津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■水連達者の孫六

2022-07-31 10:08:21 | 徒然

 「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」を読むと、水連が達者な孫六・孫七・孫八の名前が登場する。その他踏水術小堀流の遠祖である河合半兵衛や家臣・貴田(孫兵衛か)などの名前も見え、いろんな川に於ける治水・利水の堰などを敷設する際に川に潜らせて調査を行わせたりしている。
孫六・孫七・孫八という人物の詳細について知り得なかったが、「清正勲績考」にその名が見え、朝鮮に赴いた際、その水連の達者ぶりを大いに発揮して清正のために働き名を挙げたらしい。
全文タイピングを考えたが、原本をスキャンしてご紹介することにした。

        
        

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■「高麗門様式」VS 新町の高麗門

2022-07-31 07:51:23 | 歴史

    建築設計を生業とする私は、歴史の勉強を始めた20年ばかり前から、新町の高麗門が建築様式としての「高麗門」ではない、いわゆる櫓門であることから大いに違和感を感じていた。

 そんな中、新町高麗門の由来については貴重な史料が残されていたものを見つけ出した。
県立図書館の某史料にあった者だが、白文で書かれているため内容がよく判らない。
当時の熊本史談会の事務局を預かっておられた中村勝氏が、御存知よりの某氏に依頼されて読み下しがなされた。
    ■高麗門記 -- 2
これを著した人は中山黙斎(昌禮)で、家老有吉家家臣である。
祇園山から近いため、熊本城下西南の地にこの高麗門を築くのだとしている。西南の役ではまさしく西郷軍は祇園山に砲台を構えて砲弾を撃ち込んだ。
坪井川の流路を替え、井芹川につないだのも戦略的意味合いを大いに感じる。

また、もう一点はヤフオクに出品されていたもの、これは残念ながら入手できなかったが、写真だけは残しておいた。
    高麗門護札ノ事 
ここでは高麗門に古い護札があったことが記されている。解体に当たり行方知れずになったようだが残念の極みである。

                               
「高麗門記」に似て非なる文章が残されているが、こちらは解読には至っていない。
    ■いま一つの「高麗門記」
ここでは「遂取其門材而歸 以為城門 因以高麗稱云」とあり、朝鮮からその材を持ち帰ったから「高麗門」と名付けたとしている。
構造形式から名づけられたものではないことは明白である。
「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」によると、高麗門は善蔵が関わって完成させている。そして善蔵は清正と共に朝鮮へもわたり、蔚山城の建設にも携わったのではないか。

 蔚山城にあった清正軍を含む日本軍約10,000人は、57,000人ともいわれる明朝軍に包囲され、次々に曲輪を落とされながらも本丸に籠り援軍が来るのを待った。多くの死者を出しながらも10日ほどを持ちこたえたが、援軍の急襲を受けて明朝連合軍は戰死者20,000人を出して敗走した。
本丸を守り切った「門」こそが「櫓門」であったらしく、これが持ち帰られたと考えるのが妥当であろう。
熊本城の築城はこの蔚山城に倣うところが多いという。
高麗門の北、熊本城の北西部には蔚山町の地名が残る。加藤氏治世の時代の侍には高麗門やこの蔚山町は、激しい戦闘に闘い勝った想いは胸に疼く矜持となって存在した事であろう。

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■御侍帳・家紋から考える(37)

2022-07-30 06:04:06 | 家紋

                                         

                                            新・肥後細川藩侍帳【の】の部

野村忠助は、(南東32-7)野村実学家の5代目仁三郎(清兵衛・忠助)。家紋は「平角に五つ石」  

野尻武左衛門は、野尻氏については「細川家家臣略歴」に名前が見えない。家紋は「剣唐花紋」
野尻式右衛門は、         同上                  同上

野尻丈五郎は、          同上                  同上

乃美鷲之助は、(南東32-10)乃美新四郎家の8代目。家紋は「左三つ巴紋」

能勢庄左衛門は、(南東32-8)能勢 保家の8代目。家紋は「丸に能勢家違い目結紋」
  

能勢大助は、【丹後以来】(南東32-15)能勢庄九郎家の8代目。家紋は「蛇の目紋」
能勢梶之助は、【丹後以来】(南東32-12)能勢 邊家の9代目常八(梶之助)。家紋は同上  

野間一学は、御船頭(南東57-12 船)野間周助家の3代目。家紋は「  」

野口甚之允は、(南東32-20)野口喜太郎家の3代目。家紋は「丸に三ツ星紋」  

            新・肥後細川藩侍帳【く】の部

櫛野四郎助は、

朽木内匠は、(南東33-1)朽木多仲家の8代信記・昭久(養子 実・長岡主水営之末子 内匠)寛政十二年家督二千七百石 
       中着座、番頭、留守居大頭、中老職。天保二年十一月致仕。家紋は「四つ分銅に目結紋」

熊谷伝之允は、(南東33-8)熊谷直之丞家の5代目又雄(傳之允・傳之助・直之丞)か?。家紋は「丸に梅鉢紋」  

久保伊右衛門は、(南東65-89 *)久保伊右衛門家の2代目。家紋「丸に橘紋」

熊谷藤助は、(南東33-2)熊谷忠右衛門家の5代。家紋「   」「丸に八文字紋」  

熊谷軍兵衛は、(南東33-11)熊谷新二家の7代目。家紋は「丸に松皮菱紋」  

隈部次郎左衛門は、(南東33-17)隈部彦四郎家の9代目次郎左衛門(五左衛門)。家紋は「扇紋」「丸に違い鷹の羽紋」     

釘本藤内は、(南東33-3)釘本藤内家の7代目・愛太(養子 藤内)。家紋は「  」  

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■連日のこむら返り

2022-07-29 08:28:43 | 徒然

               熱き夜は 腓がえりの目覚めかな  津々

昨日は01時頃左足ふくらはぎの強烈なこむら返り、今朝は4:30頃左右の足共同時にこむら返り、左はやや軽かったが右は強烈・・・
二日連続の激痛に見舞われた。

冷房を入れたまま寝ているから、毛布を掛けて寝ていて足を外に出すのに時間がかかり、その痛かったこと話にならない。
今朝は6:00丁度に起床したが、両足のふくらはぎの部分に鈍痛のような感じが残っていて、歩くのに難儀している。
昨日は定期の病院行き、薬をもらうだけの事だったが、話をすればよかったと悔やまれる。
水分は十分とっているつもりだが、何が原因かしら・・・夜中におきるのが不思議ではある。

  追記:悪友から電話、「生きとるかい、死因は腓がえりは見苦しかぞ」・・・・・・・本当に失礼な奴だ。

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■熊本城内の井戸

2022-07-29 07:00:49 | 新聞

                         

 昨日の熊本日々新聞には「熊本城復興支援キャンペーン第四弾」ー「其の七」が14・15面で紹介されている。
(上記QRコードから「其の七」をタップしてください。)
「往時の暮らし伝える熊本城の井戸」として、一・二天守と宇土櫓をバックにして二の丸広場の井戸がメインに写されている。
この写真の場所は、時習館があった辺りだと思われるが、時習館の絵図を眺めてみると時習館東北角の東面に東門があり、入ると「家老の間」の脇に大きな井戸が描かれている。しかしいかにも空堀に近すぎる。
残念ながらこの井戸の位置については解説がなく残念。

 「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」には、お城の着工後すぐに井戸が掘られた様子を次のように記している。

お城の地均し「えいとう/\」の歌の節面白く常に聞きよったが、地鎮まつりの規式に御城の人で真言宗の出家が務めに
なったばい。この日はおなごは誰も入れつけずそののちに井川(井側=井戸)をぐっさり(沢山)になつたが、これも並大抵のこつじゃなかつた。

深いものでは35mあるそうだが、善蔵さんがいわずとも大変な工事であったろう。それが現存確認されるだけで25ヶ所だそうだが、往時はまだまだ多かったらしい。仕事に携わった方々の苦労がしのばれる。

 

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■枝が折れたり倒れたりしながら考える事

2022-07-28 16:48:01 | 熊本

 最近街路樹が倒れるというニュースがやたらと目を引く。
昨日は運転免許センターの駐車場でケヤキが倒れ車9台が下敷きになった。その前は大江の通称産業道路で桜の木が2本倒て通行中の車に被害が出た。
昨年は熊本城内で倒木があった。
10年ほど前には、我が母校・大江小学校の校庭の真ん中にあった樹齢100年を超す大榎木(大江の木)が倒れた。私はわざわざ出かけて無残な姿を眼にした事だった。
これは元気な枝を採取して苗木が作られ、「おおえのき」の横に植えられたらしい。
           倒壊したおおえのき

こんな事案が起ると、私が反対している自衛隊健軍駐屯地(西部方面総監部)周辺の桜やクスノキ、トウカエデの伐採などにも声が小さく成ってしまう。
今日の新聞は、熊本第一高校敷地内にある、マンスフェルト邸ゆかりの高さ18mのムクノキが倒木の恐れがあるとかで、文化財保護委員会が伐採を検討していると報じている。
これは由緒ばかりをいつては居られないだろう。「おおえのき」に倣ってまた若木を植えれば良かろうにと思う。

 もう30年ほど前に、坪井川沿いにあった木を伐採するというニュースが流れ、市民団体が反対してひと騒ぎがあった。
桐の木ではなかったかと思うが記憶が定かではない。
桐の木といえば新町に通称稱名寺通りと呼ばれる通りは江戸時代の「青桐」の並木が残っている。
一月ほど前C寺の和尚様から電話で、先代から熊本の町には沢山馬をつなぐために青桐が植えられていたと聞くが詳しい情報はないかとお尋ねをいただいた。
「馬をつなぐ」という話は初めて聞いて、あり得る話だと納得した。
その後気に成り調べてみたら、上通りには青桐が植えられていたらしい。

 桜町や熊本駅周辺の再開発が終わったが、これらのつながりが何とも寂しいのが現状だが、私は細工町筋や路面電車筋を並木にすることを願っている。
また、白川沿いは桜並木などがいいのではないかと考える。
夏目漱石に「森の都」といわしめた熊本だが、現状果たして漱石先生の賛辞に応え得ているのだろうか。
市長に手紙を書こうかとさえ考えて居る。

 

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■御侍帳・家紋から考える(36)

2022-07-28 06:24:58 | 先祖附

                   
            新・肥後細川藩侍帳【う】の部

浦上瀬兵衛は、(南東30-3)浦上瀬兵衛家の8代目栄八(瀬兵衛)、家紋は「扇紋」「毬挟みに■■」  

浦崎式平は、(南東30-7)浦崎政太郎家の7代目、家紋は「丸に三つ星紋」  

■鵜川伝左衛門は、(南東30-15)鵜川丈七家の7代目右学(傳左衛門)、家紋は「左一つ巴紋」  

植野新右衛門は、(南東30-22)植野新右衛門家、代々新右衛門を名乗り人物の特定不可能、家紋は「隅切り平角に小文字紋」  

内田伝蔵は、(南東65-74 *)内田彦左衛門家の初代傳助(傳蔵)か?、家紋は「隅立平角に五つ星」

            新・肥後細川藩侍帳【の】の部

野村庄蔵は、御馬方 (南東59-18 茶・鷹・馬)野村源之允家、2~6代までが庄蔵を名乗り人物の特定できず、家紋は「子持ち隅立角に三つ星」

野田弥三右衛門は、(南東32-1)野田弥三左衛門家、代々が弥三左衛門を名乗り人物の特定が不可能。家紋は「三つ蔦紋」  
野田左次兵衛は、(南東32-2)野田甚内の5代目安左衛門(左次兵衛・杢兵衛)。同上弥三左衛門家の分家筋で家紋は  「蔦紋」  
野田禎助は、(南東32-3)野田甚吉家の4代吉太郎、こちらも同上分家筋で家紋は「隅切り立角に蔦紋」  

野田三郎兵衛は、(南東32-6)野田三郎吉家、天草本渡城主天草伊豆守種綱三男 喜膳を初代とする家だが、代々三郎兵衛を名乗る。家紋は「丸に蔦紋」但し、弥三右衛門系とは別流だと思われる。

野田伊兵衛は、(南東32-4)野田小三郎家、忠利代奉行を務めた野田小左衛門の子孫だが、こちらも代々伊兵衛を名乗る。家紋は「丸に登り藤紋」

野田庄大夫は、(南東32-17)野田善之助家の6代目庄大夫(恒右衛門)。家紋は「  」

野々口金左衛門は、(南東32-11)野々口勘十郎家の5代目、弘化二年から万延元年迄各地の郡奉行を務めた。家紋は「三つ銅銭」?

野口直助は、(南東32-5)野口甚左衛門家の5代目。家紋は「子持ち隅立平角に■■」「丸に剣片喰紋」

野上文右衛門は、(南東32-13)野上文五家、代々文右衛門を名乗る。家紋は「  」

野村左一右衛門は、(南東32-14)野村傳一郎家、5・7・8代が左一右衛門を名乗り人物の特定が出来ない。家紋は「隅切り立角に抱え角紋」    

野入小十郎は、(南東32-9)野入弥三家の5代目。家紋は「  」「  」

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■落語鑑賞「野ざらし」

2022-07-27 08:53:08 | 徒然

 暑いしコロナは又4,000人台に広がるし、外に出る気に成らない。
昨日はとうとう散歩をさぼってしまった。タイピングをする気力も萎えている。
なにか新しい本でも仕入れないと身が持たないぞと思ったりする。
本棚に目をやると落語家・立川談春のエッセイ「赤メダカ」があったので、何気にとり出して読み始める。
たしか講談社のエッセイ賞を受賞した作品だ。読み始めると面白くてやめられない。
そんな中に師匠・立川談志一門の新年会の話がある。10帖程の座敷に20人ほどが詰め込まれての賑やかさ・・・
宴が進むほどに年始客のカントリー歌手・ジミー時田が歌い始めると水を打ったように静かに聞き入ったが、歌い終わるとその素晴らしさに皆感激の声をあげた。
ところがジミー時田は今一つ、落語「野ざらし」に出てくる端唄「さいさい節」を歌い始めたというのだ。

    鐘がボンと鳴りゃサ、上げ潮ォ南サァエ・・・・
談志師匠を差し置いて「三代目柳好は最高だ」とジミー時田、これを聞いて談志一門の新年会は最高潮に盛り上がったらしい。

 わたしも暇つぶしにYoutubeで落語でも見るかと思い立ち、「野ざらし」を眺めてみることにした。
「志ん朝」「談志」「小三治」「小遊三」「三代目・柳好」などが見れるようだ。
まくら等を楽しみながら順次聞いてみる。「小遊三」は随分若い頃のもののようで、三人の名人の跡ではなんとも力不足。
最期に三代目・春風亭柳好を聞くが、ジミー時田の絶賛が良く理解できる。「鐘がボンと鳴りゃサ~」など秀逸だ。
ジミー時田は、これをギターを弾きながら披露したというが・・・聞いてみたいものだ。

 私たちの若い頃の音楽シーンはジャンルが豊富で、カントリーも熊本にはチャーリー永谷が頑張っていたし何とも面白い時代だった。
ジミー時田は青学出身のイケメンで大いに人気を博していた。
そんなジミー時田は談志一門では賓客扱いされ、「ジミーさん/\」と声を掛ける弟子に、他の弟子が「ジミーさまと言え」と声を掛け大騒ぎとなったと談春が書いている。

うらやましい世界である。
かっては熊本でも、「法泉寺の落語会」や「労音の落語会」等が定期的に行われていたが、もう生での落語会にはとんとご無沙汰である。
好きな人がやってくれば足を運んでみたいという願望は大いにある。冥途の土産にしたいものだ。

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■高田廉一氏遺構「足利道鑑」

2022-07-27 07:49:52 | 人物

 史談会の若い友人中村裕樹君は、「平成肥後国誌」の編著者・高田廉一先生の信奉者である。
先生の死後、膨大な資料や遺品の整理をかって出て、ご遺族が必要とされない膨大な資料やネガ、原稿などを受け継ぎ、
自宅に持ち帰って延々整理をしている。
そんな中、「足利道鑑」に関する遺稿が出てきたので、文字おこしをして送ってくれた。
ご自身の「平成肥後国誌」においても、お墓がある子飼の「松雲院」の項に記載あるべきなのだが、見当たらない。
中村君の労に感謝して、文字おこし文をここにご紹介する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

               高田廉一氏遺稿「足利道鑑

 天文二十年(1551)足利十三代将軍義輝は、三好長慶の謀反によって、近江の朽木谷に逃れた。そのと
き、側室小侍従の間に生まれたのが宮千代丸であった。その後、義輝は都に戻るが、永禄8年(1565)5
月19日、三好、松永弾正久通に襲撃され自刃した。二才だった宮千代は近江高島郡日爪城主尾池伊賀守のも
とで育てられたため難を逃れた。一説に、義輝が戮されたとき、元妃烏丸氏方に娠めり。近臣小早川外記、吉
川斎宮が、元妃を奉じて遁れて尾池玄蕃光永の家に匿った。
 尾池氏 桓武平姓 横井村古河上今日中屋敷に尾池玄蕃頭は横井城を築いた。玄蕃は平頼盛の胤である。頼
盛の母は平清盛継母で池禅尼と云った。因って世人は頼盛を称して池殿と云った。その五世孫は尾張守に任ぜ
られた。その子孫は尾池を以って氏と■した。細河定禅に従ってここに来て横井、吉光、池内で采地二千貫を
得た。
永禄八年(1565)松永弾正久通、将軍義輝を戮した。時に元妃烏丸氏方に嫁あり。近臣小早川外記、吉川
斎宮は元妃を奉じて遁れ来て、尾池玄蕃(通称嘉兵衛)光永の家に匿った。数日たって義辰を生んだ。遂に尾
池を昌し光永の嗣とした。以後、浅井長政の庇護を受けていたが、天正元年(1573)織田信長が浅井家を
亡ぼしたとき、宮千代丸は長政の子、万福丸かと疑われて、信長の前に引き出された。信長が万福丸と呼んだ
時は何も答えず、宮千代丸と呼んだとき初めて返事をしたので、疑いが晴れたという。それからは徳川家康の
もとに落ち延びた。のち、尾池光永の許に逃れてその養子となった。はじめ足利左近、小池茂右衛門などと称
した。
天正十年11月仙石秀久の家臣上杉伊賀太郎が数百騎を率いて攻撃したが撃退され伊賀太郎は討死した。
義輝の家臣であった尾池帯刀は玄蕃を連れて讃岐に逃れ、のち生駒家に仕えた帯刀は玄蕃を嗣子とした。関
ケ原合戦が終わり、戦国時代も終わりを告げようやく太平の世がおとずれた時成人した玄蕃は、四国、讃岐城
主生駒阿波守に千石をもって招いた。細川忠利は玄蕃を細川家に引き取りたいと思い、江戸城櫓普請の頃松平
阿波守と折衝した。阿波守は「越中様被仰候考其儀にて御座候、玄蕃様と申者、私先祖之主■御子に御座候と
御かたり被成候…」と、末裔の方の古文書にある。松平阿波守正俊と細川越中守忠利 小笠原兵部大輔秀政の
長女は松平阿波守の妻、次女の千代姫は細川越中守忠利の妻となっている。
 玄蕃は、私は生駒家にお世話になっているので倅の西山左京を貴藩にお願いいたします。となっているが実
際は、玄蕃及びその一族全員を忠利は受け入れている。
 寛延3年(1750)正月付けによる護国寺、常在院、原覚寺、安楽寺、不動院の天台五寺連名による、護
国寺再興について、細川藩へ陳情した古文書が遺されている。その中に、玄蕃は、慈眼大師天海の甥で、忠利
からの招請による肥後国入りの際、東叡山大僧都・元朝法印を慈眼大師の計らいで随行した旨の記述がある。
同僧都は、護国寺住職となっている。
 玄蕃は生駒家暇のとき法射乙足利道鑑と改名した。道鑑と長男西山左京は客分扱い、次男尾池伝右衛門、三
男尾池藤左衛門にはそれぞれ千石の知行を与えている。古文書に、苗字を尾池姓としたのは幼少時、尾池伊賀
守に養育を受けていたから旨のことが書かれている。また、西山姓は以前京都西山に居住していたからであろ
う。
足利道鑑は、はじめ御城内平左衛門丸に住んでいたが、光尚の時桜馬場に屋敷を拝領した。
寛永17年(1640)10月23日の奉書に「道道様 宮本武蔵山鹿へ可被召寄候 然者人馬・味噌・塩・すミ
・薪ニ至まて念を入御賄可被申付之旨 御意ニ候以上
十月廿三日        朝山齊助 在判
                                 御奉行中  」
寛永十八年(1641)正月二日の綿考輯禄に、「道鑑老、西山左京、同勘十郎、同山三郎、新免武蔵(剣術
者也)、源次郎、春日又左衛門(具足師)なとハ奥書院ニて御祝被成候而…」
道鑑は忠利が歿した翌、寛永十九年(1642)七月二十五日没した。法名は、還源院殿華啓道鑑法印幽儀。
墓は子飼商店街にある松雲院に、八代鑑水以外の墓がある。向かって右に義輝遥拝墓、左に護国寺住職東叡山
大禅師元朝法印墓がある。
足利道鑑長男尾池伝右衛門(西山左京至之)は忠利、光貞のとき禄千石。息西山勘十郎は忠利、光貞のとき禄
五百石。のち父子共に御家御断申して京にいった。二人の娘のうち一人は(羽林家)桜井兼友室。もう一人は
小笠原長之後室となっている。
 正式に細川家の家臣となったのは、西山八郎兵衛氏房・山三郎からである。知行は千三百石、御番頭を勤め
た。これを初代として、二代九郎兵衛から九代大衛まで、藩主名代で阿蘇宮の是例祈禱の任に当たっている。
二代九郎兵衛・道賀は、小笠原備前長之の二男で禄千三百石着座番頭を勤めた。三代多膳・氏政は、着座番頭
を勤めた。四代大衛・氏政は着座番頭を勤めた。五代多膳は田中左兵衛二男で御番頭中着座御免之着座番頭を
勤め、禄千三百石の外、百五十石。六代 多膳は千三百石。七代九郎兵衛・大衛は千百石。御着座留守居番頭
、番頭を勤めた。八代直次郎は弟で名は義寅、氏寅、八郎兵衛と称した。致仕して後は尾池鑑水と称し、退溟
と号した。禄千百石。文久二年(1862)から慶応三年(1867)まで時習館訓導となっている。訓導仲
間に池辺吉十郎、大里八郎、桜田惣四郎がいた。
 明治四年七月十四日付で細川藩は廃藩となった。その後鑑水は魚屋町で尾池塾を開き、子弟に漢学を教えた
。明治二十三年六月六日六十七才で没した。墓は万日山、来迎院裏にある。
正面 退溟隠者墓。東面 、心窮物理淵源。西面、 眼渉充棟書籍。裏面、足利将軍義輝一子玄蕃義辰十一代の孫
源義寅明治二十三年庚寅六月六日没享年六十七、と彫ってある。墓の両脇に、先祖尾池伝右衛門妻女、鑑水妻

女の墓がある。九代、直太郎 実は九郎兵衛子の大衛で、無役千百石。鶴崎番代、小姓頭、御着座、番頭、用
人、奉行を勤めた。廃藩後、魚屋町の養父の尾池塾の経営に参画した。

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■清正勲績考・目次₋3・了

2022-07-26 06:36:14 | 史料

清正勲績考 巻第二十三
   神君小山より江戸に還御、并に忠興君尾州清州に到ること
   但馬国を忠興君に賜う、并に筑後国を清正君に賜うこと
   太田一成木附に下向す、附り木附城を受取るべき令書のこと
   清正君室家大坂を出ること、上使村越直高清州に到着、附り諸将軍議のこと
   池田輝政黒田瀬を渉る、并に福島・池田の旗先を争うこと
   瑞竜寺の取出陥る、附り犬山開城、并に衆軍岐阜城を囲むこと
   岐阜城七曲坂の合戦、附り丹後勢力戦のこと
   郷渡合戦、并に諸将赤坂に陣すること
   清正君の室家熊本に下着、并に大坂より使者肥後に到ること
   大友義統豊後に下向、附り田原・宗像等馳せ加わること
   勅使三卿田辺城に到る、附り寄せ手囲を開くこと

清正勲績考 巻第二十四
   神君御出軍、并に大垣城水攻め評議のこと
   大友義統豊後に下着、附り吉弘統幸木付城兵を偽引(おび)くこと
   如水軒幸夜に乗じて木付城を襲う、附り寄せ手利を失うこと
   如水軒富來城を巻き解す、附り田代彦助物見のこと
   黒田家の援兵城兵と軍議す、附り立石表に向うを欲すこと
   安岐城兵大物見を用ゆ、附り中園辺に伏兵のこと
   立石合戦、附り松井・有吉等力戦のこと
   実相寺山合戦、并に段畑接戦のこと
   如水軒立石に着陣す、并に清正君出軍のこと
   如水軒首実験、并に大友義統降参のこと
   清正君木付に援兵、并に清正君の使四国に於て自殺のこと
   中川可(秀)成の旗立石表に紛れ立つ、并に清正君、豊後より帰陣のこと

清正勲績考 巻第二十五
   島左近接戦、并に毛利家内通のこと
   三成・義弘等軍議、附り島左近出軍のこと
   三成黨関原に発向、并に神君御出馬のこと
   関原御陣立、附り毛屋(もや)武蔵物見のこと
   石田黨関原備定め、附り九月十五日朝合戦のこと
   筑前家心易り、附り井伊直政戦功のこと
   忠興君関原戦功、附り石田・小西等敗北のこと
   諸将各實撿山に詣る、并に佐和山の城陥落のこと
   石田・小西等生擒、并に大旆(はい)大阪城に入ること
   如水軒安岐の城を圍む、附り松井・有吉言上のこと
   安岐の城城兵商議、附り開城のこと

清正勲績考 巻第二十六
   清正君宇土城に發向、附り南條、三宅・飯田と鎗を合わすること
   田原紹忍最後、附り中川平左衛門災難のこと
   如水軒富來の城を攻む、附り田代彦助銃術をふるうこと
   野島・來島黨船軍、附り薩州侯の母公勇死のこと
   清正君密使を宇土の城外に捕う、附り八代より後詰敗北のこと
   黒田圖書・同伯耆抜懸、并に富來城を開渡すこと
   三成・行長等伏誅、并に上杉の士卒敗北のこと
   忠興君福知山の城を攻む、并に毛利家御免許のこと
   如水軒豊・筑の諸城を取る、并に松井康之丹波に赴くこと
   宇土城兵、夜攻衆を襲う、附り熊軍力戦のこと
   肥後の國處々開城、附り堀内阿波入道のこと
   小野木公郷滅亡、并に丹波三郡の租入を忠興君に賜うこと

清正勲績考 巻第二十七
   諸軍柳川の城を圍む、附り立花三太夫討死のこと
   清正君柳川の城を請取る、附り諸将薩州を攻めんと欲すること
   清正君肥後の國を拝領、附り領内郡税のこと
   秀忠公御参内、并に諸大将恩賞を蒙ること
   関東の諸将恩賞を賜う、并に清正君木付城に到ること
   上杉黄門降参、并に清正君熊本城を築くこと
   大神君從一位に叙され蘭奢待を斬らる、并に佐竹降参、秀秋卿逝去のこと
   清正君國政、并に忠興君小倉城を築きたまうこと
   大神君将軍 宣下、并に秀頼公御婚礼のこと
   江戸御城普請、附り辨慶堀のこと
   朝鮮の國使來幣、并に清正君身延山に詣でたまう、附り遙師得度のこと
   清正君舘林の城に到る、附り鳩巣の馬頭観音のこと

清正勲績考 巻第二十八
   
秀忠公将軍宣下、附り清正君任官、并に大法會のこと
   江戸の御城を改築、并に忠正君元服加冠のこと
   忠正君卒去、附り本成寺を建立のこと
   朝鮮の聘使來る、并に駿府御入城のこと
   清正君在國の礼式、附り豫て軍法を定ること
   薩軍琉球を攻取、附り中山王來幣のこと
   歌舞伎興行、并に盆踊のこと
   名護屋の城普請、附り大石を引くこと
   清正君 熱田の宮門を造營、并に稲留一夢のこと
   女帝御即位、并に 大神君秀頼公に謁すこと
   義直卿・頼宣卿大阪に到る、并に清正君自ら肖像を彫刻のこと
   清正君所老勞、附り使者を駿府に呈すること
   清正君悁館、附り大木土佐、并に金官殉死のこと
   清正君の遺物を献上す、并に家中諸士の名簿を録呈する事
   清正君の遺領を忠廣君に賜う、附り家中の諸士誓書を献すること
   忠廣君入國、并に浄池院君葬礼のこと
   藤堂高虎肥後に赴く、并に浄池院君法會のこと
   忠廣君國中政務、附り八代城を改め築くこと

             (了)

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■散歩雑俳

2022-07-25 10:41:05 | 先祖附

              アジタート 行けども木立は蝉しぐれ   津々

 一両日散歩をさぼってしまったので、今日は朝食を済ませてすぐに散歩に出る。
曇りがちだが歩き出すとすぐに汗が噴き出す。いつもの道を歩いていると蝉時雨がものすごい。数百メートルの木立に途切れることがない。
途中で一葉二色の名も知らぬ花を見付てしばし観察、「名も知らぬ花は二卵性双生児」と口に着いた。
携帯で撮影したが、二色の見分けがつかない大失敗。

                    
明日は植物採取してみようかとも思うが、「やはり野に置け蓮華草」と良く言うからそっとして置いたが良いのだろう。

4㌔程を歩くが今日は右の股関節が痛くて、少々時間が過ぎてしまった。その分を加えて汗びっしょり、シャワーをして一段落である。

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■加藤清正宇土城攻めの各将「佐久間角介」

2022-07-25 06:39:55 | 人物

 1、加藤家侍帳に 並川志摩守与力・佐久間角介(五百石)と記載あり
    「熊本県史」に、佐久間角助(正頼)宛 清正判物二点が紹介されている
 1、熊本県史料・解題
    「佐久間氏は平姓、太々良四郎義晴の嫡子家村のとき、安房国朝比奈郡佐久間村に住し、佐久間太郎と称した。
     その子孫勝之は、佐々成政の壻養子となり、関ヶ原役後信江常三箇国のうち一万八千石を賜り旗本列に列した。
     所傳の二・三号文書は、勝之の弟正頼(角助・管理人書き込み)に與えられたもので、正頼は慶長五年清正が
     大友追討の軍を起こしたとき、その先鋒に加わり、宇土城攻めの功によつて五百石を與えられた。
     子孫は細川家に仕えた。細川氏肥後入国後百二十人扶持で召し出され、のち三千石を領した佐久間半之丞は正
     頼の子であろうか(以下略)」
 

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■記事の表示がストップされた件

2022-07-24 17:28:22 | 徒然

 今日何となくYoutubeを見ていたら、松任谷由実の「海を見ていた午後」の歌詞にある、「レストラン・ドルフイン」の御料理を紹介するものが出てきた。
       海を見ていた午後ユーミンの歌に出てくるレストランドルフィン

すっかり忘れていたが。私は10年前の12月8日に「伊丹三樹彦 vs 荒井(松任谷)由美」という記事を書いたら、公序良俗に違反している旨の連絡を受け、このブログは表示がされなくなった。
文章は下記の通り、公序良俗とは「歌詞」を書いていたのが原因だろう。
面倒くさいので9年8ヶ月放っておいたが、だんだん釈然としなくなり連絡を入れて、再アップの依頼をした。
一週間ほどかかるそうだが、どうなる事か待ってみようと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                                               

 最近、伊丹三樹彦の句集「神戸・長崎・欧羅巴」を手に入れて読んでいる。
句調は現代句とでもいうのだろうか、私にはちょっとついていけないものがあるが、この句集の題が示すようになかなかお洒落である。
そんな中に次のような句を見つけた。
           シェーカー振る 角瓶越しにタンカー浮き   (神戸編・煉瓦煙突から)

 これを読んだとたん、荒井由美の「海を見ていた午後」を思い出した。
一番の歌詞の5行目の「ソーダ水の中を 貨物船がとおる」とある。
     (歌詞の全文ご紹介は「知的財産権(著作権・商標権等)、名誉、プライバシー等の権利侵害」に該当し、出来ないらしい)

 松任谷(荒井)由美がこの舞台となったレストラン「ドルフィン」を訪ね、作詞に至った状況をTVで話しているのを見たことがあるが、まさにカウンター(テーブル?)の上に置かれたソーダー水に、後ろの窓越しに遠く貨物船が通っていくのが映り込んだのだ。すごい観察力とすぐに詩にまとめる素晴らしい能力に恐れ入って観たことをおぼえている。 

 神戸と横浜、バーとレストラン、夜と昼などの違いはあるが、二人の感性は見事にその風景を切り取り表現している。
まさに天才のなせる業であろう。(70爺にもお二人を天才と思うだけの感性は持ち合わせている)

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■清正勲績考・目次₋2

2022-07-24 06:37:13 | 史料

清正勲績考 巻第十八
   加徳島船軍、附り小西戦功のこと
   黄石山の城陥る、附り全義館の兵退散のこと
   和軍南原城を攻む、附り城兵敗乱のこと
   和軍全州に發向す、附り陳愚衷開城のこと
   大明将刑玠朝鮮に到る、附り軍備を整へ蔚山の城を攻んと欲ること
   加藤直正蔚山の城に入る、并に明兵浅野家の遠候(ものみ)を襲うこと
   浅野幸長力戦、附り蔚山の城兵突いて出ること
   明軍試みに蔚山城を攻る、附り島山塞邊に和兵を擄ること
   茅國器蔚山を攻る、并に麻貴島山を攻ること
   木村頼母潜に西生浦に到る、附り清正君後詰評議のこと
   清正君蔚山城に入る、附り城兵夜撃のこと
   明兵大銃を發し、且つ偽計を設く、附り清正君智慮のこと

清正勲績考 巻第十九
   釜山の諸将蔚山に後援す、附り和軍の諸雄戦功のこと
   神君御霊夢、并に太閤御霊夢に因て玄旨君祝歌を呈すること
   藤崎宮霊験、并に粮を清正君に賜うこと
   蔚山城を修復す、并に度々小迫合のこと
   明軍重ねて催す、并に順天の和将僉議、附り太閤令を下すこと
   朝鮮の和軍半は帰朝、并に伏見騒動のこと
   朝貴偽和を議る、并に劉綖又小西を欺くこと
   太閤薨逝、附り御遺言、并に誓状のこと
   石田三成 神君に訃ぐ、并に遺物を衆に賜うこと
   浅野・石田朝鮮に赴く、并に劉綖詐って小西を擄にせんと欲すること
   朝貴将軍又蔚山を攻る、附り城兵夜討戦功のこと

清正勲績考 巻第二十
   藤堂高虎筑紫に下向、并に明将計策を用ること
   和軍朝鮮の諸城を開く、附り島津・立花、小西を救うこと
   清正君行長を迎う、并に諸将釜山浦を出船のこと
   和軍咸く帰朝、并に清正君結婚のこと
   秀頼君御結婚、附り世間物騒のこと
   三成 神君を伐たんと欲して寝む、并に四老・五奉行誓書を呈すること
   神君利家卿と和睦したまう、附り忠興君・清正君等精勤のこと
   利家卿伏見の御館に到る、并に島津家恩賞のこと
   神君加賀家に到りたまう、附り三成黨これを襲はんと議ること
   三成忠興君を誘ふ、并に 神君向島に移座したまうこと
   朝鮮陣中の武功を吟味、附り諸将小西等と確執のこと

清正勲績考 巻第二十一
   七雄相議して三成を討たんと欲す、并に 神君御扱に依て三成助命のこと
   神君伏見の城に移座したまう、并に前田利勝御不審を蒙ること
   福原・熊谷等改易、并に大野・土方等配流のこと
   前田利勝・忠興君虚名を蒙むらる、并に両家人質を献すること
   不受施僧徒流刑、并に宇喜多家騒動のこと
   松井・有吉、木附城を受取る、附り忠興君如水軒と会談の事
   上杉景勝謀叛、附り神君御出馬御評議のこと
   清正君諫言、附り肥後に下向のこと
   神君江戸に御着座、附り忠興君出軍のこと
   石田三成黨叛逆す、附り大友義統合體のこと
   清正君室家私(ひそか)に大阪を遁る、附り大木・楫原知略のこと

清正勲績考 巻第二十二
   忠興君室家義死、附り三成黨、人質を取ることを寝(やむ)ること
   伏見の城陥る、并に関東方處々城攻めのこと
   石田黨處々籠城、附り加賀大聖寺の城陥ること
   玄旨君田辺の城に據りたまう、附り大渓和尚加勢のこと
   大渓和尚田辺城に加勢、附り願書を八幡宮に納むること
   神君御出陣、并に大阪の逆乱関東に聞うること
   神君諸将に御暇を賜う、附り諸将誓紙を呈することを乞うこと
   真田安房守逆心、并に石田源介命を蒙って肥・筑両国の絵図を記すこと
   秀忠君御出陣、附り真田退治のこと
   上方の騒乱海西に聞う、附り黒田如水陣用意のこと
   清正君、兵を木附城に加えんと欲す、附り書札往復のこと
   三成黨、田辺城を囲む、附り古今集秘凾を献上すること

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■加藤神社遷宮と、旧国道3号線及び熊本₋田原坂(鈴麦)線

2022-07-23 07:10:55 | 熊本

 かっては、豊前街道を出町から京町に進みむと、突き当りに氏家家の大きな屋敷があった。
この道は後には国道3号線となり、熊本城の縁にそって熊本市役所前に通じた。
明治7年、熊本に鎮台が置かれることになり、城内に在った加藤神社が氏家邸跡地に移転することになる。
細川護美の建議に依り明治4年熊本城内、平左衛門丸に造営されたのが始まりである。頬当御門に鳥居が建った。
処が明治10年の西南戦争で被災し焼け落ち、氏家家屋敷跡に再建されるのは明治19年である。以降加藤神社は京町台の旧氏家家の屋敷跡に鎮座していたが、昭和37年に至り、熊本城内の旧櫨方があった現在地に遷宮した。

 新堀橋は京町と熊本城地をつなぐ形で古くから薩摩(豊前)街道として存在していたが、明治44年になるとその下にトンネルが掘られ、千反端(藤崎宮前)ー池田(上熊本)をつなぐ、蒸気機動の熊本電気鉄道が開通した。

 処で磐根橋・新堀橋がコンクリート造として架橋されたのは大正12年のことである。
トンネルもこわされ両橋の下も、熊本電気鉄道の軌道+一般歩行道として完備した熊本田原坂(鈴麦)線が開通した。
その電気鉄道は昭和29年6月1日に廃止され、替って熊本市電が標準軌道を敷設して10月1日に開通した。約16年間走り昭和45年廃線となり現在の形となった。

 旧国道3号線(現・県道四方寄ー熊本線)が、加藤神社の城内遷宮後直線化されたのがいつであったのかの記憶がない。
直ぐ近くに我が家の菩提寺があったため、この辺りは年にニ三度は墓参の為に訪れたものだが、磐根橋から京町筋にまっすぐに大きな道がつながった時には大いにびっくりしたことを良く覚えている。

旧3号線の直線化や広丁から池田(上熊本)に至る県道の整備は、加藤神社の遷宮に大いに関係していることを感じる。

   

 この写真は昭和55年出版の鈴木喬氏編の「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 熊本」にも掲載されている、「平坦道路」が通じた直後の写真らしい(ハガキ)。まだ錦山神社の鳥居が見える。
この写真を見て気が付いたが、新堀橋も磐根橋も待ってくデザインが同じアーチ橋だが、現在の新堀橋(奥)はアーチ橋ではない。いつかけ替えられたのだろうか?
同上写真集にその新堀橋の下のトンネルに軽便鉄道の軌道が写る写真が(右)紹介されている。鮮明でないのが残念・・・

コメント (2)
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