津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

肥後六花-11(了) 「五月の雨」

2009-04-30 14:31:35 | 歴史
        肥後六花—11 「五月の雨」  文・占部良彦

 ヒゴシャクヤクは一・二重のいわゆる蓮華咲き。黄金色の芯を豊かに盛り上げるニホンシャクヤクの典型。花弁の数は八~十二枚。雄しべは百本から五百本もある。大輪で大きいのは直径三十センチにも及ぶ。花期は五月初めから中旬まで。五月の雨に打たれるこの花のけなげな姿は、昔から初夏の熊本に欠かせぬ情景である。
 白、紅、紫を基調に濃淡さまざまの彩りを持ち、六花の他の花と同じように濁りのない色と花型の整然さが身上。ヒゴギクとともに花壇づくりを正式の栽培法にしている。この花の花壇づくりは、色、形、大きさ、配列の仕方までガンジガラメにしたヒゴギクのような堅苦しさはない。二列の方形、または千鳥植え。前列は低く後列は高くする。花壇のまま鑑賞するか、切り花にするかによってその感覚をかげんする。花の色は両端が前列は白、後列が紅。そして紅と白はいつも隣り合わせ、その間に紫、桃の同系列の花ヲ近づけて配列する。
 大輪で金芯が鮮やかな花だから、紅、白、桃の数輪だけで豪華な盛り花になる。生け花にしても一週間は持つという腰の強い花である。
 熊本地方でシャクヤクを栽培したのは六花の中で一番早く、すでに室町時代からはじまっていた。古くから「エビスグサ」といわれたこの花が、「武士の花」として手がけられるようになったのはやはり重賢の時代から。寛政七年(1795)び、藩士中瀬助之進が「芍薬花品評論」を書いて、ヒゴシャクヤク栽培の基礎をつくった。
 四十四種について、花の構造、栽培法、鑑賞法、花会作法、花壇様式を説いたこの本が、六花の栽培教典のなかでは一番古い。
 その後、シャクヤクづくり仲間は「花の季節」となった天保年間に、ハナショウブの花連「満月会」と前後して「肥後芍薬連」を結成、終始、熊本の花づくちをリードして来た。明治三十六年につくられた「芍薬銘鑑」によると、当時の花連九人、一般の栽培家二十九人が手がけた品種は三百六。これが明治末期には五百余種になっていたという。助之進の時代から百余年の間に十倍以上にふえたことになる。
 熊本市出水町国府の外村敏さんは、いまは絶えようとしている伝統の花壇栽培を守り続けている一人。明治、大正にかけて多くの新花を生み出した外村裕次の孫にあたる。庭に残る花壇も祖父の「遺産」で、これがいまヒゴシャクヤク栽培のお手本にもなっている。
 敏山河この花壇とつき合ってもう四十年近い。子供のころから名人祖父の花つくりに打ち込む激しい気迫にふれて、いまはこの「花守り」に使命感のようなものを感じている。ひまを見つけては、素人技法で花弁、花芯の解剖図を書き留め、習い続けて来た一刀彫りの腕で独特のその花容をせっせと刻み続けている。
 「花どきにじっと部屋からながめていると、朝夕の冷気に静かに花びらをとじるいじらしさや、宵の薄あかりに漂う気品の良さがたまらない」という。武士の手で育てられた花が、いま肥後御名のあたたかい胸に抱かれている----六花のどの花にも、このようなケースは多い。
 花連「白蝶会」が数年前に解散して、いま六花のうちヒゴシャクヤクだけが関係団体を持っていない。戦前まではまだ二百種ぐらいあったが、戦災と水害で名花の大半を失い、いま残っているのは五十種前後。栽培家も熊本市周辺の十軒前後に減り、花壇栽培を続けているのも外村家を含めて二、三軒になった。
 もっとも、これは花つくり熱がさめたためではなく、原因の大半はだんだん広い庭を持てなくなったという、最近の住宅事情にある。残った同好者はいまも昔どおりに熊本市立博物館で、切り花の展示や花神祭を続けている。
 栽培家の庭はさびしくなったが、熊本県内各地の神社や公園、東京の新宿御苑、明治神宮、東宮家の庭に、いまも季節には芯が大きくボタンのようなこの花がみられる。
コメント

細川家家臣・須佐美氏

2009-04-30 07:58:49 | 歴史
 亡母の実家T家に、幕末須佐美家から養子が入った。明治十年の西南の役に際しては佐々友房と行動をともにし、獄までも共にし死去した。勇名の人である。そんなことがあって、須佐美氏についてはいささかの思いがある。

 須佐美氏は小豆島の地頭であったことが、香川県小豆郡池田町が昭和59年に発行した「池田町史」に記されている。しかし近世初頭からのことについてはまったく判らないらしく、何等の記載もない。須佐美家が初代とする「紀伊守」について同町史は、「花林常心禅門霊位于時慶長十七壬子未年二月廿七日 先須佐美紀伊守九州肥前長崎死去(明王寺釈迦堂安置の位牌)」と記している。一方養嗣子・甚太郎については、熊本市立熊本博物館に「加藤清正宛行状」が残されている。
     http://webkoukai-server.kumamoto-kmm.ed.jp/web/jyosetu/rekisi/katou.htm

 「加藤清正公家中附」ではその名前を確認する事は出来ないが、「三百六石余 須佐美六左衛門」「弐百五拾弐石弐升四合 須佐美八兵衛」等同族と思われる人の名前が見える。又、「加藤氏代熊本城之圖」では残念ながら、その屋敷を確認する事は出来ない。

    須佐美紀伊守---+---甚太郎---権之允---+--半大夫・・・・・・・・・・・・・・・・・・→太能家
               |                |
               |                +--源左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・→源五家
               |
               +---弥吉---九郎兵衛---+--清右衛門----九大夫・・・・・・・→素雄家
                                |             ↑
                                +--四宮傳兵衛---九大夫

コメント

中瀬助九郎の敵討ち(ニ)

2009-04-30 07:55:00 | 歴史
 中瀬助九郎兄弟の敵討ちというのは、天下に聞えたものであったらしい。そのため事の成就後仕官の話が幾つも有ったらしい。細川家への仕官は「明智の血」が関係しているのではないかと、私は考えている。
さて貴重な情報をお教えいただいたTK氏から、又も情報をいただいた。次のようなものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ■故平出鏗二郎氏の名著『敵討』(中公文庫)に、(寛文十一年九月九日)摂津国島上郡芥川
   松下助三郎(于時十四歳)の敵討の顛末が紹介されており、出典を『談海巻二十五』(※1)
   等に得ています。

     (※1) 内閣文庫所蔵史籍叢刊〈44〉『談海・玉滴隠見』

『敵討』によると、松下源太左衞門は、加藤家の石見移封後は二百石知行していましたが、後に暇を乞い、京都・江戸赤坂に移住した処、寛文九年三月二十一日暮に早川某〔四郎兵衞※2〕息八之丞のために斬殺されたとあります。また、松下助三郎の母は源太左衞門の後妻で、加藤明成の妾腹の女(※3)、助三郎の別腹の兄に栗田三郎兵衞ともあります。

     (※2) 『加藤家分限帳』に、早川四郎兵衞は安達兵左衞門組、三百石とあります。
     (※3) 『加藤家系譜』には載っていません。
☆ちなみに本件とは無関係ですが、『加藤家分限帳』に付録している『会津落去後牢人相済候面々』に、「細川肥後守殿へ、佐瀬彌内、山田八太夫、太田文四郎」があります。

 ■西尾市岩瀬文庫蔵『加藤家系譜〔内題:御系譜論〕』の他の箇所に載せてある系図に、石川宗
   左衞門隆次に嫁した加藤左馬助嘉明姉は、実は加藤三之丞教明に再嫁した川村彌左衞門の
   女の連れ子で、すなわち胤替りの姉になる旨注記がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 只々感謝である。私の手元にA4判35ページにわたる「中瀬家伝略」のコピーがある。TK氏からいろいろお教えいただいて、訓下しに取り掛かっているが遅々として進まない。敵討ちどころか、返り討ちに合いかねない・・急がなければ成らない。
コメント

右之むすめ禰々と申候

2009-04-29 19:17:14 | 歴史
 寛永六年二月吉日書状(細川家史料-729-)

追而書之状見申候、其元之様子披見候二、ゑんじやごのみを仕候ハあしそうニ御入候由、
さやうニ可在之候、たがいニ力ニ成ことくのゑんしやハしうの為ニハわるき事候、又、公儀
むき其外おもハしからぬ衆と申合候ハ、事之外なる儀候、むかしよりゑんしやニ付よき事ハ
まれ成物候、心安候て物之不入が上々にて候、からす丸殿二番めのむすめと六と御申合
有度由、一段尤之儀と存候間、万所へをんみつにて可申遣候、定而可為満足候、我々より
申まてハ堅をんみつめされへく候、右之むすめ禰々と申候、そう一りハつニ御入候間、かた
/\可然候、大い殿と御たんかう有へく候、恐々謹言
                           三齋(花押)
   二月吉日
  未めかすみ、此中ハ猶々ほ(は)れ申候付、書中わけみへ申ましく候、此儀めてたきと
  申事候 已上
         越中殿
           進之候

 私は、光尚と烏丸家の禰々との結婚についての言い出し兵衛は、忠興だとばかり思っておきたが、
この書状を見るとどうもそうではないらしい。しかし事の成就に向けて、忠興の猛ダッシュが始まる。
コメント

爺さま転倒

2009-04-29 17:05:41 | 徒然
 昨晩両手に荷物をもったまま、駐車場の車留めブロックに足をとられて、もんどりうってこけてしまった。かって知ったる知り合いのお宅の駐車場だが、真っ暗で足元が良く見えなかった。帰宅して確認すると、左膝頭の皮がめくれて出血している。これが今朝になると、左足の膝下が1度ほど開いた(?)ような違和感があって、踏ん張りが利かない。階段の上り下りも苦になって、今日は一日家の中である。昨日は阿蘇では忘れ雪、お天気は良いが風邪が冷たい。そろそろ検案の「めだか捕り」に出かけたいところだが、風の冷たさと膝の痛さにかこつけて、スケジュールは一週間ほど延期と相成った。
コメント

不仲の婿殿

2009-04-29 16:56:13 | 歴史
 豊後臼杵藩主・稲葉典通と、豊後日出藩主・木下延俊はそれぞれ忠興の娘・妹を正室に迎えている。その二人の仲がよくないらしい。

                    稲葉典通
                       ∥
   細川幽齋---+--細川忠興---多羅
           |
           +------加賀
                  ∥
              木下延俊

 元和七年十月廿六日の忠利宛書状の中に、次のようにある。(細川家史料-322 抜粋)
      「稲彦と木右と間悪敷事存候、當所へ被来候ハゝ、中なをし可仕かと存候事」
 但しこの時期二人の奥方は既に亡くなっている。
       多羅 慶長十九年九月十七日没 徳雲院玉叢英蘭 27歳
       加賀 慶長九年十ニ月十四日没 松屋寺即庵妙貞 没年齢不詳

 さてその結果は・・・残念ながら史料を見つけ出せないでいる。
コメント

肥後六花-10 「植木屋文助」

2009-04-29 10:50:36 | 歴史
                         堅山南風作・肥後椿       

      肥後六花—10 「植木屋文助」  文・占部良彦

 「門外不出」を身上にして来た肥後六花の中で、すすんで然栽培品種とその技術を公開しているのがヒゴツバキ。いまでは「ヒゴ・キャメリア」の名で海外にも知られ、四年ごとに開くパリの「花の万国博」に特別出品の招待を受けたこともある。
 熊本の山野には古いツバキの自生種が多く、加藤、細川両藩時代を通じて参勤交代御用船だった波奈之丸(なみなしまる)にも、大きなツバキの花が書きこまれている。昔からこの花とは縁の深い土地柄だったが、特異な姿を持つヒゴツバキがどのように生まれたかは、まだよくわからない。
 その一番古い文献とされているのは「江戸白金植木屋文助筆帳」。芝白金の細川家江戸屋敷に出入りしていた植木屋、文助のメモ帳を文政三年(1830)に藩士、武藤輝秀が書き写したもので、ヒゴツバキのほか二十二種の花木の栽培法が記されている。このツバキについては、三十品種にわたって色、形、さし木、接ぎ木、ハチ立ての方法などを詳しく説明している。
 文助は「持ち前の花しべ」とその特徴を示し、当時の主流だった京都、江戸のツバキとはっきり区別している。三十品種の中には現存するものもあり、またこのころからハチ植えが重用されていたこともわかった。
 肥後六花史の研究家・村山豪さん(熊本県庁勤務)は、このころすでに栽培法が定着しているとすれば、この花の起源はさらに数十年の重賢時代にさかのぼると考えるほかないといっている。
 ヒゴツバキの花弁は薄色が主流で、よく整った一重咲き。中心は金糸、銀糸のような色鮮やかな太い雄しべが、梅の花芯(かしん)のように盛りあがる。品種改良の過程で、この条件に合わぬものはようしゃなく捨て去られたという。その原種は自然交配によるものだったという説もあるが、どう見てもモッツコシズムを貫いた「人工の花」の感じはぬぐえない。
 この花の栽培は武士だけではなく、商人たちの間にも広まり、昔から開放的な空気が強かったようだ。文政年間に江戸の植木屋文助でさえ手をつけていたこと、接ぎ木の正しい技法、独特の文人風盆栽仕立てがすでに江戸時代に定着していたことなどからも、このことがうかがわれる。
 積極的な増産と外部への普及をめざして現在の「肥後椿協会」が埋めれたのは昭和三十二年。ちょうど世界的なツバキブームで、国内だけだなく外人愛好家にも目をつけられた。派手で厚ぼったい八重咲きのツバキしか知らないかれらに、淡白な一重のヒゴツバキが衝撃的な印象を与えたようだ。
 三十七年にオーストラリアから国際ツバキ協会長のウォーターハウス博士がこの花を見に熊本にやって来た。博士は「ヒゴ・キャメリア」と命名し、帰国後、同協会の機関紙や新聞、テレビなどで大いに宣伝してくれた。そして、会長の平塚泰蔵さんを国際ツバキ協会の終身名誉会長に推薦した。
 アメリカツバキ協会との間に苗の交流も実現し、いまロスアンゼルス(カリフォルニア州)のハンチントン・ライブラリーの庭園に五十種・百五十本のヒゴツバキが咲いている。
 東京五輪が開かれた昭和三十九年に、英訳をつけてこの花の全容を紹介した「肥後椿」三千部を出版したところ、滋賀県を除く全国の都道府県とギリシャ、西独、フランス、イタリアから六百種の照会、苗の申し込みが届いた。反響の大きさに、関係者はおそろしささえ感じたという。
 肥後椿協会の会員はおよそ四百人。むろん、六花の中で一番の大所帯である。ここの特色は生産部会を設けていること。平塚会長は九州財界のリーダー。業者を協会の組織に入れてツバキ園芸を採算のとれる事業に育てることが、郷土の名花を生かす道だと割り切っている。現在、苗の年産は約六万本。大口の需要よりも、個人愛好家の注文を優先させている。モッコス花連、満月会が目をまわすような近代化である。
コメント

中瀬助九郎の敵討ち

2009-04-28 10:15:28 | 歴史
 TK氏からご教示いただいた、中瀬氏に関する一連の史料のなかの「近世畸人伝」より、細川家家臣となった中瀬助九郎の敵討ちに係わる事柄をご紹介する。
これは助九郎の弟である、六孫王社中興の僧「南谷」に関するものであるが、その中に「附録」として助九郎のことが記されているものである。

附、松下助三郎豊長後故有て母家の姓を冒し、中瀬助九郎といふ は、南谷の兄也。父忠綱、江戸の寓居にして早川八之丞が毒手にあひし時、年十二歳也。其夜、八之丞手書を残し置り。其書にいはく、 我は加藤式部少輔内、早川八之丞一敏といふものなり。先年、藪久太郎忰、八助儀に付、大崎長三郎と出合、白昼に討留、国を立退し所、親、早川四郎兵衛切腹被レ仰付ケ、其節縁類ども、切腹被レ差延我々え御預可ク被下サ候はゞ、当人八之丞引返し可キ申ス由致シ訴訟候へども、松下源太左衛門出頭し、其上、右長三郎縁類たるを以て、内々讒言候に付、四郎兵衛切腹被レ仰付ケ、源太左衛門右讒者故、如キ是ノ次第なり。
其後、豊長京師にかへり、宮原伝蔵といふ人にしたがひ剣術を習ふに、此人もと親の怨家を討んとせし間、其怨家病死して本意を遂ざることをうらむ。さる故に吾身にくらべて此少年を憐み、日にをしへ夜につたへ、かつ同じ心に八之丞が行へを求るに、八之丞は今、薦僧となるよしを聞出し、伝蔵も亦其党に入リ、うらなきさまに語らひぬ。一ル日浪華のかたに執行せばやと約し置、其夜、助三郎にかくとつぐ。時寛文辛亥歳九月六日夜也。豊長とみに両人の従者、坂根八左衛門、中田平次右衛門。 をあともひ、夜ごめに大坂に行、官廳に達し、こゝにまち、かしこにもとめ、此日は大坂にとゞまり、明日通衢にかゝり尋ね、其夜は芥川の駅に宿す。翌九日、旅店の蔀をあぐる比、こも僧二人通れり。則一人は八之丞、一人は伝蔵なり。伝蔵人々をみて目ぐはし過ぬ。さて三人とも追行に、伝蔵は岐路より右の方へ行、八之丞は村衢にいる。やがて豊長其由をいひて切かゝれば、八之丞も懐剣をぬきながら、木綿畑の溝を飛越んとしてつまづきたふれぬるを討ぬ。時に豊長年十四歳也。此挙の後、諸侯よりつのり求め給ふこと多時也。しかれども豊長いふ、子として親の讐を復するは則其職也。今、是を口実として禄をうくるは恥べきの極メ也とて、一も不応ゼ。其後、細川肥後侯は母氏のちなみあればとて仕ふ。今に其子孫連綿たりとぞ。蒿蹊云、俗間に野叢談話といふものあり。それが中に華塵談とて、此復讐のよしを書り。されど文飾多く、かつ事実も大同少異也。今、寺記によりて其要のみをしるす。




コメント

肥後六花-9 「牽牛子」

2009-04-28 08:44:17 | 歴史
        肥後六花—9 「牽牛子」  文・占部良彦

 「漱石俳句集(大正九年・岩波書店刊)」に「朝顔の黄なるが咲きと申しきぬ」の句がある。明治二十九年の作。漱石が熊本の旧制五高教授だったころだ。朝顔づくりの仲間では黄色の花を作るのが夢の一つで、昔から「幻の花」とされている。その花が咲いたというのである。
 明治二十年代から熊本地方では朝顔栽培が大流行していた。たまたま、漱石が五高在任中の三十年前後は坪井町かいわいに住む五高教官、裁判所職員らの官員さんや勤め人が集まった「坪井連」と細工町、呉服町、新町の商家のだんな衆を中心とした「新町連」が、品評会でお互いに張り合っていたころ。
 この「黄いろい花」がどちらの連で咲いたものか、あるいはうわさだけに終わったものか分からないが、ともかく、そんな騒ぎも起こしかねない熱っぽいふんい気があったようだ。
 肥後の朝顔づくりの伝統は古いが、いまのヒゴアサガオについては明治以後の文献しかなく、それまでどのようにして育ったのかよくわからない。いずれにしても、ヒゴアサガオは長い間、全くといってよいほど他品種との交流はなく、古くからの栽培法をそのまま受け継いでいる点が、日本の朝顔の中で異色とされている。
 大輪ではないが、純度の高い単色とスハマソウに似たハート型の整った葉形を持っている。肥後六花の研究栽培をしている栗屋強・熊本大教授によると、この花が、奈良朝の七世紀ごろ中国から渡来し、牽牛子(けにごし)と呼ばれていたころの花に一番近いのではないか、という説があるそうだ。
 近世の朝顔栽培は文化—文政、嘉永—安政、明治—大正の三つの流行期があった。熊本でも、ほぼ同じような道をたどったが、なかでも一番熱をあげたのは明治の後半。これが三十二年の「肥後朝顔涼花会」の結成となって現れた。
 当時、涼花会が開いた会員の「持ち寄り会」には四百ハチ以上が集まった。この会場に出た花の色から婦人着のエリの流行色を選ぶため、東京、大阪から大勢の職人がやって来たという。三十九年に出た「涼花会朝顔培養法」がいまもヒゴアサガオづくりの教典になっている。
 会創立当時の会員は四十四人。四年後の三十六年に名古屋朝顔会から八人が入会を申し込み、八代、熊本両市に支部ができた。その後、福岡、岐阜、山口などからも入会者が相次ぎ、会の活動を中断する太平洋戦争前年の昭和十五年には百八十人になった。
 熊本国体があった戦後の三十五年秋、当時、熊本大学学生集会所の給食婦をしていた徳永据子さんが、時期はずれのヒゴアサガオを満開にして天皇、皇后にお見せした。ちょうど九州旅行中だった国立遺伝研究所細胞遺伝部長の竹中要博士がこれを聞いて、徳永さんを訪ねた。そして「ヒゴアサガオがまだ生きていたのか」と驚き、このことを中央で発表するというようなこともあった。
 徳永さんが戦後、熊大で働き始めて間もなく、花仲間の栗屋教授の研究室にやって来て「先生たちが学内でかっている朝顔を全部のけさせて下さい」と頼んだ。「
私の花に雑種がまじっては困る」という。その意気込みに、みないさぎよくハチを引き取ったそうだ。
 戦争中や戦後の水害のときも、徳永さんは朝顔の種をリュックにかついで避難した。三十七年の涼花会再建にも、その中心になった。四十二年に病気で倒れたが、涼花会は異例の「徳永据子杯」を設け、毎年の花神祭に、会の功労者に贈っている。
 この花は紅、桃、青、るり、えび茶、紫と白の七色。本ずる一本で第三花まで小ハチで楽しみ、あとは路地に移してカキネの花として鑑賞する。生涯、つるを摘まずに自然の草の姿をだいじにする。「純血種」という肥後人このみのを代表する花の一つといえるだろう。
 涼花会の会員は、いま百五十人前後。栽培品種は十七。七月七日と九月初めに開く「持ち寄り会」には二百ハチ以上が集まる。
コメント

不仲

2009-04-27 16:46:20 | 歴史
 三齋忠興と弟・興元の不仲はどうやら本物らしい。慶長六年十二月のこと、忠興の元に一族・重臣が集まるという時期を見計らって興元は出奔している。興元は寛永十四年家康に召し出され、秀忠から野州茂木壱万石を拝領、元和二年常陸谷田部六千三百石を加増されている。それ以前、寛永八年の話が次のようにある。興元の嫡子・興昌(当時27歳)が輿に乗った事を知り忠興は意見している。「公儀の事をちかえ(違え)」て居るという訳である。そして、「人ノ内にてはなく候事」人には非ずと極評し、忠利に対し「其方何とぞいけん候て可被見候」と意見するよう申し入れている。
そして又、「前より申候事の後不合事ハおやゆづりと見へ申候つる」興晶の約を違うは親譲りと散々である。
 徳川家康の斡旋による兄弟の仲直りは、四年ほど後の事である。

コメント

肥後六花-8 「足曳き」

2009-04-27 10:33:00 | 歴史
        肥後六花—8 「足曳き」  文・占部良彦

 気が遠くなるほど約束事が多く、しかもほとんどつきっきりで世話を見なければダメになるヒゴギクの花壇栽培を、今の時代に続けるのはよほどいる覚悟が居る。花連の伝統を引き継ぐ現在の「肥後菊愛寿会」の中でも、この花壇づくりを維持しているのは三、四人という。その一人で、会の元老格でもある瀬口直民さん(72)=熊本県飽託郡天明町(現熊本市)=のキク談義がおもしろかった。
 ----英露の時代まではいまのようなヒゴギク一辺倒ではなく、花壇栽培の初期には厚物咲きも使われていたようだ。花壇の総合美、武士好み、肥後人かたぎに合うように苦心を重ねていまの花ができたと思いますね。花びらが少なく、色に派手さもなく一見さびしそうだが、切花にして茶室などに飾ると、厚物咲きを圧倒する清れつな美しさと気品を持っているのがよくわかります。
 ----殺虫剤や草丈、花の大きさを調整する化学薬品、花期を調整する電照法が生まれ、園芸の知識、技術も問題にならぬくらい進んで来た。昔に比べて花壇づくりの手間も随分軽くなったはず。でも、いまに若い人たちにこんなしち面倒な規則にゆいて行けというのは無理。私は文化財ともいえるこの花を絶やしてはならないと思い、「路地植えでも結構。とにかく咲いたらきれいですよ」と、いまは素人にもどんどん勧めている。
 ----ヒゴギクには昔から「花八分」という言葉がある。たしかに満開の一分手前で抑えたときが、花も葉も一番丹精な形をとります。でもいまの人たちは、こんなやり方には満足しない。私もたまには冒険して葉がよじれない程度にちからいっぱい咲かせて見ることがある。このときは一種のあでやかさも出て、この花の隠された一面にふれる思いもします。感覚、価値観の変化に応じて、ヒゴギク栽培もだんだんに脱皮を図る必要を痛感させられますね。
 「養菊指南車」には花壇の位置、花壇を囲む「屋台」のつくり方も示している。屋台は花どきに風雨や霜から守る為で、天井には防水加工をした和紙(いまはビニールを使う)、背景にスダレをおくのがしきたり。これに派手なまん幕など使うと調和をくずしてしまうそうだ。花壇の位置は南向きの庭を指定しているが、これは花がみな前を向いてしまう。そろって上を向かせるためにはむしろ、北向きの庭がよいと、瀬口さんらは主張している。
 この花をハチ植えで鑑賞することもある。このときは花壇の「天」の列、後ギクの配列を使う。室内では背後に金びょうぶをおいたりするが、花壇とは趣をかえたこの花独特の気品がよく味わえるそうだ。
 いまは絶えたが、明治のころの品種に「足曳(び)き」というのがあった。品評会にでたハチからこっそり芽を摘み取り、ぞうりの緒にはさんで持ち帰ったものだという。「花盗人」が育てたものらしい。おいそれとは、種や苗を人に分けてやらない当時の花つくり仲間の空気がよく分かる。
 「会の許可なく花名の変更や種、苗の譲り渡しを許さず」「故なく他人の花を持つ者には、会員三人以上の鑑定で撤去、または返還を命じる」----明治時代の愛寿会会則はこんな風にに書かれている。ハナショウブの満月会とともに、肥後の花連をリードして来たこの会の締めつけも、またかなりのものだったようだ。
 いま、ヒゴギク関係の団体には花連の伝統を継ぐ愛寿会と、愛好家を中心とする「肥後菊保存会」(会長・熊本市長)があり、嵯峨ギク、伊勢ギクと並んで、特殊ギクとして名をなしたこの花の保存、普及に力を合わせている。熊本県園芸試験場でも絶えかけた古い品種の保護や、ハチ植え品種の育成などに取り組んでいる。
 なお、東京・新宿御苑には戦前の昭和五年から、寒菊回用にヒゴギクの一花壇が設けられている。秀島英露の墓は熊本市横手高麗門妙立寺の境内にあって、碑面には鮮やかなキクの花が刻みこまれている。
コメント

中瀬氏についてのご教示

2009-04-27 10:32:09 | 歴史
 過日、埼玉在住のTK様(大坂の役牢人衆の研究家)から、【大坂籠城した細川家旧臣】【細川家へ
召抱られた大坂牢人】【細川家へ召抱られた大坂城士の子弟子孫】【松井家へ召抱られた大坂城士の
子弟子孫】等々をご教示いただいた。大変貴重な御教示で感謝申上げる次第である。一二のご質問に
対しささやかなご返事を申上げ、その後ご厚誼をいただいているが、過日の「松下嘉兵衛の子孫・中瀬
氏」について、以下の貴重な情報をお送りいただいた。転載のお許しをいただきここにご紹介する。

     西尾市岩瀬文庫蔵『加藤家系譜〔内題:御系譜論〕』より 【以下要約】
■三州の人加藤三之丞教明の長女〔加藤左馬助嘉明姉〕、石川宗左衞門隆次〔加藤嘉明家臣、
  千五百石〕に嫁し、寛永七年十月十三日会津若松城下に死す。時に七十八歳。
■其子石川新右衞門清隆(※1)、若名茂助。会津にて二千石、番頭を勤む。会津落去後土佐
  山内家へ召出され、百人扶持を賜る。土佐に住し、明暦元年九月五日死す。室は野中主計
  の女にて山内家縁者の由緒を以て土佐へ招かる(※2)。
■其長女、中瀬彦三郎に嫁す。彦三郎、会津加藤家にて九百石(※3)、近習を勤む。
■男子無く一女あり、松下忠三郎(※4)、後に太左衞門に嫁す。太左衞門、喧嘩にて死す。三子
  あり。
太左衞門の長子中助九郎、父の敵を討ち、後に細川越中守へ召出さる。千二百石、用人を
  勤む。正年中隱居。其子中瀬助之丞。其子中瀬助之丞。

■太左衞門の次子、父の敵を討ち、後に出家し、京都大通寺南谷と号す。六孫王社中興開山。
  能書家。元文元年十月十三日死す。
■太左衞門の三子深尾權之進、土佐山内家へ召出さる。享保年中死す。其嫡子も間も無く死す。

  (※1) 加藤家家臣録に、石川惣左衞門の子家老石川新右衞門、知行二千石とある。
  (※2) 土佐諸家系図所載野中家系に、野中主計益継の女、石川新右衞門清隆に嫁し、万治
      二年五月二日死とある。時に六十九歳。法名妙紹院法種日会大姉。
      石川新右衞門清隆、一に石川道節清澄に作る。寛永二十年山内忠義へ牢人分五十人
      扶持にて召出。
  (※3) 加藤家分限帳に、近習用聞役人・歩行頭中瀬彦三郎、知行九百石とある。
  (※4) 加藤家分限帳に、小々性松下忠三郎、知行三百石、注記に後源太郎左衞門、中瀬助
      五郎父とある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 尚、六孫王社中興開山・京都大通寺南谷については、『近世畸人伝』(大学共同利用機関法人人間
 文化研究機構 国際日本文化研究センター)にみることができる。
             http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/kijinden.html

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 上記による略系図

               柳生但馬守宗則
                      ∥
                  +--おりん
                  |
      松下石見守之綱---+--重綱
                  |   ∥
                  |   
                  |
                  +--外記---松下忠三郎
                               後・源左衛門
                     中瀬彦三郎     ∥---+--中瀬助九郎・・・→細川家
石川宗左衞門隆次               ∥------●  |
        ∥----新左衛門清隆---長女●         +--南谷・・・・・・・・・→京都大通寺
  +------●                           |
  |                                 +--深尾権之進・・・→土佐山内家
  +---加藤左馬介嘉明--------
  
  
コメント (3)

肥後六花-7 「陰陽五行」

2009-04-26 11:00:34 | 歴史
        肥後六花—7 「陰陽五行」  文・占部良彦

 数あるキクの中で、ヒゴギクは素人でもひと目で見分ける事のできる鮮やかな特徴をもっている。そして、この花のようにつくった人の気迫を感じさせるのはほかにないだろう。まんまるな黄金色の芯から車輪の幅(や)のように伸びた花弁、花の色は住んだ赤白黄の三つに統一され、大輪なのに細長い花びらはハリガネのように、決して腰折れしない。清楚と力強さをひたすらに内に秘める----そんな感じさえする。
 だが、ヒゴギクは果断栽培が建前で、一本、一本の花にも趣はあるが、全体の総合美に重きをおいているところが、ほかのキクと違っている。しかも、花壇を精神修養の場と見立て、ここに儒教の教えを表現し、花の配列には幾何学的構成を求めるという、肥後人のきまじめさと、度外れたいっこくさがめにみえるような複雑な規則をかかえている。
 その始祖は文化、文政年間に花つくり名人として知られた藩別当職の秀島七右衛門。「英露」と号した。かれは「士風向上」という重賢の遺訓に沿って、この花壇栽培法を考え出したといわれている。町に算術塾をひらくほど算数に明るく、その好みが花壇の幾何学的構成になって現れているようだ。文政二年(1819)に英露が書いた「養菊指南車(ようぎくしなんぐるま)」が、いまもヒゴギクづくりの「聖書」になっている。
 この本の幾通りもの方形花壇と、これに添える「ソデ花壇」のつくり方を示している。基本になっている三間花壇についていえば、その大きさは幅が5.4メートル、奥行き90センチ。この中で等間隔で二十九本の苗を参列に植えこむ。前列と後列に十本ずつ、中列に九本。後、中、前の順に天、地、人と呼び、中ギクの「人」は「天」と「地」がつくる方形の真ん中、その対角線上におかれる。
 ヒゴギクは花弁が筒になった管弁と、細く平たく伸びた平弁とに分かれている。平弁は「陰の花」、管弁は「陽の花」。また一本の苗に咲く花の上から五番目までを仁、義、礼、智、信の現れと見る。そして陽花は一番高い「仁」を真中に、陰花は「仁」と「義」を左右にふり分けるように育てる。五つの花は、常にその序列に随った高さを守らなければならない。
 可段ハこのように決めた陰陽の花を、赤白黄の順を守って交互に並べて行く。赤、白、黄は陰陽いずれにもなるが、出来上がった形は前、後列は両端がともに赤色の陰花、忠烈は黄と白の陰花。そして天地人を結ぶ対角線上には、常に三色の花が並ぶ仕組みになっている。工夫はこれだけではない。
 天、地、人の列ごとに苗の高さと花の大きさをそろえねばならぬ。天の列の後ギクが一番高く、花は大きく、前に行くほど低く、小さくなる。花の大きさの基準は前ギクは三センチ前後、中ギクが七~八センチ、後ギクが二十~二十二センチ。草丈は前列五十~六十センチ、後列は百七十~八十センチぐらいになる。こうして下段の花全部がひと目で見えるようにする。
 また、原則として花壇に植えるキクは三間花壇で二十九本、五間花壇では四十七本が全部違った花でなければならぬ。春先の植え込みの時の、この品種選定が大事で、これは途中でやり直しが出来ない。若し苗を間違えて、秋に花が開いたとき、赤い花が隣り合ったり、陰花の平弁同士が並んだりしても後の祭りである。
 かくして、方寸の我が家の庭に陰陽五行の世界、天地人三方の和、人倫の道を具現しようという、とてつもない夢を描くこの花壇つくりは、もう趣味といえるようななまやさしいものではない。誠実、綿密、根気強さに、年期を入れた栽培技術を結集する大仕事である。このため、昔から花壇拝見も羽織、ハカマでするのが礼儀になつている。
 秀島英露は「指南車」のなかで立春から晩秋まで一年間の手入れの仕方を詳しく示し「キクつくりは、これ生涯教育の道なり」と説いているそうだ。
コメント

 肥後六花-6 「満月会」

2009-04-25 13:52:06 | 歴史
        肥後六花—6 「満月会」  文・占部良彦
 熊本方言に「アクシャウツ」というのがある。しまつに負えない、どうにもこうにもならない、ということだ。この一方にあるのが「ムシャンヨカ」。ムシャは「武者」のこと。意味はいさぎよい、立派だ。いまはやりの「カッコイイー」もこれにあたる。ともに極端なけなし言葉とほめ言葉だが、この両方のお手本にされているのがいまの「熊本花菖蒲満月会」。
 現在の会員は約四十人。ほとんどが中年以上の年配者で、六花の団体の中でも一番結束の固いところ。そして、いまもかたくななまでに昔ながらの姿勢をくずさず「生きている花連」ともよばれる。
 江戸時代はどこの花連にも種や苗の「門外不出」の鉄則や、これに付随するいろいろなおきてがあった。これらは良花を守るためにはある程度やむを得ないことだと、戦前までは多くの花連でこのしきたりが守られていた。千五、民主化の波は花連にも及んで、もはや昔のような締めつけはなくなった。いまではすすんで苗や技術を公開しているところさえある。それでも、満月会だけは変らない。
 熊本市と肥後椿協会ら六花の関係者は、六花をもっとみんなに親しんでもらおうと、二面前から熊本城内の広場に「名花園」を設けた。すでに五花は植え込んだが、ハナショウブだけは満月会が応じようとしない。そこで、この会とは因縁の浅からぬ旧藩主家の当主、細川護貞さんに口添えを頼んだがやはりダメだった。もう「殿様」の命令もきかないのである。
 始祖、吉田潤之助が江戸で松平菖翁に秘伝の苗を譲ってもらうとき、これを絶対に外部に出してはならぬと固く言いふくめられた。このときの約束が厳しいおきてとなって、いまも生き続けているわけだ。以後ずっと、吉田家を中心とする花連だけがこの花を手がけ、満月会の会長も吉田一族の中から選ばれて来た。
 快速は明治二十六年に急坂時代のしきたりをもとにして決めたものを、一部手直ししただけでほとんどそのまま取り入れている。苗は必ずハチ植えで育てること、会から譲り受けた苗は栽培期間中、一時配布を受けたもので私物ではないと心得ること。たとえ親族、友人であっても会員以外には決して譲ったり売り渡してはならぬ。退会または会員死亡のときは、本人か家族が直ちに苗を返すことなど、江戸の桜草連に全く変らぬしきたりがいまも生きている。
 満月会百余年の伝統行事に「花神祭」がある。菖翁、斉護公、潤之助らの功労者と物故会員の慰霊祭で、毎年、花どきの六月十六日に開いている。はじめは吉田家の私的な催しだったが、後に花連の公式行事となり、他の花連もこれにならった。
 潤之助の時代、花つくり仲間が毎月十六日の晩に集まり、花連の名前も最初は「十六夜会」と称していた。花神祭の日取りもこの故事に従ったものだ。また、花神祭と同時に「総集会」を開く。会の活動報告、決議をしたり、全員の親ぼくを図るため、命名が育てたハチの鑑賞や新花の披露、命名をするのもこのとき。
 総集会に出品された会員の花は、すでに戦前から一般にも披露されていた。戸頃がそのやり方にも昔ながらの門戸閉鎖主義がいかんなく発揮されている。
 ことしから会場を熊本城内に移し、六月十五日から三日間天守閣で展示会、十六日に小天守閣で花神祭をした。会場にハリ紙をして花の写真撮影、スケッチは一切禁止、花名を書き取ることも許さない。花神祭には会員以外はだれも近づけぬ。「これでは公開の意味がない。まるで秘密結社のようだ」とあきれて帰る人も多かった。
 これらの声にも、会場で采配をふるった副会長の吉田可勝さん(鎌倉市在住)は「会の伝統と名花を守るためには当然のことです」と胸をはっていた。
 この人たちには、いまだに保守的な同族意識が抜き難く、これに長く肥後の花連の中核だったという自負と、あえて時流に逆らうモッコスの気骨がからみ合って、いまの満月会を支えているようだ。
コメント

宮本武蔵の俸給

2009-04-25 08:49:13 | 歴史
 宮本武蔵の消息が、足利道鑑と並んで登場する以下の二つの記録は、この時期の武蔵の立場がうかがえて興味深い。客分といった立場であったのだろう。

 ■ 寛永十七年十月二十三日・奉書
道鑑様・宮本武蔵 山鹿へ可被召寄候 然者人馬・味噌・塩・すミ・薪ニ至
まて念を入御賄可被申付之旨 御意ニ候 以上
   十月廿三日             朝山斎助在判
       御奉行中
 
 ■ 寛永十八年正月二日
道鑑老・西山左京(道鑑子)・同勘十郎(左京子)・同山三郎(勘十郎弟)、
新免武蔵(剣術者也)、源次郎(不詳)、春田又左衛門(具足師)なとハ奥
書院ニて御祝被成候而・・・・・・            (綿考輯録・巻五十二)

 管見では、武蔵の俸給に関するものが三つある。

 1、寛永十七年八月十三日付・奉書
   宮本武蔵ニ七人扶持・合力米十八石遣候、寛永十七年八月六日より永可相渡者也
      寛永十七年八月十二日 御印
                         奉行中
    右之御印、佐渡殿より阿部主殿を以被仰請、持せ被下候、右之御印を武蔵に見
    せ不申、御扶持方御合力米ノ渡様迄を、能合点仕やうニ被仕候へと被 仰出旨、
    主殿所より、佐渡殿へ奉書を相渡候を、佐州より被 仰聞候也.

 2、寛永十七年十二月五日
   宮本武蔵ニ八木三百石遣候間、佐渡さしづ次第ニ可相渡候、以上
      寛永十七年十二月月五日(ローマ字印)  
                         奉行中
最近「部分御舊記」に記載あるを発見したもの
 3、正保二年「御扶持方御切米御帳」
   ・御合力米 七人扶持拾八石       宮本武蔵

 (1)(2) は忠利代、(3) は光尚代のもので武蔵の死の直前のものである。
(1) に於いては、「御印」を見せずに武蔵を納得させるようにとしている。つまり正式な辞令ではない(家臣としての扱いではない)という事であろう。いわゆる客分として、この扱いは光尚代 (3) まで継続されたものではないのか。ならば (2) をどう解釈するか。現米三百石とは知行取に換算すれば七~八百石となる。これも「佐渡さしづ次第」とされて大変曖昧である。果たして是が完全実行されたのか大変疑問である。



コメント