津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■突囲隊と木山街道

2022-09-30 08:52:30 | 地図散歩

 資料整理をする中で、いろんな地図をまとめるために大袋を作って収めたりしている。
江戸期のいわゆる絵図から近代に入ってからの地図、高速道路の地図とか、観光地の地図など雑多である。
そんな中に水前寺から砂取に至る、いわゆる木山街道の七曲りを歩いた時の絵図が出てきた。
その後、健軍神社脇から木山に至る道も自転車で確かめた。(一部は団地となり道路は消滅している処あり)

 昨晩になり今度は甲斐青萍の西南の役当時、白川を渡河する「突囲隊」が描かれた図のコピーが顔を出した。
橋の上では陽動のための「侵襲隊」が薩摩軍と激突している中、「突囲隊」が上流部を渡河していった。
そして木山街道を下って行ったのであろう、あの七曲りの道を通ったのだろうか。


             

 実は突囲隊はここで薩軍を振り切って水前寺→中牟田→健軍→隈庄(城南)をへて衝背隊が陣する宇土に達した。
突囲隊が宇土に達し連絡に成功したことにより、衝背隊が熊本城下を目指し、薩摩軍は敗走2ヶ月に及ぶ籠城軍も解放された。

 甲斐青萍が描く所の多くの絵図は2017年、熊大の伊藤重剛教授により「甲斐青萍・熊本街並画集」として発刊された。
しかし、この「突囲隊」の図は掲載されていない。
著作権があってご紹介は難しいが、同じ場所は、明治33年7月の白川大水害の図として二枚が描かれている。
いずれも府中から対岸の大江方面を描いている。橋の上流部に流木などから橋を守るための構造物が共に描かれている。
また、マンスフェルトは「水前寺道の大川に架かる橋」とネーミングされた写真を残しているがこれも府中側から・・・
小泉八雲は「橋の上で」を書き残したが、まさにこの橋の上で車夫に往時の熊本城を語らせている。

 安己橋上流100mにある「熊本城突囲隊出撃の所」表示板

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■熊本の纏

2022-09-29 14:02:09 | 史料

                      
       

  平成17年(2005)6月24日付けの熊本日々新聞が顔を出し、「探訪・江戸文化 in 熊本」に「火事と纏」という文章が掲載され、この纏も紹介されている。
これは熊本市立図書館藏の「中根家文書」に紹介されている、手控えと思われる熊本の夫々の町の「纏」の図である。
江戸期、熊本府中には、新町一丁目(1町)・新町二丁目(6町)・新町三丁目(4丁)・蔚山町(1町)・職人町(4町)・西古町(11町)・中古町(11町)・東古町( 町)・紺屋町(7町)・京町一丁目(1町)・京町二丁目(1町)・今京町(1町)・出京町(3町)・新坪井町(12町)・細工町(7町)・本坪井町(6丁)など計86の町があった。
(但し、資料に依り異同がある)
それぞれの町が単独であったり、またいくつかの町が合わさったりして消防の組織・鳶役が作られていたことが判る。

熊本に於ける火消しの制度は、安永10年(1781)12組の火消し組が編成されたという。
     ■円居(まといと読む)
これは、熊本の火事では1,778軒が消失したという一番被害の大きかった安永7年(1778)閏7月28日の娯楽寺丁より出火した火事を受けてのことであろう。
細川藩政期に於いて、寛永16年から大きな火事が67件に及んだ。細川家の入国は寛永9年だが、何故16年からとするのは、別の資料に依ると花畑邸で「ボヤ火事」が起きていることによるのだろう。■花畑御屋敷・今昔
以下、大きな火事について触れた過去のブログである。

     ■宝永四年山崎町の火事-焼けだし

     ■享保の火事(1)
     ■享保の火事(2)  
     ■享保の火事(3‐了)

     ■享保十四年・藪の内火事

                     火の要慎さっしゃりませ



 

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■不思議な家紋の正体

2022-09-29 06:32:59 | 家紋

                        

    細川家家臣のお宅の家紋をご紹介しているが、何とも名前が判らず、またヒントにも行き当らずというものが幾つかある。
昨日の■御侍帳・家紋から考える(44)でご紹介した藤懸家の家紋も、その際たるものであろう。
一つは「丸に三文字紋」これは、藤懸氏でググってみると「武家家伝_藤掛氏」に尾張織田氏庶流としてこの家紋が紹介されている。
もう一つがこの不思議な形の家紋で、原寸8㎜×5.5㎜をスキャンして拡大してみると、不思議な形の紋に白地で切り抜かれているのは「結び雁金」か?
手元にある数冊の家紋帳を一頁づつめくりながら確認しているが、基本になっているのは「舵紋」だろうか?

                          舵紋 – 家紋DB
 本来はこういったものだ。もう捨てようかと思っていた丹羽基二氏著の「家紋」(昭和51年7月発行の22版)に出ていたものだが、その説明に「舵紋の使用家は寛政重脩(修)諸家譜では、織田家から出た藤懸氏・・・」とあった。
調べてはみるものだ。
とすると、「結び雁金抜き舵紋」とでもいうのだろうか。

また、「肥陽諸士鑑」にも諸家の家紋が紹介してある。ここにある藤懸氏の項の家紋を先に見ればよかったと悔やまれるが、これはまさに「舵紋」である。今一つ小さい不思議な家紋が描かれていたが、非常に小さいので何が何かわからない。これもスキャンして拡大してみた。
                      
 ここまで大きくすると、下の家紋は丹羽基二氏著の「家紋」に類似の紋  三つ舵紋(みつかじ):家紋のいろは  「三つ舵紋」が紹介してあり、それから類推すると「丸に三つ結び雁金抜き舵紋」とでもいう事に成ろうか。
只々感嘆するばかりである。
 

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■書籍終活・ごみだし三回目

2022-09-28 09:17:20 | 徒然

 昨日の朝はいわゆる「線状降水帯」が通過したせいか、ものすごい雨がふって、直ぐ近くの水無川の水位がびっくりするほど上昇して、これが後一時間も続くと溢水するのではなかとさえ思えた。
ごみ集積所は川の側道にあるから少々心配したが、その後線状降水帯はそのままずれたようで、その後の雨は穏やかになった。

 今日はお天気ではないが雨の心配もなく「紙ごみ」の収集日、そこで終活書籍を60冊ほど処分することにした。
これで1~3回合計310冊ほどを処分完了。
押し入れから引っ張り出したり、本棚から選び出したりした本が、部屋の片隅を占領していたものが消え去った。
処分予定の120~130冊ばかりは割と新しいので、惣領を負担してくれる買い取り業者に送ろうかと思っている。

お金の問題ではなく、どなたかに安く読んでいただければこれに越したことはない。これが済むと一段落となる。
都合500冊くらいだろうと予想していたが少々少なかったようだ。
もう一箱、生業の建築関係の本50冊程、これは以前から大きなダンボールに入ったままだが、これも専門の店を見付て送ろうと思う。

 最近は本から離れて資料の整理、これは一々内容物を確かめて、重複していたり不必要なものを処分、これがすでにデパートの袋三袋程になりこれも今日処分、これがまだまだ続く。
捨てがたい古い新聞、各地のいろんな地図などが顔を出し、これを入れる大きな袋を作って収めたりしている。
ようやく涼しくなってきたというのに、汗ばむほどの作業量である。

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■お城下に知らない名前の町があった

2022-09-28 06:46:35 | 熊本

 明治に至ると長く親しんできた手永制度は廃止せられ、街区の表示は「大区小区」制となった。
時折このことについてお尋ねがある。熊本県下は16の大区に分けられた。
現熊本市に置いては、第一大区は「飽田郡・熊本」で8小区、第二大区は「飽田郡・合志郡」は10小区、第三大区は「飽田郡・託麻郡」は10小区と言った感じである。
例えば板屋町などは「第一大区一小区〇〇」といった具合に番地に当たる数字が振られて町名は表示されなくなった。
これが評判が悪かったのであろう、明治11年(1878)には新たに郡区町村編制法が制定され、「大区小区制」の存在はわずかな期間である。

 その地名を眺めていたら、私が知らない町名に遭遇した。「瓶屋町」だ。「びんや」だろうと思っていろいろググっている中で「新町地区城下町旧町名板一覧」というサイトに行き着き、この中の「19」に「かめやまち」とあった。
処がこの図ではよく場所の確認が出来ない。さらに検索していたら、「新町地区城下町旧町名板位置図」があり、新町4丁目の明八橋近くであることが判った。
旧藩時代の新三丁目懸りの勢屯に面し、「御府中小路町々産物附」によると、瀬戸物屋があり壷瓶・陶皿・茶碗・鉢などを商っていたらしい。

 「明治初期・熊本町名」図には記載されていない。

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■御侍帳・家紋から考える(44)

2022-09-28 06:44:03 | 家紋

                                 

                 新・肥後細川藩侍帳【ま】の部

牧 九郎大夫は、【丹後以来】(南東38-11)牧 市太家の7代目・兵九郎(九郎大夫・九郎左衛門)。家紋は「黒丸(餅)に鍵紋」  

牧 八右衛門は、(南東37-22)牧 伴鴎家の6代目。家紋不詳。  

牧 角弥は、(南東37-9)牧 杢左衛門家の7代目。家紋は「隅立角に隅立平角紋」  
牧 友次郎は、(南東37-10)牧 文四郎家の4代目。名は安幸、幼より学を好みまた武技、兵学に達す。時習館授讀となる。家紋同上  

牧柴門次は、(南東38-12)牧柴謙次郎家の4代目。家紋は「丸に三つ盛日向亀甲」  

牧野平助は、(南東37-11)牧野安之進家の7代目。家紋は「左一つ巴紋」「丸に蔓■■」  

真下源太兵衛は、【丹後以来】(南東37-3)真下敬次家の8代目・亀之允(源太兵衛)。家紋は「隅立角に十字」?

真野善右衛門は、(南東37-2)真野冨弥家の5代目か?家紋は「杏葉紋」 

町野玄潜は、御医師(南東56-22 医)町野玄内家の6代目。家紋は「違い鷹の羽紋」「己文字紋」?   

前田善兵衛は、(南東37-6)前田善九郎家の7代目、御用人 七百石、内五百五十石御足高 御近習御次組脇 
          文政三年十月(御次着座)~文政五年九月 用人
          文政五年九月~文政七年九月(病死)中小姓頭  家紋は不知  

前原熊吉は、(南東37-20)前原十郎左衛門家の4代目。家紋は「蛇の目紋」  

松田喜平は、(南東36-15)松田太郎作家の6代目。家紋は「隅入り平角に並び矢筈紋」
  
松田吉内は、(南東36-14)(南東65-120 *)松田吉郎家の5代目。家紋表示なし。  

益田尉右衛門は、(南西37-24)益田文蔵家の2代目か?家紋は「丸に横三つ丸」

牧田角太郎は、(南東37-21)牧田直之助家の4代目。家紋は表示なし。

               新・肥後細川藩侍帳【ふ】の部

藤掛忠右衛門は、(南東39-19)藤懸(掛)傳之進家。代々忠右衛門名乗りの人が多く人物の特定不可。
      初代・惣左衛門(蔵人・永勝)室は冷泉為将長女。
      家紋は「   」。今一つの「丸に三文字紋」は尾張織田氏庶流の紋である。

藤崎作右衛門は、(南東39-1)藤崎作右衛門 家の9代目・大蔵(養子 作右衛門)千百石。
      家紋は「丸に鴈金紋」
藤崎多右衛門は、同上分家、(南東39-2)藤崎弥右衛門家。多ではなく太右衛門名乗りの人が多く人物の特定が出来ない。
      家紋は同上

                                                      

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■ビッグニュース熊本城-つづき

2022-09-27 06:22:45 | 史料

 以前■ビッグニュース熊本城を書いたあと、ここで紹介されていた清正の文書を拡大して一生懸命読んでみた。
並行して東大史料編纂所の研究紀要などをチェックしていたら、第32号にこれが取り上げられていることが判った。
そうこうしているうちに、物忘れの激しい傘寿爺さんの脳の回線がつながって、待てよ以前林晃弘先生から抜刷の「熊本城普請に関する新出の加藤清正書状」をご恵贈いただいていたのではないかと思った。
blogに検索を掛けると案の定2022-04-02に拝受していた。すっかり忘れて居り林先生には申訳ない次第である。
そして一所懸命探した結果、熊本城顕彰会発行の会誌「熊本城」を納めた箱の中から顔を出した。 
それから一気に精読しているが、読み進めていると所々記憶に残っており、確かに一度目を通していることは間違いない。
熊日さんがこの事を記事にされる5ヶ月ほど前、私は確かな解説がなされた貴重な資料を頂戴していたことになる。嗚呼、耄碌が情けない。

                為端午之儀
             使者を指上 殊帷
             五つ到来 悦入候
             熊本普請皆々
             精を入 事之外令
             出来候由 令満
             足候 并国中耕
             作之儀 百姓無
             緩之旨 得其意候
             将又 於江戸仕合
             能 五月十日比
             令上着候間 可
             心安候 猶蠏江
             主膳可申候 謹言
              五月廿一日 清正(黒印)
                加藤美作殿へ

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■気のいいおっちゃん宮本武蔵

2022-09-27 06:18:43 | 講演会

     『武蔵は気のいいおっちゃんだった』剣豪・宮本武蔵に関する新史料発見 晩年を過ごした熊本で

なかなか洒落たキャッチ・コピーだが稲葉教授作だろうか、地元の民間放送局RKK・熊本放送が上のような記事を配信している。
今回発見された史料の一部は、11月3日から5日の3日間、熊本大学附属図書館で展示されるとあるが、これはコロナで止まっていた同館主催の
「貴重資料展」の再開を指している。
熊本大学のプレスリリース「宮本武蔵晩年の人物像を示す新史料 4 点を発見

以下はその詳細・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・熊本大学付属図書館サイトから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  第37回貴重資料展(11/3-5)および公開講演会/第16回永青文庫セミナー(11/3)を開催

【令和4年度 貴重資料展】「悲劇の藩主 細川光尚」

  ◆期間: 令和4年11月3日(木) ~ 11月5日(土)
         3日間限定開催 10:00~17:00

  ◆会場: 熊本大学附属図書館1階 古文書閲覧室およびラーニングコモンズ

  * 新型コロナウイルス感染予防対策を講じて実施します。
    また、新型コロナウイルス感染拡大の状況によっては、実施期間を延期する場合があります。
    延期の場合は、附属図書館ホームページにてお知らせします。

  「悲劇の藩主 細川光尚」は、附属図書館と永青文庫研究センターの共催で開催します。

 

  第37回貴重資料展は『悲劇の藩主 細川光尚』をテーマに、天草・島原のキリシタン一揆をはじめ、17世紀最大の危機の時代の諸課題へ
  正面から取り組んだ 細川光尚に焦点を充てます。
  細川光尚は、明君・細川忠利の嫡男に生まれ、わずか31歳で病に倒れました。
  その駆け抜けた生涯での活動を示す数々の貴重資料を、光尚の指南役だったあの沢庵(たくあん)和尚の自筆書状や、新発見資料と
  ともに公開します。

  2年ぶりに開催します貴重資料展で、是非、リアルな歴史に触れてください。お待ちしています。

  【監 修】稲葉 継陽 熊本大学永青文庫研究センター長 教授

  これまでの貴重資料展(オンライン貴著資料展を含む)は、以下のURLへ
  公開URL:https://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/about/events/exhibitions

 

  <同時開催>【公開講演会・第16回永青文庫セミナー】

  演 題 :「細川光尚とその時代―天草島原一揆・寛永大飢饉・御国返上―」

  講 師 :稲葉 継陽 熊本大学永青文庫研究センター長 教授

  ◆日 時:令和4年11月3日(木) 14:00~15:30

  ◆会 場:熊本大学附属図書館1階 ラーニングコモンズ

  ◆定 員:当日先着 90名<予約不要>
         定員に達した場合、聴講をお断りする場合があります。

  * 貴重資料展・講演会/永青文庫セミナーは、入場無料です。

  * 新型コロナウイルス感染拡大の状況によっては、附属図書館ホームページ・
    特設サイトにて動画掲載による実施へ変更する場合があります。
    変更の場合は、附属図書館ホームページにてお知らせします。

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■NHKオンデマンドで再度・・

2022-09-26 09:01:29 | 徒然

 一昨日のお昼過ぎ、何気なくTVのスイッチを入れNHK・BSプレミアムにチャンネルを合わせた所、「決戦・西南戦争」をやっていた。
どうやら二年ほど前に放送されたものの再放送ではないか?。
母の実家や、母方の祖母の関係者が熊本隊に参加、死者もあり、罪を得たものもいる。そういう意味では身近ともいえるが、今迄特に興味を以て勉強したことはない。
実は熊本史談会のスケジュールに、二回ほど「西南の役」が取り上げられる。
来年の一月例会に於いては、熊本博物館の中原幹彦氏をお招きして「西南戦争の考古学&よもやま話」という演題でお話をお伺いするが、先の放送に中原氏が出演されていて、あのブラタモリにも出演されていたリポーターの浅野理香さんと共に現地に赴かれて「田原坂」の激しい戦いの模様を解説して居られた。
これは氏の講演を前もって勉強したような感じであった。あわててメモを取ったりしたが、録画が出来なかつたためオンデマンドで再度見てみようと思っている。
録画を残しておく必要がある。

 

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■熊本発祥、由来の姓

2022-09-26 07:31:46 | 熊本

料理谷さん
  名字由来netによると、【全国順位】 67,083位【全国人数】 およそ20人だそうだが、まさにこのお名前は熊本という
  よ
り細川家に由来している。忠興公の時代より、細川家の料理番をつとめたという家柄で、明治維新後からこの姓を
  名乗られたという。
「料理谷」は「料理屋」に通じているのだという話を聞いたことがある。
  現在は「料理谷邸 葛籠」というお宿を経営されておられる。
  故・細川護貞さまが熊本に来られると必ずここを訪ねられたとも聞き、始めてその由来を知った。
  熊本の料理として、中村乙右衛門が著した「料理方秘」などから、熊本城本丸御殿が完成したころ「本丸御膳」なる
  も
のが復元されて、某料理屋さんで提供されているが、「料理方秘」がいわゆる江戸に於ける来客のお持成しの共通
  レシ
ピであるから、これらの御料理が平素のお殿様のお召し上がり物と考えるのは早計である。  

芹口さん
  こちらは同上netによると、【全国順位】 13,796位【全国人数】 およそ430人、何となく多そうに感じた名字だがこれ
  は
「阿蘇神」に連なる熊本固有の名字といって良い。
  熊本史談会会員のK氏の御親戚筋の古文書を見せて戴いたが、古くは阿蘇一族「吉見神」だとされ草部吉見神社の宮司
  職を勤められていたらしい。秀吉代阿蘇氏の滅亡により芹口氏も地侍になられた。

和齊さん
  こちらは【全国順位】 45,115位【全国人数】 およそ50人、その内30人ほどが熊本に集中している。

  実は「有禄士族基本帳」に名前があるが、内膳家の家臣であった人を直臣にしてやってほしいとする、内膳家の申請
  があったことを伺わせる文書が残る。
  「細川家家臣略歴」には名前が見えないところを見ると、「切米・扶持米取」の身分であったか。
  現在お問い合わせを頂いているが、詳細を知り得ないでいる。
    

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■四郎右衛門・道孝・竺印・中庵宛三斎書状

2022-09-25 06:39:29 | オークション

   細川三斎 書状軸装 ※読み有 (掛け軸 掛軸 掛物 茶掛 安土桃山 細川忠興 戦国武将 戦国大名 DQN四天王 茶人 )

   

 

 出品者から読み下し文(下)が付けられた「有吉四郎右衛門・松野道孝・竺印・中庵」に宛てた三斎書状である。
この文章は、寛永九年細川忠利が熊本に入国したあと、三斎が熊本城を訪れた際、庭に女流歌人の桧垣媼の塔があることに気付き、先の城主で改易された肥後守(加藤忠廣)のこの様な行いを「気違一つのうちたるべきと存候」と強く非難して、八代へ向かう道中の川尻の宿舎から、早々(今年中)に元の場所に返却するよう、四名の者に宛てて下知をした有名な書状である。
花押もなく本物が存在する処から写し(原文と相違あり)であろう。
大変失礼だが、上記読み下し文は大いに難がある。僭越ながら正式な読み下し文をご紹介しておく。

              昨日申度候つれとも始而
              参候間無其儀候今日
              天気悪敷候而川尻に逗留
              申内に越中所より歩之
              者参候間幸と令申候
              仍ひかき(檜垣)の女ノ石塔
              肥後守居間の庭に居て
              御入候此女は三代集之内ニも
              入無隠儀に候左候得者國之
              古跡にて候に此墓の
              石塔取候事も有間敷
              儀に候殊に主城の庭に
              石塔居候事も氣違の
              一ツの内たるべきと存候
              其上少も見事に無之候萬
              事肥後被仕様悪事を仕り                            
              可直儀に候條
              當年中ニ是を被取除
              昔の所へ遣むかしに
              不替様被立置可然と存候
              各御分別候而能
              時分越中に可被仰聞候
              哉 以上
               十二月廿一日 三齋
                 (有吉)四郎右衛門殿     
                 (松野)道 孝 殿
                 (山田)竺 印
                 (波多)中 庵
                        参る
  

 

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■ご恵贈御礼-「隣人・第53号」

2022-09-24 08:18:12 | 書籍・読書

             

 長いお付き合いをいただいている東京在住の近世史家・佐藤誠様から、草志会会報の「隣人‐第35号」をお送りいただいた。
今回も前回に続き、伊藤武雄著「堀内傳右衛門書簡集・2」のご紹介である。
堀内傳右衛門は元禄期の熊本藩士、赤穂浪士の吉良邸討ち入り後にその内の大石内蔵助以下17名をお預かりした折、接待役を勤め、その有様を詳細に書き残している。
その後傳右衛門は、関係者に切腹の様子その他、また伝言などを書簡や又直接伝えるなどの交流をなし、細やかに活動している。
前回4通、今回4通が詳細に照会されており大変興味深い。全部で24通あるとの事で、今後の資料にも大いに期待したい。
いつもながらのご厚情に心からお礼を申し上げる。

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■怖い本

2022-09-24 06:57:08 | 書籍・読書

 

              切腹考

 本を整理する中で、伊藤比呂美氏著の「切腹考」が顔を出した。
実はご本人からメールをいただき、その内容は、変な事をしている私のサイトに対して、呆れともお褒めともとれる言葉があって、最後に「切腹考」を上梓した旨の事が書いてあった。
その本が発刊されてからすぐ購入したが、目を通して驚いた。
15項あるうちの第1項がそれで、16頁ほどに「切腹」を実際する人に逢い、それを見たというとんでもない怖い話である。
アメリカ人の御主人とアメリカに住み、病気の御主人は近代的な施設に入る事をこばみ、氏は自宅で介護をし最期を看取られた。
鴎外がお好きで、侍の死生観に共感すると共にそんなご主人の死に向き合われた。
避けがたい人の死であるが、侍の切腹は「エロス」だといわれる。そんな中で、切腹の実演を御覧になったという話である。
そして、文中の記述の中から、この実演者に私は心当たりがあるような気がしている。
お買いになってお読みなさいとはとは申しあげない。
図書館からお借りにならずとも、16頁の怖くて不思議な「切腹実演録」をお読みいただけたら、二度と読まなくていいと気持ちにさせられる。

 気に成って仕方がない「怖くて読めない」この本を、また本棚の片隅に戻したことである。

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■本の整理のつれづれに

2022-09-23 11:09:45 | 書籍・読書

                     

 細川藤孝の生母・智慶院の父は清原宣賢、多くの子があるが生母は知れないという。
智慶院は足利義輝との間の子を身ごもったまま、細川晴員に嫁いでいる。その子が藤孝である。
この本の主人公は、清原宣賢の妻で翠子と仮名された女性である。「わが知らぬ女の腹に娘御(智慶院)が出来たなどと悋気した私・・」と書いているから、翠子を正室として扱っているようだ。
京都生まれの著者が、「室町ことば」を駆使して心の高貴なる世界を描き出している。
作者は千草子(そうこ)氏。「翠子・清原宣賢の妻」という著作もある。

かって私は、今東光の小説「お吟さま」を読んで、その会話の美しさが小説そのものを豊穣の世界に導くものだと感じたが、この作品も同様の感想をもたらしてくれた。
豊かで正しい言葉づかいは、その人に凛とした格をもたらしている。そうありたいと思わせる小説である。

一度は処分しようと思って仕分けしたが、またごみを払って本箱に収めた。

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■九月の末は・・・

2022-09-23 07:49:03 | 先祖附

 秋のお彼岸中と九月いっぱい、我が家は母方の祖母(24日)・母(27日)そうして高祖父・上田久兵衛(29日)の命日が続きます。
祖母とは30年弱起居を共にしましたが、亡くなって52年、葬式の日に長女が生まれましたか。祖母の名前の一文字を長女の名前に使いました。
母は20年、この間という感じがしますが早いものです。
久兵衛さんは145年、150年忌にはいろいろ思うところがありましたが、こちらが生きているかどうかわかりません。

 地震があって和尚様にお出でいただくこともなく、夫々が別のお寺にお墓がありお詣りもままなりません。
お仏壇に御花を上げて、手を合わせるばかりです。
年を重ねるとそれぞれの思いがますます強くなってきます。「後しばらくお待ちください」という心境です。
お彼岸の入り、近所の御宅の垣根にそって彼岸花が咲いていました。


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