津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■骨折予防

2024-02-29 16:50:01 | ご挨拶

 昨日は随分風が吹いた。そんな中、朝散歩にでかけたら、途端に花粉症症状が出て目のかゆみくしゃみ鼻水の三点セット症状が勃発した。
当然眼鏡をかけて外出するのだが、あまり役には立っていないということだろう。花粉防止用ゴーグルを購入しようかと本気で考えてしまう。
鼻水も難儀なものでもうティッシュの山を形成し始めた。それにくしゃみを連発し始め、胸が痛くなり始めた。
良く咳で肋骨にひびが入ったという話を聞くが、私のくしゃみは天地を轟かすように激しいので奥方の顰蹙をかっている。
出もの腫物所かまわずで、是ばかりは止めようがない。私の肋骨は随分丈夫にできているようで、生半可なことで折れはしないだろう。
しかしある友人が転んで肋骨にひびが入り、何とも情けない格好で咳も出来ないと言っていた姿を思い出すと、くしゃみも天地間に轟かせずに何とか静かなものにしたいと思ったりする。
私は数年前濡れたベニヤ板に足を滑らせ、70数㌔の体を宙に浮かせたことがあるが、その時には骨折はしなかったものの暫く痛みが取れなかった。
階下の90を超えたお婆さんが、「年寄の骨折は命取りですよ、ご用心なさい」といいながら、しばらくして転倒、腕を骨折された。元気になられたが、仰る通りで歩行に支障をきたすような骨折は、老人にとっては本当に命取りである。
敵は足元ばかりではない。くしゃみという大敵を忘れてはならない。

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■「風説秘話」「手討達之扣」に登場する不破氏

2024-02-29 07:09:05 | 歴史

 ある方から「『風説秘話』と『手討達之扣』に登場する不破氏はどういう関係か」との、お問い合わせをいただいた。
不破氏は三流四家が存在するが、この三流を結びつける史料がなく難儀している。
さて、お問い合わせの事件は、それぞれ次のようにご紹介している。
     Ⅰ「風説秘話」から、不破杢助殺害事件とその顛末
     Ⅱ手討達之扣ー(9)20、寛政四年□月九日 不破素太郎家来手討

Ⅰは、不破太直家の9代目で、長崎留守居を勤めて長崎にあった不破杢助が若党に殺されたという事件である。
   これは長崎奉行の介入するところとなり、犯人の若党はとられられ、急ぎ長崎に息子数太と千次、及び甥の
   鎌田軍助と興之允が長崎に出張った。
   そして、若党のお下下げ渡しを願い、これを誅伐したという事件である。
   寛政九年十二月二十九日に高四百五十石の御知行被召上、数太が百五十石を減知されて相続が認められた。

Ⅱは、不破源次郎家5代目で奉行職を勤める不破万平の嫡子・素太郎が江戸に下る途中の嶋田之駅で家来を殺害し
   て自らも切腹して果てたという事件である。寛政四年の事件だが何月なのかは判らない。
   跡目は相違なく敬二郎に相続された。減知にも至っていない。

二家の家紋が全く違うが、「昌」という字を通字としておられるように見受けられるので、もしかしたら一族かと思われる。
今後の課題としたい。

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■今日という日・・?

2024-02-28 08:27:04 | 徒然

 新暦・旧暦の違いはあれど、386年前の寛永15年(1638年)2月28日は、多くの犠牲者を出した天草島原の乱が終結した日である。
27日に軍議があり28日の攻撃と定められたが、佐賀鍋島勢の抜け駆けにより戦いが始まり、二日にわたっての戦いとなった。
細川家では一人一人の行動を申告させているが、27日・28日のそれぞれの行動が目撃した人、行動を共にした人など、証人の名前を挙げながら報告されている。
実質上の一番乗りは田中左兵衛だとされている。残念なことにこのことを幕府軍が確認できておらず、幻となって益田弥一右衛門が一番乗りとなったが、細川家は田中左兵衛に大いなる華を与えている。
加増を重ね、初代の城代となっている。
陣佐左衛門は少年の首をとった。佐左衛門はそれが天草四郎であろうと確信を持ち、そう報告をしている。
それは間違いないもので、首実検に立ち会わされた母親は変わり果てた我が子を見て泣き崩れた。
13万を超える幕府軍によって3万数千の一揆軍が殲滅された。江戸幕府開闢以来の内戦であり、また国内での内戦の終結が西南の役であり、その戦いは田原坂周辺の主戦場での戦いが、玉名・山鹿へと移っている。
日本国内における内戦の始まりと終わりが熊本に関係しているというのも、皮肉なことではある。

 そんな今日2月28日は、奥方の誕生日でもある。とうとう彼女も八十路になった。
もっとも、「私は29日生まれらしい」という。本当は漢字表記の名前をカタカナで届け出されたり「いい加減な扱い」だといささかお冠である。

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■手討達之扣-(14)

2024-02-28 06:58:40 | 史料

     この手討事件も少々問題になった。門池弥五右衛門は大園村の尉助という人物に悪口雑言されたが、「御日柄」の日であったため、殺生は避けようと二度宗打(みねうち)している。
処がそのことが自分自身で不本意なことと感じ、日を改めて出かけて手討にしたという事件である。
奉行所としてはすんなりこれを受け入れるわけにはいかなかったのだろう、「不届きの軽重」に対して問い返している。
形式的なものであったのだろうか。弥五右衛門にとっては無事に一件落着した。
「御日柄」とは将軍家や細川藩主家の系属の祥月命日を言う。


28、寛政十一年二月八日 門池弥五右衛門 大園村尉助手討

    小笠原庄左衛門組
       口上之覚
    私儀玉名郡小田手永横嶋村江逗留猟ニ罷越居申候処同手永大園村江居申候尉助と申者慮外
    之儀有之昨八日御日柄之儀は乍心附難差通右尉助討果申候 重キ御日柄之儀ニ付奉恐入候
    如何程ニ相心得可申哉此段奉伺候 以上
        二月九日        門池弥五右衛門

       口上之覚
    私儀玉名郡小田手大園村尉助と申者打果候旨趣次第儀ハ同手永横嶋村伴助と申者請居
    候鴨網場之内私譜代之家来とも催合ニ相加網ヲ張候ニ付私儀も見物旁罷越逗留とも仕候處
    此節は去月廿三日ゟ罷越去ル二日迄滞留仕居候内右尉助と申者私江對し難差通悪口雑言追々
    仕候様子承候ニ付為糺猟宿善右衛門と申者所ゟ呼寄候へとも不罷越候ニ付右尉助所へ去二日罷越前段
    悪口次第不届之由申聞候處誤(謝)不申候ニ付不得止ことを打擲之心ニ而刀之宗(棟)ニ而ニ刀打候得は迯去
    申候 元来打擲之心故其分ニ而差置尤右之子細村庄屋江懸合置一先ツ在宅江罷帰り候得共退而あひ
    考候得は宗(棟)打と申儀不本意過失之先非後悔仕其分仕置候而は不相濟事ニ付早速大園村江罷越
    遂始末可申と奉ね候処折悪敷腹痛仕候間保養仕候上去ル六日ゟ久光小右衛門養子久光八助・門池亀之允
    右両人猟之躰ニ而同道仕罷越申候処尉助儀居合不申候故村之者共江も相頼申候而尋出候間猶■仕候ハゝ
    迯去可申哉も難斗直ニ差通始末を申聞昨八日夕方討果申候 尤亀之允儀ハ用事有之一昨日在宅へ
    罷帰り八助儀ハ相滞居候ニ付右之場へも立合始末見届申候 且又村庄屋共呼寄置死骸等引渡罷帰申候
    此外相違候子細無御座候 以上
        二月九日        門池弥五右衛門
          當なし

        
    右は玉名郡小田手永大園村尉助と申者を討果申候而始末之覚書付を相達候 右ニ付而弥五右衛門江相尋
    候趣左之通
   一尉助儀難差通慮外候ハゝ即座打果可申処弥五右衛門書付之趣ハ元来打擲迄之心故其分ニ而差
    置候処退而相考宗(棟)打不本意之由ニ而討果申候由右躰不届之軽重は其座ニ而分明之事ニ付元来
    打擲迄之心ニ候ハ事物軽キ方と相聞候処宗(棟)打不本意を以追而討果候ハゝ不届き之軽重ニかかわ
    さる存念ニ候哉
   一追而事を起シ討果候上は御日柄之處心付候ハゝ手堅キ仕法を以翌日討果候而可然事ニ候
    右之趣如何相心得候哉被承糺書付取次可被相達候 以上
        二月

       口上之覚
    私儀玉名郡小田手永大園村尉助と申者討果候ニ付始末之書付相達候 右ニ付御尋之趣左之通
   一尉助儀難差通慮外候ハゝ即座ニ而打果可申処書付之趣元来打擲迄之心故其分ニ而差置候処退而
    相考宗打不本意之由ニ付討果申候由右躰不届之軽重は其座ニ而分明之事ニ付元来打擲迄之
    心得ニ候ハ事柄軽キ方と相聞候処宗打不本意之由を以追而討果候ハゝ不届き之軽重ニかかわざる
    存念ニ候哉
       此儀御尋之趣奉得其意候 尉助儀追々悪口雑言仕候次第承候ニ付為糺明旅宿江呼寄
       候得共不罷越候ニ付尉助所江罷越候上猶不届之躰ニ罷在候ニ付討果可申処打擲之心ニ而
       人命を馳候趣は不軽所ニ相■即座之決断不分明ニ而疑惑仕先宗打迄ニ而差置候處
       退而後悔仕と申訳身分既ニ抜刀仕候て宗打之侭閣候而は難相濟誠ニ不届き之次第も打果た候程
       之者と治定仕候處故追而討果申候 尤此跡ニ至り候而は不届之軽重ニかゝわらざる儀御座候
   一追而事を起し打果候上は御日柄之所ニ心付候ハゝ手堅キ仕法を以翌日討果可然事ニ候
       此儀御尋之趣奉得其意候 尉助儀去ル二日ニ打擲仕罷帰候上引返シ打放候存念ニ有之候処
       脇痛難儀シ候故保養仕候上同六日大園村江罷越候処尉助儀居合不申何レ身を隠シ候と相
       聞候ニ付若手入不申候而は身分難相立村之者抔ニ頼置策を以尋出候ニ付而は暫も猶豫
       難仕併重キ御日柄之儀手堅キ仕法を以翌日討果可申哉の儀も思■仕候得共旅宿之儀付
       萬一不慮の変有之候而は難相濟旁以即日打果申候儀ニ御座候 御尋之趣ニ付は右両条
       之儀當否之儀如何程右御尋之趣ニ付夫々御請申上候 以上
        二月          門池弥五右衛門

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■手討達之扣-(13)

2024-02-27 06:54:31 | 史料

25、寛政七年五月十二日 久永小右衛門下女手討

    長岡岩之助組(久永小右衛門
    私儀召仕候下女手討仕候間別紙御達申候通ニ御座候 右之下女生所玉名郡小田手永伊倉村之者
    ニ而昨年二月ゟ居続ニ召抱置申候処私儀今十二日昼比ゟ用事有之脇方江罷越申候付留守
    用事之儀申付置候処失念仕不埒之儀付以来入念候様申付候處剰口外仕候儀難成程之過言
    仕候 男子之儀ニ御座候得は其通ニ而難差通過言仕候得共女之儀ニ付承捨ニ仕此以後言語相慎候
    様申聞候處弥以過言仕不得止事手討仕候 右之通ニ御座候 以上
       五月十二日         久永小右衛門
        (當無し)

26、寛政九年二月 須崎伴太夫 を手討

    志水九左衛門組(須崎伴太夫
    私儀今朝居間江居申候処儀を風抜身を切懸候ニ付段々押宥メ申候得共其儀をも不
    聞入猶切懸申候 重畳不貞之至ニ付手打仕候 此段御達仕候 以上
        二月           須崎伴太夫
         両人(奉行?)完

27、寛政九年四月十日 上月 謙 坊主知海手討

    尾藤助次郎組(上月 謙
      口上之覚
    私育之兄上月謙儀昨十日之夜知行所釈迦堂村百姓次平と申者宅ニおゐて知海と申坊
    主と及口論打果申候 右始末承糺候処別紙書付之通御座候 則右書付相添御達仕候 此段可
    然様被成御達可被下候 以上
        四月            上月十郎
         両人完

      口上之覚
    私儀上月十郎知行所釈迦堂村江滞留罷越申候処同村百姓茂右衛門・陸右衛門と申者先
    達而口論仕不破ニ相成居申候ニ付和睦取持呉候様同村清右衛門と申者ゟ私并知海と申出家江相頼
    候ニ付右陸右衛門茂右衛門江和睦仕候様申聞候処納得仕候間右之趣申聞候ため清右衛門宅江
    罷越候処清右衛門儀宿元江居合不申向之百姓次平と申者宅江罷越居候段承り候ニ付右次
    平宅江私・知海両人罷越右之段申聞候得共和睦相濟候ため挨拶酒を出申候ニ付
    給居申候内私申候は同村江次右衛門・陸右衛門前廉裏道有之候ニ付和睦之印ニ今度元之
    通裏道を明候様有之度由申候處知海申聞候は近来此所ニ参り右裏道以前之様子自
    身程ニ存知可申様も無之精々雑言いたし候得共酒座之事ニ有之候間承可申旨申聞脇差ヲ
    取罷立可申と仕候得共弥悪口仕候間脇差を取候は如何躰之了簡有之候哉と申候ニ付脇差を
    抜知海前ニ此席ニ而は申聞不仕候様猶又相断候得共承知不仕重畳悪口仕候ニ付不得止事
    打果申候 以上
        四月十一日         上月 謙
         當りなし

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■本能寺からお玉が池へ ~その⑱~

2024-02-27 06:52:58 | ご挨拶
吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2024:2:14日発行 第74号       
     本能寺からお玉が池へ ~その⑱~         医局:西岡 暁 
                       

 わが卓に めでたく白き寒牡丹
   ひとつ開きて 初春はきぬ(与謝野晶子)

「じんだい」読者の皆様、あけましておめでとうございます。
読者の皆々様にとって、この年が福(しあわせ)に満ち満ちた年になりますように !

 320年ほど昔、明智光秀の末裔である三宅家を医家に導いたのは、光秀の孫・三宅重利の(義理の)孫
の曽孫・休庵でした。この三宅家は、本家が熊本藩重役の家系として立派に続いていましたので、織田信
長の末裔である坪井家のように「再興の為に」「医家として身を立てる」必要はありません。
では、一体どうして医家の道を選んだのでしょうか?

 からすまなかたちうり
[21]烏丸中立売
 明智光秀の存在を示す最古の史料が、熊本の古文書の中から発見されたのは、今から8年前のことです。
それによれば、光秀には医学の心得があったようです。関西学院大学の早島大祐教授は「・・・・・基礎知識
は、『張薬方』の解読といった医学・薬学の学習を一つの柱にして形成されたこと・・・・・」「元亀3年(1572)に坂本城主となってからも、京に滞在する際には徳雲軒全宗の京宅に逗留している。・・・・・施薬院宗全と名乗った・・・・・両者を早くから結びつけたのも、おそらくは医学・薬学の知識がきっかけではなかろうか。・・・・・光秀の出自と活躍を考える上で、今度は、医学・薬学を中心とする知識人のネットワークも想定する必要があるだろう。」と述べています。早島教授は更に、一昨々年秋に「明智光秀 牢人医師はなぜ謀叛人になったか」(NHK出版)を著し、「光秀は、越前の長崎称念寺門前の牢人医師だったと考えられる。」と書かれました。(雲徳軒=)施薬院宗全(1526~1600)は、本邦最古の医学書「医心方」(今では国宝です !)の編著者・丹波康頼(919~995)の(自称?)末裔で比叡山の僧侶でしたが、信長&光秀の「比叡山焼き討ち」を受けて還俗し、「日本医学・中興の祖」と言われる曲直瀬道三(1584年からはキリシタン・曲直瀬ベルシヨール:1507~1592)に師事して医師になり、その後、光秀、秀吉の両者共と親交を結んだ人です。  
               まさきみのつかさ                    おおぎまち
 ところで、古の都・平安京に、正親司(≒今の宮内庁)の宿舎が建つ「正親町小路」という小路がありました。「応仁の乱」(=1467年⦅応仁元年⦆から10年以上に及んだ大乱)で焼け野原になった後、町屋街として復興し、「本能寺の変」の頃には立ち売り(=無店舗販売)が並んだので「中立売通」と呼ばれるようになります。それから百余年後に中立売通の町屋に生まれた蕪村門下(ながら其角・嵐雪等「蕉門十哲」の作風も受けた)の俳人が黒柳召波(1727~1772)です。

 北そらや 霞て長し 雁の道 (黒柳召波)

 この通りの御所の西、烏丸中立売にあった全宗の屋敷(現・京都御苑中立売休憩所付近)を、一時期明智光秀が京屋敷(別邸?)として使っていたようです、烏丸中立売の全宗(兼光秀?)の屋敷を一大拠点として、光秀の「医学・薬学を中心とする・・・・・ネットワーク」が築かれたのかもしれません。
 後の世に、光秀の末裔である三宅家が医家になったのは、光秀のこの【医】の「ネットワーク」が時空を飛び越えて三宅休庵(+それ以降の子孫)に繋がった(?)、と云うことなのではないでしょうか?

[22]駒込西片町 
 大昔(=6世紀)に仏教とともに(? 異説あり)伝来して以来、日本は種痘(天然痘)の流行に苦しめられ、18世紀には死因の第一位までになり、(患者数のではなく)全人口の約2割もの人が死亡した年もあったと云われますが、千年もの長い
間、(病原体は未発見だったため)その原因は「疱瘡神」だと考えられ、「本能寺の変」から「大坂の陣」も頃まではほぼ慰労の対象とはされませんでした。1653年(承応2年*本能寺の変の71年後)、明国(は6年前に滅びていましたが・・・・・)から戴満公という医師が長崎に来て「痘医術」を伝え、日本でもようやく種痘の医療が始まったのです。
 更にその90年近く後の1744年(延享元年)、(明の次の中国王朝である)清国の医師・李人山が長崎を訪れ、日本に初めて「人痘接種法」を伝えました。ですが、日本では人痘接種法は広まらずに百年という歳月が過ぎ、1849年(嘉永2年)になって佐賀藩医・楢林宗建が初めて成功した(イギリスの医師・ジェンナーが発明した)牛痘接種が、それ以降の日本での種痘遺領の主流になりました。[4]でのべたように、楢林宗建は三宅艮斎の(長崎での)師・楢林榮建の兄で(兄弟二人とも)シーボルトの弟子です。
 「本能寺の変」で敵同士となった明智家と織田家でしたが、その百年ほど後には「明智」改め「三宅」家も「織田」改め「坪井」家も医家になりました。そして時代が【医】に求めるもの=痘瘡との闘いの先頭に立ったのです。彼らは、日本に牛痘接種が伝来した9年後=1858年(安政5年)に江戸・お玉ケ池種痘所を開きました。

                                       
 江戸の人々に「鉄門」と呼ばれていた「お玉ケ池種痘所」は、1863年(文久3年)「医学所」に(その後4度の改称で)1874年(明治7年)「東京医学校」となり、1876年に下谷和泉橋通の藤堂屋敷(跡)から本郷の前田屋敷(跡)へ移転し、1877年には「東京大学医学部」になったこと、そして(新制大学になった今の東大医学部は)現在もなお「鉄門」と呼ばれ続けている(正確に言えば、今では「呼ばれ続けて」はいなくて、ほぼ自称ですが・・・・・)ことは[9]でお話ししました。
 こうして、「本能寺の変」から280年近く後に、明智改め「三宅」と織田改め「坪井」の両家は、江戸・お玉ケ池で「東京大学のファウンダー」(「東大病院だより」)として再び手を握ることになりましたが、更にその40年後には、本能寺のある京都で「京大医学部のファウンダー」として再び手を握ることとなりました。「本能寺からお玉ケ池へ」の三百年の流れは、下谷和泉橋通、本郷へ、即ち日本初の医科大学である帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)へと、そして(京都に戻って)第二の医科大学・京都帝国大学医大学(現・京都大学医学部)へと(ひょっとすると、更に第三の医科大学=京都帝国大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)へも?)繋がっていったのではないでしょうか

 [5]で述べたように、織田信長の孫・秀信の末裔である坪井家を医家に導いたのは、「織田信長後胤である坪井家の再興とその為に医家として身を立てること」を考えた坪井浄海でした。そしてそれを受けて浄海の弟・信通は、医家・坪井家を開き、「江戸三代蘭方医」と呼ばれるまでになりました。
 坪井の二代目は信道の長男・信友が継ぎますが、それは名ばまりで、信道の長女・牧の夫になった越中高岡出身で信道門下の佐渡良益が「坪井信良」の名を貰って事実上医家・坪井家の二代目の訳を果たすことになりました。信良は(名ばかり)二代目信道とともに「お玉ケ池種痘所」の資金醵出者となり、その後幕府奥医師に取り立てられます。明治維新後は静岡病院副院長、東京府病院(=愛宕下病院)長を努めました。
 その昔の「中山道駒込宿(正式の宿場ではなく、俗称)」は、「本能寺の変」(とは無関係ですが)から半世紀もすると、中山道の西側に武家屋敷が立ち並ぶようになり、町家は街道の東側に移って道の片側の町に住んだので「駒込片町」と呼ばれます。駒込片町は、明治維新の後「駒込東片町」(源・文京区向丘一丁目)に改名しますが、それは西側の福山藩阿部家の江戸中屋敷が東京府民の住宅地に変わって「駒込西片町」と名付けられたためでした。東京大学(1877年に法学部・文学部、1878年に理学部)が神田錦町から(先んじて医学部があった)本郷に移転して来ると、駒込西片町(現・文京区西片)には大学の教員たちが住むようになり、いつしか「学者町」と呼ばれるようになりました。
 医者町・薬研堀に始まった医家・坪井家でしたが、坪井信良の長男(=信道の孫)・正五郎(1863~1913)は、医師ではなく東京帝国大学理科大学人類学教室の初代教授になった人(で、「弥生土器」の発見者として有名)です。正五郎の長男・誠太郎は東大理学部地質学教授、次男・忠ニは東大理学部地球物理学(現・地球惑星物理学)教授になります。この兄弟は。坪井信道の曽孫に(同じくお玉ケ池種痘所発起人箕作阮甫の曽孫にも)あたり、弟の忠ニは、明仁上皇が「自分に影響を与えた」と云われた3人の中の一人です。正五郎は、大学に近い駒込西片町に居を構え、「学者町」の十人になりました。また、信良の甥(義弟・為春の次男)坪井次郎も駒込西片町に住まいながら帝国大学に通った時期がありました。
 明智光秀の孫・三宅藤兵衛の末裔である医家・三宅家は、三宅休庵が初代になりますが、三宅秀の孫(=10代目)三宅仁も、同じく三宅秀の孫である三浦義彰(千葉大学医学部生化学名誉教授)三宅秀の長女・教の次男)も、三宅秀の曽孫(義彰の兄の子)である三宅恭定(自治医科大学内科血液学名誉教授)も西片町の住人でした。また三宅仁の父(=三宅秀の長男)・鉱一の先代精神病学教授の榊俶の住まいも西片町に在りました。彼らが学んだ東京大学医学部の始まりは、(しつこいようですが)「鉄門」と呼ばれた)「お玉ケ池種痘所」です。

   散りそめし桜を見れば 今宵ふる雨のうちにや 春は行くらん (樋口一葉)

 西片町は、(今、五千円札で有名な)樋口一葉(1872~1896)所縁の町でもあります。西片町10番地(現・文京区西片一丁目11番)に一葉の師匠半井桃水が住み、近所(菊坂町70番地。現・本郷4丁目31番地)の一葉が屡訪れました。

                                                                       

 西片町10番地(現・西片一丁目12番)には「漱石・魯迅旧居跡」があり、その案内板にはこう書いてあります。
 「通称『猫の家』に住んでいた夏目漱石は、明治39年(1906)12月、ここに転居した。・・・・・この地に転居した漱石は、明治40年6月に『虞美人草』を発表、・・・・・この地は漱石にとって新たな一歩を踏み出した地である。・・・・・その後明治41年4月、この地には魯迅が弟・友人ら5人と生活をするために移り住み・・・・・」
                                           
 漱石が去って7か月後、若き魯迅(1881~1936)が漱石が住んだこの家の住人になりました。後には坪井正五郎の従甥(=坪井信道の曽孫)・坪井芳治の友人になる魯迅ですが、妹を乳児期に痘瘡で喪くしています。また、漱石も幼児期に痘瘡に罹っています。
 漱石の西片町時代、町内には漱石の義弟(=妻の妹の夫)で名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)建築科教授・鈴木禎次(1870~1941)の実家もありました。鈴木禎次は、妻同志が姉妹だった漱石のユニークな椅子形の墓(@雑司ヶ谷霊園)を設計した人です。

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■手討達之扣-(12)

2024-02-26 08:13:25 | 史料

34、慶長七年二月十一日 林 弾八手討(物貰ヒ)

   筑紫左一右衛門組
   拙者組林弾八ハ今十一日国武十之進門前ニ而難差通儀ニ付手討いたし候 依之別紙覚書相達
   申候 最善相達候書付ニ而ハ始末も不委猶又覚書相達候様申聞置候処覚書相達候 則相添
   御達申候 以上
     二月十一日        筑紫左一右衛門
       御奉行衆中

       口上之覚
   私儀十一日国武十之進於門前悪口慮外仕候者有之難差通手討仕候 尤下人と相見
   何方の者共生所相分不申候 此段相達可被下候 以上
     二月十一日        林 弾八
       須佐美権之允殿
       波々伯部甚内殿

       
   今十一日八過不浄揚参り裏廻り居候内何方之者共相知不申門内ニ入込人音無之様子見繕右
   不浄揚馬ニ付置候鳥目油入候徳利盗取迯申候を下女見届声を懸候ニ付右不浄揚追懸国武
   十之進門前ニ而■合居候処ニ参り遂吟味を候処及過言剰乍寐足ニ而腰を踏申候故難差通手討仕
   候 先之者先刻御達申候通何方之者共相知不申候 片付方之儀被成御達可被下候 以上
     二月           林 弾八
       前条両人完

   御組林弾八今十一日国武十之進門前ニ而難差通儀ニ付被致手討候 依之別紙覚書二通御達仍而
   被仰越候御紙面之趣致承別書付受取申候 以上
     二月           御奉行中
       筑紫左一右衛門殿

   御組林弾八被致承■候者ハ教悦支配物貰伊勢次郎と申者之由相聞候間早々人を差越見届
   させ伊勢次郎ニ相違無之候ハゝ右死骸直ニ受取相片付候様及達候条引渡を被申候様可有御
   達候 以上     二月十一日        御奉行中
       筑紫左一右衛門殿

   御組支配林弾八昨十一日被致手討之者ハ教悦支配之物貰之由ニ付死骸片付方之儀教悦江
   及達候段弾八江被及御達候様今朝申達候 然處教悦支配之物貰ニ而も無之生所不分明之由
   尚又相達候ニ付先ツ右之死骸仮埋之儀飽田託麻御郡代江相達候間此段弾八江可被有御
   達候 以上
     二月十二日        御奉行中

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 津々堂解説
 非常にてきぱきとした事務処理の状況が見て取れる。11日八つ過(午後2時頃)に起きた事件だが12日には万端解決している。
文中の「不浄揚」とは「雪隠の汲み取り」である。汲み取り作業にきていた者が、林弾八家の馬につけていた「鳥目=銭」及び「徳利の油」
を盗んだので吟味する中不届きの事があったので「難差通」成敗したとい
う事件である。
「難差通」という言葉は、このような事件に関する文書では決まり言葉になっているが「許しがたく」といった意味であろう。

相手が誰だか分らなかったが、「教悦配下」の「伊勢次郎という物貰い」だということが判明したので、遺骸を「教悦」に引き取らせている。
「教悦」とは「非人頭」で、処刑場があった下河原に起居していたらしい。
「物貰い=物乞い」は許可制であり、まさしく非人頭
の支配下にあった。
非人頭支配の「物貰」が「不浄揚げ」の仕事もしていたことが判るが、百姓衆の下請けでもあったのだろうか?
興味深い資料である。

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■細川幽斎 消息 里村昌叱宛 慶長元(1596)年霜月十四日付 真筆

2024-02-26 06:56:13 | オークション

  【深和】細川幽斎 消息 里村昌叱宛 慶長元(1596)年霜月十四日付 真筆
                      (戦国武将 戦国大名 書家 歌人 連歌 中世古文書)

        

  細川幽齋の資料研究に於いては、この十一月廿日の連歌の催しについては『連歌総目録』などで良く知られているらしい。
  ここにある名前は招待客で、「其外人数、一両輩給此方可申候」とあるように、薩摩から上洛した玄与(阿蘇惟賢=玄与日記)
   呼ばれたりしていて、豪華なメンバーが勢ぞろいしている。誠に貴重な文書と言える。(津々堂)


  

  商品説明

細川幽斎の消息です。
里村昌叱に宛てた書で、連歌を興行するので発句を頼む旨、連衆として玄仍・弥次郎(里村景敏)・友益(速水友益)・能札(北野社僧)を呼ぶ旨を認めたものです。
『連歌総目録』によれば、昌叱が発句を務めた霜月(旧暦十一月)の興行は慶長元(1596)年十一月廿日の「昌叱玄旨等薄何百韻」に絞られ、昌叱の「氷ゐて行水ふせぐ川辺哉」を発句として、連衆も上記の他玄与(阿蘇惟賢)・輝資(日野輝資)・兼如(猪苗代兼如)・恕仙・賢治らが居たことが分かります。
なお、この年の九月には秀吉の命で明使の接待に伏見へ赴いております。
幽斎はこのころ従兄弟兼倶が神職を務める吉田社境内に「随神庵」に閑居し、古典の書写や連歌に興じました。幽斎の暮らしぶりが端整な書蹟とともに綴られた逸品です。

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                    御同心              久玉句不承候間、
                           可為                 さて申事候、
                              本懐候、
  

          遥久不懸御目候、御床敷
          存候、此間在伏見候て、一両日
          已前吉田草庵迄罷出候、聊
          隙之躰候、然者廿日頃、於草庵
          一会興行申度候、発句者
          貴斎相定候、玄仍・弥次郎殿・
          友益・能札なと被仰候て可然候、
          其外人数、一両輩給此方可申候、
          今出京可申候へ共、来客事候間、
          一筆申候、御報ニ可被預候、
                                              かしく

           霜月十四日

           昌叱まいる人々御中      幽斎

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■小西マンショ(Conisci Mancio)考

2024-02-25 08:58:39 | 論考

小倉在住の小川研次氏とのおつきあいは6年半ほど前にさかのぼる。「小倉藩葡萄酒事情」という冊子をお送りいただいて以来である。
氏はワインのソムリエとして著名な方だが、キリシタン史にご興味を持たれて多くの論考をものにされお送りいただき、当方サイトでもお許しをい
ただき掲載させていただいた。
今回も小西行長の娘・マリアを生母とするキリシタン・小西マンショをとりあげられた以下のような論考をお寄せいただいた。
お許しをいただきここにご紹介申し上げる。

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        小西マンショ(Conisci Mancio)考        北九州市・小川研次

■追放と帰国
関ケ原の戦い(1600)の敗者となった対馬藩主・宗義智は舅の小西行長が処刑され、その長男が処刑されるために京都へ送致されたことを知った。
そして、「(行長)の娘(マリア)を妻に持ったことからくる災難を大いに恐れ、彼女を救ってもらうために書状をしたため、彼女を幾人かの下女
とともに船に乗せて長崎の司祭たちのもとへ送った。」(「1599~1601年、日本諸国記」『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)のである。

マリアは1593年12月に対馬に滞在していたグレゴリオ・デ・セスペデス神父より洗礼を授かった。
セスペデスはここから、行長の要請であっ
た朝鮮へ向かったのである。(朴哲『グレゴリオ・デ・セ
スペデス』)帰国後は豊前中津の黒田如水に招聘され、活動していたが、細川ガラシャの
霊的指導者
だった関係で細川家入封後、小倉教会上長として勤めることになる。
さて、マリアには1歳となる子がいたが、のちの小西マンショとされる。有馬のセミナリオで学んでいたが、1614年の幕府のキリスト教禁教令のた
めに、マカオへ追放される。この時、15歳であった。(『キリシタン時代の日本人司祭』)

その後、マカオからペドロ岐部とともにローマを目指した。(岐部はゴアから踏破)
先に帰国となった岐部は1623年2月1日付のリスボンからローマのペンサ神父宛の書簡に「霊的なことにも世俗のことにも、マンショ小西をよろし
くお願い申し上げます。」と後輩のことを気遣っている。(『キリシタン人物の研究』)

1632年、小西は18年ぶりに帰国する。マカオ経由マニラ発で薩摩に上陸した。
「(イエズス会の) 斎藤神父と小西神父は、ドミニコ会員ディオゴ・デ・サンタ・マリアと同船していた。彼らの航海は夥しい事故のために、二十日
が五ヶ月に延びた。ディオゴ神父はこの間に一行の髪
が白くなったのを見た。
彼らは遂に薩摩に上陸し、そこに一六三三年三月まで留まった。」(『日本切
支丹宗門史』1632年の項)
小西一行はマニラから20日の航海で日本に到着予定だったが、遭難して5カ月も要したのである。
マニラから先行したセバスチャン・ビエイラと同時期の1632年7月あたりの出航で、薩摩には11月末から年末にかけて到着したと思われる。小西家
と島津家は縁戚関係になり、小西行長の妻の叔父は島津弾
正で、貴久の三男・歳久の養子・忠隣のことである。キリシタンであった。(『薩摩切支
丹史料集成』) また、藩主・家久の義母・竪野永俊尼(カタリナ)がおり、キリシタンを擁護してた。竪野も小西家
縁故(行長家臣・皆吉続能娘)
の人物であった。(同上)
神父不在の地に身内であるマンショ小西らが現れたことは、大変な喜びであっただろう。
マンショらが薩摩を離れて間もなく、島津家家臣の矢野主膳がキリシタン明石掃部(全登)の子・小三郎を堅野の家臣ジュアン又左衛門が匿ってい
ることを暴露したのである。(「9月19日付伊勢貞昌書状」『戦国・近世の島津一族と家臣』)

寛永10年(1633)12月7日付の各家老宛「島津家久條書」から、「一ヶ條之儀に付、内談可有之衆之事として「南蛮宗之事」「立野之事」「赤石掃
部子、定早々可召上候事」「志ゆあん又左衛門尉事」(一
部抜粋)とある。(『大日本古文書家わけ第十六島津家文書之四』)
義母立野(竪野)の対処に苦悩している家久の姿が浮かぶ。
小三郎発覚が堅野への処断のトリガーとなったのである。

■訴人
「ディオゴ・デ・サンタ・マリア」は大村出身の朝長五郎兵衛という日本人司祭であるが、1633年7月に長崎で捕縛され、8月17日に穴吊の刑により
落命した。(『信仰の血証し人
~日本ドミニコ会殉教録』)
朝長の居場所は拷問を受けたシモン喜兵衛の告白により、明
らかになった。(『日本切支丹宗門史』)
「斎藤神父」はパウロ斎藤小左衛門であるが、1614年11月、小西マンショらとともにマカオへ追放されれ、司祭叙階後にマニラから帰国となった。
しかし、薩摩を発ってから半年後
の9月に天草の志岐で捕縛され、10月2日に長崎で穴吊の刑となった。(『キリシタン時代の日本人司祭』)
小西らは薩摩におよそ3カ月の滞在後、旧暦寛永10年(1633)1~2月頃に発っているが、小西以外の二人の神父は帰国から半年以内に捕縛され
ている。この年の2月の幕府のキ
リシタン訴人褒賞制による伴天連(神父・司祭)訴人には「銀は百枚」が功を奏したのだろう。(「キリシタン訴人褒賞制について」『キリシタン研究』)
寛永11年(1634)7月には肥後では「切支丹の訴人百人余」も出たという。(『熊本藩年表稿』)
しかし、日本人最後の司祭となった小西は1644年に処刑されるまで、潜伏して活動を行っていた。(『キリシタン時代の日本人司祭』)
有力な庇護者がいなければ不可能である。

さて、日本側の史料をみてみよう。寛永10年(1633)5月から7月までの熊本藩主・細川忠利の書状(『大日本近世史料編細川家史料』(書状
番号))に3人の司祭が記されている

まず、寛永10年(1633)5月12日付(西暦6月18日)の長崎奉行・今村正長宛書状(2181)である。
「其元伴天連いまた居申候にて御つかまへ候由、扨々妙なる宗体にて御座候」(長崎にいまだに伴天連(司祭)がおり、捕まえたとのこと、さて
さて奇妙なる宗教である)とある

この「伴天連」は上述の時期から長崎で捕縛された「ディオゴ朝長五郎兵衛」と思われる
興味深いのはキリシタンを擁護していた忠利の言葉「驚き申し候」である。この時、松
野半斎(大友宗麟三男)や加賀山主馬など多くのキリシタン
家臣を召し抱えていたからで
ある。(『肥後切支丹史』上巻)
さらに伴天連の捕縛が続く。同年6月13日(7月18日)付・曾我古祐宛書状(2260)に、「於天草彼伴天連小左衛門尉つかまへ由候由」(天草に
於いてかの伴天連小左衛門を捕
まえたとのこと)とあり、パウロ斎藤小左衛門のことである。
『日本切支丹宗門史』には「天草志岐」にて捕縛とあり、朝長と同じく場所は合致しているが、西暦9月としている。
この書状から斎藤が捕縛されたのは7月18日以前となる。朝長
や斎藤の処刑月(8月、10月)のひと月前である。おそらく捕縛時期が不明であったためにひと月前とした可能性はある。
同状に「九右衛門と申伴天連は長崎薬屋五郎左衛門所へ天草之もの送届申候由、承候」(九右衛門という伴天連は長崎の薬屋五郎左衛門の所へ天草
の者が送り届けたとのことを承
知しました)とあり、九右衛門を長崎へ送った「七郎兵衛」は天草で捕まり、もう一人の「半六は筑後之者と申候由」
のために、柳川藩主・立花忠茂へ捜索を依頼したとのことで
ある。
この書状は7月7日に家臣が受け取ったとしているが、忠利がホールドしていたと思われる
追伸で「九右衛門」も既に「熊本を罷り出でた」として行方不明としているところから
、次の事件後に追記したと推測される。忠利は何らかの手を
打っていたのであろう。


■発覚
寛永10年(1633)6月29日(8月3日)今村・曾我古祐宛書状(2242)に「先度我等国へ伴天連参候刻、宿をかし申候我等内嶋村三郎兵衛儀」(せん
だって私の国(肥後)へ伴天連
が参った時、宿を貸した私の家臣・嶋村三郎兵衛の件)とあり、忠利にとって、いや、細川家においての重大事件が
発覚する。
宿主は小姓組衆の三郎兵衛である。(「肥後御入国宿割帳」)忠利のお気に入りであったようで、小倉藩時代から「供之者」であった。
(「於豊前小倉御侍帳」)弟は留守居組だ
った嶋村善助と思われる。(同上)
三郎兵衛一家はキリシタンであったが、家中共々と転宗の証文を提出した。ところが、奉公人にキリシタンがいたことが発覚し、妻、子供、弟とも
に「成敗」したとある。

果たしてそうだろうか。この頃、キリシタン宿主は死罪であるが、忠利は温情により、転宗証文で決着しようとしている。忠利の指示により、「伴
天連」を匿っていたのではなか
ろうか。
昨年末、忠利の庇護のもとで小倉に潜伏していた中浦ジュリアンが捕縛されてい
たことも一因と考えられる。母ガラシャの追悼ミサにも「伴天連」
が必要であった。

さて、「伴天連九右衛門」こそ、小西マンショではなかろうか。そうであれば、実名は「小西九右衛門」となる。
「長崎薬屋五郎左衛門」は「ミカエル薬屋」(ミゼリコルディア組頭・慈悲会)で間違いないだろう。7月28日(旧6月3日)に処刑されていること
から(『日本切支丹宗門史
』)、5月までにはすでに捕まっていたと考えられ、九右衛門はそれ以前には長崎に入っていたことになる。
おそらく、小西ら3人は薩摩から天草・島原経由、長崎へ向かったと思われる。
そのキーマンが「薬屋五郎左衛門」であった。4月頃であろう。ここでビエイラや伏見に潜伏していた管区長マテウス・デ・コーロスのことを聞い
て、斎藤は天草へ、小西は長崎
から筑後へ、そして熊本へ入ったと推測される。
この直後、五郎左衛門は捕縛されたので
ある。おそらく、報奨金目当ての訴人がいたのであろう。

■白井太左衛門
薩摩キリシタン騒動の最中、細川家に薩摩から「白井太左衛門」という人物が現れる。
太左衛門は島津家家老・喜入忠続(忠政)の家臣(叔母聟)であったが、忠続は細川家家老・松井興長に細川家への仕官を依頼したのである。
寛永10年(1633)の月日は明確では
ないが、忠利は「御小姓組」300石で召し出している。(「先祖附」『新・肥後細川藩侍帳』)
忠続の義母は堅野であり、妻妙身(竪野娘)もキリシタンであった。このような状況から家老職を辞したのであろう。驚くことに太左衛門もキリシ
タンであった。転宗したのは3
年後であるから、細川家召し抱えの時は現役であったことになる。(「勤談跡覧」『肥後切支丹史』)
当時、御法度であったキリシタン家臣の召し抱えを忠利は承知の上で実行し
たことになる。

さて、前年(1632)末、忠利は他国の「奉公人」を抱きかかえようとしていたが、幕府の許可などで苦労していたようである。喜入忠続宛の書状か
ら太左衛門のことであろう
。(「十二月晦日喜入忠続宛書状」(1885))
豊前から肥後への転封直前のおびただしい時であったが、重要案件だったとみえる。
しかし、翌年(1633)正月の忠続宛書状には「牢人之儀預申候」とあり、忠利は一旦、浪人として預かっていたのである。
(「正月十八日喜入忠続宛書状」(1984))

奇しくも小西マンショらが薩摩を離れた時期と一致する。推測だが、同行した可能性はある。
同年9月5日付太左衛門宛忠利書状(2329)
に太左衛門から「南蛮菓子あるへる」を頂き、
謝意を記している。「あるへる」は有平糖のことである。長崎からのお土産だろうか。
の頃、すでに細川家に仕官していたと思われる。正保元年(1644)3月2日、太左衛門は江戸にて乱心者によって殺されたという。
(「先祖
附」)小西の没年と同じである。

■喜入忠続
喜入家と細川家の関係は幽斎(藤孝)時代に始まる。忠続の兄久道の嗣子の死、又、男子が早世していたのであった。仏門に入っていた長重(忠続)
だったが、天正17年(1589)
に幽斎が薩摩にいた時、盟友島津義久に喜入家を継がせるように推挙したのである。
「幽斎は媒酌の労をとり、長重に伊集院抱節の娘を娶らせた。長重は還俗して喜入家を継ぎ、名を忠政と改め、摂津守と称した。
時に年、十九歳であった。」(『枕崎市誌』上巻

伊集院久治(抱節)の娘の死後に、後妻として入ったのが妙身である。慶長19年(1614)、忠続(忠政)は幕府の命により島原へキリシタン取
締りのために逗留
していた。(「本藩人物誌」)この時の様子を『日本切支丹宗門史』(1614年の項)に記されている。
「薩摩の人達は、海岸を伝って東に向かい、三会、島原、並びにその他の村々へ行った。
戦争に出て、血を流すことにしか馴れていなかったこれらの人達が、キリシタンに先ずしばらく退くように忠告した。そこで、大部分の信者は、山
中に逃れた。薩摩の人達は、命
令を実行した風にして、最早この地方には、キリシタンは一人もおらないと宣言した。」何と、忠続はキリシタンを保護していたのだ。これらのことから、忠続もキリシタンだった可能性は十分にある。
細川忠利は肥後国転封前(1632)に忠続へ薩摩と隣国になることの喜びを表していることからもかなり親密であった。
(「十二月晦日喜入忠続宛書状」(1885))

寛永11年(1634)10月の書状には忠利が島津家久から忠続が無事であったことを聞いて安堵している。(「十月四日喜入忠続宛書状」(2633))

義母堅野の種子島配流、妻妙身、娘於鶴のキリシタン発覚で幕府より忠続にも嫌疑がかかっていたと思われる。又、忠利が特に案じたことは召し抱
えた忠続の叔母聟であるキリシ
タン白井太左衛門の暴露であることは容易に想像できる。

■奇説
喜入忠続の前妻の死後に後妻として入ったのが妙身であったが、奇説が存在する。
妙身が小西行長の遺児で、前夫は有馬直純だったという。つまり、母堅野は「肥後の士皆吉久右衛門続能」の娘で「小西摂津守行長の室」であり
「行長と生める女子は喜入摂津守忠政の室となれり」とある。(「鹿児島県史料旧記雑
録後編」『戦国・近世の島津一族と家臣』)
前夫有馬直純との間に「於満津」がおり、島津久茂(喜多村久智)に嫁いでいるという。(「枕崎市史」同上)ところが、『寛政重修諸家譜1520巻』
によると、有馬直純の段に嗣子康純(母・国姫)の
前に「女子」がおり、「母は皆吉氏」とし、「家臣有馬長兵衛純親の妻」とある。
また、「有馬家九流一門人数」として「康純公御姉聟 有馬長兵衛殿」(「佐々木系図」『薩摩と延岡藩(有馬家)との関係』)とあることから、
康純には「皆吉氏」の姉がい
たことに違いない。
直純は慶長15年(1610)に国姫(徳川家康曾孫)と再婚しているので、前妻との子の生誕はこれ以前と考えられる。なお、康純は1613年生まれで
ある。
「於満津」だが、生誕は1612年(1706年没)であるから、直純の子とは考えにくい。
直純は「正室ドンナ・マルタを離婚して憚
らなかった」(『日本切支丹宗門史』1610年の
項)とあり、前妻の洗礼名は「マルタ」であった。
「有馬殿の正室マルタは、千々和の附近に住んでいた。彼女は再婚を勧められたが、拒絶した。彼女は、長崎の山間に追放され、藁葺の小屋に監禁された。」(同1612年の項)
再婚を命じたのは国姫である。「それでも嫁がせようとしたので、彼女はもっと遠くに行く覚悟でいた。まだ二十歳で、いとも上品に育てられたにもかかわ
らず、デウスを傷つけ
るよりは、日本から脱出し極度の貧困にも耐える決意であいた。そして栄ある死の準備をしていた。」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第2期第1巻)
その後は消息不明である。典拠は未見だが、盛山隆行氏の直純の正室は「有馬家家臣皆吉久兵衛絡純の娘マルタ」とし「一女を儲けた」という論考が
ある。(「有馬氏三代の閨閥」『歴史読本』2009年4月
号)
むしろ、こちらの方に整合性がある。但し、妙身は行長の娘の可能性は否定できない。
そうであれば、小西マンショの叔母となる。1634年、堅野は種子島に流刑となるが、その後、忠政の妻妙身、その娘(於鶴)、妙身の前夫との娘
(於満津・島津久茂室)もキリシタンとして母を追うことになった。


■将軍上洛
寛永11年(1634)、将軍・徳川家光の上洛の折、不可解な事が起きる。
7月19日(9月11日)付の忠利の長崎奉行・榊原職直宛書状(2507)に「九州・中国・四国、何も閏七月十八日に御暇被下候」と将軍より帰国の許
可が下りたが、忠利には許可が
下りなかったのである。忠利の他には「京極丹後(高広)・京極修理(高三)・伊藤修理(伊東祐慶)・松倉長門
(勝家)・宗対馬(義成)・黒田(忠之)」が残された。黒田は将軍と江戸へ同行を望んでいたからである。
さて、忠利と黒田を除く他の5名との共通点は明らかに「キリシタン」である。
京極高広・高三兄弟はキリシタン高知を父に持つ。祖父母(高吉・マリア)の代からであり、叔父の高次(若狭守)、叔母のマグダレナ(朽木宣綱室)
とキリシタンファミリーで
あった。(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)細川家と京極家とは足利義輝・義昭将軍時代に共に仕えていた。
兄弟は受洗の記録はないが、「内密」にされていたのかも知れ
ない。幕府は忠利との関係から情報を得ていたのだろう。
伊東祐慶は細川小倉藩時代に小倉教会でグレゴリオ・デ・セスペデスの助手として活動していた天正遣欧使節の伊東マンショの従兄弟である。
祐慶はキリシタンを擁護していた。
松倉勝家は先述の通り、キリシタンの取締りの立場であった。特に島原には多くのキリシタンがおり、司祭らが
潜伏して活動していた。前年(1633)9月15日(10月17日)の忠利
書状に「松倉内之者なと内々に申分御座候にて三五、六人立退由候由」(2346)
とあり、
家臣35、6人が何らかの理由で立ち退いたとある。キリシタン絡みの可能性もある。
寛永12年(1635)末には47人も退去している。その中に「相津玄察・松島半之丞」など島原・天草の一揆の策謀者が含まれていたとされる。
(吉村豊雄『天草四郎の正体』)

転宗を強制したのが理由かもしれない。なお、忠利は寛永13年(1636)7月に27名の家臣から「転び証文」を提出させている。
(「勤談跡覧」『肥後切支丹史』上巻)

さて、宗義成だが、小西マンショの異母兄弟である。ここに忠利が帰国の許可が下りなかった最大の理由である。
忠利が匿った「伴天連・九右衛門」こそ、小西マンショであったと考えられるからである
家光は「九州之内には未だ伴天連」(2508)がおり、捜索を十分にすることと直に伝えた。
家光にはかなりの情報が入っており、母ガラシャの魂はキリスト教でなければ救われないと信じている忠利の気持ちは理解しているが、立場上、言わざるを得なかったのである。
「自分の治世の間に母親ガラシャ夫人の葬儀(追悼ミサ)を行いたいと考えていた」(「1609、1610年度年報」『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)ことを貫いていたのである。
元和9年(1623)10月16日付忠利書状(138)に「秀林院様御弔之僧衆為迎、来二一日早舟差上申候」(秀林院様の弔いの僧たちを迎えに、来る二十一日に早船を差し上げるように)ただし、江戸へ使いの者がいるならば、この舟には乗せないようにと警戒している。
秀林院(ガラシャ)の命日は7月17日であるが、10月21日(12月12日)に迎えに行くという。なぜだろう。キリストの降誕祭の前であるが、意図はあったのだろうか。
「その父とは大いに違い、宣教師に対して非常に心を寄せ、母ガラシャの思い出を忘れないでいることを示した」(『日本切支丹宗門史』1624年の項)
「秀林院様」専属の僧は仏教僧に仮装した「中浦ジュリアン」ではなかろうか。

さて、忠利と三斎(忠興)の帰国の暇が下りたのは7月29日(9月21日)であった。(『熊本藩年表稿』)
帰国後、忠利はキリシタン捜索に力を注ぐことになるが、同年12月に河喜多五郎右衛門を国惣奉行に指名している。(同上)五郎右衛門はキリシタンであった。(1636年転宗・『肥後切支丹史』上巻)
忠利の盟友・有馬直純と島津家久との書状がある。同年9月26日付有馬直純宛書状(2621)に直純の領地において、キリシタンに宿を提供した百姓の処遇についての意見を述べている。平キリシタン(伴天連など宣教師ではない)であれば、「構いなし」と長崎奉行から聞いているとし、キリシタンと知っていたならば「成敗」ありとしている。
同年10月29日付島津家久宛書状(2660)には、長崎奉行所で島津領内にキリシタンがいるとの申し出があったことについても、今回の「御改」(定)は「伴天連・入満(いるまん・修道士)・同宿(助手)」ことで、キリシタンではないので、余計なことは言わないように、もし、キリシタンがいたならば、「内緒」で知らせてほしいとアドバイスしている
直純も父・晴信とともにキリシタンであり、家久は先述の通り、義母・堅野がキリシタンであった。彼らは忠利との親しい関係だったが、キリシタン問題となると、真っ先に相談する相手であった。
特に長崎奉行・榊原職直は忠利の「親友」であったことも起因してい
るのだろう。

■小西マンショの行方
その後の「小西九右衛門」こと「小西マンショ」の行方が気になるところだが、寛永11年(1634)9月16日(11月6日)に忠利の領地で長崎奉行の上使によりキリシタンの穿鑿を受けている。(『熊本藩年表稿』)
事件の詳細は上妻博之編著『肥後切支丹史』から引用する。
「寛永十一年九月十六日玉名郡湯倉村(現・玉名市伊倉)というところに、切支丹がいると長崎奉行に訴人が出たので、逮捕のため二人の使者を差し遣わすとの通知が来た。九月二十日の午の刻二人の使者は湯倉村に来たので、郡奉行は早速罷り出、在所を二重に取り巻き、使者は心当たりの家を捜索したが、何物もない。この報が二十日の夜の丑の下刻に奉行所に届いたので、早速馬上侍を急派し、家老長岡佐渡は熊本から夜中馬を飛ばして湯倉村に馳せつけ、藩内の港は舟留めを命じ、街道の□は人留めをして検挙に手を尽くしたが、遂に犯人不明に終わった。」
筆頭家老・松井興長まで登場する大捕り物が繰り広げられたのだが、ただの「切支丹」の対応ではない。明らかに「大物」である。まず考えられるのが、昨年から指名手配となっている伴天連「九右衛門」である。
訴えから4日後に長崎奉行から捜索が入るという知らせがきたという。ある意味、この間に逃避しなさいともとれる。結果、もぬけの殻だったのである。
昨年の忠利書状(2260)にある「筑後の半六」が有明海を渡り、筑後から国堺の高瀬(玉名)近くに送り届けたことは十分に考えられる。伊倉唐人町には多くのキリシタンがいたとされ、「バテレン坂」や「吉利支丹墓碑」が現存している。(玉名市)隣接する山鹿郡には忠利の身内である小笠原玄也家族が住んでいたが、寛永12年(1635)10月、庄村の訴人によりキリシタン発覚となった。(『山鹿市史』)

島原、筑後国、豊後国への移動が容易であるこれらの地域には多くのキリシタンが潜伏していた。
翌年10月、忠利は寵臣阿部弥一右衛門を飽田・山本・玉名・山鹿の「御代官頭」に任命している。弥一右衛門は森鴎外『阿部一族』の主人公である。(同上)
寛永14年(1637)10月に勃発した島原・天草一揆での忠利は陣中に熊本から葡萄酒を取寄せている。(「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」『永青文庫研究』創刊号)
多くのキリシタンの死を目前として、「ゆるしの秘跡」を行ったのだろうか。そうであれば、そこには「伴天連・九右衛門」がいたはずである。

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■我が家検索リスト、再・「山崎」-3

2024-02-25 07:42:07 | ご挨拶

  我が家検索リスト「山崎」地区は、これで最後となる「30-山崎之絵図」である。
この絵図は前回の 再・「山崎」-3とあまり時代が変わらず、移動していないお宅が多く見受けられる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

①現在の市民会館あたり御作事所山崎天神以外に屋敷の名前はない。

山川兵左衛門・神西長右衛門の屋敷が引き続き残り、道家金吾屋敷が道家七郎左衛門屋敷に替った。

藤崎源太夫・八木市郎左衛門・青地久左衛門・二宮万三郎・小島八之允・田中庄右衛門残り、新たに中西傳右衛門・
   入江平内・兼松七右衛門
(添屋敷)が入った。


④茶道古市宗円林藤蔵・小川兵太夫はそのまま、福田善太夫屋敷は上がり屋敷となり、牧左納・下村源兵衛等が入れ
   替わって入った。  


不破権右衛門・吉富伊兵衛はそのまま、佐方宇小右衛門は佐方長左衛門、永屋猪兵衛は永屋権兵衛に替った。

横山九十郎・弓削五郎次辛川孫之允・高橋喜左衛門・大塚甚蔵宅はそのまま、清田甚右衛門宅が清田左近右衛門  
    宅となり、岩崎太郎右衛門・磯野弥兵衛・山田五郎左衛門・板根少九郎が移り住んだ。

千葉作兵衛・釘沢専太夫・岡田久左衛門・竹原清太夫・高橋弥次兵衛はそのまま、内藤左近右衛門宅が内藤平八郎  
    宅に替り、新たに井上弥右衛門が転居してきている。

長岡隼人(宜紀7男‐刑部家6代興彰)宅は、隼人の叔父で刑部家別家初代となった長岡左七郎の邸宅に変わった。

可児清右衛門・山田丹太夫・原田丹蔵・多羅尾市允・金森左五右衛門宅はそのままで、一人佐々牛右衛門が入っている。

嵯峨五郎右衛門・岩間三右衛門・高本玄碩・小川元淳・伊藤長左衛門・岩崎武兵衛・成瀬治部左衛門・吉田才兵衛・
    的場勘平・相良又左衛門
宅はそのまま、上田儀三太宅は上田儀兵衛に代替りか。

大洞弥一兵衛・熊谷市右衛門・辛川伝五郎・武田一次・村松長右衛門・加々美又兵衛・河田八右衛門・原田金兵衛・
    続庄右衛門・松野権右衛門

小笠原斎及び添屋敷安場五太夫及び御用屋敷と変わりない。

松本喜十郎・元田尉太夫・吉田嘉左衛門・佐方伊右衛門・萱嶋彦兵衛の五家がそのまま残った。

内藤長十郎・寺本兵右衛門・伊藤角右衛門・木造源右衛門・魚住左伝次がそのまま残り、蒲池喜左衛門(借置き)が新
   たに入った。


本庄伝兵衛・渡辺武伝はそのまま、西沢太郎右衛門宅は西沢伝兵衛が入り、長谷川七兵衛宅は長谷川甚左衛門が入り
   その他江良次兵衛・杉本只之允・辛川甚之允・稲津次郎兵衛・辛川九兵衛
等に入れ替わった。

奥田安之允・田屋尉左衛門・辛川甚之允重複)がそのままのこり、志水新兵衛宅は志水助之允に替り、辛川甚蔵、
   服部孫助
が新たに入った。

中山勘左衛門・和田文八郎はそのまま、松井典礼下屋敷は松井土岐下屋敷となった。

杉村角太夫・高見次左衛門・田辺孫太夫・中山左太夫・佐田新兵衛及び添屋敷・田中長太郎借置などはそのまま、菅野
    宗斎宅は菅野円斎に替り、新たに堀平太左衛門借置、佐田宇兵衛など入れ替わった。

成田源兵衛・河方安右衛門伊藤権左衛門・井口庄左衛門・松崎市之允などが残り、星野左太夫宅は星野庄右衛門に代
   替り、新たに飯田三右衛門・江村宗珠がはいっている。

宮脇次右衛門・小島伊左衛門宅はそのまま、境野又之允宅は境野又太郎、速水儀兵衛宅は速水儀兵衛、木村清兵衛宅は
   木村岩之允、山尾善兵衛宅は山尾市三郎など代替わりか。

㉑前回通り玄覚寺正法院が存在する寺町である。

松江文右衛門・小林次兵衛中山左次右衛門宅はそのまま残り、益田源之進宅は益田喜左衛門に代替わり、新たに管武
   右衛門
が入っている。前回□□武左衛門とあったが菅氏であったか?

曽根兵助・斎藤勘助・岩尾嘉右衛門・可児清蔵・福田杢平次などの屋敷はそのまま残り、栗野平次宅は栗野又兵衛に代
    替わりし、その他は小林貞平・有吉仙助・岡源之進などに替わった。

林兵助宅はそのまま、島権十郎宅は島又左衛門に替り、水野杢右衛門・清成勘十郎・菅村権之進が入った。

沢村弥平次・上野喜三右衛門・蟹江七太夫宅はそのまま、山本文右衛門と不破新右衛門が新たに入った。

木村弁次屋敷はそのままである。
 

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■手討達之扣-(11-3・了)

2024-02-24 10:09:25 | 史料

         
               緒方平兵衛
   右は弟定八郎儀松本信平及刃傷候節之儀二付此節御尋之趣有之被相達候書付之内
   江田村安右衛門儀其節定八郎を抱留候由相違無之由相見候 然處安右衛門儀定八郎と取合候節
   罷越候以下定八郎刀ヲ信平捩取り安右衛門江相渡候事ニ候へハ刀持ながら左右ゟ抱留申候儀
   は難成可有之且大小共ニ信平捩取り候ニ付手懸りニ有之候 菜切包丁を以打懸信平迯出候由
   二候得共安右衛門は抜身之刀を脇江直し置候迄ニ而抱留可申間合は無之儀と相見候 尤急場之儀二而
   事の間違も難斗候間抱留候哉否之處定八郎今可應得斗被考候而猶又相達候様平兵衛江
   可有御達眨従御用番被申聞候 以上
     十月

         口上之覚
   私弟緒方定八郎儀松本信平江及刃傷候節抱留申候江田村安右衛門御穿鑿被仰付申出候
   趣御尋ニ付此間私ゟ御達仕置候書付ニ其節安右衛門抱留候儀相違無御座候断御達仕置候処
   猶又御達之趣奉得其意候
         此節御達
   安右衛門儀は定八郎と信平取合居候節罷越其即下定八郎刀を信平捩取安右衛門江相渡候事
   二候得は刀持ながら左右ゟ抱留候儀が難成可有之且右之通ニ而抱留候儀ハ難成相見へ候段
   御尋ニ付
     此儀定八郎と信平取合候節安右衛門罷越直ニ抱留ニ付夫ゟ信平定八郎刀を捩取安
     右衛門江相渡申候 勿論刀持ながらニ而は無御座候 刀を信平ゟ捩取相渡不申前二抱留申候
     右之通抱留候以後安右衛門儀二信平ゟ相渡候刀を受取暫ク定八郎そばを放レ申候と覚申候
     左候而定八郎儀ハ刀捩取候ニ付次ニ脇差を抜懸候處信平儀本ゟ定八郎手元に居申候ニ付
     定八郎ゟ抜懸候間二又々信平入付ケ脇差を捩取申候 右之儀は先達而本書兎哉角ねじ
     合之内ニ同村百姓安右衛門と申者後口ゟ抱留居申候内ニ其刀を信平ゟ取り安右衛門江相渡
     申候と認め御達仕置申候
   右之段定八郎江再々應委ク承り糾申候処右之通少も相違無御座候 此段御達仕候 以上
      十月十二日        緒方平兵衛

      
         申渡    平兵衛弟
                 緒方定八郎
   定八郎儀當七月玉名郡地士松本嘉吉御當ロ松本信平を打損候始末武士道難成立候ニ付士席
   被差放往々不被召仕旨被 仰出也
      十二月

   緒方定八郎打損候松本信平儀御侍ニ對し不礼之躰ニ付其座ニ而定八郎討果候得は其
   通之事ニ候得共囚人ニ相成候ニ付遂御穿鑿候処死刑ニ可被仰つけ罪状は無之候ニ付苗字刀
   御取上ケ熊本并八代御城下御構五郡御拂被仰付 且又 内田手永江田村安右衛門御侍之人を
   果候場江罷出不謂儀二携候ニ付熊本并八代御城下御構一郡御拂被仰付候
   此段定八郎兄弟江も可被申聞候 以上
      十二月廿七日

 

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■肥後守・清原元輔家と細川家

2024-02-24 07:19:02 | 人物

 今年の大河ドラマは、珍しく欠かさず見ているし「源氏物語」も順次読んでいる。
このドラマに「清原元輔」が出てきたのには驚いたし、清少納言をファーストサマー・ウイカ(初夏・初夏)が演じていたのには驚かされた。
清少納言の「枕草子」も読み返さなければならない。

さて、熊本にはお馴染みの清原元輔だが、最晩年を肥後守として任地熊本で過ごし、死去した。85歳。
そして小さなお社だが、元輔を祀った「清原神社」が存在するが、熊本人とて参詣したという人は稀ではないのか。
             熊本史談会・中村裕樹氏提供の写真をトリミングしました。
ご厚誼いただいているサイト「徒然なか話」では「清原元輔」と打ち込んで検索していただくと、写真や記事が度々紹介されていてお詳しい。   

私もここ数年出かけたことがないから、今年の内にお詣りをしてみたいと思う。
細川家と大いなる所縁を持つ「清原家」だが、元輔の血は受け継いでいない。
元輔の祖父・清原養祖父の兄弟から分かれたのが清原宗賢の系統らしいが、吉田神道家との血縁関係も兼倶以前にさかのぼっても深かった。
 又、一族とされる吉田兼好の著・徒然草は細川幽齋・忠興親子が大変愛読しその普及に尽力しているが、そんな時期兼好は卜部兼名の弟として知られていたようだが、最近ではこれが否定されて吉田一族とは関係ないように言われている。
興味ある論考「吉田家と徒然草」や、小川剛生氏の中公新書「兼好法師-徒然草に記されなかった真実」等が詳しい。歴史は非常に面白い。

                                         萩原家創家                             卜部兼名---吉田兼倶---+---兼政---兼満 ==兼右---+--兼見---兼治(室・藤孝女‐伊也)---+--萩原兼従
           |               |               |
           |               +--梵舜             +---兼英
           |
           +---平野兼永・・・・・・・・・・万久==長治---平野長泰(賤ケ岳七本槍)
           |                ⇧
           +---清原宣賢        +--長治(枝兼・弟)
                       |              
      清原宗賢====清原宣賢---+---業賢---+--枝賢---+---国賢---秀賢
                   |                              |
                   +---兼右(吉田兼満養子)  +---伊予局(マリア)
                   |
                   |    足利義晴
                   |      ‖-----細川藤孝
                     +---智慶院       
                      ‖-----細川藤孝---+---忠興---● 忠利
                    三渕晴員       | 
                               +---伊也(吉田兼治室)

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■手討達之扣-(11-2)

2024-02-23 09:28:34 | 史料

             緒方平兵衛
  右平兵衛儀弟緒方定八郎儀當七月二十七日玉名郡内田手永江田村居住地士松本嘉吉弟信平江
  及刃傷討洩候始末平兵衛書付相達被置候 然處其場ニ携候同村安右衛門手前遂穿鑿
  候處安右衛門儀其節宿元江罷在嘉吉方喧嘩之様子ニ而聲高ニ有之候ニ付容メ可申と臺所口ゟ
  入 込ミ候處勝手の間ニ而安右衛門参候■下信平儀定八郎刀を捩取投遣り猶又脇差をも取投遣り其刀
  邪魔ニ成候間脇へ寄せ呉候様安右衛門江信平申聞候ニ付刀を取脇二差置候處定八郎手懸有之候 菜切り包
  丁を取り信平額江切懸候ニ付信平直ニ迯出候を定八郎信平指料之刀同間障子之際二有之候ヲ取
  追馳左候而無程定八郎立帰り留森岡之允同道ニ而定八郎大小ヲ渡候様安右衛門江申聞候ニ付大小ヲ取
  差出候 右之通ニ而定八郎を抱留候儀は曽而無之段安右衛門申出平兵衛書付之趣と不致符合候次第今
  一應定八郎手前得斗承糺委細書付を以達有之候様平兵衛江可被有御達候段可申達旨御用番
  被申聞候 以上
     九月

      口上之覚
  私弟緒方定八郎儀當七月廿一日玉名郡内田手永江田村居住松本嘉吉御弟松本信平江
  及刃傷討洩候始末之儀委細書付を以御達仕置候通ニ御座候 然處其場ニ携候同村安
  右衛門手前御穿鑿被仰付候処私ゟ御達仕候書付前と右安右衛門申出候趣符合不仕候
  二付今一應定八郎手前委細承糺御達仕候様御達之趣奉得其意候
 一右御達之書付安右衛門申分其節安右衛門儀宿元江罷在嘉吉方喧嘩之様子ニ而高声有之候付
  宥メ可申と臺所口ゟ入込ミ候処勝手の間二而定八郎信平取合有之
     此儀勝手之間二而は無御座候右嘉吉親順斎調合之間二而御座候
 一定八郎は抜身を持信平は無刀ニ而居申候由
     此儀其通ニ而御座候
 一安右衛門参候即下信平儀定八郎刀を捩取投遣り候と御座候
     此儀投遣りニ而は無御座候 先達而御達仕候通信平捩取安右衛門江相渡申候
 一猶又脇差を投遣り候と御座候
     此儀其通ニ而御座候
 一其方邪魔ニ成候間脇江寄呉候様安右衛門江信平申聞候ニ付刀ヲ取脇江直置候処と有之候
     此儀は左様申候ニ而も可有之哉急場之儀二付覚不申候信平投遣り取安右衛門江慥ニ相渡候事
 一定八郎儀手懸りニ有之候菜切包丁を取信平額二切懸候ニ付信平直ニ迯出候と有之候
     此儀は先達而御達思想労本書之通ニ御座候
 一定八郎儀信平指料之刀同間之障子際二有之候を取追懸候と有之候
     此儀は同間二テは無御座候 次之間二有之候刀ニ而御座候
 一無程定八郎立帰り候と有之候
     此儀信平指料之刀ヲ取嘉吉門外ニ而切懸ケ本書ニ認メ置候通後ゟ右之額先キゟ肩ニ懸ケ
     切込ミ申候 夫ゟ直ニ追懸追失申候処留森岡之允相見申候
 一定八郎ゟ大小を渡候様安右衛門江申候ニ付大小ヲ取指出申候と有之候
     此儀定八郎ゟ申聞候ニ而無御座候留森岡之允ゟ安右衛門江定八郎ニ相渡候様申聞候ニ付初ニ脇差を
     門内二て請取暫間有之候而刀を持参り差出申候付受取申候
 一定八郎を抱留候儀ハ曽而無御座安右衛門申出候よ有之候
     此儀安右衛門申出之通ニ而は無御座候 先達而御達申上候通相達無御座候信平は取合居候内左の
     後ゟ安右衛門抱留メさゝへ候ニ付存分之儀難成打洩し申候 右之通ニ而御座候抱留申儀少も相
     違無御座候
  右御達ニ付定八郎手前精々承糾申候処右之通ニ御座候 此段御達仕候 以上
      九月        緒方平兵衛

                (つづく)

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■細川護美の大村益次郎評

2024-02-23 06:58:51 | 人物

 一體先生は淡泊無我な人であって、一寸私が見舞に出ても直ぐに戸棚から『シャンパン』でも出して、今日は一杯上がらんかと云う塩梅で、極く感心の人である。然るに軍事上の事ことに付ては、実に・・・其結果即ち今日の陸軍の制度のなったのでございませうが、軍事上に就ては、如何にも卓識で、軍略上の其他軍制上に関しては、どうしても何人よりも一番能く分って居る。例へば、北越の戦ひに幾ら兵を出す、之は弾丸は幾らで宜しい、弾薬は幾らで宜しい、此戦ひはどう云も具合にすれば勝てると云うことをちゃんと前以て極められる。私は陪席して実に驚いた。果していつでも先生の言はれる通りになる。それから上野の彰義隊の戦さにしても、総て元講武所で先生が勉強されて、東京に近い所の地理は、畢竟軍事の考があるから、詳しく知られて居る。東京の一寸言へば裏道でも承知して居られる。そこで兵の配置抔でも能く出来る。戦争が始まってから先生はどうかと云うて人が見舞ふて見ると、先生は却て昼寝をされて居ると云う様なことであった。あの頃の人で所謂西洋の戦争、今日の軍事的の考を持って居った者は珍らしいと思ひます。その性質は洵に純粋の人で何も世情に頓着ない。併し軍事上になると熱心に注意してやられる。さうして極、無口である。先生の軍事的兵事上に詳しいことは、先生のやうな人は、其頃は無論だが今日に於てもさう沢山はあるまいと私は考える。『大村先生逸事談話』P5

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■幽齋甥・建仁寺住持 英甫永雄自画讃の図

2024-02-22 08:04:55 | オークション

   <CS3708>【伝】英甫永雄 自画賛メクリ 古筆鑑定家(神田道古)極札付/織豊時代の僧 細川幽斎の甥 臨済宗建仁寺住持 狂歌の祖 禅林墨蹟

       

             英甫永雄は細川幽齋の姉・宮川(武田宮内少輔信重室)で、建仁寺十妙院の住職である。
          慶長十九年甲寅三月十六日卒、法号 智光院花岩永春忠

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