりたい。又数文字が判読不明であり、なんとか頑張って完読したいと思っている。

               「浮世絵 日本橋」の画像検索結果  

                        この図を見ると挟み箱は覆いが被せられていることが判る。
                                    

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■肥後藩の教育 藩校「時習館学」入門―寺子屋・私塾・藩校の実情

2015-09-28 11:56:01 | 書籍・読書

         9月26日知道会主催の講演会「藩校時習館の現代的意義」に出席した。
         「時習館建学の秋山玉山・藪孤山・高本紫溟の三代教授」「肥後実学派三代の系譜、大野退野・平野深淵・横井小楠」を拝聴する。
         藩校時習館については、下のご紹介する堤克彦氏の佳書がある。ご一読をお勧めする。
          

   肥後藩の教育 藩校「時習館学」入門―寺子屋・私塾・藩校の実情
 
                   トライ

目次

第1部 肥後藩の教育機関―寺子屋・私塾・藩校(江戸期の教育機関―寺子屋・私塾・藩校(用語解説)
初等教育機関―「寺子屋」(読み・書き・そろばん)
中等教育機関―「私塾」
肥後藩内の「私塾」
「私塾」小楠堂の教育
高等教育機関―「藩校」
肥後・人吉藩内の「藩校」)
第2部 肥後藩校「時習館」教育の全貌(藩校「時習館」開校と目的;「時習館」の教育機構と教育内容;「時習館」の教授・助教・訓導の陣容;「時習館」教育への批判・提案;「時習館改革」の試みと頓挫;「時習館」の蔵書内容―越前藩「明道館」との比較;今後の藩校「時習館学」の発展のために)
第3部 「時習館」の教官名録・肥後人物志(完)

著者紹介

堤克彦[ツツミカツヒコ] 
文学博士。元熊本大学非常勤講師。菊池女子高校講師。熊本郷土史譚研究所主宰。各種講座講師(横井小楠関係、熊本・菊池の郷土史、論語・古文書など)。1944年福岡県八女市立花町生まれ。1967年同志社大学文学部文化学科卒(日本文化史・日本民俗学専攻)。1967年熊本県立高等学校教諭(38年間)社会科。2006年熊本大学大学院社会文化科学研究科・博士課程修了文学博士号取得。主な研究テーマは横井小楠・長岡監物、肥後実学・時習館学・教育史、論語・李退渓・魏源(海国図志)、近世・近代思想史、近世古文書、地域史(全時代)、日韓交流史、日本民俗学など

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■常用字解

2015-09-27 16:39:08 | 書籍・読書

       先の史談会で書家・柏原伸一先生の講話をいただいた際、白川静先生の事蹟に度々触れられた。
       その折白川先生の御著である「常用字解」を座右にされるとよいでしょうとお教えいただいた。
       文字の成りたちに関する白川先生の著作は沢山あるが、どれも大変面白く興味が尽きない。

   常用字解
 
   平凡社

出版社からのコメント

白川先生が常用漢字を“やさしく”解説
93歳(2006年死去)の漢字博士が多くの読者に向けて書き下ろした、すぐに引けて、基本から学べて、よくわかるいつでも使える漢字の字典。

内容(「BOOK」データベースより)

『字統』『字通』の著者が常用漢字に絞って、そのもとの形から漢字の成り立ちを立証し、字形と意味との関係もやさしく正確に解説。よく使用される用例もあげて書き下ろした漢字の入門字典。見出し文字総数は1946字とその旧字形798字の2744文字を収録。配列は字音の五十音順で同じ音の字は総画数順、巻末に音訓索引が付く。

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■苦労の女文字

2015-09-27 07:40:49 | 徒然

 現在M家文書に珍しい女性の文書四点を見つけて読んでみようと取り掛かったが、女性特有の筆使いに早々にギブアップ気味である。
一点は忠興の養女・源立院(おさん)が加来宇左衛門に宛てた書状である。
残りの三点はその「おさん」に宛てた、深尾長兵衛の妻の書状である。
添付の史料はその文書の宛名部分のみをご紹介している。

                 おさん様ニ而         ふかを長兵衛
                   おかの殿御ひろう           内 

三通共に相当の長文であり、後者には「からしや」などという書き込みも見え、忠興公に関する記録文書ではないかと考えられる。
三部に亘っているのかもしれない。おさん(源立院)が加来宇左衛門に宛てた書状も、かなりの長文である。

おさんは加来佐左衛門の娘であるが、伯母である忠興の側室・立法院(佐左衛門姉いせ)の手により養育され、三齋の養女となった。
のちに宇土細川家二代有孝室となる。宛名の宇左衛門は一族の人物であろうが特定ができないでいる。

深尾長兵衛は、三齋晩年の艶聞の跡始末を仰せつかっている。 詳細は系図に登場しない姫様達に書いたのでご覧いただきたいと思うが、三齋が娘を託したような人物であるから、よほどの信頼を寄せられていた人物であろう。
その長兵衛の妻が、三齋の養女であり有孝室であるおさん(源立院)に対し、三齋の若いころからの事について書き残した文書ではないかと考えられる。

とにかく女文字なので読むのに一苦労する。このような貴重な資料なのでどこかで解読が為されているのではないかとも思われる。
先ずは宇土市の教育委員会あたりに御聞きするのが一番かもしれない。しかし大変興味深い史料であることは間違いない。 

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■妙解寺古図

2015-09-26 18:50:27 | 史料
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■妙解寺 藩主廟前参道の石灯籠 1

2015-09-26 11:07:45 | 歴史

 妙解寺の正門を入り左に折れ、藩主廟の下の参道に多くの石灯籠が並んでいる。
これは細川忠利公の没後、妙解寺が完成した折(寛永19年11月17日)にそれぞれ供養のために奉納されたものである。
それより先に七・八十段の石段があり、忠利公夫妻と光尚公の御廟正門に至る。
石段の踊り場と御廟前のも多くの石灯籠があるが、これは次回とする。 

             1、道家左近左衛門立成
             2、松野織部佑(助)親英
             3、平野茂三右衛門尉長秀
             4、松野右京亮正續
             5、有吉舎人佑勝道
             6、有吉武兵衛尉政行
             7、松山権兵衛尉元重
             8、加々山主馬首可政
             9、藪圖書助正勝
            10、筑紫左近佐重門
            11、槇嶋半之允宣鉄
            12、西郡要人清勝
            13、丹羽亀丞是良
            14、谷内蔵允衛長
            15、坂崎清左衛門成政
            16、堀勝九郎直衛
            17、尾藤長四郎知成
            18、氏家志摩守元高
            19、清田石見守乗栄
            20、澤村宇右衛門尉友好
            21、澤村大学助吉重
            22、朽木内匠頭昭正
            23、 
            24、沼田十五郎延武
            25、南条左衛門尉元信
            26、西山勘十郎義重・西山山三郎至幸・相場弥左衛門尉頼重
            27、沙弥道悦
            28、川方安右衛門尉由久・後藤市十郎元陳
            29、伊丹次左衛門尉景重
            30、奥田権左衛門尉正慶
            31、新美八左衛門吉隆
            32、小代下総守・三池佐兵衛尉・三池善大輔
            33、長尾伊織佐三元
            34、松下市之進一意                                以上

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■三苦+1

2015-09-25 09:50:56 | 徒然

 瞼下垂+歯通+左膝痛に加えて、右の腰がギックリ腰状態となった。いすから立ち上がる時なぞ大事に至らないようにと、いすの肘掛を両手でしっかり握りこんで、腕の力で体を持ち上げている。なんともはやお粗末な次第ではある。

歯医者はすぐ近くに二軒もある。整形外科も1.5キロばかりのところにあるが、治療をしても完治は望めないから行かない。
瞼下垂は眼医者では治療しないように聞いたが、是は何とかしたいと思っている。
ギックリ腰状態は、自転車に乗るとき左ひざをかばって右足でペダルを漕いでいるらしく、これが右の腰に来たと自己診断しているのだが、これは二三日安静にするより手立てがない。

健康保険証を眺めながら、さあ歯医者に行こうかと考えるのだが、おお口を開く苦痛を考えるといささか躊躇してまた直しこんでしまう。
つくづく歳を重ねるということを実感している。 

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■松寿庵先生・第160講

2015-09-24 17:07:54 | 史料
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■新 肥後学講座「明治の熊本」

2015-09-23 20:55:03 | 書籍・読書

                             新肥後学講座 明治の熊本


内容

明治維新後、西南戦争を経て近代化が進んでいく熊本の姿―。
「肥後の維新は、明治三年に来ました」。徳冨建次(蘆花)の『竹崎順子』に出てくる一節です。御一新になった熊本は、藩政時代からどう変わったのか。

熊本ルネッサンス県民運動本部主催の「新肥後学講座」(平成24年6月~25年12月まで開催)全16回の講演要旨を単行本にまとめました。「肥後学講座」(近世)全3巻の続編です。 

著者紹介

【著者】猪飼隆明、勇知之、石井容子、井上智重、小野友道、富田紘一、三澤純、水野公寿、山中進(敬称略、五十音順)
 

編著:熊本ルネッサンス県民運動本部
体裁:四六判、並製本、462ページ、
出版年月日:2015年4月10日 
定価:本体価格2,000円+税
ISBN:978-4-87755-514-6 C0020
発行:熊本日日新聞社
制作・発売:熊日出版

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■人吉・球磨 相良700年の魅力に迫る

2015-09-23 18:53:25 | 講演会
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■NHK 先人たちの底力 知恵泉「組織での生き残り方 外様大名・細川親子の情報活用術」

2015-09-22 18:16:07 | 歴史

先人たちの底力 知恵泉「組織での生き残り方 外様大名・細川親子の情報活用術」
         2015年9月22日(火)  22時00分~22時45分

世間にムダな情報などない!取りつぶしの嵐吹き荒れる江戸初期、裏の人事からスキャンダルまで情報活用したくましく生き残った大名、細川忠興・忠利親子の役立つ生存戦略!

番組内容

あなたは、生き延びることができるか?組織のトップ=幕府ににらまれれば即クビ!という過酷な江戸初期。九州の大名・細川忠興・忠利親子がみごと生き残った秘密は、父子間の3000通もの手紙!幕府の裏人事やライバルの接待情報、将軍家の極秘スキャンダルまであらゆる情報を交換し徹底分析。その情報活用法の重要ポイントとは?企業など組織での生き残りテクニックのプロ・高城幸司さんとともに、細川親子の生存戦略を探る。

出演者

  • ゲスト
  • 宮崎美子,人事コンサルタント…高城幸司,東京大学史料編纂所教授…山本博文,
  • 司会
  • 近田雄一
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■伊丹角助の書状

2015-09-22 09:12:20 | 先祖附

 友人から妙解寺の忠利公のお墓に至る参道部分に、伊丹次左衛門尉景重が寄贈した石灯篭があるのを知っているかとのと知らせを受けた。
月末福岡からお客人があるらしく、いろいろ調べて居られる中でのことである。
伊丹次左衛門とは
              景重(かげしげ)始め黒田次左衛門、ついで伊丹半弥と改。黒田蔵人正重
              (のち伊丹角助)が嫡子。豊前に於て忠興に別禄五百石で召出さる。
              寛永十八年七月遺領をつぎ弐千五百石、黒田を伊丹に改。鉄炮百挺頭、
              のち佐敷番代。致仕後百人扶持を与えられる。83才にて没。年月不詳。

父・黒田蔵人正重(伊丹角助)は時枝城主の時枝平大夫の二男である。その室は黒田如水を有岡城の地下牢から助け出した加藤重徳の娘である。
蔵人の召出しに当たっては、黒田如水と争った逸話が残されている。
              黒田蔵人召出しの経緯(大日本近世史料・細川家史料 7-1710  元和五年十月十五日書状 )

熊本にあっての正重は、後室であろうか家老長岡(米田)是政の娘を娶っている。この人は細川忠興によって誅伐 された飯河肥後の室であったがその後正重に再嫁している。是政の子・興季(与七郎・監物)が慶長十二年この事件後豊前を退去した。帰参したのは元和八年の春である。

私は一昨日全く偶然に、伊丹角助が長岡監物にあてた書状をM家所蔵文書の綴りの中から発見した。
宛先は監物殿と在る。角助は寛永十八年に遺領を相続している。その時期の米田家の当主は二代是季であり、宛名の人物と考えられる。文中に助右衛門・甚内の名があるが、助右衛門は三代の是長(与七郎・左馬允・助右衛門・監物)、甚内とは助右衛門の養子・是庸(勝千代)である。是庸は細川忠利の末子・長岡左近元知と是長女の嫡男であり米田家四代となった。
つまり此の書状は是季に妹聟である角助があてたものであることが判る。

内容は「鷹」に関することで、角助は江戸にあって国元の監物にあてたと考えられる。この中に「柄隠(へいいん)」と脇に書かれたM先生の文字と思われるものがあった。柄隠とは何のことだろうと色々考えるがよくわからない。文章の前後を見ると「助右衛門殿ゟ柄隠之鷹之儀・・・・」とある。
これは「柄」ではなく「栖」ではないか、そうすると「栖隠」となりある人物の名前がひらめいた。荒木村重の娘(荒木局)の養子となった村次の子・村常の事だとされる。細川家に仕えたが、その系譜「細田系荒木氏系図」はそのあたりがつまびらかではない。細田氏を称し栖隠と名乗った。
この細田栖隠をしらべると、この文書が書かれた時期がかなり絞られてくる。
栖隠については過去に有馬一揆と細田栖院を書いたが、此処にある通り有馬に駆けつけて初御目見をしている。つまり寛永十五年召し出しということになる。

伊丹角助の書状は栖隠の召し出しの寛永十五年から、蔵人が亡くなった寛永十八年の間、江戸から熊本へ送られた書状である。

まことに謎解きが楽しい文書である。今後ともいろいろ精査してゆきたいと思っている。

友人のお客人は加藤重徳(伊丹氏)のご子孫や、荒木村重のご子孫だとお聞きしている。
伊丹氏と荒木村重の関係を求めての来熊らしい。この文書をご紹介しようかと考えている。

                      
 

 

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■NHK NEWS WEB「日本初の『春画展』その魅力とは」から

2015-09-22 00:03:41 | 展覧会

NHKのテレビ欄を見ていたら、23:30からのNEWS WEBで 日本初の「春画展」その魅力とは とある。
HHKがここまでやるかと驚いてしまった。「春画展」が永青文庫で開催されることは承知していたが、NHKで放送する位だから、始まったのだなと合点して永青文庫のHPを覗いてみると、なんと世界が先に驚いた SUNGA 春画展という特別サイトが設けられていた。

推測だがどうやらこの手の展覧は公の会場で開催することは難しいのだろう。永青文庫にも所蔵する春画があり、併せて世界各国の美術館や個人の所蔵者などのコレクションを一同にするということであろう。なにしろ狭い永青文庫だから、大いににぎわうことは間違いなかろう。
いつものように奥方と御一緒にとは参らぬであろうが、在京の皆様、又わざわざお出かけの皆様、十分に芸術としてのエロスをご堪能ください。
東京の秋・・・いいですね。 

 

コメント (2)
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